​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

異端・分派は神学の母 その光と影

◯つれづれ日誌(令和4年6月29日)-異端・分派は神学の母 その光と影


彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである(イザヤ11.9)


さて、先日あるスピーチの内容について、筆者の感想を聞きたいという問い合わせがありました。いわゆるUCの分派と言われているサンクチュアリ教会日本支部が主宰する「文享進二代王歓迎報告」と名うって、6月25日に都内のホテルで行われた集会の顛末についてのコメントであります。


【本拙文を書く理由】


最初、この話を聞いた時、何かUCの恥部をさらけ出すような気がして、若干気が引けたのですが、こうして一心発起してコメントをまとめることになった理由は次の2点であります。


先ず第一に、古今東西を問わず、そもそも宗教教団には、異端あるいは分派というものはつきもの、いわば宗教の宿命と言ってもよく、筆者が慣れ親しんでいるキリスト教にして、その際立った特徴に「異端・分派との戦い」があります。その分派による異端の教え、即ち「異なる福音」による混乱は、次の聖句の通り、既に初代教会から始まっていました。


「ある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる」(2コリント11.4)


初期教会において、律法を強いるユダヤ教条主義や善悪二元論で知られるグノーシス主義、そして三位一体の教義を巡る数々の異論があり、かのアウグスチヌスは、少なくとも50以上の異端・分派についての反駁(はんばく)論文を残しています。ある意味でキリスト教神学は異端との戦いの中で生まれたとも言え、異端は反面教師として、正に神学の生み母であると言うのです。


あのおとなしく見える天理教でさえ、50もの分派があると言われ、創価学会には、同じ富士大石寺日蓮正宗の信徒組織だった顕正会という強力な宗派との骨肉の、正に血みどろの戦いを強いられています。また、霊友会から立正佼成会が分かれ、大本教からは生長の家、世界救世教が生まれています。


このように、良きにつけ悪しきにつけ、宗教には分派はつきもので、それはUCとて例外ではありません。そしてこれらは既にネットなどでは公然の事実であり、従って、敢えて分派について自ら明らかにしたとしてもマイナスにはならないだけでなく、むしろことの是非善悪について明確にした方が良いと判断した次第です。


次に第二の理由ですが、二代王と呼称されている文享進(ムン・ヒョンジン、Moon Hyung-jin)氏や、日本を取りまとめているE女史の言動に、看過できない点があり、ここには完全な異端的教理が捏造されており、これを放置できないという筆者の一種の正義感から来るものです。


以上のような理由で、いわゆるサンクチュアリ問題について、この際、信者の参考に筆者の見解を述べておきたいと思います。なお、本拙文は筆者の個人的見解であり、異論・反論は遠慮なくご指摘下さい。


【文享進氏の光と影】


筆者が感じるところ、享進氏には優れた宗教性と、一方では、危うい精神性、即ち、その光と影が混在して、その両面が色濃く漂っています。


<文享進氏の宗教的カリスマ性>


さすがに文鮮明先生(以下、「お父様」と呼ぶ)の息子(7男)だけあって、享進氏は優れた宗教的感性とカリスマ性の持ち主であり、その奇想天外な個性と相俟って、語る言葉にも真に迫るものがあります。


ボストンの神学大学院で比較宗教学を専攻し、学生時代には仏教に傾倒し、髪を剃り僧服を着用していたと言われる変わり種で、チベット仏教のダライラマや、韓国最大の仏教である曹渓宗(チョゲチョン)の前総務院長である法藏(ポブジャン)などに面会して、超宗教的な活動にも積極的でした。


