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カトリックのマリア信仰 女神信仰の系譜

◯つれづれ日誌(令和4年1月19日)-カトリックのマリア信仰-女神信仰の系譜


アヴェマリア、恵めぐみに満ちた方、主はあなたとともにおられます。 あなたは 女のうちで祝福され、 ご胎内の御子イエスも祝福されています。 神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、 今も、死を迎える時も、お祈りください。 アーメン。( 天使祝祝・アヴェ・マリア)


さて今回は、少し肩の力を抜いて、マリアについて学びたいと思います。もちろん、イエス・キリストを産んだあのマリアです。 冒頭のフレーズは、主の祈りと共に、カトリックではよく親しまれている祈祷文です。ちなみにアヴェ・マリア(ラテン語: Ave Maria)とは、「こんにちは、マリア」または「おめでとう、マリア」を意味します。


【マリア像】


1866年3月17日、 浦上(長崎市)の住民十数名の潜伏キリシタンが大浦天主堂を密かに訪ね、プティジャン神父に、自分たちがカソリック教徒であることを名乗りました。この事実は、世に「信徒発見」と言われ、世界が驚きました。


彼らは「聖母像」があることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる「隠れキリシタン」であることを告白したのです。


このように、潜伏キリシタンが大浦天主堂に「マリア像」があるのを見て、ここがカソリックの教会であることを知ったように、カソリック教会には随所にマリア像が置かれています。しかしプロテスタントの教会にはありません。


筆者はザビエル以来のキリスト教が、カソリックの宣教によって担われてきたこと、そして潜伏キリシタンに象徴されるように、カソリック信者が多くの殉教の血を流してきたことを知り、改めてカソリックとは何か、そしてその潜伏キリシタンが慕い信奉する「マリア信仰」とは何かについて関心を深めた次第です。


では何故マリア像をカソリック教会は置いているのでしょうか、そもそもマリア信仰とは何でしょうか。今回は「マリア」について考えて見ることにいたします。


【マリア崇敬・マリア信仰】


マリアはイエスの生みの母であり、大工ヨセフの配偶者であります。このマリアは、特にカトリックにおいては聖女の中の聖女として崇められています。


マリア崇敬とは、イエス・キリストの母マリアに恩恵の仲介者(弁護者・扶助者・援助者)として、神への執り成しを願うことを中心とする信仰で、また、その表現や行事などを指します。古代からの伝統によって東方正教会およびカトリック教会において共有されている信仰であり、聖母崇敬とも言われています。


カトリック教会では、マリアを「祈りと神への執り成し」をもってキリスト者を助ける存在、神の母、教会の母として、崇敬の念を持って慕われています。


このマリアに対する崇敬は、三位一体の神に向けられる「礼拝」よりは下位ですが、他の天使や諸聖人に対する崇敬とは本質的に異なる、一段高い「特別崇敬」として扱われています。


【マリア崇敬への批判】


このマリア信仰について、マリア像が教会にあることや、マリアへ祈ることから、しばしば「偶像崇拝」であるとの批判があります。特にユダヤ教、イスラム教、プロテスタントなどから、マリア崇拝は偶像崇拝であると批判され、いわゆる「聖像論争」でも問題になりました。


ちなみにキリスト教の聖像論争とは、ローマ帝国内で大衆伝道の方便として使われていたマリア像などの聖像や聖画が、モーセの十戒第2項「刻んだ像を造ってはならない」に当たるか否かで論争がありました。これが聖像論争であります。


聖書に、イエスを生んだ母(ルカ2.7)、十字架に付き添う母(ヨハネ19.25)、共に祈るマリア(使徒1.14)という聖なるマリアの記述がある一方、福音書にはむしろイエスと疎遠な母マリアが描かれており、概ね聖書はマリアに冷淡であります。


「婦人よ私とどんな係わりがあるのか」(ヨハネ2.12)と冷たくイエスがマリアを突き放す場面、「私の母とは誰のことか」(マルコ3.33)とのイエスの冷めた言葉、そして「母はマリア、兄弟はヤコブ・ヨセフ・シモン・ユダではないか」(マタイ13.55)とのつまずきの言い回しがそれであります。


またカソリックでは、マリアは「永遠の処女」として神格化されていますが、聖書にはイエスに複数の兄弟姉妹(ヤコブ・ヨセフ・シモン・ユダ・姉妹)がいたと明記されており(マタイ13.55~56、マルコ6.3、ヨハネ2.12、使徒1.14)、つまりマリアはヨセフとの間に数人の子を産んでいるということになります。


