top of page

​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

「徳永信一弁護士の論文」(月刊正論3月号)を読み解く

◯つれづれ日誌(令和5年2月8日)-「徳永信一弁護士の論文」(月刊正論3月号)を読み解く


すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。(マルコ10.20~22)


令和5年月刊正論3月号に「旧統一教会信者なら人権侵害していいのか」と題する徳永信一弁護士の記事が掲載されました。富山市、大阪市、富田林市における市議会決議、即ち「旧統一教会とは今後一切関係を断絶する」といった前代未聞の市議会決議が憲法違反だとして、その取り消し訴訟を提起している裁判で、徳永氏は信徒・UPFの原告代理人を引き受けて頂いている弁護士であります。


今回の記事は、訴訟の法的問題に留まらず、政教分離問題、献金問題、二世問題、反日問題、解散問題など、旧統一教会問題の基本的論点が網羅され、宗教の本質を鋭く分析されており、論文としても大変優れた文書であります。従って、当該記事の論点を整理して解説し、読み解いていきたいと思います。


【論点①ー訴訟提起と法律問題】


富山市、大阪市、富田林市で、UCを指定暴力団なみの「反社会的団体」として扱う決議がなされ、決議取り消しと損害賠償を求める訴訟が提起され、徳永氏が原告代理人に立っていることは上記したところです(他に大阪府、北九州市も同様の決議をしている)。


教団に刑事事件はなく、また教団幹部が不法行為に問われたこともないにもかかわらず、市民全体に公平に開かれるべき公的議会が、一宗教団体を名指しで、民主主義のプロセスから排除することは前代未聞の暴挙で、徳永氏は、明らかに信教の自由を謳った憲法に違反すると主張されています。具体的には、誓願権(憲法16条)、信教の自由(憲法20条1項、国際人権規約18条1項)、法の下の平等(憲法14条1項)の各条項に違反しているというのです。そこで、行政事件訴訟法3条2項に基づいて議会決議取り消しを、国家賠償法1条に基づいて損害賠償を求める訴訟を提起しました。


徳永氏は、地方議会がその決議を正当化する際に、UCが「反社会的団体」との決めつけがあるが、そもそも反社会団体とは犯罪集団である指定暴力団へのレッテルであって、一体UCが如何なる犯罪を行ったというのかとの疑問を呈した上、UCが反社会的団体であるとのレッテルは、「全国霊感商法対策弁護士連絡会(以下、「全国弁連」という)が被害者だとして担ぐ元信者や反対二世らの一方的な告発を、無批判に取り上げるマスコミ報道によって作りあげられたイメージによるものである」と明言されました(月刊正論3月P245)。まさに正論であります。


徳永氏は、この度の市議会決議は、自民党がマスコミの度を越えたバッシングで泣きどころを突かれ、マスコミの責任追及から逃れるための自己保身であると指摘され、「左派系マスコミに扇動された世論の暴走阻止に一役かうことができ、正気を失った日本国民に、正気を取り戻すカンフル剤に繋げたい」と、逆風の中、 覚悟の抱負を語られました(正論P244)。


【論点②ー政教分離問題】


マスコミやテレビのコメンテーターらは、宗教が政治に関わることが政教分離違反だとするむきがあり、UCと政治家、特に自民党との関係を大騒ぎして問題にしていますが、宗教が政治に関わったり、働きかけたりすることは、政教分離違反ではありません。


そもそも政教分離原則とは、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離(Separation of Church and State)の原則を言うのであり、「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されます。即ち、政教分離は信教の自由を担保するための「制度的保障」であり、信教の自由と政教分離は目的と手段の関係にあるというのです。日本国憲法は20条1項で「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とあるように、日本の政教分離は特定の教団に対する便宜供与や特別待遇、特別忌避を否定して、宗教的中立性を確保するものであり、政治団体や市民団体の活動と同じく、宗教団体による政治関与や働きかけを否定するものではないというのです。むしろ宗教団体がその宗教の理念を政治に反映させるため、政治家と接触するのは、アメリカのロビー団体を見るまでもなく権利であります。


徳永氏は、「宗教は個人の救済だけてなく、政治に働きかけてその理想を共同体で実現することを使命とする」と述べられ、「宗教を個人の私的領域に閉じ込め、公共領域に関与することを否定するのは、宗教を反動イデオロギーとして敵視する左翼の戦略である」と指摘されました(正論P244)。従って、ことさらにUCと自民党との関係を、まるで悪いことのように喧伝するのは、魔女狩りどころか宗教に対する権利侵害に当たるものであり、強固な反共主義を有するUCを保守政治家から分断する左翼の戦略といわなければなりません。