また、末っ子でお父様に愛されたこともあり、お父様をこよなく慕い、お父様を罪なき再臨のメシアとして帰依し、賛美し、愛する姿勢には目を見張るものあります。


<文享進氏の危うい精神性>


しかし一方では、享進氏には、極めて危うい精神性が散見され、それは彼の奇異な言動に現れています。


先ず筆者が最初に驚いたのは、本歓迎集会に彼が頭に銃弾で飾られた王冠を被って(夫婦共に)、会場に現れたことです。この銃弾は、聖書の「鉄の杖」(黙示録2.27)を意味し、国家と世界の安全保障を象徴するというのです。彼は今までも小銃を持ち歩いたり、何かと銃に拘る性向を有し、信者にも、銃を携帯しての 行事参加を求めることがあります。


この宗教家とは対極にある奇異なパフォーマンスは、専ら彼のスポンサーであり、サンクチュアリ教会の監察総官として実質的に教会をコントロールしている4男の文国進氏(1970年生れ)が、小型銃器メーカーであるカール・アームズの創設者兼オーナーであることが大きく影響しています。


この国進氏は、2004年6月、ミスコリアだった朴知鋭(パクジイェ)さんとのいわゆる「でき婚」の噂があり、2004年9月、朴知鋭さんと真の父母様主礼で聖婚(清平天正宮)したとは言え、前妻との離婚が成立(2004年10月)する前に妊娠させていたとの風聞があります。


次に奇異な行動は、亨進氏が、文鮮明師と韓鶴子女史を離婚させ、また聖アウグスティヌスと霊界祝福を受けていた姜賢賓女史を、アウグスチヌスと離婚させ、文鮮明師と姜賢賓女史を結婚させる儀式を執り行ったという不可解な行動であります。従って、現在サンクチャリー教会では、お父様の妻は姜賢賓女史(95 才)になっており、この二人の写真が(真の父母として)サンクチュアリ教会の祭壇に飾られています。


それが彼なりの信仰的信念であるにせよ、一体、実の母である韓鶴子女史をお父様と勝手に離婚させ、姜賢賓女史と結婚させる権利と権能がどこにあるというのでしょうか。正に度を過ぎたオカルトの極致であり、しかもハーバード大学を卒業し、マイアミ大学でMBAを取得した知性派の国進氏が後押ししているというのですから、驚きです。一体、この二人はどこで道を見失ったのでしょうか。正に何者かに憑かれているとしか思えません。


そうして、極め付きは、実母韓鶴子女史(以後、「お母様」と呼ぶ)をお父様の聖和後、ルーシェル(サタン)と姦淫した天宙的なバビロンの大淫婦(黙示録17.1~2)であると、何の確かな根拠もなく公言していることで、これは明らかに名誉毀損に当たるでしょう。そしてそれが高じて、お母様の写真を、かのイエスの踏み絵のように、信者に踏みつけさせるといった奇行を行いました。正にこのような言動は、自分の不足を棚にあげて、教会の地位を追い出されたと誤解し、その恨みツラミが根底にあっての話しだと想像しますが、普通の常識通念を越えた度を過ぎた言動であります。


筆者は、享進氏がアメリカの責任者として赴任していたとき、自室に閉じ籠って、躁鬱状態に陥っていたことを聞いたことがあり、上記のような言動を見るにつけ、彼には一種の精神的疾患があるのではないか、とさえ思わざるを得ないものです。こう考えた時、上記で縷々述べて来た奇異な言動が理解でき、府に落ちるものです。


お父様の生前には、お父様が彼のオカルト的な言動を主管され、常に糺しておられたので、それなりに整理され霊的安定性が保てたのではないかと思いますが、お父様が他界された今は、糸の切れた凧のように、自分自体も、我知らずの内にコントロールできない精神状態に陥っているような気がして、心配しています。


【文亨進氏を王様と呼ぶ時代錯誤】


さて、今回筆者が最も違和感と不快感(嫌悪感)を禁じ得なかったのは、かのE女史が、「文亨進二代王様、信俊三代王様、おかえりなさい!」と挨拶し、享進氏を「王様」、妻 の李妍雅(リヨナ)女史を「王妃」と呼んで敬拝し、享進氏も悪びれることなく、それに応えていた情景に遭遇した瞬間でした。お父様でさえ、自らを王様などと呼んだことなどなく(平和の王と言われたことはあります)、また決して呼ばせなかったというのにであります。