しかしカソリックは、婚約前も、婚約中も、結婚後も永遠の処女だったという信仰を持ち、聖書のイエスの兄弟とは「従弟」のことだったと解釈しています。 


また偶像崇拝との批判に対して、カトリック教会は、マリアに礼拝を捧げているものではなく、神への執り成しを願い祈る対象であり、「崇拝」ではなく「崇敬」であるとし、信仰の対象ではないと弁明しています。


【何故カソリックはマリアを崇敬するのか】


では、マリア信仰は何故カソリックに取り入れられたのでしょうか。


<女神信仰の取り込み>

後世、キリスト教が地中海世界に広がるに際して、大きなウエートを占めていた「女神信仰」や「地母神信仰」が問題になりました。女神信仰とは、エジプトのイシス信仰、バビロンのイシュタル信仰などに見られる人間の母なるものを慕う心性であります。


豊穣と愛欲のバビロンの女神「イシュタル」は、カナンではアシュタルテ、ギリシャではアフロディア、ローマではヴィーナスと呼ばれ、女神信仰の源流になりました。


カソリックや東方教会では、キリスト教を浸透させるためには、こういった地中海世界の女神信仰や地母神信仰を吸収し、これを取り込んでいくことが必須であり、これら女神信仰をマリアによって代置させ、キリスト教の土着化を計ったというのです。


即ち、マリア信仰は、地中海世界に根強くあった女神信仰をマリアの中に組み込み、ギリシャ・ローマ世界、ヨーロッパ世界の文化風習を取り込んで、土着化に成功して勢力圏を広げました。


また庶民には、マリアという母性は、ともすれば畏れ多い父性的な神やイエスより親近感があり、親しみやすく、マリアに神との仲介を民衆は託したというのです。キリスト教の歴史の中で、 マリアは憐れみ深い仲裁者、人類の保護者として大きな人気を得るようになっていきました。


そうして、一神教であるキリスト教の枠内で、宗教に女性的な感性を求める地中海世界の伝統的な宗教的欲求を満足させたというのです。


<土着化>

土着化の典型例として、クリスマス、ハロウィン、マリア信仰を挙げることができるでしょう。クリスマスは、元々ローマで盛んだったミトラ教の冬至のお祭りだったのをキリスト教が取り込んだものであり、ハロウィンは、ケルト人の風習で、先祖の霊を迎えるお盆のような行事だったのをキリスト教的にしたものです。


ハロウィンという、一見キリスト教的なお祭りとして知られているものも、元々は異文化の風習だったことがわかります。これを「土着化」といいます。つまり、土着化とは、キリスト教が、その本質を曲げることなく、特定の文化に受け入れられて定着していくことです。


ちなみに戦後韓国においてキリスト教が激増した要因の一つとして、韓国に古来からある巫俗(ふぞく)シャーマニズムという民間宗教を取り込んだことだと言われています。


つまり、韓国のプロテスタントは、キリスト教が一般的に忌避するシャーマニズムの神秘主義を大胆に取り入れ、これが韓国の風土と合致し、教会の急成長をもたらしたというのです。


また韓国では、三位一体の神観を陰陽五行思想で説明したり、贖罪観念を恨の概念で再解釈したりする「土着神学」が試みられています。ヘブライ思想をギリシャ語で語るということでしょうか。


【マリアの神格化】


そしてカソリックでは、マリアの神格化が、以下のように図られて行きました。


<マリアの処女受胎>

マリアの神格化は、既に福音書におけるマリアの処女受胎説から始まっています。


「処女受胎」とは、特に聖母マリアによるイエス・キリストの受胎というキリスト教における伝説で、マリアがヨセフとの交わりのないままイエスを身篭ったことにあり、イエスとマリアの神性を強調するものです。


マタイ 1章20節には、「その胎内に宿っているものは聖霊によるのである」とあり、ルカ1章31節には、「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう」とあり、また同1章35節には、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう」とある通りです。天使ガブリエルのお告げであります。


マタイ福音書では、イザヤ書からそのまま引用されています。


「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」(マタイ1.23、イザヤ書7.14)


受胎告知(オラツィオ・ジェンティレンスキ画)


これらマリアの処女受胎説、聖霊による身籠り説は、色々論争のあるところですが、キリスト教では、概ね受け入れられ信仰されています。ちなみに受胎告知のほとんどの名画には、「百合の花」がモチーフとして描かれていますが、これはマリアの清楚な気品を象徴したものです。


