top of page

​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

「三大祷告」について UCの復活は神の言葉の研究から

◯徒然日誌(令和6年6月12日)  「三大祷告」についてーUCの復活は神の言葉の研究から 

 

イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。あなたは自分の不義によって、つまずいたからだ。(ホセア14.1)

 

最近、旧知の信徒から、内外の現状を憂う深刻なメールを頂いた。 

 

曰く、「内にあってはUCの内憂、外にあっては安倍氏暗殺からUC解散命令、自民党の急激な衰退、そしてウクライナ、パレスチナ戦争など国際紛争の頻発による新冷戦の復活などの外患。これらは専らUCが天運をなくしているからではないか」という問題提起である。そしてその中にあって、せめて個々の信徒だけでも神と人類の希望となり得る信仰と姿勢を持ちたいが、「現状を打破し一石を投じて運勢を変えるほどの力を持つにはどうすべきか、貴殿の意見を聞きたい」、という真摯な問い掛けである。 

 

【筆者の三大祷告】 

 

実のところ、この信徒に対して、100点満点の回答を筆者は持ち合わせていない。そこで今筆者が、残された人生において、最も重要視し、これだけは手をつけておきたい3つの課題を述べ、回答に代えることにする。 

 

福音派の中川健一牧師は、日本のリバイバル、ユダヤ人の救い、メシアの再臨、を「三大祷告」として熱心に取り組んでおられる。「祷告」(とうこく)とは心を込めて祈願することである。これにあやかって言えば、筆者の三大祷告とは、a.聖書(原理)の研究、b.日本のリバイバル、c.教会改革、の3つである。以下、順を追って筆者の三大祷告を述べることにする。 

 

<聖書(原理)の研究ー神に帰れ、神の言葉に還れ> 

 

さて筆者は、本にサインを求められた際には、「神を知ることは知識のはじめ」(箴言1.7)と書くことにしている。何故なら、人間の堕落とは神との断絶、即ち神の喪失に他ならなず、救いとは命の源泉たる神との本然の関係を回復することであるからである。「イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。あなたは自分の不義によって、つまずいたからだ」(ホセア14.1)とある通りである。 

 

では神を知るためには如何なる道があるのだろうか。 

 

その一つは求道生活・信仰生活の中での「神体験」である。モーセはシナイ山で40日断食のあと、神と出会って神の言葉(十戒)を授与され、パウロはダマスコの途中でイエス・キリストとの劇的な霊的体験によって真の神と出会ったのである(使徒行伝22.6~8)。空海は室戸崎の海食洞窟の中で、虚空蔵求聞持法の100万遍唱題中、「明けの明星が飛来して口中に入り、身体と合一し、宇宙と一体となった神秘体験」をし、第2代創価学会会長の戸田城聖は、獄中で二百万遍題目(南無妙法蓮華経)の最中、仏の大生命と一体となる神秘体験をした(獄中悟達)。そして我が 久保木修己元日本UC会長は、厚木大山の頂上で断食祈祷中、神の霊が口から入って一体となるという奇跡的な神体験をされている(参照:令和5年11月15日つれづれ日誌-厚木大山登山顛末記)。


モーゼの十戒(映画)     パウロの回心(二コラ・ベルナール・レピシ画)

 

このように、偉大な宗教家は皆神との神霊的神秘体験(召命体験)を経ているのであり、この神体験こそ、信仰生活の原点であり、宣教活動の原動力であった。そしてここに一人の福音派牧師の示唆的な信仰体験を紹介したい。戦後、「インマヌエル綜合伝道団」を創立した蔦田二雄(つただつぎお)牧師である。彼は戦前、政府の弾圧で解散させられた日本ホーリネス教団の幹部であり、代表の中田重治らと供に巣鴨刑務所で2年間獄中生活を余儀なくされたのである。 

 

