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イスラエル建国の意味と神学的解釈について イスラエル、イラン戦争に思う

  • 執筆者の写真: matsuura-t
    matsuura-t
  • 6月27日
  • 読了時間: 18分

更新日:6月28日

◯徒然日誌(令和7年6月18日) イスラエル建国の意味と神学的解釈についてーイスラエル、イラン戦争に思う 

 

その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える」(創世記15.18~21)

 

プロローグ 

 

イスラエルは13日、イランの核施設への攻撃を行った。200機の戦闘機でイラン各地の核関連施設や軍事施設など100以上の標的に攻撃を行った。またイラン軍のトップのバゲリ参謀総長と革命防衛隊トップのサラミ総司令官など軍幹部、及びイランの核開発に関わっていた科学者や専門家9人を殺害した。 

 

翌日にもイスラエルはイラン中部や首都テヘランにある核関連施設や石油関連施設などを狙った空爆を実施し、攻撃対象を軍事施設からインフラ施設にも広げている。一方、イラン側も多数の弾道ミサイルを発射して、イスラエルの市街地で死傷者が出るなど、交戦が激化している。イスラエルは、イスラエル国家の消滅を国是とするイランの核保有は、絶対認められないとの信念で背水の陣を取っており、現に今回の攻撃は、イランの核兵器の開発に大きな打撃を与えている。 


 

このように、イスラエル対イランの全面戦争にも発展しかねない状況の中で、中東はまさに世界の火薬庫と呼ぶに相応しい様相を呈している。なお、この度のイラン攻撃に関して、トランプ大統領は、イスラエルの支持を表明したが、筆者もイスラエルを支持したい。支持する理由は後述するが、筆者が何故今、イスラエル問題を取り上げるか、その理由は我がUCの現下の立ち位置と、四面楚歌のイスラエルの状況がだぶって見えるからである。 

 

【イスラエル建国の経緯と受難の歴史】 

 

とりわけ第二次世界大戦後の中東紛争は、1948年の「イスラエル建国」に端を発していると言える。以来、1973年までイスラエル対アラブの4度に渡る中東戦争が勃発し、その後もイスラエルとハマスの紛争、イスラエルとイランとの戦いなど争いが続いている。良きにつけ悪しきにつけ、イスラエルの建国は中東の政治的地図に大きなインパクトを与えたのである。 

 

そこで再度、イスラエル建国の意味、とりわけ議論が分かれるイスラエル建国の意味とその神学的解釈について考察し、あわせて受難のイスラエル歴史とその意義について改めて考えて見たい。 

 

<イスラエル国家の誕生とパレスチナ問題>

 

1948年5月14日、イスラエルはパレスチナの地に国家を樹立した。70年にロ-マによってエルサレムが陥落し、ユダヤ国家が滅亡して以来、およそ1900年の歳月を経て、再びユダヤ民族は不死鳥のように国家を再興する事ができたのである。それにしても、バビロン捕囚で国と神殿(第一神殿)を失い、ローマにより再び国と神殿(第二神殿)を失って、長い排斥と迫害の流浪の旅であった。 

 

世界に離散したユダヤ人たちが約束の地に帰還するようになったのは、1880年頃、ロシアの迫害を逃れたユダヤ人を中心とした帰還運動がその始まりであった。そして19世紀パレスチナへ戻ろうと考えたユダヤ人たちにより、祖国復帰運動「シオニズム運動」が起った。シオニズム(シオン主義)とは、ユダヤ人国家をかつての故郷であるパレスチナに再建しようという運動で、ユダヤ人ヘルツルは『ユダヤ人国家』を執筆し、近代シオニズムの父と呼ばれている。国を失うことの悲惨さを誰以上に知るユダヤ民族にとって、国家の再建はまさに悲願であった。 

 

