◯徒然日誌(令和6年7月17日) 「真の父母論」セミナーに参加してー真の父母論の検証、トランプ暗殺未遂について
イエス様は二人目のアダムであり、再臨主は三人目のアダムなのです。そして三人目のアダムが堕落前の立場で来て、堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して、子羊の宴会をしなければなりません。結婚して人類の父母となるのです。(「祝福家庭と理想天国」(1)P584~585)
この度筆者は、「真の父母論」2日セミナーに参加し、真の父母論を受講した。今回その内容を論評しようと思うが、その前に7月13日に勃発したトランプ暗殺未遂事件について寸評する。
【トランプの暗殺未遂に思う】
7月13日、アメリカ東部ペンシルベニア州で、ドナルド・トランプ(1946年6月生れ)は選挙集会の演説中に銃撃を受け、右耳貫通のけがをした。事件に巻き込まれ、この集会の参加者が身代わりとなって1人が死亡し、2人が重傷したという。
トランプ氏に対する暗殺未遂事件として捜査を進めるFBI=連邦捜査局は14日、銃撃に関与した疑いで射殺された男について、地元に住むトーマス・クルックス容疑者、20歳と特定した。また、AP通信は、容疑者の車や自宅から爆発物の材料が見つかったと伝えている。またクルックス容疑者が過激派組織とのつながりがあったのかなど動機についての詳細は、まだ分かっていないが、捜査当局が事件の背景や動機の解明を急いでいる。(NHKニュース)
しかし、明治大学教授の飯田泰幸氏は、ニュージーランドで2019年に起こったモスク攻撃テロで(51人死亡)、首相が犯人の動機や背景に一切触れなかったことを例にあげ、テロリストの動機や背景を報道することは、テロリストの目的を実現し、美化することにつながり、テロリストの思う壺になるので、厳に慎むべきであると言われた。日本のマスコミはこの事に鈍感であるとして、暗に安倍事件の報道ぶりを批判されたのである。
このトランプ事件に関して、日本保守党の百田尚樹氏や飯山陽氏など、早くも安倍事件との奇妙な共通点(警備への疑惑や両首脳ともメディアに悪者にされたこと)が指摘され、安倍事件との対比の中で論議される傾向が見られる。筆者はこのトランプの暗殺未遂の一件は、安倍事件でスケープゴートにされたUCにプラスに働くと思っている。何故ならトランプの暗殺未遂事件は、安倍事件を世界レベルのキリスト教的な霊界圏に引き上げるからである。筆者は心なしか、イエス様のように十字架で亡くなって贖罪の羊となった安倍晋三元首相と(以後、親しみを込めて「安倍さん」と呼ぶ)、十字架に架かりながら死から蘇ったトランプとの間に、初臨(イエス様)と再臨(文鮮明先生)の相関関係を見る。
安倍さんは、青山繁晴議員が証しされたように、首相として最長の任期を全うし、政治家としては「悔いなく逝かれた」が、トランプは未だ大統領としては道半ばであり、まさに再臨主的な使命が期待される。間一髪、後ろを振り向いて死を免れた暗殺未遂は、トランプの強運と共に、誰もが神の介入を見たのである。
トランプはTRUTHに投稿し、「神のみぞ考えられないような事態の発生を阻止して下さった。信仰に堅く立ち、悪意に屈せず、不屈の精神で立ち向かう」と述べた。飯山陽氏もユーチューバーの及川幸久氏もジャーナリストの長谷川幸洋氏も神の御加護があったと「神」という単語を口にした。安倍さんの霊が守ったのではないかという話しが流れており、世界の誰もが超自然的な力の臨在をまざまさと実感したのである。まさにトランプがよく口にする「神、我と共にあり」(マタイ1.23)である。
そしてメラニア・トランプ夫人はアメリカ国民にむけて次のように語りかけた。
「私の夫を非人間的な政治マシーンとみなす怪物たちは、ドナルドの情熱、つまり彼の笑い、創意工夫、音楽への愛、そしてインスピレーションを消し去ろうとしたのです。 この卑劣な行為によって今苦しんでいる罪のない犠牲者のご家族に、謹んで心よりのお悔やみを申し上げます。今朝の私たちは、憎しみ、悪意、暴力を引き起こす短絡的な考え方を乗り越えましょう。愛がすべてを乗り越える世界を求めているのです」
トランプも安倍さんも、天宙平和連合(UPF)の集会にメッセージを寄せており、トランプの霊的なメンターとして有名なポーラ・ホワイト牧師は、「何ものも神の愛から私たちを引き離すことはできない」(ローマ書8.39)という聖書の一節をよく引用している。今後、死から蘇ったトランプは、霊的に復活した安倍さんと協力して、大きな使命を果たすことになる。その時こそ、スケープゴートにされて瀕死の重症を負ったUCが解放される時である。ああ深いかな、神の知恵と知識との富は(ロマ書12.33)。霊妙なるかな神の計りごとよ!
