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「内村鑑三記念キリスト教講演会」(今井館)に参加して 無教会主義の本質



ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである(マタイ18.20)


この3月21日、岸田文雄首相は、訪問先のインド経由で初めてウクライナを訪問し、ゼレンスキー大統領と会談し、「特別なグローバル・パートナーシップに関する共同声明」に署名しました。その後の共同記者会見で岸田首相は、ウクライナへの連帯と殺傷能力のない装備品などを供与すると表明し、一方のゼレンスキー大統領は、5月の主要7カ国(G7)広島サミットにオンラインで参加することを明らかにしました。


岸田首相はキーウに到着後、最初にロシア軍による多数の民間人の虐殺が行われた近郊のブチャを訪れ、集団埋葬地で花を手向け、「残虐な行為に対して強い憤りを感じる。日本国民を代表して心からお悔やみを申し上げ、お見舞いを申し上げる」と述べました。


そして丁度その折りも折り、中国の習近平国家主席がロシアを公式訪問し、プーチン大統領と会談しました。首脳会談では、ロシアとウクライナに和平協議の再開を呼びかけると共に、中ロは「戦略的パートナー関係の強化」で一致し、両国との対立姿勢を強める米国をけん制しました。


黙示録12章に出てくる「赤い龍」(黙示録12.3)とは現代の中国を象徴し、この赤い龍と北方の熊たるロシアの会談は、さながら終わりの日に聖書に出てくる「反キリスト」(1ヨハネ2.18)の野合のようでした。


同時刻に行われた「岸田・ゼレンスキー会談」と「習近平・プーチンの会談」は、計らずも自由民主主義国家VS独裁専制主義国家、キリスト対VS反キリストという際立ったコントラストを、まざまざと世界に見せることになりました。


1991年のソ連共産主義の崩壊で、自由と共産、つまりキリストと反キリストの理念による第三次世界大戦は終焉したかに見えましたが、未だ世界大戦は道半ばであり、正に第三次世界大戦のパート2(後半戦)の最中であるという実感がし、次のUC創始者の言葉を想起いたしました。


「私は戦争なしに、血を流すことなしに、共産主義の宗主国(総本山)たるソ連の解体をやり遂げたゴルバチョフ前大統領の決断を高く褒め称えます。すると彼は、『レバレント・ムーン(文師)、私はきょう大変な慰労を受けています。その言葉を聞いてとても力が出ます。私の余生は世界平和のための事業に捧げます』と言って、私の手を固く握りしめました」(文鮮明著『平和を愛する世界人として』P258)


さて、ところで筆者は、上記の会談が始まる前の3月19日(日)、駒込にある内村鑑三記念館(今井館)で行われた「内村鑑三記念キリスト教講演会」に参加いたしました。そこで、以下この日の「事の顛末」を記して、恵みを共有すると共に、内村鑑三のキリスト教思想を再認識する機会にしたいと思います。


【今井館訪問記】


今井館は、JR駒込駅徒歩10分くらいの場所にありますが、途中に五代将軍徳川綱吉の側近だった川越藩主柳澤吉保が築園した名園「六義園」(りくぎえん)がありましたので、一時間くらい散策いたしました。丁度、しだれ桜の見頃で、神の創造の美しさの一旦に触れ、「神は自然の中に自らを啓示される」という真理を再確認する時間となりました。


<今井館とは>


さて今井館とは、無教会主義の内村鑑三の活動の拠点になった聖書講義のための建物で、内村鑑三と彼に連なる人々の思想と活動を支援し、無教会関連の情報サービスを提供する施設です。2階の聖書講堂(集会・礼拝堂)と1階の資料館(書籍類)から構成され、その前は目黒区中根にありましたが、2022年11月に新築され、駒込駅近くの六義園に隣接した現在の場所に移されました。資料館には、約1万冊の内村鑑三とその教えを受け継ぐ人々の書籍が納められています。


