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2サムエル記 註解 ダビデの治世

🔷聖書の知識85-2サムエル記-ダビデの治世


ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」(2サムエル12.13~14)


サムエル記は上下含めて、もともと一つの書であり、サムエル記全体は、前1120年頃から約150年間の出来事を記しています。そしてそこにサムエル、サウル、ダビデという三人の主役が登場し、2サムエル記はダビデが主役となる物語になります。文字通り「ダビデ記」ともいうべき書です。


サムエル記から、次の列王記までの歴史書の全体的な流れは、ユダ族のみの単独の王国→12部族すべてを含むダビデによる統一王国→ソロモンが継承した統一王国→南北分裂後のユダ族とベニヤミン族の

単独の王国、ということになります。


【2サムエル記はダビデ物語】


前回「1サムエル記」で、ダビデはサウル王の嫉妬を買い、サウルに追われ、ベリシテの地で逃亡生活をすることになりました。( 19 .1 ~ 26 .25 )


ダビデはサウルを殺害するチャンスが訪れたときでさえ、サウルも神に油を注がれた者だからという理由などから、決してサウルを手にかけようとはしませんでした。


その後サウルは、ペリシテ人との戦いで重傷を負い、剣の上に倒れ伏して自殺を遂げることになりました。


そうして時代はダビデに引き継がれ、今回の「2サムエル記」は、当にダビデの物語になります。以下、ダビデの治世において、重要な事柄について解説していきます。


なお、ユダヤ教原理主義者には無視されがちですが、 彼の曾祖母であるルツはモアブ人であり、ダビデはモアブ人の血を引いています。これは、当時のイスラエル人と周辺諸民族は共存、通婚していたことを示しています。


加えて、彼女がモアブ人としてのアイデンティティと宗教的慣習を放棄し、イスラエル人のナオミが信じていた主なる神を受け入れて回心したことが、イスラエルに受容されたことの大きな理由となりました。(ルツ記1.16~17)


バビロン捕囚以後、救世主(メシア)待望が強まると、イスラエルを救うメシアはダビデの子孫から出ると信じられるようになりました。新約聖書では、イエス・キリストはしばしば「ダビデの子」と言及されています。


ダビデ、王となる】(在位:前1000年頃~前961年頃)


前回述べましたように、主はサムエルに、次期の王をエッサイの末っ子のダビデを示され、次期の王として選ばれました。ユダ族のみの単独の王国の王であります。


1サムエル記16.1に、「さて主はサムエルに言われた、『あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである』」とある通りですす。


そうしてサムエルは、油の角をとって、ダビデに油をそそぎました。「この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ」(16.12)とあります。


しかし、この時点では、まだ、実際の王となったわけではなく、神がダビデを選び、召されたという意味であります。


<ダビデ、ユダ王となる>

上記のような選びに基づき、サウルの死後、ダビデはヘブロンでユダヤの王として油を注がれ、名実共に王として即位しました。いよいよダビデの治世が始まります。


「時にユダの人々がきて、その所でダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした」(2.4)


こうしてヘブロンの長老たちは、ダビデに油を注ぎ、王としましたが、これは預言者サムエルによる油注ぎに続く第2の油注ぎでした。


この時ダビデは「ユダの家」だけのための王となり、ヘブロンがダビデ王国の首都となりました。

ヘブロンで油注ぎを受けた時、ダビデは30歳になっていました。サムエルによって油注がれ、主の霊の注ぎを受けたのは、十数年も前のことです。


そして彼が統一王国の王になるのに、さらに7年半を要しました。ダビデを有能な王、またより成長した主の器に育てるための神が計画された準備期間といえるでしょう。


<ダビデ、イスラエル全土の王となる>

ユダの一族を率いたダビデは、サウルの後を継いだサウルの息子イシュ・ボシェト率いるイスラエルとの内戦を戦いました。(2.8~4.12)


結局、イシュ・ボシェトは昼寝中に家臣に殺害され、ここに至ってダビデは全イスラエルの王としての統治者になり、エルサレムに進撃してそこを都としました。


ダビデがヘブロンで即位したのは30歳のときであり、7年6ヶ月間ヘブロンでユダを治め、その後33年間エルサレムでイスラエル全土を統治しました。

(統一王国の王として統治→5.1~10.19)


「このようにイスラエルの長老たちが皆、ヘブロンにいる王のもとにきたので、ダビデ王はヘブロンで主の前に彼らと契約を結んだ。そして彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。ダビデは王となったとき三十歳で、四十年の間、世を治めた。すなわちヘブロンで七年六か月ユダを治め、またエルサレムで三十三年、全イスラエルとユダを治めた」(5.3~5)


そしてダビデが油注ぎを受けるのは、これが3度目のことになります。


こうしてダビデは、羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に就くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となり、40年間、王として君臨しました。


【エルサレムへの遷都】(5:1~25)


ダビデは要害の地、エルサレムを攻め、エルサレムに遷都しました。即ちダビデは、南方部族の中心都市ヘブロンから,南北複合王国の中間に位置するエルサレムに遷都し,そこへ王国成立前の部族同盟の象徴であった「契約の箱」を搬入して,イスラエルのアイデンティティーの象徴としました。