【真の父母論セミナーに参加して】
さて筆者は、7月11日、12日、青葉台家庭教会で開催された「真の父母論」2日セミナーに参加し、真の父母論を受講した。前に教理研究院長の太田朝久氏の概要動画を見ていたので、だいたいの内容は把握していたが、今回、鮮文大学教授5人による計六講座を受講し(各講座40分~60分)、より鮮明に内容を理解することができた。神学に造詣がある信徒から、「今までお母様が語ってきた内容の繰り返しで、鮮文大の御用学者の講義は、学術的な神学とは程遠かった」と手厳しいメールをもらったが、果たしてどうなのか、以下、セミナーの六講座とその概略を記す。
①第一講座(講師オ・テギョン):「序論」
独り娘ということは、天の血統で、言い換えれば「誕生の無原罪」だと定義し、独り娘誕生の起源が語られた。即ち、独り娘が誕生してこそ、再臨のメシヤが来る動機が生まれること、従って、神は前もって(イエス様以前4300年前から)独り娘を準備したという。つまり、人類の「真の父母」が顕現されるには、独り子だけでなく、必ず独り娘が必要であることが強調された。基元節(2013年天暦1月13日)までは、お父様が中心軸になって摂理を導いてこられ、お母様は内的立場で協助されたが、基元節後はお母様が摂理の中心軸であると宣言された。
②第二講座(黄・ジンス):「天の父母論」
今までキリスト教では神を「天の父」と呼んできたが、神が男性性相と女性性相の中和体であることを鑑みると、神は「天の父」であると同時に、「天の母」であるので、神を「天の父母」と呼ぶのがふさわしい。お母様は、キリスト教時代においては、神様の男性格である「天の父」であり、神様の女性格である「天の母」の立場は隠され、神様は「天の父母様」になることが出来なかったと言われ、天の父母様の立場を取り戻して差し上げたいと語られた。(著書『平和の母』P4)
→なお、神が父母であることは、原理原本、原理講論において既に明記されており、またイエス様は神を「天の父」と呼ばれたが、天の父には天の母も含まれた概念と考えられる。しかし、「天の父母」とすればより神概念が明確になる。また、天の父母は決して二元論ではない。
③第三講座(ド・ヨンス):「キリスト教の2000年歴史の本質」
2000年キリスト教の歴史は、新婦を求める歴史、即ち真の母を探し求める歴史であるとした。アメリカピューリタンの源流となったカルバンは、1943年に「教会改革の必要性について」という論文を皇帝に献上したが、この400年後に独り娘が誕生したという。
→なおカルバンの主著『キリスト教綱要』は1536年に出版されている。しかし、ルターが宗教改革の元祖であることはいうまでもない。
④第四講座(金・ミンジ):「6000年を経て降臨された初臨の独り娘・真のお母様」
第四講座は、総じて自叙伝『平和の母』に記述されているものに則した内容であった。選民として準備された韓民族は、イエス様が来られる前から選民の候補(東夷族・韓氏)であり、イエス様の十字架の死後、独り娘を送る国家として選ばれ、再臨時代に6000年を経て初臨として降臨したという。また「独り娘=独生女」は、3代が一人娘の家系でなければならないとした。強い再臨信仰を持つ祖母趙元模、母洪順愛(大母様)、韓鶴子の3代である。
⑤第五講座(チェ・ジュワン):「イエス様の使命を引き継いだ再臨のメシア・真のお父様」
