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キリスト教は何故日本に根付かないのか 一神教と多神教の相克と一致

🔷聖書の知識23ーキリスト教は何故日本に根付かないのか 一神教と多神教の相克と一致

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。(ガラテヤ3・24)

日本のキリスト教の中にあっては、珍しく保守的なクリスチャンの集まりである「聖書と日本フォーラム」という団体があります。この団体は、ヘブル文化が、神道や日本の歴史伝統の中に、どのように表れてきたかを考察し、聖書に基づく信仰を日本人の立場から再発見し、福音を土着化させていくことを目的としたクリスチャンの集まりであります。政治的には、保守主義の立場に立っていると言えるでしょう。 


これまで、日ユ同祖論や失われたイスラエル10支族の日本渡来説など、古代日本とイスラエルの密接な関係が取り沙汰され、神社などへの色濃い影響が指摘されて来ました。また、内村鑑三の二つのJ、即ち、キリストと日本の二つのJに献身するという愛国的、日本的なキリスト教思想が注目されています。そこで今回は、聖書と日本フォーラムが課題としている日本における「キリスト教の土着化」、「日本的キリスト教」という問題について考えて見たいと思います。それは「一神教と多神教の相克と一致」というテーマでもあります。

ちなみに土着化( indigenization) とは、キリスト教の宣教用語で、それぞれの宣教国の歴史や宗教をよく理解し、その国の文化に寄り添いながら受容され福音化していくという宣教の在り方であり、文脈化(contextualization)とも言われています。

そして、この問題は、「日本に何故キリスト教が根付かなかったか」(ザビエル以来、キリスト教人口は1%を越えれなかった)という問題に対する回答に直結してきます。そして、この分析を通して、同じ一神教の日本UCが「如何にして日本で定着することが出来るか」という問いかけへのヒントになれば幸いであります。

【日本でキリスト教が何故根付かないのか】


先ず、日本におけるキリスト教の状況を考えてみましょう。


日本におけ るキリスト教の伝来は、1549年イエスズ会のフランシスコ・ザビエルによると言われています。この宣教で、キリシタン大名などを生み出すなど、織田信長の庇護を受けてそれなりに信者を獲得していきました。しかし、豊臣秀吉、徳川家康による禁教令が布告され萎んでしまいました。1958年に日米修好通商条約が結ばれ、プロテスタントの宣教師がアメリカから来ました。そして1973年の解禁を皮切りに多くの宣教師が欧米から派遣されて布教しましたが、160年過ぎた今まで、日本のキリスト教人口がプロテスタント、カトリック、ロシア正教を全部併せても全人口の1%を超えたことは一度もありません。東京基督教大学の日本宣教リサーチによれば、2014年の日本の信者数は、約104万人で人口の0.82%となっています。この数字は、韓国の33%、中国の8%と比べてもいかに低いかが分かります。日曜礼拝参加者はさらに低く、信者数10人~20人くらいの教会がほとんどだと言われています。 


「日本は宣教師の墓場」と言われて久しく、日本におけるキリスト教布教は細々としたものでした。先進主要国家で、唯一宣教に失敗した国と言われています。果たして、遠藤周作が著書『沈黙』の中で言ったように、日本はキリスト教にとって「底知れぬ泥沼」の不毛の地であるのでしょうか。多くの牧師は、20人足らずの日曜礼拝参加者を虎の子のように守って細々と教会を運営しています。ハーベストタイムを主宰されている福音派の中川健一牧師も、「40年前日本で伝道をはじめて今日まで来ましたが、正直40年前よりも今のほうが教会の勢力が減っていると言うのが現状です」とその残念な心情を吐露されました。しかし、「私は日本のリバイバル(霊的覚醒)を信じている。リバイバルは聖書の研究から生まれる。福音の種を蒔いておけば、必ず刈り取る日が来る」とも言っておられます。