「王とその従者たちとはエルサレムへ行って、その地の住民エブスびとを攻めた。ダビデはシオンの要害を取った。これがダビデの町である。ダビデはその要害に住んで、これをダビデの町と名づけた。またダビデはミロから内の周囲に城壁を築いた。こうしてダビデはますます大いなる者となり、かつ万軍の神、主が彼と共におられた。」(5.6~10)


エルサレムを都としたダビデはペリシテ軍を打ち破り、バアレ・ユダにあった神の箱をエルサレムに運び上げます。


【神の箱の移動(6:1~23)


エルサレムを都としたダビデはペリシテ軍を打ち破り、バアレ・ユダにあった神の箱をエルサレムに運び上げました。


神の箱はキルヤテ・エアリムのアビナダブの家に安置されたままでした。神の箱をエルサレムに運び上ることは、国家的な事業であり、ダビデはイスラエルの精鋭3万人集め、この事業に当たろうとしました。神の箱とは、かってペリシテ人に奪われたことがある「十戒の石板が安置」された契約の箱であります。


前王のサウルは、神の命令と神の箱を顧みようとしませんでしたが、ダビデは、神の命令と神の箱に対する敬意を表明しました。


「ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。」(6.12~15)


この光景は、御輿をかついで囃し立てる日本の祭りと似ています。こうしてモーセの律法が命じるとおり、レビ人たちが主の箱を担いで運び、神の箱は、所定の天幕の真中に安置されました。このときダビデは、主の前で子供のように踊りましたが、これをバカにしてあざけった妻のミカルは、生涯子を産むことはありませんでした。


こうして見ると、神の箱(契約の箱)は、イスラエルのアイデンティティーとして、いかに生命視されていたかが分かります。契約の民、律法の民イスラエルは、神の言葉を何よりも大事にしたというのです。


【ダビデ契約の締結】(7:1~29)


ダビデは、神の箱のために神殿を建てたいと願いましたが、預言者ナタンを通して主のことばが届けられます。神殿建設は、戦士として血にまみれたダビデではなく、ダビデから生まれる子孫(ソロモン)によってなされるというものです。


それに続いて、ダビデ契約が締結されることになりました。この契約は、アブラハム契約やシナイ契約に匹敵するほど重要な契約であると言われる無条件契約であります。


イスラエルの神ヤハウェが,エルサレムとダビデ家を永遠にイスラエルの首都と王家に選ぶ約束をした,と主張しました。この神の約束は「ダビデ契約」と呼ばれ,のちにダビデの子孫からメシアが現れるというメシア思想の源泉となりました。


「主はまた『あなたのために家を造る』と仰せられる。わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる」(7.11~16)


上記のⅡサムエル記7.11~16は、ダビデの息子ソロモンに焦点が当てられ、1歴代誌17.10~15は、ダビデの子孫として遠い将来出て来るメシア(イエス・キリスト)に焦点が当てられていると言われています。


「わたしは主があなたのために家を建てられることを告げる。わたしはあなたの子、すなわちあなたの子らのひとりを、あなたのあとに立てて、その王国を堅くする。彼はわたしのために家を建てるであろう。わたしは長く彼の位を堅くする。彼の位はこしえに堅く立つであろう』」(1歴代誌17.10~15)


<外敵に対する勝利>(8:1~18)

ダビデはペリシテ人だけでなく、モアブ人、アラム人、エドム人、アンモン人も打ち破り、これを配下に収めました。


また宿敵フィリスティア人を撃破したのち,東ヨルダンの諸民族とシリアのアラム人を征服して,南は紅海から北はユーフラテス川に達する大帝国を築き上げました。


【ダビデの罪と悔い改め】


今まで述べてきました通り、王として権威ある座に上っていったダビデでしたが( 1 ~ 10 章)、以下に記すバテ・シェバとウリヤに対する罪(11~12章.)を発端にして権威ある座から転落していきます。( 11 ~ 20 章)


<ダビデの不倫と殺人>

異教徒との戦いの最中、ダビデは王宮のベランダからウリアの妻であるバト・シェバが水浴びしているのを見初めました。彼女を呼び出し関係を結び、妊娠させことになります。妊娠を隠蔽するため、結局、ウリヤを故意に激戦地に追いやり、戦死させました。これこそ、ダビデのおぞましい姦淫と殺人であります。


「さて、ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、『これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか』。そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た。(女は身の汚れを清めていたのである。)こうして女はその家に帰った。女は妊娠したので、人をつかわしてダビデに告げて言った、『わたしは子をはらみました』」(11.2~5)

ダビデ王とバテシバの水浴(ジェームズ・テソ画)、ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴(レンブラント・ファン・レイン画)


神は、そんなダビデのもとに預言者ナタンを遣わして、厳しく糾弾します。宮廷預言者ナタンはダビデの犯した罪をたとえ話で語ってダビデの罪を指摘し、悔い改めを迫りました。我に返ったダビデは、遂に自分の罪を真摯に悔い改めるに至りました。