つまり、享進氏をお父様の正式な後継者・代身者・相続者と位置付け、お父様、亨進二代王、信俊三代王を「三代王権」と呼び、これを何度も強調していたことは、筆者にとって上記の奇怪な言動を上回る驚きでした。


<享進氏は後継者なのか>


このように、サンクチュアリ教会は、「文亨進家庭は、真の父母様の『王権』を継承された」としましたが、果たしてそうでしょうか。


サンクチュアリ教会が享進氏に「王権が継承された」と主張する根拠は、2008年4月18日の世界会長就任祈祷、及び2009年1月15日に韓国で、さらに同年1月31日に韓国と米国の2カ所で、計3度にわたって行われた「万王の王神様解放圏戴冠式」であります。


しかしながら、世界会長就任祈祷は文字通り会長就任を祝す祈祷であり、王権継承の祈祷ではありません。そして UCの公式見解にもある通り「万王の王神様解放圏戴冠式」は、その名称が示すごとく神様と真の父母様が一心、一体となって「万王の王」として戴冠された式典だったのであって、亨進氏が「王権」を継承した式典ではありません。この式典は神様と完全一体となられた真の父母様が、神様を王様として戴冠して差し上げた儀式であります。


即ち、この式典は、あくまでも万王の王としての神様の解放圏戴冠式だったのであり、その主役は神様と真の父母様であり、そして、王権を確立された真の父母様を中心とする「真の家庭」の四位基台の立場において、亨進氏が真の子女の立場を代表してその場に同参したに過ぎません。決して「王様」の立場が、子女様の代に委譲、継承されたということではないというのです。


また、そのときの式典の「式次第」や「司会者の言葉」、および真のお父様ご自身の「み言」を見ても、一言たりとも、「亨進氏に王権を継承する」といったことは語られていないということです。(家庭連合ブログ)


享進氏は今回のスピーチの中で、「自分はメシアの血統で君たちとは、血筋が違う。そして兄弟の中でも自分が選ばれた特別な人である」などと、自らが特別な使命を持った正統な後継者、即ち「王権の継承者」であることを明言しました。しかしこれは享進氏の願望ないしは妄想、または思い込みに他ならず、堕落性丸出しの暴言です。


また、自らを「二代王様」と呼ばせ、息子さんの信俊さんのことを「三代王様」などと呼ばせていますが(あるいは呼んでいますが)、信俊さんが三代の王権を継承するなどとは正式に聞いたこともなく、何の根拠もない荒唐無稽の妄想であることは明らかです。


そもそも、この「二代王様」、「三代王様」という表現ほど、時代錯誤も甚だしく、正直、何か絶対王政時代に引き戻された感がして、強い嫌悪感を感じたものです。民主主義が定着した現代社会において「王様」などという前近代的な言葉を使うこと自体が恥ずかしく、狂っているとしか言いようがありません。享進氏、及びE女史らの精神構造に、何か異常を感じるのは筆者一人でしょうか。


実は筆者は、宗教的には異邦人、そして実人生では世俗的傾向がある「罪人のかしら」(1テモテ1.15)ですが、幼い時から直感力だけは鋭いところがあり、「この人はこうなるな」、「あの人は危ういな」という風に、結構人の品定めが当たっていました。その段からすれば、昔から、このEさんという女性は、み旨にはまっすぐですが、思い込みが激しく、危ういな、何か変わったことをしでかすかも知れないと、心のどこかで引っ掛かってきましたが、ここに来てやっぱり筆者の直感は当たっていました。