【論点③ー献金問題の考察】


徳永氏はこうきっぱり言い切りました。「高額献金がなぜ非難を受けるのか、さっぱり分からない」と(正論P245)。


献金は信者による布施や寄付ですが、徳永氏はディッケンズの『クリスマス・キャロル』を事例に挙げ、裕福なものが全財産を寄付して施すのは、非難されるどころか善行であると述べられました。まさに献金はキリスト教の徳目であり伝統文化であるというのです。ちなみにクリスマス・キャロルとは、血も涙もない守銭奴の商人スクルージがクリスマス・イヴに霊的体験をして、過去・現在・未来の旅をした結果、回心して人々に財産を施す物語で、クリスマス・ストーリーの中では最も有名な物語です。


また徳永氏は、マルコ伝10章の「裕福な青年の物語」を引用し、鋭く献金の本質を考察されています。


青年がイエスに、「永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」と尋ねたところ、ただ律法を守るだけでは完全ではなく、「帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい」とイエスは言われました。「彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである」(マルコ10.17~22)とあります。


イエス・キリストと金持ちの青年(ハインリッヒ・ホフマン画)


そしてイエスは、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイ19.24)と語り、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者はだれでもその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」(ルカ18.29~30)とも説かれました。


徳永氏は、上記の聖書を引用し、実際、伝道師時代のゴッホが聖書の言葉「汝の持ち物を売りて貧しき者に施せ」を実践し、またアッシジの聖フランチェスコは、「裸のキリストに裸で従う」を文字通り実践し、一切の持ち物を売り払って献身したと指摘されました。筆者はこれら徳永氏の文面を読みながら、まるで牧師の説教を聞いているようで、身につまされる気がいたしました。


そして徳永氏は、裕福な信者に「天国にいくためには、全財産を売り払って献金しなさい。(さもなければ地獄に落ちる)」と説いたとしても、それは「福音書に基づく教導の範疇」ではないかと問題提起されました。ダンテの神曲にも地獄は描かれており、それをマインドコントロールによる脅迫と言ってしまえば、そもそもキリスト教の信仰は成り立たないというのです。


まさに献金の本質がここにあります。聖フランチェスコを見るまでもなく、そもそも宗教の本質は「捨てる」ことにあると言うのです。釈尊は王宮の栄耀栄華と妻子を捨てて求道の厳しい道を選択しました。イエスも「人の子にはまくらする所がない」(マタイ8.20)とある通り、一文無しの無産者でした。天理教の中山みき教祖(1798~1887)は「貧に落ち切れ」との親神様の言葉通り、屋敷にある米や衣服、家財道具などあらいざらい貧しい人々に施し、自ら貧のどん底に落ちていったと言われています。


献金(喜捨)には大きく、①贖罪の供え物、②救われたことへの感謝、③神の国実現への奉仕、という三つの意義があると言えるでしょう。つまり、サタン(自己中心)のものを一旦神に奉献し、物欲の執着を断ち、 新生への贖いの条件とするという重要な宗教行為であるというのです。これこそ、前記に見てきたイエスの言葉の真の意味であります。


ところで筆者は「つれづれ日誌(令和4年12月7日)ー安倍事件に見る一神教と多神教の相克」のなかで、奇しくも徳永氏と同じ金持の青年の聖書箇所(マルコ10.17~22、マタイ19.21~22) を引用して、左翼マスコミが垂れ流す神なき世俗的ヒューマニズム、自己否定・自己犠牲なき人権主義の落とし穴について警告したことがあります。


イエスは「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ10.34) と語り、救いにおける分別と逆説(パラドックス)の思想を説きました。イエス・キリストの思想には、逆説の論理、即ちパラドックスの思想があり、内村鑑三も「キリスト教の教えにはパラドックスの妙がある」と指摘しています。 それは「自分の命を得ている者はそれを失い、失っている者は、それを得る」(マタイ10.39)とのイエスの言葉に象徴されるでしょう。


そしてこれらは、今までの古い常識観念に囚われている日本のワイドショーに象徴される価値観、即ち「世俗的ヒューマニズム」の否定であり、いまほど日本の生ぬるく甘いヒューマニズムに、前記に見てきたイエスの分別と逆説の思想を注入するべき時はありません。


さて、こういった献金論議はさておいても、いずれにせよ、特にUCの「コンプライアンス宣言」(2009年)以来、いわゆる霊感商法に関わる消費者庁への相談件数は激減している(2021年は27件)ことを徳永氏は強調されました。