<神の母の称号>

また431年エフェソス会議で「神の母」の称号が与えられました。


マリアが神の母であるとは、キリストの神的位格(ロゴス)を生む母であることを意味し、ここでいう位格とは、他の存在に依存することなく存在すること(自立存在)をいいます。


この神の母の称号を巡っては、ネストリウス派が異論を呈しています。コンスタンティノポリス総主教ネストリウスにより説かれたキリスト教の一派で、神の母の称号を否定して、人的位格を生んだ救世主を産む者という「キリストの母]と主張しました。


結局エフェソス公会議で、ネストリウスの教義は異端と宣告され、マリアが神の母であることが宣言されました。ここに至ってマリアは神聖を宿した特別な人間であることが確認されました。


そして533年、第2回コンスタンティノープル公会議で、マリアの「永遠の処女性宣言」がなされ、マリアはヨセフとも関係しなかったとされて、文字通り永遠の処女と信じられるに至りました。これでは、イエスに兄弟姉妹がいたとする4ヶ所にも渡る聖書の記述はどうなるというのでしょうか。


しかし、にもかかわらず、マリア信仰は庶民にとって、神とキリストへの止まり木として、慈愛と母性の象徴として人気を博してきました。ゲーテ作『ファースト』の締め括りの言葉「永遠に女性的なものが、我らを高みへと引きて昇らしむ」が正にこれを物語っています。


<無原罪の御宿り及び被昇天の教理>

また1950年には「無原罪の御宿り」の教理が宣言されます。


無原罪の御宿りとは、聖母マリアが、神の恵みの特別なはからいによって、原罪の汚れと穢れを、存在のはじめから一切受けていなかったとするカトリック教会における教義で、無原罪懐胎とも言います。


無原罪の御宿りの教義は、「マリアはイエスを宿した時に原罪が潔められた」という意味ではなく、「マリアはその存在の最初(母アンナの胎内に宿った時)から原罪を免れていた」とするものであります。


これには、特に19世紀のフランスではマリアの出現報告が多発し、巡礼が盛んに行われ、民間でのマリア崇敬が高まっていたことが背景にあります。1820年以降に「ノートルダム」(我らの貴婦人)、「無原罪の御宿り」などマリアの名を冠する女子修道会が400以上設立されていると言われています。


フランスでのマリア崇敬の高まりを背景として、フランス大司教らが中心となり、ローマ教皇グレゴリウス16世に「無原罪の宿り」を教皇座によって正規の信仰として定義するように要求しました。


但し、ギリシャ正教やプロテスタントは、無原罪の御宿りの教義を認めていません。またこれを整合的に説明できる神学はなく、あくまでも信仰告白であり、信仰的事実と言うべきであります。


更に同時に、「マリアの被昇天」の教義が交付されました。


マリアの被昇天とは、マリアが死を経ずして霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義で、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が全世界に向かって、処女聖マリアの被昇天の教義を公布しました。


「われわれの主イエス・キリストの権威と、使徒聖ペトロと聖パウロの権威、および私の権威により、無原罪の神の母、終生処女であるマリアがその地上の生活を終わった後、肉身と霊魂とともに天の栄光にあげられたことは、神によって啓示された真理であると宣言し、布告し、定義する」(『カトリック教会文書資料集』3903)


聖書の中で、聖母の被昇天については直接記されていませんが、カトリック教会は何世紀にもわたって伝達されてきた伝承(聖伝)を聖書とともに大切にしてきましたので、この聖母の被昇天の教義も神から啓示された伝承の一部分であること、即ち教会の教義であることを公布しました。


以上の通り、こうしてマリアの神格化は行き着くところまで行き着きました。追い討ちをかけるように、1858年、フランスルルドの洞窟でのマリアの出現と癒し、1917年、ポルトガルのファティマでのマリアの出現と予言の奇跡などもあり、世界各地での神格化はさらに進みました。


筆者が二度訪問したポーランドのヤスナ・グラ修道院は、ポーランドのチェンストホヴァにある、聖母マリアに捧げられたカトリック教会の修道院であります。


ポーランド中から巡礼が訪れるヤスナ・グラには、聖母と呼ばれる戦いで焼けた黒いマリアのイコンがあり、このイコンの聖母は数々の奇跡を起こしてきたとされ、崇敬されています。修道院の一角には、癒されて不要になった義足や癒しの奇跡を示す品々が陳列されていました。