今井館は、もともと大阪の香料商人で内村に心酔していた今井樟太郎(しょうたろう)の未亡人ノブ(信子)から1000円の寄付が送られ、この寄付金を元に、新宿区柏木の内村の自邸に聖書講義のための8畳と6畳2間の建物を建てて今井館と呼ばれるようになったものです。現在、「NPO法人今井館教友会」が聖書講堂と資料館の維持・管理にあたっており、内村鑑三は遺書で今井館について「福音伝道用に供すること」と書いています。


・内村鑑三 ・今井館(本駒込) ・六義園のしだれ桜


<内村鑑三記念キリスト教講演会>


講演会当日は50人強の参加者で、会場の聖書講堂はほぼ満席でしたが、知識人で、心なしか年配者が目立っていたように感じました。この講堂は礼拝堂でもありますが、シンボルの十字架もありません。また特段、特定の教会に所属しているというより、内村鑑三の思想に共鳴するクリスチャンが、それぞれの地域で聖書研究の集まりをもって、信仰を維持している方々のように見受けました。


講演会は讃美歌、聖書朗読、代表祈祷から始まり、「内村鑑三先生の再臨信仰に学ぶーわたしのキリスト信仰の証」と題して鉢野正樹氏が、「学校教育とキリスト教ー無教会の立ち位置」と題して加納孝代氏がそれぞれ1時間ほど講演され、最後は「講師を囲む懇談会」がもたれました。


<鉢野正樹氏の講演骨子>


最初の講師は、元北陸大学教授で経済学者である鉢野正樹(82才)という方で、西田幾多郎の生地である「石川県かほく市宇野気」に住み、無教会主義的な礼拝を10人くらいで毎週やっていると言っておられました。


鉢野氏は、早稲田大学学生時代、大学院の指導教授が主宰されていた聖書研究会に参加されていましたが、24才の時、学問の重みやつまらなさなどの悩みの真っ最中の折り、黙示録を読んでいた時、次のはっきりした声を聞いて「救われた」という自らの信仰体験を証されました。


「あなたが悲しむことはない。わたしがその報いを受けたのだから」


後になって、このフレーズがイザヤ書53章だったことを知り、洗礼を受けキリスト者としての生活を始めたということでした。


その救いの体験が強烈だったので、「果すべき責任がある」(ロマ書1.14)との使命感のようなもの感じ、郷里に帰って福音を伝えたいという願望を抱いたというのです。


その後、鉢野氏は「伝道とは何か、教会とは何か」について問い続けできたと語られ、持論を述べられました。集会(礼拝)には、「伝道」を中心とした集まりと、神との交わり、信徒との交わりという「交わり」を中心とした集まりがあるが、後者を重視したとされ、内村鑑三の「毎日が聖餐であるべき」との言葉を受けて、特に聖餐式を中心としたと語られました。


鉢野氏は、「信じて救われたのではなく、救われたので信じた」と言われ、郷里でいわばホームチャーチのような集会を持たれて福音を伝えておられますが、自らを「役に立たない僕」(ルカ17.10)と謙虚な言葉で締めくくられました。


<加納孝代氏の講演骨子>


次の講演者は、現NPO法人今井館教友会理事長であり、元青山学院女子短期大学教授、長崎の活水女子大学学長をされた加納孝代氏でした。


加納氏は東大学生時代、矢内原忠雄の流れを汲む無教会の聖書研究会に参加し、聖書を読み始めました。結婚後、国立(くにたち)公民館を会場とした「国立聖書研究会」に参加し、交代で聖書レポートを受け持つメンバーの一員として、15名くらいの聖書研究の集会をもってきました。聖書を学ぶ場としては、いつでも、どこでも、誰でも、というのがモットーだとされています。


さて「学校教育とキリスト教ー無教会の立ち位置」と題した講演において、加納氏は、ユダヤ教・キリスト教の神観と教育観の親和性を問い、学校教育の延長上に宗教教育の可能性を模索したとされました。