しかし、悲願の建国を果たしたイスラエルだが、建国当初から抜き差しならぬ問題を抱えていた。パレスチナ問題である。ちなみにパレスチナとは、地中海の東に位置する沿岸地域を指し、古来ユダヤ人は神がアブラハムに約束された乳と蜜が流れる地、即ちカナンの地と呼んでいた。 

 

紀元前、カナンと呼ばれたこの地域にはユダヤ人が住み着き、ユダヤ人の王国があった。しかし、ローマ帝国によって滅ぼされてパレスチナから追い出され、ディアスポラの民となって世界各地へ移り住むことになる。そしてユダヤ人が去ったこの地にはアラブ人が入って住む地域となったのである。従って、イスラエルが建国した時には、以前から住んでいたパレスチナ人(アラブ人)との土地を巡る争いが存在していた。これが、現代のパレスチナ紛争の原因である。 

 

移住したユダヤ人には神が約束した地であったが、アラブ人には住み着いていた地であり、イスラエルと先住のパレスチナ人との間に衝突が続く中、1947年、国連決議でパレスチナ分割が採択され、パレスチナの地が、ユダヤ人とアラブ人の2国に分けられ、翌年ユダヤ人がイスラエルの建国を宣言した。しかし、アラブ諸国が国連決議に反発しイスラエルに攻め込み(第1次中東戦争)、戦争は第4次中東戦争まで続くことなる。この紛争は現在までくすぶり続け、前記した今回のイスラエルとイランの紛争もその延長にある。 

 

<イスラエル受難の歴史と反ユダヤ主義>

 

それにしてもイスラエルほど数奇な運命を辿った民族はない。古くはエジプトでの奴隷生活から始まり、前586年の第一神殿の破壊とバビロン捕囚、ローマによる第二神殿の破壊とディアスポラ(離散)、以後、宗教的偏見による十字軍の虐殺、キリスト殺しのレッテル貼りによる西洋キリスト教国家からの差別・虐殺・追放(宗教的反ユダヤ主義)、陰謀論的冤罪の押し付けによるロシアのポグロム(破壊)、そして人種差別主義・民族浄化思想によるナチスヒットラーのジェノサイド(人種的反ユダヤ主教)。こうして何度も民族絶滅の危機を潜り抜けてきたイスラエルだが、1948年、ようやくパレスチナの地、即ち約束の地に建国したのである。これはまさに現代の奇跡である。

 

では、何故、ユダヤ人は迫害されたのだろうか。それは古くからある根深い反ユダヤ的感情に起因する。反ユダヤ主義とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のことで、宗教的、政治・経済的、人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のことだが、これらの要因が重層的に重なって、12~13世紀にヨーロッパにおいて確立された。 

 

第一に宗教的反ユダヤ主義。周りと同化しないユダヤ教独特の教義自体からくる違和感・嫌悪感に加えて、キリスト教世界からの「キリスト殺し」への憎悪がある。このイエス・キリストを十字架で殺したとのレッテルはヨーロッパ・キリスト教社会から迫害・排斥・殺害される大きな要因になった。 

 

第二は、政治・経済的要因。先ず貸金業で富を築いたユダヤ人への嫉妬と反感がある。そしてスケープゴートにされ冤罪を余儀なくされた。ペストの大流行(13C)では井戸に毒をまいたとされ、ロシアのアレクサンドル2世が暗殺(1881年)されると嫌疑を受け、ドレフュス事件(1894年)ではドイツに機密情報を流したとして処罰されたが、これらは皆冤罪であった。史上最悪の偽書と言われる『シオン賢者の議定書』はロシアの秘密警察が捏造した偽書だが、世界支配を目論むとの「ユダヤ陰謀論」が蔓延し、諸悪の原因がユダヤ人とのレッテル貼りをされ、ヒットラーもこれを鵜呑みにした。ちなみに霊感弁連が作成した陳述書などの文書(UC悪玉論)は「現代版シオンの議定書」と言えるもので、岸田元首相はこれを鵜呑みにした。 

