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キリスト教神学についての考察⑩ 近現代神学の歴史と思想(5) バルトについて

🔷聖書の知識189ーキリスト教神学についての考察⑩ー近現代神学の歴史と思想(5)ーバルトについて


初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った(ヨハネ1.1~14)


前回、自由主義神学を発展的に否定し、正統主義神学の難点を克服する形で、いわば両者を弁証法的に止揚する神学として登場した バルトらに代表される新正統主義神学を解説いたしました。今回は、その新正統主義神学の元祖たるバルトについて、その生涯と神学思想を見ることにいたします。


カール・バルト(1886~1966)は、20世紀のキリスト教神学に大きな影響を与えたスイスの神学者で、その思想は弁証法神学や危機神学、あるいは新正統主義と呼ばれています(バルト自身は自らの神学を「神の言葉の神学」と呼んでいます)。


バルトは、「シュライアマハー以来、最も重要な福音主義の神学者」(『キリスト教神学の主要著作』教文館P265)と見なされ、キリスト教神学の長い歴史の中で、中世のトマス・アクィナスに匹敵する神学者であり、聖書からやってくる語りかけに、全身全霊で耳を澄ませました(福嶋揚著『カール・バルト未来学としての神学』P8)。


【バルトの生涯】


以下、簡潔にバルトの生涯を辿りたいと思います。


<誕生・学生時代>


1886年、スイスのバーゼルで牧師の子として生まれ、父ヨハン・フリードリヒ・バルトは改革派教会に属しており、ベルン大学で教鞭をとり、1912年に死去するまで新約聖書学と教会史を教えました。バルトは厳しく育てられましたが、父を尊敬し、母アンナには愛着を持つ少年でした。幼少期から本の虫でしたが、一方音楽にも親しみ、父がピアノで弾くモーツァルトの「魔笛」に感動するなど、感受性に富んだ少年時代を過ごしました。


1902年(16才)に堅信礼を受け、将来は神学者になり、キリスト教会の信条をすみずみまで理解しようと志しました。1904年にベルン大学に入学し、ユリウス・ヴェルハウゼンらの元で、「歴史的・批評的に聖書を研究する方法」を学びました。


卒業後、向学心に燃えるバルトは、ドイツで神学界を席巻する「自由主義神学」を学ぶべく、学問の中心であるベルリン大学に進み、アドルフ・フォン・ハルナックに師事して教会史を学びました。従ってバルトは初めは自由主義神学を支持する立場にあり、その後、テュービンゲン大学福音主義神学部、マールブルク大学で教義学を学び、1908年(22才)、ミュンスター大聖堂で父から按手を受けました。


<牧師時代>


1910年(24才)にジュネーヴで改革派教会副伝道師となり、1911年から1921年まで、アールガウ州ザーフェンヴィルで「改革派教会の牧師」を務めました。ザーフェンヴィルは当時の工業化の影響を受けていた村であり、社会主義や労働組合運動が盛んで、バルトも支援しています。


1912年、父ヨハンが他界し、そのとき父から、「学問・批評よりも主を愛し、生ある身で交わりをもてるよう祈ってゆかねばならない」との趣旨の遺言を受け、初めて父の生き方を理解しました。1915年にカール・ユングの精神分析を受けた際には、父に対しエディプス・コンプレックスがあると診断されています。また1913年(27才)にネリー・ホフマンと結婚し、4男1女をもうけました。


この改革派教会の牧師時代、第一次世界大戦が勃発し、彼の教師であった自由主義神学者たちの多くが皇帝ウィルヘルム二世の戦争政策を支持したことに、バルトは衝撃を受け、彼の自由主義神学への疑念が生まれ、その思索の中から『ローマ書』が誕生しました。


即ち、1919年には『ローマ書』の第一版を発表し、1921年からドストエフスキー、ニーチェ、キェルケゴールを読みこみ、人間の陥る深淵について理解を深めた上で、その知識に基づいて『ローマ書』の改訂版を書き始め、1922年、『ローマ書』の第二版が完成、出版されました。この第二版の出版は高く評価され、いわゆる弁証法神学の基本テキストとなり、神学者としての立場を堅いものにしたきっかけになりました。


