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キリスト教神学についての考察① 神学は信仰の侍女

🔷聖書の知識179ーキリスト教神学についての考察①ー神学は信仰の侍女


神学なき信仰は盲目であり、信仰なき神学は不具である。(神学者の言葉)


前回まで、旧新約聖書の解説、使徒信条を読み解くという形でキリスト教教義の考察、そして聖書の代表的な奥義を見てきました。今回から「キリスト教神学とは何か」について学ぶことにいたします。神学は「聖書やキリスト教の教えを論理的、体系的にまとめたもの」で、私たちが正しい信仰を持つためには不可欠な知識と言えます。


神学なき信仰は羅針盤を失った小舟のごとく方向性を見失うことになりかねません。何故なら、人間は霊的存在であると同時に、真理に生きる存在でもあるからであり、私たちは、神の神霊と真理を、人間の心霊と知能によって認識しなければなりません。その際、H.ジェーコブズやアリスターマクグラスなどの標準的なキリスト教の神学書を参考にし、これを原理観と対比しながら考察することにいたします。


【キリスト教神学について】


では、キリスト神学とは何でしょうか、そして神学について如何なる姿勢を持つべきなのでしょうか、先ず、この問から始めたいと思います。


<神学は信仰の侍女>


科学が「自然」を研究の対象とし、哲学が「人間」を研究の対象としているとすれば、神学は「神」を研究の対象とする学問であります。即ち、キリスト教的見地からなされる「神についての体系的な学び」といえるでしょう。言い換えれば、聖書の神観、世界観、救済観を論理的、体系的にまとめたものと言えるます。


ヘンリー・シーンは著書『組織神学』の中で、「神学とは神についての教理である」と述べ、ドイツの神学者パウル・アルトハウスは「キリスト教信仰の学的な自己洞察である」としています。また日本の神学者北森嘉蔵氏は、「神学とは福音の厳密な理解である」と定義づけました。そしてこれらは皆、神学の本質の一面を語っています。つまり、神学とは「神についての研究であり、信仰の学的洞察であり、神の言葉の厳密な理解」であります。


そこで筆者は神学を「聖書(神の言葉)の体系的な理解であり、信仰の論理的な自己洞察である」と一応定義したいと思います。平たく言えば、神学は正しい信仰を持つための道しるべであります。信仰なしに神学が成り立たないと同様、神学なしに正しい信仰を持つことは出来ません。正に神学は正しい信仰を持つための補助者、信仰の侍女であります。


<神、罪、救いを明らかにする学>


また具体的には、キリスト教信仰の教理を端的に表明した「信条」を論理的に解釈し解説することと言ってもいいでしょう。何故なら、信条にはキリスト教教理のエキスが凝縮しているからです。そしてその代表的信条が「使徒信条」であります。端的に言えば、神学とは、「神」、「罪」、「救い」について聖書に照らし体系的に説明する学であり、その目的は、「救いとは何か、救いは如何にしてもたらされるか」という、この根本的な命題を厳密に明らかにすることであります。


<神学の源泉ー聖書・伝統・理性>


そしてキリスト教神学は、啓示と信仰がその源泉になり、「聖書」、「伝統」、「理性」をその要素としています(マクグラス『神学のよろこび』キリスト新聞社P22)。



その際、心掛けなければならないのは著名な神学者の次の言葉です。


「神学なき信仰は盲目であり、信仰なき神学は不具である」


つまり、理性は神学に、神学は信仰に、信仰は神に奉仕しなければならないというのです。世界宣教センター所長の奥山実牧師は、「神学校を卒業して60%の学生が神が分からなくなる」と嘆いておられました。神について学ぶはずの神学校で逆に神を見失うというのです。  


この点、内村鑑三が神学嫌いであったことは有名です。つまり信仰あっての神学であり、神学は信仰に奉仕しなければならないということ、つまり「神学の目的は信仰にある」ことを肝に命じることが肝要です。


【神学は異端を峻別する知恵】


もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音(異なる福音)を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。(2コリント11.4)


ある著名な牧師は、「神学とは正しい福音と異なる福音を峻別することである」と述べましたが、これは神学の一面を語っています。確かに正しい神学はパウロがいう「異なる福音」(2コリント11.4)、即ち「異端」を峻別するための知恵と言えるでしょう。


最近、ある信徒から、聖書の通読4回目が終わり、5回目に入ったとの連絡がはいりました。その感想として、「この言葉が、神からのものか、人からのものか、鮮明に分かるようになりました」とありました。使徒行伝に「その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい」(使徒5.38~39) とありますが、この信徒はその判別がつくようになったというのです。


最近筆者も、神からのインスピレーション、神の霊の注ぎを感じることがあると証言しましたが、気をつけなければならないのは、そのインスピレーションが、本当に神からのものか、悪霊の業ではないかを、よく祈って峻別しなければなりません。


そして、インスピレーションにとどまらず、その教えが異なる福音、つまり異端的な教えであるかどうかを見分けなければならず、それを分別する知恵が聖書の霊性、神学の知識であるというのです。


<神学は異端との戦いの中から生まれた>


そもそも異端とは何でしょうか。カトリックは20世紀に入って、「今後は異端という言葉を使わない」との声明を発表しましたが、ある牧師によると、「異端とは三位一体の教理を否定する教えです。イエス・キリストの神性を否定したり、聖霊が神であることを否定する非聖書的な教えです」と答えています。


つまり、キリスト教にとって、異端とは三位一体の神観を認めない言説であるというのです。確かに日本で伝統的なキリスト教から三大異端と言われているエホバの証人、モルモン教、UCは三位一体の神を受け入れていません。そして異端のもう一つの尺度として、聖書の他に聖書と並ぶ、あるいは聖書より重視する経典を有する場合も異端とされています。


以上の2点が現代における異端の尺度ですが、かって初期教会において、律法を強いるユダヤ主義や善悪二元論で知られるグノーシス主義、そして三位一体の教義を巡る数々の異論があり、これらの異なる福音に対して正統神学を立てる必要がありました。


リヨンの司教エイレナイウス(130~200頃) は、使徒ヨハネの弟子、殉教者、反異端的教父でありますが、著書『異端駁論』(いたんばくろん)を著わし、グノーシス派などの異端について詳しい反論を行いました。またかのアウグスチヌスは、三位一体論問題など少なくとも50以上の異端・分派についての反駁(はんばく)論文を残し、正統神学の教理を確立していきました。


こうしてキリスト教神学は、異端との戦いの中で生まれてきました。独特の宗教思想が強調された時、「ちょっと待った。それは違う」と異端思想に歯止めをかけたというのです。正に「異端を峻別する知恵」であり、また反面教師として、「異端は神学の生みの母」でもあると云うのです。


私たちの周りには、異端的な教え、分派の主張など異なる福音が取り巻いています。これらを論駁するためにも神学の知識が必須である所以です。 只、異端とは、正統とする立場から見た相対概念であり、異端とされている側からみれば、我こそは正統であると云うことになります。かってカトリックがプロテスラントを異端と考え、プロテスタントはカトリックを異端と考えたようにです。


以上、神学とは何か、神学の目的とは何か、神学は何故生まれたか、について持論を述べました。次回は神学の全体的な構造や、神学が扱う分野などについて、鳥瞰的に見ていきます。(了)

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