◯つれづれ日誌(令和5年4月26日)-うみ疲れずに福音の種を蒔く
涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る(詩篇126.5)
【最近の時局二つ】
今回は福音の種を蒔くことの意義について考えたいと思いますが、その前に最近の時局について若干論評したいと思います。
<統一地方選挙終わる>
4月23日、一連の地方選挙が終わりましたが、なんと言っても注目選挙区は衆議院山口4区補欠選挙でした。安倍晋三元首相の死去に伴うこの補欠選挙には、安倍氏の後継者として元下関市会議員の吉田真次氏(38)が立ち、安倍昭恵夫人が張り付いて、文字通り二人三脚の選挙戦を展開しました。
対抗馬として、UC叩きの急先鋒で知られる有田芳生氏(71)が、立憲から恥知らずの立候補をし、街頭演説で、『下関は統一教会の聖地』などと発言し、いわゆる「統一教会ネタ」を露骨に出す卑劣な戦法を取りました。結果は当然ながら、吉田氏がダブルスコアでの圧勝に終わり、有田氏のUC叩きの影響がもはや過去のものになっていることを証明しました。
安倍昭恵夫人は夫の葬儀で「種をいっぱいまいているので、それが芽を吹くことでしょう」と語りましたが、有力支援者は、「昭恵さんは、吉田氏を勝たせることが、安倍氏がまいた種を芽吹かせることにつながると信じて戦っていた」と振り返りました。
当選した吉田真次氏が、安倍さんの精神と政策を身に背負って、甦った安倍晋三として羽ばたいて下さることを祈念してやみません。
そして筆者がもう一つ注目していた選挙がありました。徳島市会議員に無所属で出馬した元徳島市会議員の美馬秀夫氏です。美馬氏はUCの熱心な信者であり、今まで自民党公認候補として数回当選していましたが、今回の自民党の「UC排除」の方針で公認を拒否され、無所属出馬を余儀なくされました。美馬氏は、自民党徳島県連から、「UCを脱会しない限り公認しない」という踏み絵を突き付けられるのを見越して、決然とこれを拒否し、UC信者であることをはっきりカミングアウトして選挙に望んだ見上げた政治家です。美馬氏は拉致被害者第一号でもあり、試練を乗り越えて信仰を貫き、そして正に逆風の中で、今回見事に当選しました。
筆者は、美馬後援会長を務める食口に、「今回、美馬さんが再選されれば、一つの壁を打ち破ることになり、富山の訴訟勝利に優るとも劣らない快挙となりますね。一個人の選挙という次元だけではなく、UCバッシングに風穴を開けることになりますので、私としては大変注目しています」と書き送っていました。NHK記者は「信者の結束の固さを感じました」と言っていたということです。
<二人の論客>
ところで、ここでUCバッシング事件について、二人の論客の対照的な見解がありますので、これを論評したいと思います。
その一人は、社会学者でクリスチャンの橋爪大三郎氏の発言です。(4月21日集英社オンライン)
彼は大澤真幸氏との共著『ふしぎなキリスト教』を書いていますが、知ったかぶりして独善的なキリスト教理解を振り撒き、キリスト教研究者からも誤りを指摘され非難されています。
橋爪氏曰く、「統一教会はカルトです。反社会的で、病原性が高い。カルトだから、伝染力が高くて、広まってしまった」と明言しました。専門家の間でもカルトの定義は曖昧で確定しておらず、専ら敵対者に悪い印象を与える手段として悪用されており、このような誤解を招くカルトという言葉は学者であれば「いたずらに使うべきではない」にも関わらず橋爪氏は多用しています。
モルモン教についても「モルモンの書とか、ジョゼフ・スミスが預言者だとか、言っていることがどう考えても突飛で、やはりカルトだ。それでもアメリカでモルモン教がある程度広がったのは、普通のキリスト教の教会に不満な人びとが一定の割合でいて、そういう人びとを仲間として迎えたからだ」と述べています。
また、政教分離の原則から言っても問題だと彼は強調します。「統一教会にはっきりとした政治目的があって、それが危険で、しかも隠されており、民主主義にとって有害だ。政権政党に喰い込み、地上に神の王国を実現しようというのが統一教会の信仰の内容で、一番恐ろしいのは裏で隠れて政権党に浸透しおかしな教義を政策化することだ」とも。