宗教教育では、神を知ること、神に近づくことが目的だが、戦後の学校教育は、宗教教育から「宗教」を抜いたと指摘されました。また学校教育では、人間を知ること、よい人間になるための「徳育」を掲げるべきだが、自信がないので「知育」だけを進めできたとも語られました。


聖書から学んだことを自分の人生に応用してみたいとの思いがあり、そのために種々の教育の場を神は備えて下さったと考えました。学校教育の中で重んじられる種々の価値、即ち、自由、平等、博愛、公正、福祉、弱者への思いやり、異なる文化への寛容さ、などは皆神の思いに連なる道であり、そこに、キリスト者も非キリスト者も、教会人も非教会人も、同じ方向に向かって歩める可能性があると語られました。


加納氏は理事長「ご挨拶」の中で、次のように述べられています。


「内村鑑三によって始められた無教会の運動は、神を求めるのに、カトリックであれプロテスタントであれ、制度としての教会は必ずしも要らないというもので、無教会の意義はキリスト教信仰へと向かう間口を大きく広げ、そのハードルをきわめて低くした点にあると思います」(今井館ニュース第53号)


こうして講演は終わりましたが、筆者は講演後両人と名刺を交換し、一時よき交わりをさせて頂きました。この出会いが次につながることを期待しています。


【無教会とは自由に聖書を学ぶ信徒の集まり】


そこでこの講演会を期に、一体内村鑑三や矢内原忠男が唱えた「無教会主義とは何か」を、もう一度整理しておきたいと思います。


教会とは神が創造した世界そのものの、即ち天然(自然)こそが教会となると説く内村鑑三の唱えた無教会思想は、純福音的立場に立ち、形に囚われない無垢な祈りがあるところこそ、真の礼拝場であるというのです。一体、神はどこにいましたまい、祭壇はどこにあるというのでしょうか。祈るべき祭壇は教会にあり、家庭にあり、我が内にあり、そして自然の中にもあるというのです。


こうした思想が、あらゆる人に開かれた「内村鑑三記念館」の礎となっており、シンボルである十字架が形としては無くとも祈りは届くのであり、何にもとらわれない純粋な「自由」を求める内村の精神が色濃く表れています。


<無教会主義とは何か>


では内村のいう無教会主義とは何でしょうか。内村が無会主義を唱えるまで、いくつかの思想形成の過程がありました。洗礼後、聖公会でもメソジストでもない、教派を越えて信徒で設立・運営した「札幌独立基督教会」の経験もその一つです。


不敬事件での代拝を謗られ、植村正久ら基督教主流からの批判を浴びたり、牧師を無視するような言動が目障りになるなど、教会から異端視され捨てられた経験も大きかったことでしょう。そうして、聖書研究会を主宰しました。これが事実上の無教会教会(信徒の集まり)になっていきました。無教会について以下の如く内村は語っています。


「世に無教会信者の多いのは無宿童子の多いのと同じであります。ここに於いてか私共無教会信者にも教会の必要が出て来るのであります。此の世に於ける私共の教会とは何であって何処にあるのでありましょうか。神の造られた宇宙であります。天然であります。是が私共無教会信者の此の世に於ける教会であります。其の説教師は神様御自身であります。是が私共無教会信者の教会であります」(雑誌「無教会」1901年3月14日付)


無教会主義は、プロテスタントの精神を継承しており、ルターの聖書主義と万人祭司主義を更に徹底させた「純福音的」なものであると言えましょう。即ち、よって立つ原点は「キリスト者の集会」を意味する初期新約聖書の「エクレシア」であって、後代の「制度教会」ではないというのです。


元東大総長の矢内原忠雄は、無教会主義の原理と実際について、人は、教会という制度・組織の中にいることによって救われるのではなく、教会への所属の如何を問わず、「信仰によって救われる」のであり、そういう意味で、「制度教会の外にも救いがある」という無教会主義の主張があるとして、次のように述べられました。