2000年のキリスト教歴史の目的は、新婦、独り娘を求めるための歴史である。再臨主とは「イエスの使命を引き継いだメシア」であり、再臨主による原理の解明、キリスト教の基盤の確立、国家基盤の造成は、すべからく「独り娘を迎える準備」だとした。お父様は独り娘を迎える準備をして、独り娘と出会って子羊の婚姻をし、真の父母になったという。また再臨のメシヤは「独り娘を迎えて小羊の婚宴を挙げる前に、家庭を持ってはいけない」とも言及した。
→教理研究院は、「真の父母論の映像に関するQ&A」で、「キリスト教の歴史は、独り子の使命を持ってこられる再臨のメシヤを迎える歴史であると共に、独り娘を求めるための歴史だと言える」とした。つまり教理研究院は、「再臨のメシヤは、(独り子として来られるのではなく)独り子の使命を持ってこられる方である」というフレーズを何度も使っているが、この点は後で検証する。また「子羊の婚姻の前に家庭を持ってはいけない」とは、創造本然の在り方を理想的に述べたものだと補足説明(弁明)した。
⑥第六講座(オ・テギョン):「天一国安着の主要摂理」
1960年~2013年の53年間は荒野時代であり、天の父母様を迎える準備だった。お父様は、2010年6月19日(天暦5月8日)、米国・ラスベガスで真のお母様との「最終一体」を宣言され、文字通り天宙的四位基台が確立し、もはや父と母は分離不可能になった。2013年の基元節から、お母様が摂理的完成の中心軸として、天一国開門、天一国元年が宣布された。2012年9月3日のお父様の聖和から3年間の侍墓生活を終え、孝情精神のもと、天の父母様聖会、天心苑摂理が宣布され、2025年の神が安着する「天一国聖殿」に向けて歩んでいる。
以上がセミナーの概略だが、今、多くの信徒から、「真の父母論」についての筆者の感想、ないしは見解を聞きたいというリクエストを受けており、その要請に答えるためにも、また自分自身を整理する意味でも、率直な感想と見解を簡潔に述べることにしたい。但し、ここで述べる内容は、あくまでも筆者の個人的な見解であり、異論や反論があれば是非聞かせて頂きたいと思っている。
【真の父母論の検証】
先ず、「真の父母論」の目的は何かというと、「未来永劫に渡って、人類の真の父母は文鮮明(真のお父様)と韓鶴子(真のお母様)の一組しかおられないことを知らしめる」ところにあるという。お父様のみ言に、「真の父母というのは一組しかいないのです。人類の一組しかいない父母だというのです。歴史に初めて登場した、空前絶後の真の父母が顕現した時代が成約時代だというのです」(八大教材・教本『天聖經』P2400)とある通りである。
この、真の父母は「過去・現在・未来に渡って唯一ただ一組だけ」という真理の宣言は、昨今、「私は第四アダム、二代王、三代代王である」と自称し、我こそはお父様の後継者だと標榜する、いわゆる分派(異端)に対して、強い牽制のメッセージになり、筆者はこれを強く支持する。確かにキリスト教の歴史において、イエス様だけが唯一のメシアであって再臨主以外に後継者などいないことを見ても明らかである。なおこの点について、「つれづれ日誌(令和2年8月30日)-「平和の母」特別コメント② 韓鶴子女史への批判に答える」に詳述しているので、筆者のホームページ「令和リバイバル」を参照されたい。
<開会のことば>
さて、この度のセミナーは、誠実さを感じる本山勝道未来人材局長の司会進行で進められ、竹内啓晃副会長の力ある祈祷で始まった。
先ず最初に田中富弘会長の開講の辞があったが、この開講の辞は端的に全体の視点が示され、特に「摂理・み言」の解釈に向かう姿勢が例え話しを交えて分かりやすく語られた。即ち、「み言」は、同じ一つのみ言でも、視点を変えて見れば色々な見方ができ、経験や立ち位置や背景を加味し、あるいは原理と摂理を総合的に整合性よく解釈しなければならないという。これは筆者の持論でもあったので、まさに「我が意を得たり」の感があった。