しかし、そもそも政教分離とは、国家が特定の宗教に便宜を図って優遇することを禁じたもので、憲法規定は、宗教の政治への関与を否定するものではなく、宗教団体が政治家や政治団体を支持したり、政治運動を行うことは憲法上認められています。(内閣法制局長官大森政輔の国会答弁)
同志社大学神学部教授の小原克博氏は、「宗教団体が政治や政治家に関与し、その宗教理念から出る政策を実現しようと努力するのは、宗教の当然の権利である」と述べておられるように、旧統一教会が政治家に関与し、政策に影響を与える努力をするのは政教分離違反でも何でもなく、橋爪氏の批判は的外れというしかありません。
また橋爪氏は、その言動から、「 反皇室思想」や「夫婦別姓支持」の持ち主と思われ、かなりリベラルであり、しかも旧統一教会を異端とする一部のキリスト教を代弁するかのような左翼かぶれの人物と言えるでしょう。
今一人の論客は、ノンフィクションライターの窪田順生氏で、以下は窪田氏の記事の骨子です。(4月20日DIAMONDオンライン)
窪田氏は、選挙応援中の岸田文雄首相に筒状の爆発物を投げて逮捕された木村隆二容疑者が、安倍晋三元首相を襲撃した山上徹也被告の「模倣犯」だと明言しました。
山上被告は元首相を卑劣な方法で殺したにもかかわらず、反安倍のいわゆるアヘガーから「不条理に立ち向かった悲劇のヒーロー」のような扱いをされたとし、こういう山上被告の姿にインスパイアされた木村容疑者が犯行に及んだというわけです。
そして山上被告がテロを起こしたことで、旧統一教会は「反日カルト」というレッテルを貼られ、そして、岸田首相までが「社会的に問題が指摘されている団体」と表現して、自民党としても「関係断絶宣言」をすることにまでなりました。
つまり、本来、糾弾されるべきは「テロ」を起こした山上被告なのに、「テロ」をさせるように追いつめた(と誤解された)旧統一教会こそが「叩くべき巨悪」ということになったというのです。海外では、このような事件が起きた際に、テロ実行犯の思想、犯行にいたるまでの考え方などはなるべく報じないように「自制」をするのが常だと窪田氏は言われます。
窪田氏は、「信者が高額献金をしている宗教団体など、自民党の支持団体の中にも山ほどある」と指摘し、にもかかわらず自民党はマスコミのバッシングに押し流される形で、「旧統一教会と付き合っていた」という事実を認めて謝罪し、「今後は付き合いません」と反社のように扱ったとし、これで、政治が国民に対して、「山上被告の主張は正しい」と宣言したも同然となり、 かくして、山上被告の「やったことは悪いことだけれど、正しい問題提起をした」という現在の社会評価が確立したのであると指摘しました。
そして仮に旧統一教会の解散請求が出たら日本政府が「カルト」と認定するわけなので、マスコミの旧統一教会バッシングが再開するだろうとも述べ、これらの風潮を強く警告しました。
そうなると、「山上に続け」と言わんばかりに、次々と自分の「正義」を暴力で認めさせようという若者が、テロに走るとし、「第三の山上」が世間を騒がす日も、そう遠くないのではないというのです。
以上の通りですが、窪田氏の見解は正に的を得た発言であり、多くの心ある有識者、国民の気持ちを代弁した正論と言えるでしょう。
【うみ疲れずに福音の種を蒔く】
さて今回の本題に入りたいと思います。今回のテーマは詩篇126篇5章の「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」であります。
<ある集会での講話>
4月19日、筆者は「日本のルーツ」を学んでいる集会に講師として招かれ、「古事記に見る一神教と多神教の相克と調和」という題目で話す機会がありました。
その講話の中で、古事記には一神教と多神教の二つの神観、即ちアメノミナカヌシに代表される一神教の系譜と、アマテラスに代表される多神教の系譜の二つの神概念があることを指摘し、天武・持統期に一神教の「タカミムスヒ」から多神教の「アマテラス」への国家神(皇祖神)の交代があったという溝口睦子氏(日本古代史の研究家で十文字学園女子大学名誉教授)の見解を紹介した上、日本的霊性についての筆者の持論を述べました。
即ち、日本人のDNAには一神教への郷愁があり、日本の多神教の神々は、唯一の創造主である親なる神に行き着くための「途中神」、パウロ流に言えば養育係(家庭教師)であり、日本的霊性に欠けている唯一神の神を取り込めば、日本的霊性は鬼に金棒であると述べ、そのために全国8万の神社本殿の御神体に聖書(神の言葉)を安置すべしと提案しました。