では何故、日本でキリスト教が根付かないのでしょうか。先ず、その主だった理由について考えて見たいと思います。


<一神教と多神教の相克>


第一の理由として挙げられるのは、「キリスト教的な一神教は、多神教の国日本とは相性が合わない」という点です。前述の中川牧師や、世界宣教センター所長の奥山実牧師は、こう述べておられます。「中国には天という思想があり、韓国にはハナミム(一人のお方)という神がいて、いずれも唯一教の土壌になっているので、唯一神、創造の神を受け入れやすい下地がある。それに対して、日本は天照の神とか海や山を神として偶像礼拝している多神教の国である」と。 元最高裁長官の三好達氏も、「神道の神とは、神話の神々、先人、祖先、山川草木、森羅万象、全ての(亡くなった)霊魂などで、全て神として祀られる多神教である。我が民族の宗教的情操の根本にあるのは、先人、先祖、自然のお陰であると考え、これらのものへの畏敬・崇拝である」と述べられ、神道の神が多神教の神であることを認めています。


つまり、日本は多神教であり、日本の神々を偶像崇拝だとして否定する一神教は「そもそも日本に馴染まない」というのです。「唯一の神」と「神々」の違いにどう折り合いをつけていくかは大きな課題といえるでしょう。 


<聖別思想>


第二に、何でもかんでも白黒つけたがる聖書的な聖別(分別)思想は日本の和の精神と合わないというものです。確かに、キリスト教には和よりも分別を重んじる傾向があるようです。


エホバの神は、ヨシュアにカナン7族の殲滅を命じられたり(申命記7.1~2)、サウル王にアマレクのジェノサイドを命じられました(サムエル上15.3)。十字軍によるイスラム教徒、ユダヤ教徒、カタリ派などに対する蛮行や魔女裁判、究極はヒトラーによるユダヤ人抹殺です。キリスト教から見れば、これらは神の名による正義の実現でしょうが、日本人には到底理解できない蛮行です。ちなみに、ヒトラーのユダヤ人抹殺をカトリックは黙認したといわれています。黙認とはカトリックによるお墨付きです。

「和」か「分別」か、この課題は、上記の多神教問題と並んで、大きな難問であると思われます。前述の三好達氏も「キリスト教の神には、最後の審判と言った裁く神という側面があるが、日本の神は、鎮魂、慰霊の神であり、そういう思想はない」との趣旨の指摘をされています。


<キリスト教は血なまぐさいー贖罪思想>


第三に、「キリスト教は血なまぐさい」という批判が多く見受けられます。確かに旧約時代には羊や牛などを全焼の供え物として捧げることを神はイスラエルの民に命じられました(レビ記1.1~9)。また、アブラハムにイサクを捧げることを命じられ、イエスはまさに十字架上で実体として生贄の供え物となられました。

このように、ユダヤ・キリスト教には、生贄の供え物、即ち血を以って贖う「贖罪思想」が色濃く流れています。贖いの血によって罪を清めるという考え方です。

一方、日本の神道には、そのような思想は見受けられません。神社には、イスラエルの幕屋にある全焼の生贄の供え物を捧げる「祭壇」はありません。日本の祭りの捧げものは、護国豊穣、収穫への感謝の奉納であり、贖罪の供え物ではありません。また、キリスト教は、罪を内在的なものと見ますが、神道は埃のように外から付着するもので、禊(みそぎ)や祓い(はらい)で取り除くと考えています。即ち罪観の違いが根本にあり、これもキリスト教宣教の障害になっているというのです。


<高等宗教の存在>


第四の、そして最大の障害要因は、神道や仏教などの高等宗教の存在です。氏子や檀家の存在です。ある神学者は、「キリスト教は受容に失敗した。受容とはキリスト教が日本文化を受け入れることで、受け入れながら受け入れられることです。それに日本には仏教や神道という高等宗教がすでに根付いていたので、キリスト教はそれを凌駕できなかった」と述べています。


宗教学者の島田裕己氏も、キリスト教のミッション系スクールや慈善活動分野での浸透を評価した上で「戦後に限って言えば、創価学会は、現世利益の実現(貧、病、争の解決)を中心に掲げ、キリスト教福音派が果たしていることと同じこと(現世利益と癒し)をやっていった。これでは福音派が日本に入り込む余地はない。創価学会をはじめとする日蓮系新宗教は、キリスト教を日本に浸透させない壁となったのである」と指摘されています。さらに、「東南アジアのなかで唯一のキリスト教国がフィリピンである。フィリピンにキリスト教が伝えられたのは日本と同じ十六世紀であり、今でもキリスト教徒の割合は九割を越え、大半がカトリックである。日本では仏教や神道がキリスト教を阻む壁になったのだが、フィリピンにはそれにあたるものがなかった」と。 