<真の父母は唯一であり、一カップルだけ>


享進氏は、自らを二代王様と呼び、後継者としていますが、「真の父母は唯一であり、一カップルだけなのです。 他には絶対に存在しません」( 「父母の日と私」1990年3月27日)、とあり、「真の父母が現れる時は、歴史上で一度しかない定点をなす時であり、 空前絶後の時なのです」(8大教材教本天聖経992ページ)、「どの息子娘も自分勝手にすることはできません。真の父母は2人ではありません」( 2008.05.14)とある通り、真の父母に後継の王様などはあり得ません。


即ち、真の父母は、後にも先にもなく、ただ一カップル、一組だけであり、子女様と言えども、メシアたる資格としての「真の父母」になり得ないことは明らかで、いわば真の父母の代理人に過ぎません。


「先生が霊界に行くようになればお母様が(自動的に)責任を持つのです」とみ言で何度も明言されている通り、文先生亡き後、第二の教主(平和の母P219~P220)たるお母様が「真の父母」を代表して全てを継承するのは、当然の理であります。このことは原理であり、また自然の道理、即ち、位置的継承であるというのです。


そもそもこのような問題を、享進氏や顕進氏のように、「我こそはお父様の後継者・代身者・相続者」などと言って争うのは、まるで李王朝の権力争いを見ているようで、恥さらしであり醜いことこの上ありません。このようなことを、人間側であれこれ論議するのは、ごう慢で過分との謗りを免れず、全ては、神と真の父母の主権の中でなされていくことであります。


ちなみに、「天一国」の名称を正式に言えば「天宙平和統一国」ですが、これは霊界と地上界を併せた「天宙」の平和統一国であり、その王国の中心は永遠に万王の王であられる「神様と真の父母様」であります。そして真のお父様と真のお母様が霊界に行かれた後も、その天一国の中心は永遠に神様と真の父母様であります。また亨進氏自身も、「真の父母様は永遠に一組です。子女は子女であって、真の父母になることはできない」と自らも言っている通りです。


【後継問題、天一国統治へのヒント】


「君子豹変する」との言葉がありますように、ロシアのプーチンは、まるで人が変わったようだと言われています。「権力は必ず腐敗し、膨張する」という言葉は権力の性質をよく言い当てており、プーチンのように20年以上も権力の座にいると、精神的におかしくなり、やがて裸の王様にになって、この度のウクライナ戦争といった大義なき侵略に走る暴君に豹変していくというのです。


従って、アメリカ及び日本の憲法など現代憲法には、「三権分立」と「人権規定」(個人の尊厳)条項が必ず明記され、国家と王と権力の暴走に歯止めをかけています。そしてこの法理は普遍的真理であり、天一国憲法にも、何らかの形で反映されるべきだと思われます。


享進氏は、顕進氏のことを「詐欺師」だと糾弾し(実際は教会財産を簒奪した「犯罪者」)、また顕進氏も応酬して兄弟骨肉の争いをしています。朝鮮王朝の初代王となった太祖(テジョ)の時代から、後継問題を巡る争いは、李王朝のお家芸であり、李王朝初期から抱えてきた争乱の種でした。


E女史は、サンクチュアリの監察総官になった国進氏と二代王の享進氏は、天宙的なカイン・アベル一体化の勝利者などと勝手な解釈をしていますが、国進氏の深層心理はそんなところにあるのではありません。筆者の独断で言えば、国進氏が絶対譲れない一線は、お父様の後継に顕進氏が就任することだけは許さないということであり、享進氏はその当て馬にしか過ぎません。それほど、国進氏と顕進氏の確執が深いということです。


さて、世に「清洲会議」という史実があります。1582年(天正10)6月27日、織田氏の諸将が清洲城(愛知県清須市)で本能寺の変後の事態収拾のため行った会議で、特に織田信長の後継問題で信長の次男信雄(のぶかつ)と三男信孝が争いました。