 

第三に人種的反ユダヤ主義。即ち劣等民族としての人種的偏見がある。ヒットラー・ナチスの世界観は、「人類史の実相は、優等人種アーリア人と劣等人種ユダヤ人の抗争に還元される」(大田俊寛著『一神教全史下』河出新書P276)というもので、この人種的反ユダヤ主義がユダヤ人弾圧を容赦ない過酷なものにした。その象徴がアウシュヴィッツである。 

 

しかし、ユダヤ人迫害の最も根源的な要因は、ユダヤ人が選民であること自体から来る内在的な宿命、即ちあらゆる受難を経てこそメシアを迎える選民たる民族としての資格があるという、救済摂理上の要請があると筆者は思料する。 

 

以上の通り、ユダヤ人は、様々な陰謀論的レッテルを貼られてスケープゴートにされ、世界から迫害・差別・断絶を余儀なくされた。これは程度の差こそあれ、現下のUCバッシングに瓜二つであり、ユダヤ人と同様、神に召された群れの宿命であると言えなくもない。しかしその先に大逆転があると筆者は考えている。 

 

【イスラエル建国の神学的意味ー神学論争】 

 

さて、1948年のイスラエル建国を巡って、その聖書的位置付けをどう考えるかで、神学上の争いがある。このイスラエル建国に関する聖書解釈について、大きく「聖書預言(アブラハム契約)の成就である」という解釈と、「聖書預言の成就ではなく、試練の末の普通の国の建国である」という解釈の両論がある。福音派の中川健一牧師、キリスト教伝道者でユーチューバーでもある高原剛一郎氏らは、1948年のイスラエル建国は、「聖書預言の成就」であるという聖書解釈をし、一方、日本基督教団甲府教会の斎藤真行牧師らは、「聖書預言の成就ではなく普通の国の建国である」という立場から論考している。一体、私たちはどのように解釈すればいいのだろうか。 

 

<高原剛一郎著『世界は聖書でできている』より>

 

最近筆者は、知人から薦められて、高原剛一郎著『世界は聖書でできている』(秀和システム)を読んだ。実は筆者は、高原剛一郎氏について、その饒舌な話しぶりや博学ぶりに驚くことはあったものの、彼の神学にはそれほど関心はなく、むしろその独特の聖書解釈に違和感さえ抱くことがあった。しかし、著書の冒頭、彼の生い立ちが書かれてあり、筆者はその生い立ちに共感し、偏見なく著書を読むことになった。その本の内容もさることながら、えてしてどういう経歴の人物が書いたのかが大きなウエイトになることの証左である。 

 

即ち、高原氏は2才の時に父を亡くしたこと、母親の再婚によって生活が一変したこと、新しい父との折り合いが悪く、家の中で居場所を失って萎縮していたことなど、高原氏の幼少年期の生い立ちが記載され、居場所を求めて近くのキリスト教会に通うようになったいきさつが書かれてあった。アメリカのクリントン元大統領もクリントンが生まれる約3ヵ月前に父が自動車事故で死亡し、母の再婚相手との葛藤があり(義父は強いアル中だった)、やはり居場所を求めて教会に通うようになって救いを得たというが、筆者には高原氏がクリントンの幼少期とだぶって見えたのである。(ただ高原氏は、霊感商法を悪徳商法と決めつけ、文鮮明師を韓国人であるということだけでメシアの資格はないと断定していることには閉口した)

 

さて本書『世界は聖書でできている』は7章からなるが、この目次を見ると、キーワードは「預言」と「ユダヤ民族」である。本書のテーマは「聖書預言」で、歴史の謎をとく鍵が聖書とユダヤ人であるという。つまり、高原氏は聖書をもっぱら預言の書として捉え、その視点から本書を書いている。そこで、本書の結論部分である6章の「聖書はユダヤ民族国家の再建を預言していた」、及び7章の「聖書は神の人類救済計画書である」の骨子を概観する。何故ならここにはイスラエルの建国に係わる聖書預言、即ち高原氏のイスラエル観が述べてあるからである。 