「無教会の原理というものは、人が神に義とされる(=救われる)のは、外形的な律法の行為によるのではない、教会制度の規則・礼典儀式を守ることによるのではない、神・キリストに対する信仰によるのである。また、真の礼拝は霊と真によるのであって、特定の礼拝の場所と方式にあるのではないということである。無教会の非常に大きな歴史的功績は、救いの福音を、『制度教会という人為的宗教性の枠の外に解放した』ということだ。即ち、パウロが割礼無用を唱えて、キリストの福音をユダヤ主義の制限から解放して広く異邦人に及ぼしたように、無教会主義は福音を教会という制度から解放して、教会員にならなくてもキリスト者であることができるということを明かにした。これは実に大きな解放である」(1956年内村鑑三26周年記念講演会「無教会主義とは何か」今井館)


ただ、無教会といった誤解を与える名称より、「聖書を研究する信徒の集まり」或いは「聖書集会」と呼んだほうが良いかも知れません。また、現にそのような名称を使っているようです。つまり、無教会の「無」とは文字通り「無い」という意味ではなく、信者の自由な霊的・人格的な交わりを重視した集まり、即ち「自由教会」という意味に解釈できるでしょう。一種の単立教会です。


主の名によって二人以上の信徒が交わる所には、教会堂の中であれ、家の中であれ、そこにはキリストの体としての教会があり得るのだ、主を仰ぐ信徒の交わる場所こそが教会であり神殿であるというのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18.20)とある通りです。


更に言えば、私の中にも教会があり、祭壇があります。このわが内にある祭壇の前で祈るのも立派な礼拝(ワン・パーソン・チャーチ)であります。 正に「個団教会」(家庭教会)の原点です。


<無教会の特徴>


制度教会の救済論では、信仰のほかに洗礼式、聖餐式にあずかることを救済の条件としています(条件付き救済論)。しかし内村の無教会には洗礼や聖餐の儀式はありません。牧師・長老・執事も置かず、信徒と聖職者との差異はなく、説教は先生や信徒が持ち回りで行います。従って、聖書の講義や研究が主体となっていき、これらはかって札幌独立基督教会でやっていたことでありました。また札幌農学校のクラーク博士は、教え子を自宅に招き、家庭で礼拝をいたしました。文字通り「家の教会」(家庭教会)でした。講師の鉢野氏の集会や加納氏の国立聖書研究会は、正にこのような集まりだと思われます。


また内村は、1901年2月22日に「洗礼晩餐廃止論」を「聖書之研究」6月号に発表し、1902年聖書之研究に「洗礼晩餐を以て救霊上の必要とは信ずる能わず」と投稿し、「信仰告白」だけで入会を認める方針を取りました。ちなみにイスラム教では、「アラーの他に神はなし、ムハンマドはアラーの使徒なり」との信仰告白のみを入信の条件としています。しかし無教会主義は、教会主義からの脱却を目指す思想であって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する思想ではありません。


無教会礼拝で中心を占めるものは、いわゆる先生やレポーターを中心とした聖書講義、聖書講話であり、前後に讃美歌を歌い、祈りや黙祷をするなど、プロテスタントの礼拝形式を簡素化した形をとっています。洗礼、聖餐式等の儀式は通常行われませんが、かならずしも洗礼反対、聖餐反対という意味ではなく、現に内村も十数人の洗礼を自ら授けており、自分の子供にも洗礼を施しています。その意味では、無教会主義は「反教会主義」ではありません。


この点、矢内原忠男は次のように述べています。


「無教会主義は、バプテスマや聖餐をしてはいけない、というのではありません。してもよい。けれども、その場合でも、教会の決めた按手礼(あんしゅれい)を受けた有資格者が授けるのでなければ有効なバプテスマもしくは聖餐とは認められないというのが、教会側の主張です。カトリック教会においては、葬式や結婚式も礼典(秘蹟)でありますから、教会の有資格者が行うのでなければ、有効な式とは認められません。