【土着化】


上記の通り、日本にキリスト教が根付かない四つの理由を挙げましたが、これらは大きくは一神教が有する特性と多神教が持つ特性との相克と言えるでしょう。そしてこの論議と共に、冒頭に取り上げました「土着化」という問題を考えなければなりません。何故なら、キリスト教の日本宣教の失敗の大きな要因に、土着化に失敗したことにあると指摘されています。ちなみに土着化(文脈化)とは、それぞれの宣教国の歴史・文化・宗教をよく理解し、その国の文化・伝統に寄り添い、本質を変えないで受け入れながら受け入れられて福音化していくという宣教の在り方であり、土着化、ないしは文脈化とも言われています。つまり、一神教と多神教の相克をいかに乗り越え、融合させていくかという問題です。

<土着化のモデル>


キリスト教の土着化の典型例として、クリスマス、ハロウィン、マリア信仰があります。クリスマスは、元々ローマで盛んだったミトラ教の冬至のお祭りだったのをキリスト教が取り込んだものであり、ハロウィンは、ケルト人の風習で、先祖の霊を迎えるお盆のような行事だったのをキリスト教的にしたものです。ハロウィンという、一見キリスト教的なお祭りとして知られているものも、元々は異文化の風習だったことがわかります。

また、マリア信仰は、地中海世界に根強くあった女神信仰をマリアの中に取り込んだものと言われています。このように、少なくとも西洋のキリスト教は巧みにギリシャ・ローマ世界、ヨーロッパ世界の文化風習を取り込んで、土着化に成功して勢力圏を広げました。また、韓国では、三位一体の神観を陰陽五行思想で説明したり、贖罪観念を恨の概念で再解釈したりする「土着神学」が試みられています。


<日本文化における土着化とは>

前回、日本の古神道の思想には「自然を崇め、先祖を尊び、和と共生を重んじ、清浄を好む」という情念が基層にあり、この思想が現世利益と相俟って日本的霊性の核をなしていると指摘しました。即ち、日本でキリスト教が浸透するためには、「自然・先祖・天皇」という三つの単語を否定しては難しく、自然を愛し、先祖を尊び、天皇を敬愛すること、つまり、地域文化への土着と国家への土着(愛国心)が必須条件だというのです。そして庶民の信仰としては、「先祖供養」と「現世利益」です。


この点、キリスト教は、教義上、先祖供養は偶像崇拝に繋がるということで、これに否定的で、死者のことは神に委ねるという考え方を取っています。また、キリスト教式葬儀もこの脈絡で行われています。しかしこれでは先祖供養を重視する日本では土着化できません。但し、カトリックには煉獄という概念があり、地上人がこの煉獄にいる先祖の救いのために、祈り、代価を払う(代償)ことが出来るという考え方があります。ちなみに煉獄とは,天国でも地獄でもない中間状態の死後の世界で、まだ罪が清算されていないクリスチャンが、罪を償って火で清められる場所のことであります。

またUCには、先祖解怨という儀式があり、清平を中心に子孫による先祖の解怨と祝福が行われ、先祖を祀ることを認めています。先祖供養とは、亡くなった先祖の霊を慰霊、鎮魂し、先祖の成仏と共に子孫もその恵みに与るという日本の宗教文化で、先祖解怨とは親和性があり、土着化という脈絡の中では肯定的に捉えることが出来るでしょう。土着化や布教という視点から見れば、UCでは、先祖解怨、写経、祈願書、家系図など、キリスト教にはない布教方法があり、一見、土着化が進んでいるように見えます。また、仏教は檀家、創価学会は世帯という単位で信徒を把握しているように、UCにも家庭、氏族という単位の考え方が重視されています。