彼は獄中にて「すべてが奪われても、神の臨在と同行を奪われることはない」という「インマヌエル」(神が私たちと共にいます)の事実に関する強いインスピレーションを得、将来、伝道者になる機会が再び訪れたなら「インマヌエル」の名で新しい教会を興すことを決意したという。事実、蔦田は解散させられたホーリネス教団を、新生を遂げたインヌマエル教団として戦後復活させたのである。今やインヌマエル教団は100箇所以上の教会と神学校を有する福音派の有力教団に育っている。 

 

そしてこの獄中体験とインヌマエル教団の創設は、満々が一、我がUCが解散命令を受けた場合のよい教訓になる。ホーリネス教団は政府権力によって潰されたが、神は獄中の蔦田二雄に働いて、新たなもっとよい教団を用意されたのである(参照:令和6年3月27日徒然日誌  インマヌエル教会を訪問して) 。 

 

さて、筆者の第一の祷告は「聖書(原理)の研究」であった。神を知るための道は前記した神体験と共に、聖書・原理の研究、即ち神の言葉の研究(学び)を通して可能になるのであり、これこそ最もオーソドックスな神を知る道、神と出会う方法である。何故なら「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言に命があった」(ヨハネ1.1~3)とある通り、私たちは神の言葉を通して神を知ることができるのであり、神の言葉を研究する理由がここにある。私たちが日頃励んでいる「み言の訓読」は、文字通り神の言葉の研究の一つの形である。 

 

最近筆者は、念願の原理原本と原理解説を手に入れ、これらを読んで原理講論と読み比べた。言うまでもなく『原理原本』は32才の創始者が自ら釜山のボンネッコルの小屋で書き下ろされた最初のUC教義書である。創始者は、神との一問一答の中で原理を解明され、1952年5月10日、原理原本の執筆を完了し脱稿されたのである。その日、創始者は近くの水晶山でみ言宣布の祈りを捧げられた。そうしてこの日の夕方、姜賢實女史が導かれ、間もなく李ヨハネ氏、そして劉孝元氏が導かれてきたのである。劉孝元氏は原理原本を読んで感涙し、この本の著者こそ再臨主であることを確信した。そして生涯を捧げる決意をすると共に、この原理原本を神学的に体系化する使命を自覚したのである。 

 

 確かに原理原本は、原理講論のような体系的な緻密さはないが、原理の基本的な骨格は全て書かれている。神の存在や創造原理は哲学的表現が多く、初心者は戸惑うかもしれない。しかし、復帰歴史は旧約聖書の解き明かしであり、まさに聖書の奥義の新しい解釈である。時には若き情熱がほとばしる表現もあった。 

 

この原理原本を土台にして、UCの教義書としてまとめられたのが劉孝元氏による『原理解説』であり、1957年8月15日に発刊された。この原理解説は原理原本をより体系化したものであるが、表現においても、論理性においても、聖書の引用においても、未だ未熟さは否めないものがあり、特にキリスト教会のUC批判を意識した表現が散見された。 

 

そうして満を持して1966年5月1日に『原理講論』が発刊された。原理解説から9年後のことであり、その間の劉孝元氏の知識、信仰、神霊、論理の各分野における格段の向上のあとが見られる洗練された、まさに完成期的な経典と言えるものになった。原理を解明されたのが創始者であり、この原理を組織的、体系的に経典としてまとめた神学書が劉孝元氏による原理講論である。原理講論は、創始者の指導と主管の元に、劉氏がまとめられた経典であるが、真の著者は創始者である(参照:令和6年4月10日徒然日誌-劉孝元元協会長と原理講論)。 

 

そして更に磨きをかけた原理講論「新版」が生まれなければならない。原理(真理)は不変であるが、その表現方法は深化するからである。原理講論総序に「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである」とある通りである。 

 