これに反し無教会主義では、洗礼もしくは聖餐を行いたいと思えば行ってもよいが、その際、資格を問いません。それは、あくまでも信仰の発露として行うのであって、サクラメント(秘蹟)ではないからです。信仰によって行うならば、誰が施してもよい。結婚式でも葬式でも、友達が信仰と愛によって行えばよいのです。教団の按手礼を受けて、牧師(正教師)の資格をとる必要はない。人間の決めた伝統的な制度、儀式、言い伝えによって神のことがらを横取りしてはならない、というのが無教会の主張なのです」(内村鑑三26周年記念講演会「無教会主義とは何か」今井館)


また、無教会は宗教団体(法人)という形は取りませんが、預言者的な精神が旺盛であり、預言者としての役割も果たします。つまり、健全な愛国心に基づき、政治や社会の問題に対して批判をしたり、警告を行ったりするというのです。


確かに無教会主義に対し、知識に偏っている(主知主義)とか、講義を主導する先生中心であるとか、単なる(仲良しクラブのような)信者の自由な集まりでは「神の摂理を担う力」になり得ない、といった批判もあります。しかし筆者は、内村の無教会とは即ち「超教派的な単立教会」ではないかと考えています。前述した「個団教会」と言ってもいいでしょう。即ち、聖書を神の言葉と信じ、イエスをキリストと信じる信徒の集まりであります。唯一の神を信じ、イエスをキリストと信じる者はすべからく「新約のクリスチャン」であり、真の父母を再臨されたキリストと受け入れ、その霊肉の重生を信じる者は須らく「成約のクリスチャン」であります。


【内村鑑三の優れた聖書理解・信仰理解について】


おしまいに、内村鑑三の優れた聖書理解、信仰理解について言及したいと思います。


教文社から『一日一生』という本が出ています。聖句に感想を附した『一日一生』は、内村の著書である13書(所感十年、研究十年、研究第二之十年、旧約十年、感想十年、基督教問答、復活と来世、洪水以前記、独立短言、基督信徒の慰、求安録、宗教座談、伝道の精神)から優れていると思われる箇所を選んで、内村の弟子畔上賢造が編集したものであります。


実は筆者は、知人のUC信者に触発されこの本を手に取った次第ですが、そこに、「悔い改め」と「祈禱」について述べた一節があり、この内村の考え方は筆者が日頃考えていたことを裏付けるもので、目から鱗でした。以下、この2点を紹介いたします。


<悔改めと救いにおける聖霊の働き>


救いと新生に必須条件である「悔い改め」ですが、人間は自ら真に悔い改めることはできません。何故なら堕落人間は須らく傲慢だからです。従って、真の悔い改めに至るためには、神の霊・聖霊の導きが必要であると常々筆者は述べてきました。


この点内村は『所感十年』の中で、次のように記し、筆者の見解を裏付けてくれました。


「私自ら悔い改めるのでなければ神は私を救えないとは、偽預言者と偽牧師がしばしば私たちに告げたところである。たしかに私は悔い改めなければ救われないだろう、しかし神は聖霊をもって私を悔い改めさせた。私自らの意志の努力で悔い改めたのではない、これはとうてい私のなしえない業である。しかし神が私に宿り私の意志をもって彼の意志とし、そして彼の意志の能力によって私を悔い改めさせた。私の独力で悔い改めたのではない、しかも神はこれを私の悔改めとして受入れられた。ああ、神秘中の神秘とは神と意志との神秘である」(『一日一生』新版P54)


<祈りは最大の信仰行為ー祈禱は必ず聴かれる>


次に祈祷についてですが、お恥ずかしいことに、筆者は長らく「実践は最大の祈りである」と信じ、祈りの時間があるのであれば、その時間を研究や伝道に励むべきだといった価値観に染まっていました。しかしここにきて、この認識は筆者の大きな見当違いであり、神への冒涜であることをはっきり自覚することになりました。即ち、「祈り」こそ何にもまして優先するべき信仰行為であり、実践であるとの認識です。