このお陰もあってか、一神教系宗教の中では、他のキリスト教各派と比べて、日本のUCは善戦しているようです。ちなみに、日本におけるクリスチャン人口は、カトリック約40万、プロテスタント総計50万、ロシア正教1万、エホバの証人15万、モルモン教12万、UC60万となっています。

<土着化は諸刃の剣>


しかし、これらは、「諸刃の剣」でもあることに留意する必要があります。イエス・キリストが「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9.22)と言われた通り、あくまで信仰が主であって、お願い事や現世利益は従(結果)であることを肝に銘じなければなりません。また、土着化とは相手を理解しながら理解されていくことであり、やみくもに同化することではありません。キリスト教(原理)の本質を変えることなくその国の文化に適応し、受容されていくことである点も再度確認しておきたいと思います。その意味で、時にはその国の宗教・文化と対立することを恐れてはなりません。

なお、キリスト教の教義を、そのままストレートに正攻法で伝えるという伝道(福音伝道)を重視する教派もあることを付け加えておきます。むしろ、福音伝道と土着化布教は、相互に相俟って行われていくべきものと思われます。


【日本人の霊性には一神教への郷愁がある】

 

さて日本基督教団高砂教会の手束正昭牧師(1944年~2024年2月8日)は、「日本文化の文脈化による宣教」とのテーマで講演され、「日本は非キリスト教的キリスト教国」、即ち潜在的キリスト教国であると言われました。日本は神がこよなく愛された地であり、日本人のDNAにはキリスト教信仰への憧憬がある、即ちその深層には、既にキリスト信仰が横たわっているというのです。(『日本宣教の突破口ー醒めよ日本』P426~433)。即ち、ケニー・ジョセフ著『隠された十字架の国・日本』でも述べられている通り、そのヴェールをはがし、「非キリスト教的キリスト教国」日本の発掘によって、日本宣教の大きな可能性と希望が開けるというのです。


その一つの証拠として、日本の代表的宗教である神道や神社は、ユダヤ教やキリスト教の影響を色濃く受け、そのルーツはユダヤ・キリスト教にあるとの認識を示されました。例えば、全国に32000社を有する稲荷神社は、もともと「インリ」神社、即ち「INRI」神社であり、これは十字架上で「INRI」と書かれた「ユダヤの王ナザレのイエス」の意味であり、実はキリストを祭る神社(=古代日本の教会)であったというわけです。また44000社ある秦氏創建に関わる八幡神社も、ヤハタの「ヤ」はヤハウエ、「ハタ」は秦氏という意味であり、由来は秦氏が奉じていた神の神社、即ち聖書の神を祭る神社であるというのです。こうして、日本の多くの神社のルーツはユダヤ教またはキリスト教にあったと主張しました。確かに、イスラエルの幕屋と神社の構造は瓜二つだと言われています。


つまり、パウロがガラテヤ書で「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました」(3.24)と語っているように、神社の神々をキリストに導く養育係と考えれば、日本の文化伝統とキリスト教は矛盾することはないというのです。手束氏は、西洋化されたキリスト教ではなく、日本的なキリスト教、即ち日本の文化・伝統に則ったキリスト教を提唱され、パウロが指摘するように、真理を提供する側の工夫と努力があれば、キリスト教と日本の文化・伝統は対立しないと主張されました。


摂理観から見た日本のキリスト教について、UC創始者は次のように語られています。

「神が日本にキリスト教を根付かせないようにしたのです。日本と韓国が対立しないため、相対国(母国)としての日本にするためです。神は調和する宗教(多神教)を日本に根付かせました。これからは、日本に一神教を根付かせるために神が摂理されることでしょう」

前記したガラテヤ書3章24節で「律法は私たちをキリストに導く養育係」とパウロが言ったように、日本の多神の神々(日本的霊性)は、日本人を真の神に導く養育係であると捉えることができます。日本の神々を「真の神に接ぎ木」すれば良いのです。かくして創始者のみ言にありますように、日本人の宗教的心性の根底には一神教への郷愁があり、早晩神は、潜在的一神教の国である日本に「一神教を根付かせる摂理」をされると確信するものです。「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」(詩篇126.5)とあるごとく、倦まずたゆまず福音の種を蒔けば、大きく刈り取る日が来ることを信じます。(了)




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