柴田勝家は信孝を推しましたが、しかし羽柴秀吉は信雄・信孝のいずれをも退け,信長の長男信忠の遺児三法師(後の秀信)を継嗣として主張しました。秀吉が三法師を膝の上に乗せて並み居る諸将の前に出て、後継問題を三法師で決着を着けた場面はドラマでもお馴染みの光景です。


顕進氏は自らが事実上の長子だと主張し、享進氏はお父様から直接後継に奉戴されたと主張して相譲りませんが、お父様のみ言には「孝進君が長男、孝進君の後孫たちが継代を受け継いでいくのです」(祝福1985年冬季号 第四十七号)という言葉があり、清洲会議において信長の長男の子で決着したと同様、どうやらその線で事が運ばれていく趨勢にあるようです。また長子の孝進氏の子であれば、誰も文句は言えないのでは、と思われます。


上記しましたように、後にも前にも、真の父母は唯一のワンカップルであり、後継者はあくまでも代理人に過ぎません。その際、参考になるのが、イギリスの王制と日本の天皇制であります。


「君臨すれども統治せず」、「王と言えども神と法の下にある」とは、イギリス皇室の伝統であり、また日本の天皇は、歴史・文化・伝統の象徴、即ち、権威の象徴であって権力は持ちませんでした。これら権威と権力の分離は、神が示した理想的な統治の在り方のヒント(雛型)とも言え、私たちは、大いに学ぶべきてあります。


例えば、大正天皇は、精神的に異常があったと言われていますが、国家は総理大臣の元で滞りなく運営されました。真の父母こそ霊肉共に主管能力がありますが、今後の継承者に全てを望むのは現実的ではありません。血統と権威の象徴としての文家の承継者と、教団の実務運営者(合議制)は分けて補い合うことが双方にとって望ましいと思われます。


誤解を恐れずに申せば、天一国は、神と真の父母を永遠の盟主(主権者)とし、法の支配に基づく完成期的な立憲君主国家であると言えるでしょう。


【すべては大海に注がれる】


しかし、全ては「真の父母という大海」に注がれていくというのです。


先般筆者は、「メシアの本質とキリスト教のメシア観」とのタイトルで、金振春教授の論文を批判し、文鮮明先生「無原罪誕生論」をしたためました。そしてその中で、「私たち統一食口は、一列に並んで『無原罪の真の父母』という一点から、一斉にスタートできるというのです」と明記し、衆目が一致する真の父母、即ち、1960年のご聖婚により、歴史上始めて真の父母が立ち、「霊肉の重生摂理」を始められたというこの事実において大同団結できると強調しました。


人はよく、真の家庭と謳われる真の父母の子女たちの実態は、世間の一般家庭よりひどい状況にあるとし、一体、どこに理想家庭の姿があるのかと非難いたします。


確かに、不倫、離婚、アル中、自殺、事故死、分派活動、などがとりざたされ、一見、悲惨な様相を呈しています。しかし、メシアの家庭は人類の坩堝(るつぼ)であり、子女様が非の打ち所のない聖人君主ばかりであれば、むしろ我々凡夫は返って救われないでしょう。メシア家庭に人類の坩堝として、様々なパターンがあることで、逆に私たちは救われるというのです。


そして孝進氏にしても、仁進女史にしても、最終的には深く悔い改めて父母に従う孝行息子・娘として立ち返っています。また今回問題になっている享進氏、国進氏、顕進氏にしても、皆優れた能力と資質のある個性豊かな方々ばかりであり、紆余曲折はあっても、究極的には真の父母という大海、み言という海に注がれて、皆救われると信じる次第です。


「彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである」(イザヤ11.9)


以上、 今回は、来日している文享進氏のスピーチなどを中心に、感じるところを述べて参りました。宗教が背負う不条理な現実に負けることなく、むしろ成長と自己改革の反面教師として、逞しく進んでいきたいものです。(了)



上記絵画*アウグスティヌス(ボッティチェリ画)