またこのころ、若手の神学者が集まり、弁証法神学の機関誌である『時の間』を刊行しています。後に対立し続けるエミール・ブルンナーと面識をもったのもこのときです。


<大学教授時代>


1922年、ゲッティンゲン大学から招聘され、壇に立つことになった彼は牧師時代の学問上の遅れを取り戻すとともに、自由主義神学から改革派教会の教義学を擁護する任に就きました。1924年にハインリッヒ・ヘッペの『福音主義改革派教会の教義学』を入手し、17世紀のプロテスタント教会の教義学を知り、正統神学を学びなおすきっかけとなりました。


1925年、ミュンスター大学に招聘され、1927年に『キリスト教教義学への序論』、1928年には『神学と教会』を出版するなど精力的に活動し、名声が高まっていきました。


1929年にバルトは「アンセルムス」の研究を始め、これが後に『教会教義学』として彼固有の神学方法論を確立することになります。ちなみにアンセルムスとは11世紀イギリスのカンタベリー大司教を努め、「スコラ哲学の父」と言われた人物で、キリスト教の信仰をプラトンやアリストテレスの哲学によって、理性的に論証しようと試みました。普遍論争における彼の「普遍は個に先だって実在する」という「実在論」は、中世キリスト教の正統的な理論とされ、トマス・アクィナスに継承されていきました。


1930年にボン大学の神学教授を歴任し、1931年に社会民主党に入党しました。これはナチス勢力に反対する意思を表明し、ドイツ民族主義と明確に区別するためでありました。そして1934年、ナチス・ヒットラーの政策に追随するドイツ福音主義教会(DEK)に対抗して結成された「告白教会」の理論的指導者となり、「バルメン宣言」を起草しました。


バルメン宣言とは、ナチスの支配に抵抗し、ヒットラーではなく「イエス・キリストのみをこの世の支配者と見なす」という6条からなる宣言であり、1934年にカール・バルトらを中心に出され、正式名は「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」となっています。第一宣言には、「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である」とあります。


そして1934年にアドルフ・ヒトラーへの忠誠宣誓のサインを拒否して停職処分を受け、翌年大学退職処分となっています。


<スイス時代>


ドイツから追われたバルトは、1935年6月(49才)、バーゼル大学の神学教授に招聘され、精力的に著作活動を展開しました。1936年にかけてチェコ、ハンガリーで講演を行い、この旅行でチェコの神学者のヨセフ・フロマートカと親交を結び、予定論の古典的解釈を改めるという収穫を得ました。


1937年3月にスコットランドのアバディーン大学で講演を行ったことで、バルトの中で次のような枠組みができあがりました。


「神ひとりが神であり、人間という他者に依存しないため、この自己依存性が神の自由である。しかし神は自己のみで存在しようとせず、人間を創造し、語りかけ、交わりをもつ。なぜならば、『神我らとともにいます(インマヌエル)』という神のあり方が神の愛であるからである」というキリスト論的方法論を確立させるに至りました。


1939年9月の第二次世界大戦の勃発に対して、バルトはナチスを神学的に批判しました。思想だけでなく軍事面でもナチスの脅威から防衛するべき、という考えに至って、1940年に在郷軍人の資格でスイス軍に入隊しますが、このとき彼は54歳でした。


戦争が終わりに近づいたころ、以前のナチスへの攻撃とは反対にドイツ人の友であると宣言しました。彼らの進んだ道は看過できることではないが、戦火が収まればきっとやり直せると信じていたからです。1945年8月にバルトは破壊されたドイツを訪問、マールブルクのブルトマンを訪ねたほか、援助に奔走しました。


<晩年>

70才を過ぎても創造力は枯渇せず、アンセルムスとジャン・カルヴァンを読みなおし、パウル・ティリッヒについて演習を試み学生の指導に力を入れました。


1962年4月(76才)にアメリカ旅行に出かけ、シカゴ大学にて講義を行いました。そこで、人間を解放するイエスの自由に基づく神学がアメリカには必要であるとし、「もし自分がアメリカの神学者であったら自由について書く」と語りました。シカゴ大学は自由神学であったため、自由神学に対立するバルトに長らく批判的でしたが、大学側は彼に名誉神学博士号を授与しました。