なお、最近筆者は、『世界経典Ⅱ』を手に入れた。世界平和宗教連合創設大会(1991年8月27日、ソウル)において、『世界経典Ⅰ』が発表されたが、世界経典Ⅱは、世界経典Ⅰを土台に、世界の諸経典と、創始者のみ言から抜粋したものを併せて編さんされたものである。世界経典Ⅰのバージョンアップ版であり、2011年に初版が発行された。生前、創始者が、如何に宗教の一致に心血を注がれたかを物語る一冊である。 

 

こうして、信仰体験により、そして神の言葉により、私たちは神を知ることができるのである。まさに神を知ることは、知識のはじめである。そして筆者にも神体験、神の言葉と出会った信仰体験がある。それは「本心に内在する神」との出会いであり、筆者を導かれた「導きの神」への確信であり、「共にある神」への信頼であり、そして、どん底で出会った「神の言葉」との遭遇である。果たして皆さんの神体験や如何に!  然り、「あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり 」であり、神が共にあることこそ、何にも優る平安である。従って、聖書(原理)の研究こそ第一の祷告である。 

 

 <リバイバル>

 

第二の祷告は、リバイバル、即ち霊的覚醒である。リバイバルとは、第一に、信仰の原点に立ち返ることによって、霊的に覚醒され、回心に導かれることであり、第二に、それが信者の劇的な増加、教会の成長をもたらすことである。 筆者は『異邦人の体験的神学思想』を書いたが、その動機はリバイバル(霊的覚醒)の口火になればとの思いであった。では、立ち返るべき原点とは何だろうか。それこそ「神」であり、「神の言葉」に他ならない。 

 

キリスト教歴史を特徴づけるキーワードーとして、「殉教」「異端」「リバイバル」の3つが挙げられる。その中でも、リバイバルは最大の特徴であり、キリスト教歴史の中で、周期的にそして必然的に勃興した。特にアメリカでは典型的な数度のリバイバルが勃興し、東洋では、1907年の平壌リバイバルは見逃せない。教会が形骸化し 、信者の信仰が沈滞化した時、リバイバルが起こり、信徒に内的な覚醒の動機を与え、新しい霊的自我に目覚めさせたのである。 (参照:令和5年1月18日つれづれ日誌-信仰のリバイバルを期して)

 

リバイバル、なかんずくアメリカのリバイバル運動は、例外なく1人又は数人の無名の牧師や信徒の「悔い改めの回心」から草の根運動として始まっている。そのパターンは、a.悔い改め(repent)、b.回心(convertion)、c.新生(born again)の3つである。 まさに、悔い改め→回心→新生→復活→永遠の生命、という救いのプロセスを辿り、そうして神と神の言葉に回帰した。 

 

尾形守牧師の著書『リバイバルの源流を辿る』によると、どのリバイバルも「悔い改めの祈り」から始まり、聖霊ご自身が源となったという。そして「どん底や絶望的な行き詰まり、人間の無力さやへりくだりをとことん経験した無名の一人のキリスト者の回心から始まっている」と指摘した(P244)。 そういえば洗礼ヨハネもイエス・キリストもペテロも、宣教の第一声は「悔い改めよ」だった。(マルコ1.4、マタイ4.17、使徒2.38)。 

 

「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた」(マルコ1.4)

 

「この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、『悔い改めよ、天国は近づいた』」(マタイ4.17)

 

そしてリバイバルには聖霊の働きが伴う。アメリカの第二次リバイバル(1800~1830)の立役者になった、チヤールズ・フィニー(1792~1875)は、著著『上よりの力』(角笛出版)で次のように語っている。 

 

「上よりの力とは、神の霊の注ぎ、即ち聖霊のバプテスマを受けることであり、それは罪の自覚、救いの必要、救いの確証、宣教の力を伴う」 

 

かってイスラエル民族はバビロン捕囚という大艱難を乗り越えて神と再結合し、神の言葉(律法)に回帰してユダヤ教を確立し、再びメシアを迎える民として甦った。 今やUCと信徒は、未曾有の大試練の中に晒されているが、かのイスラエルのように、再び甦らなければならない。試練・艱難・迫害は、リバイバルの合図であり、私たちは、試練の中でも教勢の2倍化、3倍化をもって、岸田政権、マスコミ、反対派のUCバッシングに答えたい。私たちは裁判を全力で勝ち抜かなければならないし、裁判外では信教の自由を守る運動を展開している。しかし、成約の福音伝道のリバイバルによって、二倍、三倍に教勢を拡大していくことこそ、最大の防御であり、岸田政権と反対派へのこれ以上ない雄弁な回答であることを肝に銘じたい。大伝道の渦よ、巻き起これ! 