キリスト教には聖書の解釈の違いにより、数多くの教派があるが、いわゆる分派や原理主義者と言われる人たちは、多くの場合、ある特定の一つのみ言の一節だけを偏って解釈し、それを過剰に強調する傾向がある。文鮮明先生(以下、「お父様」と呼ぶ)のみ言には、一つのことでも、ある人には白と言い、ある場合には黒と言われることが多々あるのであり、 見方によっては正反対とも取れる内容で語られている場面がある。み言の解釈はあくまでも、原理に照らし、総合的・文脈的にバランス感覚を持って解釈しなければならず、決して文字の奴隷になってはいけない。従って今回の「真の父母論」をどのように捉えるかにおいても、このような姿勢が大切なのである。
<真の父母論を受講して>
ところで、今回の六講座の内容の概略は前記の通りであるが、筆者の率直な印象は、良きにつけ悪しきにつけ、これは「真の父母論」というより「真の母論」といった方が的を得ているということだった。
つまり、今日まで53年間の荒野時代(お母様はこう呼ばれている)において、お母様が「無原罪誕生の独り娘」であることを含め、「お母様の位相と価値」について、正しく理解されて来なかったことに鑑み、この際、きちんと位置付け、意義付けておかなければならないとの判断がある。特に、お父様聖和後、天一国時代を迎えて、お母様を中心に摂理を進めて行かなければならない事情の中で、あるいは分派などのお母様批判の中で、お母様の位相と価値をきちんとまとめておくことが必要であり、真の母論が必要な所以がここにある。従って筆者は、この真の父母論の趣旨を十分理解し、そして尊重したい。
しかし、第五講座の中で、「2000年キリスト教歴史は、新婦を求めるための歴史であり、キリスト教の目的とは、独り娘の誕生を準備することである」とし、その上で、「再臨主とはイエスの使命を引き継いだメシアであり、再臨主(お父様)による原理の解明、キリスト教基盤の確立、国家基盤の造成は、すべからく独り娘を迎える準備だった」とした。そして「お父様は独り娘を迎える準備をして、独り娘と出会って子羊の婚姻をし、真の父母になった」とした。
つまり、人類歴史は真の母を迎えるための歴史であり、神の摂理完成は初臨の独り娘によってなされるというのであり、これはまさに「真の母史観」というべき内容であり、正直驚きであった。コペルニクス的転回とはまさにこのことをいう。しかし、いみじくも田中会長が指摘しているように、視点を変えれば同じものでも真逆に見えるのであり、真の父を中心に摂理歴史を見れば「真の父史観」になり(今までは「真の父史観」だった)、真の母を中心に摂理歴史を見れば「真の母史観」になる。これは視点が違うだけでどちらも正しいということかも知れない。
だが、歴史は総合的・文脈的にバランス感覚を持って原理的解釈をすべきであり、一方だけに偏ってはいけないと思料する。但し、聖書の歴史観はイエス・キリスト史観であり、また再臨史観である。またこの真の父母論は、身構えて新しい神学が生まれたというものではなく、前に出た「本体論」が創造原理に肉付けしたものであるように、原理講論「キリスト論」の延長に位置付けるべきと筆者は認識した。
<譲れない一線>