また、1963年にはフランスのソルボンヌ大学より名誉文学博士号を受け、同年デンマークのコペンハーゲンにて、キェルケゴール研究に対してソニング賞を授与されました。


1964年頃から体力の衰えがあり、同年12月の軽い脳溢血もあって、1968年12月10日に自宅で死去しました。享年82才。


人は老年になると頭が固くなり、自分の殻に閉じこもりがちになりますが、バルトが死ぬまで学び続けてあきなかったのは、自己の神学をも含めて、人間の作り出した固定された家に安住することを嫌い、自己をいつも「改革する」ことを願ったからであります。このバルトの生き方は、つねに自己を変革する神の自由に基づくあり方ですが、ティリッヒがバルト神学の中で最も高く評価した点でもあります。


10代から神学を志したバルトに比して、筆者は半世紀遅れの60代にして神学に目覚めたわけですが、このバルトの自己改革の思想にあやかりたいものだと心底思います。なお、秘書兼愛人であったシャルロッテ・フォン・キルシュバウムとの家族を含めた同居は、奇妙な人間関係として氣になります。


【バルトの業績と思想】


バルトは自由主義神学から神学的影響を、新カント学派から哲学的影響を受け、牧会実践の中で「聖書の中に証されている言葉を、人間に対して神の言葉として聞かせるべき」としました。


<著作>


バルトは、シュライアマハー、リッチュル、ハルナックらによってその頂点に達した自由主義神学(近代主義神学)に対して「神学のテーマが人間学に解消している」として、神学の本来のテーマを回復しようとし、「言における神の啓示」(ヨハネによる福音書冒頭)を主張しました。


その神学は彼の著書『ローマ書講義』や『福音主義神学』、『教会教義学』という膨大な著書において記されています。彼の思想の変遷を表す著書として『ローマ書』において神という一般的言葉を用いたのに対して、『教会教義学』では、「神」よりも「イエス・キリスト」という言葉を多用し、キリスト論に彼の神学が集中していきました(キリスト論的集中)。


しかし晩年、「私がもしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」と述べ、神からキリストへ、キリストから聖霊への関心の変遷が見られます。また彼は、エミール・ブルンナーとの自然神学論争において、神認識がキリストの契機なしには起こらないという点ではブルンナーと軌を一にしましたが、「人間にはもはや『神の像』なし」としてブルンナーの自然神学を批判しました。しかし、敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになり、バルトの自然神学批判の主張もまた再修正されうる可能性があると言えるでしょう。


バルトは常に自己変革をしましたが、神学も限界のある人間の試みであり、その限りたえず修正されなければならないとし、重要な考え方でさえ変わったというのです(ホーダーン著『現代キリスト教神学入門』日本基督教団出版局P194)。


バルトはティリッヒと並ぶ20世紀を代表する神学者と位置づけられ、教皇ヨハネ23世をして「今世紀(20世紀)最大のプロテスタントの神学者」と言わしめました。その思想はマルティン・ハイデッガー、また日本では西田幾多郎、滝沢克己に影響を与えており、数々の著作集・説教集の邦訳が刊行されています。


<教会教義学>


前記の通りバルトの数多くの著作の中でも最大の著作は『教会教義学』であります。


バルトの主著『教会教義学』は、30年以上の歳月をかけた9千ページにのぼるキリスト教史上最大の大著です。教会教義学第一巻序論(プロレゴメナ)は「神の言葉についての教説」で、この序論が論じる最も「根本的な事柄」が、第二巻以降の「神論」、「創造論」、「和解論」、「救贖論」(未完)に展開されます。これらの根本的な事柄を「神の言葉」と名付け、その「神の言葉論」を形成する重要な柱が、三位一体論とキリスト論であります。 (『カール・バルト未来学としての神学』P62)


イエスを神の唯一の生ける言葉とし、それは啓示された言葉(啓示)、宣教された言葉(宣教)、書かれた言葉(聖書)という三重の形態で発せられるとしました。この三重の形態の教説を、「神の三位一体性の教説に対する唯一の類比」として理解し、既に序論において三一論を展開しました。そして本文はほとんど信仰告白的、ないしは説教的調子を帯びているか、あるいは物語的かつ劇的特徴を示しています(『キリスト教神学の主要著作』教文館P272~274)。