 

高原氏は本書の中で、「イスラエルの建国そのものが奇跡であることに異論はありませんが、それ以上に驚くべきは、この国家再建が聖書によってあらかじめ預言されていたことです」(『世界は聖書でできている』P196)という。エゼキエル書37章「枯れた骨の復活」には、ユダヤ民族の離散、大迫害、国家再建が正確に預言されているとし、イスラエルの建国は聖書預言だとした。 

 

そして終わりの日にユダヤ民族は、7年間続く人類史上最大の艱難を経験すると預言され(艱難時代)、 ユダヤ民族はこの艱難の中でイエスに救済を求めるようなり、イエスをメシアとして受け入れるという。本書には次のようにある。 

 

「この極限状態で、ユダヤ民族はついにイエスが真のメシアであることを悟り、イエスに心から救済を懇願するようなり、この瞬間、イエス・キリストは地上へ再び降臨するのです。こうしてユダヤ人が民族的スケールでイエスをメシアとして受け入れるとき、イスラエルは名実共に世界の中心国家となります」(『世界は聖書でできている』P246)

 

また「ユダヤ民族がイエスをメシアとして受け入れなかったことは、全人類にとっても不幸なことで、ユダヤ民族がメシアを受け入れない限り、メシア王国は誕生しないからだ」(P243)という。つまり、ユダヤ民族の回心がメシア再臨の前提であるというのである。 

 

更に高原氏は、アブラハムの子孫、即ちユダヤ人の中から再臨のメシアが誕生するとし、神の救済プランは、メシア王国の出現によって実現するとした。この王国は世界の中心であるエルサレムに置かれ、そこからユダヤ人を通して人類への祝福が泉のように涌き出て、世界中に広がると約束されているとした(P241)。イザヤ書はその聖書的根拠であるという。 

 

「アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉。終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、『さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう』と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである」(イザヤ2.1~3)

 

この高原氏の聖書解釈は、イスラエルの建国を聖書預言(アブラハム契約の成就)と見て、大艱難後のイスラエルの民族的回心によりキリストの再臨がシオン(オリーブ山)に降臨し、エルサレムが世界を統治する首都となるといったイスラエル観(終末観)を持つ神学であり、「千年期前再臨説」を採用している。 

 

前記した中川健一牧師も高原氏と同様の終末観を持ち、終末の出来事は、①キリストの空中再臨、②クリスチャンと教会の空中携挙、③7年間の艱難時代、④ユダヤ人の回心、⑤オリ-ブ山への地上再臨、⑥エルサレムを中心にキリストが支配される千年王国、⑦大審判、⑧永遠の神の国、という順序で展開するという。 

 

つまり、1948年のイスラエルの建国は、神がアブラハムに約束された「旧約聖書の預言の成就である」のである。創世記には次のようにある。

 

「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、『わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える』」(創世記15.18~21)

 

このように、イスラエル建国を聖書預言の成就だとする説を唱える人々は、独特の終末論を有している。特に「契約神学」に対置される「ディスペンセーション神学」を唱える神学者や牧師は、旧約聖書においてイスラエルに約束されたことは、今も有効とし、まだ成就していない約束は、将来、イスラエルの上に成就すると主張し、イスラエルを中心とする終末論を展開する。(参照→徒然日誌(令和6年8月28日)   中川健一著『ディスペンセーショナリズム』を読んで)

 

<イスラエルの建国は普通の国の建国である> 

 