「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』。ナタンはダビデに言った、『主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう』」(12.13~16)


詩人でもあったダビデが、この一件に関して、深い悔い改めの祈りを吐露した記録こそ、かの有名な「詩篇51篇」であります。


「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。


わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。


ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。


神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(詩篇51)


姦淫と殺人という未曾有の罪を犯したダビデですが、「真摯な深い悔い改め」によって赦されました。ダビデの優れたところは、たとえ王であっても、神を恐れ、犯した罪を率直に認め、深く悔い改めているところです。死人にムチ打たずということばがありますが、ダビデを赦す神の愛の深さが表れています。


上記詩篇51篇は、珠玉の名作として読み継がれ、語り継がれてきました。ルターは、アウグスチヌス修道院にて、この詩篇を毎日5回朗読するのが日課だったと述懐しました。修道院のシスターたちは皆、この51篇を丸暗記していると言われています。


<アブサロムの反乱>

また、ダビデは三男のアブサロムの反乱に遭遇しました。ダビデには複数の妻がおり、アブサロムは、その一人であるゲシュルの王タルマイの娘マアカから生まれました。アブサロムは妹のタマルを愛していましたが、異母兄でダビデの長男のアムノンが異母妹タマルを犯し、それに怒ったタマルの同母兄のアブサロム(アムノンの異母弟)がアムノンを殺しました。


その4年後、アブサロムは周到な準備をした上で父ダビデに対して叛旗を翻し、ヘブロンで挙兵しました。ダビデの中央集権政策に対する民衆の不満が背景にあり、イスラエルとユダヤの民はアブサロムを支持しました。またアブサロムは容貌が優れ美しい人だったと言われています。


ダビデは一時都エルサレムを追われ、都落ちを余儀なくされましたが、陣営を建て直し、アブサロムの反乱軍に勝ち、何とか収拾しました。結局、アブサロムはダビデの意に反して家臣によってとどめを差されることになります。


「そこで、ヨアブは手に三筋の投げやりを取り、あのかしの木にかかって、なお生きているアブサロムの心臓にこれを突き通した。ヨアブの武器を執る十人の若者たちは取り巻いて、アブサロムを撃ち殺した」(18.14~15)


しかしダビデは、アブサロムの死を嘆き悲しんだと言われています。


【晩年のダビデ】


ダビデは、中央集権的君主制を樹立し、さらに人口調査のような改革策をいくつか実施しましが、一方では、これらの改革案は人々に負担を与えました。また年老いたダビデ王は体が暖まらなかったのでシュネムのアビシャグという美しい娘を傍らに置いて自らの世話をさせました。


そんな折ダビデの子アドニヤが父を差し置いて自ら王を名乗るという事件が起ります。ナタンとバト・シェバはこれを聞いてダビデのもとに赴き、息子ソロモンを次の王にするという誓いをたてさせます。


祭司ツァドクはソロモンに油を注ぎ(1列王記1.39)、ここにソロモンがイスラエルの3代目の王となりました。ダビデはソロモンに戒めを残して世を去り、「ダビデの町」に葬られました。


「ダビデはその先祖と共に眠って、ダビデの町に葬られた。ダビデがイスラエルを治めた日数は四十年であった。すなわちヘブロンで七年、エルサレムで三十三年、王であった。このようにしてソロモンは父ダビデの位に座し、国は堅く定まった」(1列王記2.10~12)


ダビデは40年間イスラエルを統治しましたが、多くの妻をめとった結果、上述のように家庭内では複雑な争いも生じ、一時は実の息子に王座を追われて逃避行に及んだ時期もありました。


けれども、ダビデはその起伏に富んだ人生の中で、無名のときも、華々しい成果を上げていたときも、苦難のときも、恥辱にまみれたときも、常に徹底して神を恐れ、神を信頼する敬虔な信仰者でした。


そして何よりも重要なことは、ダビデが神に選ばれ召された摂理的人物であったことであります。ダビデの背後に、サムエルへの啓示に端を発する強い神の御手がありました。


【ダビデ物語から見る宗教教団への教訓】


それにしても、2サムエル記が記すように、国家や宗教教団に後継者争いやお家騒動はつきものです。ダビデも、息子のアブサロムやアドニアの反乱に遭遇しました。


イスラム教団は後継者の正統性を巡り、スンニ派とシーア派に分裂し、プロテスタントはローマ教皇をベテロの後継者とは認めていません。聖書的に言えばカインとアベルの二流です。


そしてこれらの出来事は、宗教教団のお家芸であり、ある種の宿命でもあります。あのおとなしそうな天理教ですら、50を下らない分派があると言われています。これらは、人間的な知恵では解決不可能な、善悪の枠を越えた宿命的な問題であると言えるでしょう。


神の介入を待つしかありません。全てをお見通しの全能なる神は、やがて時満ちれば、強い御手を持って介入されることを固く信じるものです。



以上、今回は2サムエル記のダビデ物語、ダビデの治世を見て参りました。次回は1列王記のソロモンについて論評することにいたします。(了)








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