【論点④ー二世問題】


山上容疑者の母親がUCの信者であることに端を発し、いわゆる宗教二世問題が浮上いたしました 。親の信仰の押し付けや、献金による経済破綻により、二世は人権を侵害され悲惨な状況にあるというのです。宗教に敵対的なマスコミは、極端で特殊な宗教二世の事例を喧伝して世論の同情を集め、救済策として、家族や二世による献金の取消権まで俎上に上がる始末です(正論P247)。


この二世問題で脚光を浴びて、左翼マスコミや被害弁連の代弁者になったのが小川さゆりさん(仮名)でした。しかし、小川さんは「解離性同一性障害」の精神疾患があり、人が変わってしまったように事実無根の話を、何の良心の呵責なく公然と話すようになったということが両親の証言で明らかになりました(月刊Hanada3月号)。ちなみに「解離性同一性障害」とは、一人の人間の中に全く別の性格、記憶、性別などを持つ複数の人格が現れる神経症だといいます。


問題は、このような彼女の症状を知りながら、これを利用、助長しているマスコミや全国弁連、立憲民主党らの悪質さであります。現に立憲民主党の石田のりこ参議院議員に対する教団側からの名誉毀損訴訟において、小川さんが「過剰性腸症候群」に罹って打ち合わせが出来ないので、第一回の期日を延期して欲しいという連絡が全国弁連の山口貴士弁護士から裁判所に入ったといいます(月刊Hanada3月号P69)。


徳永氏は、「反安倍勢力は山上容疑者を英雄に祭り上げ、安倍元総理を貶めると共に、二世救済の美名のもとに我が国の法治主義が骨抜きにされている」と警告されました(正論P247)。


徳永氏は、二世問題は旧統一教会に特有のものではなく、他宗教にも広く見られるとした上で、二世問題について国際人権規約18条4項には、「父母が、自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有する」とあると指摘されました。そして、日本も批准している子供の権利条約14条は、児童の信教の自由を尊重するとしつつ、「児童が権利を行使するにあたり、父母が児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利と義務を尊重する」と明記されています(正論P247~248)。


マタイ伝10章に、「わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10.35~36) との言葉があります。 このイエスの言葉を文字通り捉えれば、夫婦親子など家庭の争いを肯定し、子が親にさからうことを是認するなど、とんでもない不道徳な教えということになります。


しかし「つれづれ日誌(令和4年12月7日)」でも述べましたが、実はこのイエスの言葉は、一種の「分別思想」であるというのです。前記したように、ユダヤ・キリスト教には、光と闇、神のものとサタンのものというように、善と悪を分ける分別思想が厳然とあります。内村鑑三も、「キリスト教の優れた特質は、この光と闇、生と死との峻別であります」(自叙伝P227)と言っている通りです。 即ち、イエス・キリストは、文字通り「つるぎ」で平和を壊し、家庭に争いをもたらすことを奨励されたのではなく、個人にせよ、家庭にせよ、社会にせよ、善悪混沌とした中間状態の曖昧さを糾し、善悪を分別して善に従う道を選択するよう勧められているのであり、そのためには、人間的な常識通念に囚われてはならないと言われているのです。つまり、今までの世俗的な家族を含む人間関係を一旦清算し、神を中心とした新しい関係に脱皮せよと言うことであります。


【論点⑤ー旧統一教会の反日性の問題】


次に徳永氏は、「UCに世間の風当りが強いのは、高額献金や二世問題以上にその反日性にあると思われる」(正論P248)と指摘されています。この点は筆者と全く同意見であり、さすがに目の付け所が違うと感心しました。ただ、敢えて言えば、UCが反日的なのではなく、反日のレッテル貼りをされ誤解されているというということであります。いわゆる左翼マスコミが狙う、反社=カルト=反日という負の連鎖の喧伝であります。


これまで左翼マスコミや全国弁連らにより、UCは韓国に対し自虐史観を持ち、日本は韓国アダム国家に仕えるエバの国などといった荒唐無稽のレッテル貼りが行われてきました。現下のマスコミは、何としてもUCに、「反社」「カルト」のレッテルを貼りたいと躍起になっていますが、それに加えて、UCが「反日団体」であるとの新たなレッテル貼りに奔走しているかのようです。