【マリアの涙とはー神格化に思う】


それにしても、カトリックのマリアへの異常とも思える畏敬には驚きます。


聖母マリアのキリストのあがないの業への協力は、懐胎の時から既に始まっているとされます。マリアは、イエスの宣教活動の間イエスの言葉を受け入れ、信仰の旅路を共に進み、子との一致を十字架に至るまで忠実に保ち、十字架のもとに立たずみ、マリアは子とともに深く悲しみ、母の心をもってキリストのいけにえの奉献に自分を一致させたとされています。


「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」(ヨハネ19.25)


まるでイエスに対する従順と献身において完全無欠だったと称賛しているかのようです。


また、「生涯における処女性」、「無原罪の御宿り」、そして「被昇天の教理」には驚きを通り越して違和感さえ禁じ得ません。ここまで神格化されるマリアは霊界において、果たしてどのように思っているのでしょうか。


<マリアの涙>

秋田市郊外にあるカトリック「.聖体奉仕会修道院」には、1975年から1981年までに101回も涙を流したという聖母マリア像が聖堂に安置されています。教区司教によって公認された聖母出現です。


マリアはこの修道院の病弱で苦しむ一人の修道女に「私はあなたよりも苦しんでいる」と語りかけたといいます。また、「血の涙」を流したマリアも世界には多々目撃され報告されています。


さてマリアは何故泣いたのでしょうか。このマリアの涙の意味とは何でしょうか。我が子イエスの惨めな十字架への悲しみでしょうか、それとも、自分が十字架に追いやったのではないかとの悔いと恨みの涙でしょうか。


2019年4月15日、原因不明の火災で大きな損傷を受けた「我らの貴婦人」という意味のノートルダム寺院は、聖母マリアのために捧げられた聖堂ですが、この火災は心なしかマリアの悲痛な叫びを聞くような気がしました。


<マリアの信仰と不信>

かってガルリエルのみ告げを受けたマリアは、直ちに親戚のザカリアの家に向かい、そこで3ヶ月を過ごしました。イスラエルの血統を残すという決死の信仰で、天使に告げられた通り急いでザカリアの家に入ったのです。ルカ1章39節~40節には次の通りあります。


「そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした」


エリザベツもやはり啓示を受けていて、マリアを自宅に招き夫ザカリアのもとに手を引いて導いたというのです。マリアからメシアが生まれるとの啓示はマリアとエリザベツ双方が受けていたと言うのです。


3ケ月滞在し、妊娠したことが分かってマリアはザカリアの家を出ていきました。一体ザカリアの家で何が起こったのか、この暗示的な情景を描いたルカ1章39節~56節は聖書の奥義であり、ことの真相を悟るものは悟るがよいでしょう。


しかし神の啓示を受けたときの高揚感はいつしか消えていき、マリアもエリザベツもみ旨が理解できない二人になっていきました。


本来、ザカリア家庭がイエスの囲いになるべきだったのが、それが出来なかったと言われています。またイエスはザカリアの娘を新婦として娶るべきだったと言われていますが、しかし血族結婚を知っていたマリアは、この結婚に反対し、み旨を理解できないマリアになっていました。


カナの結婚を描いたヨハネ2章4節には「婦人よ、あなたは、私と、何の係りがありますか」とあり、イエスとマリアの冷めた関係が浮き彫りにされています。


私たちも得てしてそうですが、一端、サタンの侵入を受けると、かって啓示によって受けた恩恵と感動を失うというのです。結果的にイエスが結婚して真の父母になる道を阻んだマリアになってしまい、これがマリアの悲劇であり、「マリアの涙の理由」であるというのです。


み旨が理解できなくなって失敗したというこのマリア像は、とりわけマリアを神聖視するカトリックにとっては、到底受け入れがたいものがあることでしょう。正にコペルニクス的なマリア像の解釈です。ただ、 ヨハネ19章25節には「十字架に付き添う母」の姿、使徒行伝1章14節には「共に祈るマリア」が描かれ、これらは悔い改めたマリアと言われています。


しかし、マリアがキリストを産んだ母であることは確かであり、信仰をかけ、命懸けでメシアをこの世に産み出した女性というこの一点において、永遠に讃えられることに異存はありません。(了)



*ヤスナ・グラ修道院の黒い聖母(イコン) *秋田・聖体奉仕会修道院の聖母マリア

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