しかし、筆者には譲れない一線がある。前記第五講座補足説明の中で、教理研究院は、「再臨のメシヤは、(独り子として来られるのではなく)独り子の使命を持ってこられる方である」という言葉を何度も使っていると筆者は指摘した。つまり、「使命を持って」という形容詞を使う教理研究院は、お父様は無原罪の独り子として誕生されたのではなく、イエス様から使命を引き継いだ時に無原罪のメシアになると解釈しているのだろうか。あるいは今回の真の父母論で縷々語られているように、再臨主は独り娘と出会い、子羊の婚姻を経て真の父母になった時に無原罪のメシアになると解釈しているのだろうか。
筆者は当該セミナー全体を通じて、無原罪誕生の独り娘のことは明言しているが、無原罪誕生としての独り子には一度も言及されないことに、違和感を感じたことを告白する。そして、かの金振春氏の論文「お父様原罪誕生論」の悪夢を想起した。その意味で、筆者にとって今回の「真の父母論」は 、「画竜点睛を欠く」と言うしかなかった。
筆者は、真のお母様が罪なき本然の独り娘として韓国に誕生されたことを固く信じるものであり、それは「つれづれ日誌(令和2年8月23日) 韓鶴子著『平和の母』を読んで 特別コメント①」の中でも詳細に明記している。「主が地上で探される新婦(独り娘)は、堕落圏内で探す新婦ではありません。堕落していない純粋な血統を持って生まれた方を探すのです」(祝福家庭と理想家庭(1)P909)とある通りである。
一方筆者は、お父様が無原罪誕生の再臨主(独り子)であることを固く信じるものであり、これは筆者の信仰的確信で、これだけは譲れない。既に筆者は、「つれづれ日誌(令和5年6月1日) メシアの本質とキリスト教のメシア観① 金振春氏の論文に反論する」において、a.聖書、原理講論が予定するメシアは、罪なき(無原罪)神のひとり子であること、b.お父様の「み言」自体に、自らが無原罪のメシアとして生まれたことが随所に明言されていること、c.お父様誕生前後の時代背景や家庭・氏族の事情は正に再臨の予兆を明示していること、d.筆者は既に、お父様が無原罪誕生の再臨主であることを信仰告白していること、の4側面から、お父様無原罪誕生を論証した。例えば、お父様の「み言」には次の通りある。
「真の愛と生命の種を持ったアダムを失った神様は、サタンの讒訴条件のない新しい種をもった息子を探して立てなければなりません。神様が人間を創造するとき、アダムを先に造ったように、再創造摂理である復帰摂理も、堕落と無関係な息子を先に立てなければならないのです。これがメシア思想の根本です」(天聖経第一篇P122、平和経「救援摂理の原理観」P118)
そこで恐縮ながら、この場を借りて、教理研究院に質問させて頂きたい。筆者のお父様無原罪誕生論、即ち、前記筆者のホームページ「令和リバイバル」に掲載されている論文「つれづれ日誌(令和5年6月1日) メシアの本質とキリスト教のメシア観①」をよく吟味して頂き、この論文について、是非を含めコメントを頂きたいと思っている。忙しい日々であろうかと思われるが宜しくお願いしたい。但し、筆者は教理研究院が懸命にお母様を擁護し、誤解を弁明し、信徒の疑問に分かりやすく答えている努力と能力を高く評価していることを付け加えておく。また、まさにお父様聖和後、あらゆる困難と戦い、一人み旨を背負って歩まれるお母様のご苦労と心情に寄り添い、心からの祈りと感謝の思いを捧げたい。
以上、真の父母論セミナーに参加して感じたことを率直に述べた。前述したように、筆者は天一国時代において、また分派のお母様批判の中にあって、「お母様の位相と価値」が正しく理解されることが必要であることを認めるものであり、内容については更なる研鑽が必要かと思うが、このんんky真の父母論の目的と趣旨には大いに賛同する。天上天下、唯一の真の父母に栄光あれ! (了) 牧師・宣教師 吉田宏