<バルトの思想と課題>


前回述べましたように、バルトは、当時の哲学や自由主義神学などに見られる理性に絶対的信頼を置く思潮に対し疑義を呈し、神は歴史の中で「キリストの受肉」によって自己を啓示されたとしました。「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1.14)とある通りです。


一方、聖書は神の言葉(啓示)を証しするものであるが、聖書自体を啓示の書とせず、「啓示についての人間による証言の書」とし、「聖書の中から神の言葉を見つけ出すこと」が人間の役割であり、そのために「神との出会い」を強調します。この点、根本主義の誤りは、聖書を教皇同様、絶対視したところにあるとバルトは指摘します。


端的に言えば「神の御子が人となられた、即ち神がイエス・キリストにおいて、自らを啓示された」とし、神の生ける言葉としてのイエスという「キリストの出来事」がバルト神学の主題であり、あらゆる神学的思考の出発点としました。イエス・キリストにおける「神の恵みの神学」であります。


従って、バルトにとって神に従う唯一の正当な理由は、「神が我々を愛するあまり、自己を与えて下さったので、ただそれに応答するだけである」ということであり、それ故にキリスト者の服従の本質は自由であり喜びであるというのです(ホーダーン著『現代キリスト教入門』日本基督教団出版局P211)。つまり、バルト神学の本髄は、人間から神への試みではなく、神から人間への語りかけであるということにあります。


このようにバルトの「キリスト論的集中」と言われる神学は、キリスト者を、自由主義神学の行き過ぎから解放し、一方では聖書の文字の奴隷から解放したものの、「イエスは人となった神である」というキリスト論が前提になっており、あくまでも従来の三位一体論の枠を越えられないという限界があると言わなければなりません。その限りでは、なお正統主義神学の枠内にあると言えるでしょう。


カトリック司祭で神学者の岩下壮一氏は、著書の中で、「今日19世紀の著名なプロテスタント神学者の中に、イエズス・キリストの神人両性の教義を告白するような神学者はいない。正統的キリスト論(イエスを神とするキリスト論)を弁護するような神学者は一人もいない」と書いています(若松英輔著『イエス伝』中央文庫P123)。


UC創始者は、イエス様について「創造理想を完成したアダム(人間)」として定義され、次のようにバルトにはかなり辛口になる言葉を語られています。


「アダムの代わりに立てられたのがイエス様です。イエス様が神様だというのですか。神様が神様に祈りますか(マタイ26.39、27.46)。神様は二人でしょうか。このような矛盾だらけのでたらめな内容を信じると言っているのですから、現代の知性人から追われるしかないのです」(『イエス様の生涯と愛』光言社P96)


「ある人は、イエス様を神聖なる神様だと言いますが、それこそ精神障害者です。邪教の中の邪教です。イエス様が結婚するのに『神聖なる神様が結婚するとは何事か』と失望するというのです。何故結婚すると神聖ではないのでしょうか。男性も女性も、最も神聖なことは結婚することです」(『イエス様の生涯と愛』光言社P111)


ちなみに筆者は、光言社刊の『イエス様の生涯と愛』は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネに続く、第5の福音書とも言え、福音書はこれによって完成すると感じています。4福音書には、特にイエスの私生涯についての記述はほとんどなく、本書の内容を、キリスト教神学者にも、一定程度、納得できるように取捨選択、捕捉説明してイエスの生涯としてまとめることが肝要です。


また、特に自由主義神学が問題視した聖書の奇跡的、神話的記述、例えば、イエスの処女懐胎、復活の神秘、イエスが神であること、などは信仰と科学の調和が必要とされます。ただ、神話には非合理的な要素がありますが、そうかと言って事実ではないと無碍に退けることが出来ないところがあり、神話は史実ではないかも知れないが真実があると言われたりします。


ここに、正統主義神学を否定した自由主義神学を、更に否定し、これらを止揚した形の新しい神学が待たれます。バルトはこの新しい神学を目指したものの、未だ道半ばに終わったというしかなく、バルトがその直覚力によって志向したものを実現することが待たれます。ともあれ、バルトは知の巨人、信仰の巨人、改革の巨人であったことは確かです。(了)

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