 

<教会改革>

 

そして第三の祷告は「教会改革」である。かってマルティン・ルターが宗教改革の口火を切り、キリスト教歴史における最大の教会改革、カトリック改革が始まった。当時のカトリックは、教会の形骸化、聖職者の腐敗、信仰の沈滞化に晒され、もはや人々の霊的羅針盤としての役割を果たせなくなっていたのである。即ち、神は腐敗したキリスト教会を分別し、カトリック、プロテスタントに分立された。教会の歴史とは即ち改革の歴史であり、リバイバルとは即ち教会改革でもある。 

 

現下のUCも同様である。神は安倍暗殺事件に端を発する未曾有のUCバッシングという大艱難によって、教会の根本的改革に着手されたのである。私たちは今、教会も個人も変わらなければならない。そしてそれは、a.神の言葉に立ち返り、真に福音的な教会に脱皮すること、b.罪の赦しを得させる悔い改めのリバイバルを復興させること、c.日本UCとして自律(自立)し、自己完結的な教会主権を確立すること、の3点に集約される。以下、教会改革について、なかんずく、意思決定の在り方についてより具体的に論考する。 

 

今後の教会は、創始者文鮮明先生という万能のカリスマを失ったあとは、集団的指導体制(合議制)に移行するのが道理であると筆者は考える。創価学会も池田大作というカリスマ無きあと、集団的指導体制に入り、カトリックも枢機卿会議という集団的指導体制をとっている。もちろん、集団的指導体制は衆愚政治ではあってはならない。 

 

現下の日本の宗教法人法によれば、当該宗教法人の意思決定は、株式会社の取締役会に相当する「責任役員会議」が担っている。つまり、予算、人事、方針などの全ての重要な最終意思決定は責任役員会議で行うことになっている。従って、日本UCの意思決定は、宗教法人法通り、これら責任役員会議で行うのが順当であり、鶴の一声で方針が変わるようなことがあってはならない。そして自己完結的な意思決定のよき前例を蓄積すべきである。そのためには、信仰的にも知的にも優れた人材を選任、拡充し、また任期を儲け、常に交代可能な風通しのよい合議体にするべきである。 

 

ちなみに、株式会社には取締役会の他に、最終意識決定機関である「株主総会」があり、更に取締役会を助言、監査する「監査役」を機関として設置している。従って、当該宗教法人にも、責任役員会の他に「諮問委員会」(仮称)を任意の機関として設置するのも一策である。また株主総会に当たるのは、UCの場合、真の父母の託宣(神の啓示)になるのかも知れない。 

 

かって豊臣秀吉がキリシタン禁教令を出しキリシタンを迫害したが、その一つの動機には、キリスト教宣教師の背後にポルトガルやスペインの日本植民地化の意図を見たからだと言われている。今回見られるように、朝野を挙げての岸田政権によるUC潰し(解散請求)が、UCが韓国ロビーなのではないかを警戒したという動機があるとすれば由々しきことであり、そのよう誤解を招かぬよう、細心の注意が必要である。組織防衛の視点からも、真の父母を守るという観点からも、日本UCとしての「自律的自治」が必須であり、老婆心なから上記の提案をするものである。また、世界宣教本部との円滑な関係を担保しなければならないことは言うまでもない。 

 

以上、筆者の三大祷告について論考した。何かの参考になれば幸いである。(了)  宣教師  吉田宏

Comments


bottom of page