つまりUCには、アダム国家、エバ国家という概念があり、アダム国家韓国に対して、エバ国家日本は従属し、貢がなくてはならないといった教義を有し、また戦前韓国に対して行った植民地支配の罪を償わなければならないと日本信者に教えているという誤った世論操作です。 これらの点について筆者は、「つれづれ日誌(令和4年9月7日)-文鮮明教祖の日本観と韓国観及び世界主義-UC教義に自虐史観はない」、及び「つれづれ日誌(令和4年9月14日)-現代の選民論-UC教義に反日思想はない 」の中で、反対派のアダム国家・エバ国家の教義の解釈に間違いがあり、教義に自虐史観や反日思想は一切なく、また文鮮明先生に反日思想はないことを論証していますのでご一読下さい。


文先生は反日どころか、「アジアで唯一近代化に成功した国」として日本を高く評価されていること、日本に三年半留学されたこともある知日家・親日家・愛日家であります。そして何よりも民族主義をはるかに越えた徹底した世界主義者であり、そのことは1972年から40年間、世界を象徴するアメリカに移住され、世界的舞台で福音を宣教された事実が如実に証明しています。イエスの福音がイスラエル選民だけではなく、むしろ異邦人世界に大きく普及していったことを見ても、福音の世界性、普遍性は明らかであります。


またいわゆるアダム国家・エバ国家の概念は「上下主従の関係ではなく、パートナーとしての対等な相対概念」であり、世界に対する「摂理的役割を謳ったもの」で、教義に自虐史観も反日思想もありません。父と母、夫と妻、男と女の間に如何なる従属関係があるというのでしょうか。友好関係にある世界日報の論調を見ても明らかな通り、むしろUCは誰以上に愛国団体であります。


徳永氏も、UC信者の話を聞くと、韓国中心主義、日本悪玉論は過去の一時期の話しで、今は天皇を尊崇し靖国神社参拝しているということがよく分かったと述べられています。そしてむしろ問題にすべきは、全国弁連と一体となって強制脱会を行ってきた(一部の)日本基督教団や福音派牧師の筋金入りの反日思想だと指摘されました(正論P248)。


小林貞夫著『日本基督教団実録教団紛争史』には、かって日本基督教団が極左集団と連携し天皇性打倒を叫んだこと、首相の靖国神社参拝違憲訴訟を提起したこと、沖縄の辺野古埋め立て工事を阻止する牧師らがいることなどの事実が記録されているといいます。そして徳永氏は、「日本を軍国主義の権化とみなし、日本の朝鮮統治を史上最悪の植民地支配といい、世界中のプロテスタント教会に強制連行や慰安婦奴隷が事実であると訴え、韓国の従北勢力と連携して活動しているのは、旧統一教会でなく、一部の日本基督教団の牧師である」(正論P249)と明言されました。


【論点⑥ー解散命令は可能か】


さて岸田首相は、全国弁連のいいなりになり、UCをスケープゴートにするべく解散請求ありきの質問権を行使しました。果たしてUCの解散は可能なのでしょうか。徳永氏は解散命令はとても認められないときっぱり言われています(正論P249)。


つまり、宗教法人法81条1項の解散命令の要件は、具体的には「犯罪行為」であり、これまで刑事、民事の双方において、UC、関連団体、又は幹部が犯罪行為を認定されたことはありません。また2009年のコンプライアンス宣言以来、消費者保護法違反に関する相談件数も激減し、解散の要件である不法行為の継続性、組織性、悪質性はなく、裁判所による解散命令はとても無理だというのです。筆者も徳永氏と同じ見解であります。


最近、立憲と維新が、共同で、UCの解散命令請求に備え、教会の財産を保全できる「特別措置法」を作成するという報道がなされました(産経新聞)。特別措置法は解散確定までの間、被害者救済に充てるべき財産の移動や処分を防ぐ狙いで、月内にも具体化を目指すというのです。これこそ正に衆愚政治の典型であり、裁判確定を前提として、事前に教会財産を保全するなどとは憲法違反(財産権の侵害)であり、選挙目当ての低俗なパフォーマンスというしかなく、このようなことがまかり通れば、まさに法治国家の崩壊と言っても過言ではありません。


徳永氏は締めくくりに、欧州カルト規制について触れられ、いわゆるフランスの反セクト法は、特定の宗教団体をセクトと指定して監視対象とするものではなく、またマインドコントロール罪は否定され、欧州においてUCがセクト指定されたことはないと明記されました。


以上、今回は正論3月号に掲載された徳永信一弁護士の記事について解説しました。徳永氏は京都大学の学生時代、UCの施設に出入りし、教義にも触れたこともあってか、法律だけでなく、宗教思想にも造詣が深いと見受けました。宗教の本質をよく理解した上でのこの度の論評を、筆者は高く評価したいと思います。(了) 牧師・宣教師 吉田宏

bottom of page