しかし一方、1948年のイスラエル建国は、必ずしも聖書預言ではないとする立場がある。旧約時代のイスラエルは、イエスを十字架につけたことにより、その選民としての使命が終わり、キリスト教会が第二イスラエル(霊的イスラエル)としてその使命を受け継ぐことなったという。つまり、聖書の人類救済史上のイスラエル選民(第一イスラエル)としての役割は終わり、キリストを信じる異邦人教会にバトンタッチされたと主張し、まさにこれが第二イスラエル(霊的イスラエル)であるというのである。

 

従って、福音書やヨハネ黙示録の終末に関するイスラエルの記述は、文字通りのイスラエル民族ではなく、第二イスラエル(霊的イスラエル)としての「キリスト教会」を意味し、イスラエルに関する終末論ではなく、教会に対する神の計画としての終末論と考える。即ち、神がイスラエルと結んだ古い契約(アブラハム契約など)は白紙になり、第二イスラエルであるキリスト教との新しい契約の時代になるとする。従って1948年のイスラエル建国は聖書の預言成就ではなく、イギリスやフランスのような普通の国としてのイスラエル建国であるという(参照→徒然日誌令和6年11月6日 イスラエル建国の聖書的意味)。  聖書は次のように言っている。 

 

「それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」(マタイ21.43)

 

またパウロは次のようにいう。 

 

「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである」(ロマ書2.28~29)

 

筆者は後者の説、即ち、1948年のイスラエル建国は旧約聖書の預言成就ではなく、普通の国としてのイスラエル建国であると思料する。つまり、旧約聖書における選民としてのユダヤ人の使命が終わり、新約聖書の新しいイスラエルである教会にその使命が引き継がれたとする説を支持する。ガラテヤ書に「信仰による者こそアブラハムの子であることを知るべきである」(ガラテヤ3.7)とある通り、神がイスラエルと結んだ契約はキリスト教会に受け継がれたのであり、キリスト教はイスラエルに代わる選民と位置付けられる。 

 

つまり、イスラエルは、もはや神において特別の国(選民)ではなく、イギリスやフランスやエジプトのように、普通の国として建国されたのであり、「特に」という形容詞は適切ではない。しかし一方、今日までのイスラエルは、歴史上、他に抜きん出た人類史的貢献をしてきたことは否定できず、その意味では「なお特別な国」である。以下の通りイスラエルは大きく3つの世界貢献をした。 

 

第一の貢献は、世界に「一神教」をもたらしたことである。古代世界が皆多神教の偶像崇拝に沈んでいる時、アブラハムとその一族だけが一神教、即ち天地を創造された神は一人であることを主張した。イスラエルは一神教の元祖であり、今やユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教は世界の60%を占めるまでになった。 

 

第二の貢献は、イエス・キリストを生み出したことである。イエス様はイギリス人でもフランス人でもなく、紛れもなくユダヤ人であり、イエス様が誕生しなければキリスト教もキリスト教文明も存在しなかったのである。イスラエルはイエス様を不信し十字架に架けたが、血統を糺してイエスというキリストを世界に生み出したことは、かけがえのない歴史的貢献である。 

 

そして第三の貢献は科学の発展に寄与したことである。イスラエルは世界人口の0.2%でしかないにも係わらず(1500万人)、ノーベル賞受賞者の20%がユダヤ人である。 

 

こうしてイスラエルが世界文明に寄与した点において他の追随を許さない。これらイスラエルの人類史的貢献こそ、中東紛争において筆者がイスラエルを支持すべき大きな理由である。 

 

また前述したように、ユダヤ人は、その強い「選民意識」故に、他国から反発を受け、更に「キリスト殺し」というレッテルにより、2000年間、祖国を失った亡国の民として迫害と殺戮の悲惨な歴史を辿ってきた。特にナチスのホロコーストによって600万人という未曾有の犠牲者を出したのである。西欧諸国には、多大な犠牲を余儀なくされたイスラエルへの同情や、自ら迫害に加担したことへの自責の念(負い目)があり、パレスチナ地域(カナン)でのイスラエル建国を是認することは償いの意味もあった。

 