内村は『宗教座談』の中で、次のように言っています。


「菅相丞(かんそうじょう;菅原道真の異称)の歌であると言い伝えられる『心だに真の道にかなひなば祈らずとても神や守らん』などという語は、たびたび祈祷反対論のために引き出されるものでありまして、私たちのように祈祷に多くの時間を費やす者は、かえって無益のことをなす者のように思われます。しかし祈祷反対論は、多くはキリスト信者(真正の)の祈禱がどのようなものかをわきまえないで起きるものであります。元来私たちキリスト信者は、神の聖旨(みむね)の就(な)ることを祈るべき者でございまして、決して私たちの私意私策の行なわれることを祈るはずのものではありません。このため私たちの祈禱は必ず聴かれるべき祈りであります」(『一日一生』新版P337)


また内村は著書『独立短言』の中で次のように述べました。


「世に金銭の勢力があり、政権の勢力があり、知識の勢力がある。けれども未だ祈祷の勢力には及ばない。これは実に誠実の勢力であって、山をも透し岩をも砕く勢力である。世の大事業と称さるものは、皆祈祷の力によって成ったものである。祈祷の力によらないで建てられた国家は虚偽の国家であり、永久的不変の基礎の上に据えられたものではない。祈祷の力によらないで成った美術に天の理想を伝えるものはない。祈祷は精神的生命を得る唯一の秘訣である。だから祈祷のない国民から大政治、大美術、はたまた大文学、大発見、その他の大と称せられるものが出て来るはずはない」(『一日一生』新版P35)


このように、内村は「(真実なる)私たちの祈禱は必ず聴かれるべき祈り」と述べ、「祈祷の力によらないで建てられた国家は虚偽の国家」と明言し、「祈祷は精神的生命を得る唯一の秘訣」としました。


考えて見れば、マルティン・ルターもチャールズ・フィニーも内村鑑三も、そしてイエス様も文鮮明師も、偉大な宗教家は、正に「祈祷の人」でありました。


宗教改革を行ったルターは偉大な霊的な力を持つ人物でしたが、 彼は1日3時間かけて、両手を組み合わせ、開かれた窓に向かって祈るのが好きだったと言われています。「祈るとき、わたしに大きなものが宿ります」と告白しました。


また、UC創始者は、イエス様について、み言集『イエス様の生涯と愛』(光言社)の中で次のように語られています。


「聖書には三、四箇所しか出てきませんが、実際イエス様が涙を流された事実は限りなく多いのです。イエス様は、神様に祈るたびに涙を流されました。イエス様が、オリーブ山に登って夜を明かして祈られたのは、一度や二度ではありません。ゲッセマネの園においてだけ祈られたのではありません」(『イエス様の生涯と愛』P151)


そしてUC創始者は、更に輪をかけて祈りの人でした。自叙伝では次のように語られています。


「明水台の裏側に瑞達山があります。瑞達山の岩に登って、しばしば夜を徹して祈りました。寒くても暑くても、一日も休まず祈りに熱中しました。一度祈りに入れば涙と鼻水が入り混じるくらい泣き、神様から受けたみ言を胸に抱いて、何時間も祈りだけに集中しました」(文鮮明著『平和を愛する世界人として』P75)


聖書には「祈りは聞かれる」という聖句が随所に出てきます。詩篇6章10節に「主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる」とある通りです。 また、「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11.24)とあります。


このように聖書には、各所に「祈りの力」が証言されています。


以上、「内村鑑三記念キリスト教講演会」(今井館)に参加して、聞いたこと、感じたことをまとめました。奇しくも加納理事長が述べられたように、無教会の運動は、「キリスト教信仰へと向かう間口を大きく広げた」と言え、またエクレシアの模範を示し、キリスト教を「思想という面から掘り下げた」とも言えるでしょう。(了)

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