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エゼキエル書 注解

🔷聖書の知識101-エゼキエル書注解


第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。(エゼキエル1.1)


バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。(詩篇137.1~2)


上記の聖句の通り、エゼキエルは、バビロン捕囚後のイスラエルの民を悔い改めに導き、また励ますために預言者として神に召されました。


【エゼキエル書及びエゼキエル】


『エゼキエル書』は、『イザヤ書』、『エレミヤ書』とともに、旧約聖書中の三大預言書と呼ばれ48章からなります。

著者は預言者エゼキエルで、エレミヤよりやや年下であり、エレミヤがほぼエルサレムで預言活動を行ったのに対し、バビロンの地において捕囚民の精神的指導者として預言活動を行いました。エゼキエルとは「神は励ます」という意味です。エゼキエルは、エルサレムのザドク系祭司の家系出身と言われ、祭司でもあり、エリート層に属していました。


第1回バビロン捕囚(前605年)はエホヤキムの治世の第3年(ダニ1.1)で、この時は、ダニエルがバビロンに連行されました。


第2回バビロン捕囚(前597年)は、エホヤキンの治世(彼の治世はわずか3ヶ月)で、この時、エゼキエルがバビロンに連行されました。エゼキエルは、エホヤキンが捕囚となって5年目の前593年から預言者としての活動を開始しました。(エゼ1.2~3)


そして11年後、第3回バビロン捕囚(前586年)で、エルサレムが陥落し、神殿が破壊されました。バビロニアは基本的に、征服した諸国の指導的地位にある人々を捕囚としました。


エゼキエルは、捕囚された者たちに悔い改めと希望をもたらすために、召命を受けました。活動は30歳から52歳まで、前571年まで続きました。(エゼ29.17)以下はエゼキエルの召命場面です。


「第三十年四月五日に、わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。主の言葉がケバル川のほとり、カルデヤびとの地でブジの子祭司エゼキエルに臨み、主の手がその所で彼の上にあった」(1.1~2)


エゼキエルが召された頃は、ユダヤの王国はまだ存続していましたが、預言者の言葉を受け入れることなく、エゼキエルの警告の通り、数年のうちに神殿も城壁も破壊され、エルサレムの町は焼かれ、多くの民がバビロンに捕囚され、残った者はエジプトに避難するなどして世界中に離散しました。


その結果、約束の地からイスラエル人は追われ、ユダヤの王国は滅亡しました。神がバビロンを用いてイスラエルを裁かれたというのです。


「見よ、わたしはつるぎをあなたがたに送り、あなたがたの高き所を滅ぼす。あなたがたの祭壇は荒され、あなたがたの香の祭壇はこわされる。わたしはあなたがたの偶像の前に、あなたがたの殺された者を投げ出す。すべてあなたがたの住む所で町々は滅ぼされ、高き所は荒される」(6.2~7)


しかしエゼキエル書には、神の怒りと共に、悔い改めて神に立ち帰る者には回復が与えられるという希望も書かれています。罪を糾弾すると同時に、南ユダ滅亡後の苦難の時には希望を語り、民を励ましました。


「しかしイスラエルの山々よ、あなたがたは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。見よ、わたしはあなたがたに臨み、あなたがたを顧みる。あなたがたは耕され、種をまかれる。わたしはあなたがたの上に人をふやす。これはことごとくイスラエルの家の者となり、町々には人が住み、荒れ跡は建て直される」(36.8~10)


【エゼキエル書の概観と特徴】


エゼキエル書の構成は、概略次の通りです。


a.預言者としての召命(1~3章)

b.ユダに対する裁きの宣言(4~24章)

c.異邦人諸国に対する裁きの宣言(25~32章)

d.慰めと復興、都の回復の預言(33~48章)


特徴としては、エゼキエルは祭司出身で、律法重視の姿勢を持つと共に、幻と象徴を語る神秘的側面を持ち、黙示文学としてはエゼキエルが元祖と言われています。他に黙示文学としてダニエル書とヨハネ黙示録があります。


そしてエゼキエルはよく幻を見ています(37.9~10、37.10)。黙示文学の特徴として幻があり、幻を見ることを預言の根拠とし、預言の本質的な部分の一つとしています。(エゼキエル13.3、民数記12.6)  幻で有名なのが、「枯骨の谷の幻」(37.1~10)で、イスラエル再生(復活)を預言したものと言われています。


「主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。彼はわたしに言われた、『人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか』。わたしは答えた、『主なる神よ、あなたはご存じです』。彼はまたわたしに言われた、『これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る』」(37.1~6)


また幻と共に、ことわざ(格言)(エゼ12.22~23、16.44、18.2~3)や、たとえ話が随所に出てきます。 例えばたとえ話には「大わしと香柏のこずえ」(17.1~10)、「森と燃やす火」(20.45~49)「かまと肉」(24.1~14)などがそれであります。


そして「神の栄光」を強調しました。(エゼ1.28、3.12、11.23、43.5)


「その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた」(1.28)


「霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた」(43.5)


【エゼキエル書の神学的考察】


エゼキエル書には、「主の言葉がわたしに臨んだ」(3.16、6.1、7.1など)という聖句が、「主はわたしに言われた」という表現と共に多用されています。


この主の言葉の強調は、「主の言葉が必ず歴史に成就する」という確信によるもので、歴史において必ず成就するべき主の言葉が、「まず預言者の上に置かれた」というのが神の言葉の受領者としての自覚でした。


またエゼキエルは、「時に、主の霊がわたしに下って、わたしに言われた」(11.5)とあるように、「主の霊」(神の霊)の働きを敏感に受け取っています。預言することも 、預言の場所が移るのも、神の霊によるとしています。


エゼキエルにおいて、主の霊の働きを強調したのは、「人間的理性の限界や神の絶対性への確信」があり、エルサレムの崩壊や捕囚という受難を通して到達した境地と言えるでしょう。


更に、「罪の強調」と「悔い改めの強調」はエゼキエルにおいて顕著です。


「罪を犯した魂(者)は必ず死ぬ」(18.4)と明記し、神の前に立つ罪を自覚した人間が描かれています。これは、人間が実存を喪失し、救いを必要とする状態に置かれていることを意味しています。


そして「悔い改め」を 強く迫っているのも、エゼキエル神学の特徴です。


「悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ」(18.30~31)


ホセアやエレミヤにおいては、悔い改めとは「神に帰る」ことを意味しましたが、エゼキエルにおいては、「罪を捨て新しい心と霊」を得ることでした。そして悔い改めは神から要求されていることですが、それは人間の力だけでできることではなく、神からの賜物であるというのです。


三位神との関係で言えば、イザヤは、メシアを預言し(イエス・キリストの誕生)、エレミヤは、神を預言し(神の涙)、そしてエゼキエルは、聖霊を預言したと言われます。父なる神が計画し、子なる神が実行し、聖霊なる神が完成へと導くというのです。



以上の通り、エゼキエル書を解説いたしました。これでイザヤ、エレミヤ、エゼキエルと三大預言書を概観しましたが、結局それらに共通するものは、イスラエルの罪・不信仰・偶像崇拝を戒め、神に還ることを訴えたことであり、一方、苦難の時にはイスラエルの回復を告げて希望を与え、励ましたことであります。次回はダニエル書の解説です。(了)




上記絵画*預言者エゼキエル(ミケランジェロ画)、エゼキエルの幻(フランシスコ・コランテス画)