参加者からは、「大変参考になった」との評を頂き、筆者の言わんとしたことが伝わったのではないかと安堵いたしました。そしてこの瞬間、「うみ疲れずに福音の種を蒔くべし」との聖書の言葉が甦り、福音の種を蒔くことの意義を改めて感じた次第です。
<種を蒔くことの意義>
日本には「駕籠(かご)に乗る人担ぐ人そのまた草鞋(わらじ)を作る人」という格言がありますが、これはつまり、物事が成就するためにはそれぞれ人には役割分担があるということです。
1コリント12章に「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、知識の言、またほかの人には、信仰、またほかの人には、いやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている」(1コリント12.4~10)とあるように、人にはそれぞれ神から与えられた賜物があるということであり、福音宣教においても同様だというのです。
福音の種をまく人、それを刈り取る人、そして育てる人、この三者が三位一体となって宣教は進んでいきます。従って、先ずは種を蒔かなければ始まりません。ハーベストタイムを主宰されている福音派の中川健一牧師は「リバイバルは聖書の研究から始まる」との標語を掲げて、聖書の知識という福音の種をまくことに生涯を投入されています。
また、 ある信徒は5年間毎週真のご父母様の自叙伝を使って「路傍伝道」を続け、かれこれ400人以上の伝道者名簿ができたということでした。筆者は専ら「文書伝道」に集中し、この度幸いにも「聖書と原理の橋渡し」を テーマとした本を出すことが出来ましたので、これを知人、友人、同級生、親族に読んで貰って福音の種を蒔いています。
種を蒔いておけば、必ず刈り取る日が来るはずであり、よしんば、自ら刈り取ることができなくても、自分に代わって誰かが刈り取って下さると信じます。奇しくも安倍昭恵夫人が「種をいっぱいまいているので、それが芽を吹くことでしょう」と語っている通りです。
一方、先日筆者は知人のクリスチャンから、世田谷のある福音系教会閉鎖の話を聞きました。この教会の牧師さんとは二、三回ほど会って交流したことがありますが、信徒の減少で教会閉鎖のやむ無きに至ったというのです。この牧師は4人の子供を抱え、生活のために一旦会社に就職することになりましたが、再起を図るということでした。
<殉教の血は福音の種子>
筆者は「つれづれ日誌(令和4年1月5日)-何故韓国はキリスト教国家なったか 」において、韓国にキリスト教が根付いた理由について論じたことがあります。
根付いた理由として、韓国に古来から「ハナニム」、即ち唯一神の神観念の土壌があり、この土壌がキリスト教的一神教を受け入れ安かったこと、韓国土着の巫俗(ふぞく)という民間宗教、即ち巫俗シャーマニズムを教会が取り込んだこと、熱心な(早朝)祈祷と伝道の伝統があることなどを指摘しましたが、何と言っても「殉教の血の犠牲」があったことであります。
即ち、韓国のキリスト教徒は、特に李王朝時代における数万~十万人というおびただしい殉教の血の犠牲の上に立っており、これがキリスト教発展の根因になったというのです。「殉教の血は福音の種子」との教父テリトリアヌスの言葉の通りであり、この流された血が種になって、韓国キリスト教激増の最大の要因になったというのです。「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」(詩篇126.5)とある通りです。
私たちは、一度しかない人生において、神と出会い、神の言葉と出会い、しかもクリスチャンが生涯最大の願望としている再臨のキリストと出会うことが出来ました。一体、これ以上の幸運が何処にあるというのでしょうか。奇跡と言えばこれ以上の奇跡はなく、宝と言えばこれ以上の宝はありません。そして、この喜ばしい救いの種を 蒔くことにうみ疲れてはなりません。「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラテヤ6.7~9)とある通りです。(了)
上記絵画*種まく人(ジャン・フランソワ・ミレー画)