こうしてイスラエルは多大な血の犠牲を払って十分罪を贖ったのであり、国を失って四散したイスラエルに、せめて約束の地と主張する地に、悲願の建国を認めることは道義に叶うものではなかろうか。中東紛争を、聖書的にはイシマエルの子孫たるアラブ人と、イサクの子孫たるイスラエうルの葛藤と見ることができるが、長い苦難の歴史を経てやっと建国され安住の地を得たイスラエルの「自衛の戦争」を支持したいと筆者は思料する。   

 

<イスラエル建国の原理観> 

 

ディスペンセーション神学や福音派の一部牧師は、終末の出来事は、「イスラエル国家の建国→携挙(空中再臨の時にキリスト者が天に挙げられてイエスと出会う)→大艱難期→イスラエルの霊的回復(艱難期の終わりに民族的にイエスをメシアとして認める)→キリストの再臨→千年王国→最後の審判→新天新地」という時系列で推移するとの説を唱えている。 

 

しかしこのような終末観・イスラエル観は、イスラエルの使命はキリスト教(教会)に引き継がれたとする契約神学をはじめ、主流派キリスト教では否定されており、比喩や象徴で書かれたヨハネ黙示録を、主観的かつ空想的な解釈をしたものであり、いかにも時代錯誤の偏った教説というしかない。 

 

前述したように、イスラエルが人類に多大な貢献をした事実は不滅であり、イスラエル建国を認め、これを支持することはやぶさかではないが、イスラエルはイギリスやフランスのように、(選民国家ではなく)普通の国になったのである。 従って私たちは、イスラエルの建国を神聖なものとして美化し過ぎる親ユダヤ主義にも、また過剰な反ユダヤ主義にも与せず、イスラエルの迫害と建国の意味を正しく知るという「知ユダヤ主義」の立場に立ちたいと思料する。原理では、イスラエルを第一イスラエル、キリスト教を第二イスラエル、そして再臨主を仰ぎ見る統一の群れを第三イスラエルと位置付け、全体として神の救済摂理を担うのである。

 

原理は「救いの摂理は復帰摂理であり、人類歴史は復帰歴史である」(原理講論P142)とし、「サタン主権の罪悪世界が、神主権の創造理想世界に転換される時代を終末(末世)」と解釈している。即ち、善悪二つの主権の歴史路程が交差する時(善悪交差)を終末といい、古いものの終わる点が、すなわち新しいものの始まる点にもなるのであり、古い歴史の終末期が、すなわち新しい歴史の創始期であり、その中心軸となるのが再臨である。(同書P174)

 

そして新しい時代の摂理は、古い時代を完全に清算した基台の上で始まるのではなく、古い時代の終末期の環境の中で芽生えて成長するので、古い時代の価値観に対しては、対立的なものとして現れるというのであり(同書P175)、これがUC迫害の真の意味である。従って、再臨は雲に乗ってエルサレムのオリーブ山に降り立たれるのではなく、復帰歴史の中で神が認めて新しく定めた国に、選ばれた女の腹の中から来たりたもうのである。 

 

以上、イスラエルの建国の神学的意味について、キリスト教の両論を述べ、原理観を踏まえ、イスラエルの建国は「普通の国の特別な建国」であることを論証した。いずれにせよ世界の火薬庫と呼ばれる中東に恒久的平和が到来することを祈念する。

 

筆者は5月6日の「X」に、「僕には見果てぬ二つの夢がある。神の道具として作られた全宗教が一つになる夢、法王庁枢機卿会議で原理がカトリックの経典に推戴されるという夢。原理は聖書の奥義を解明し、聖書を完全に解釈したもので、聖書と矛盾しない」と投稿したが、ここでもう一つの夢を付け加えたい。今もなおメシアを待望するユダヤ民族が「原理と再臨を受け入れるという夢」である。(了)              

                          牧師・宣教師.   吉田宏

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