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スウェーデンボルグの世界② 霊界とは何か

〇つれづれ日誌(5月19日)ースウェーデンボルグの世界(2)ー霊界と何か


その後,わたしは,わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し,年寄りは夢を見,若い男は幻を見る。その日,わたしは,しもべにも,はしためにも,わたしの霊を注ぐ(ヨエル書2.28~29)


かつて内村鑑三は,最愛の娘ルツ子(18歳)を失った時,こう周囲に洩らしたといいます。「余はルツ子を失って,来世が初めてわかった」と。


内村は、愛娘ルツ子の死去に遭遇し、霊界の存在を確信したと告白しました。時に人間は、親しい人の死に遭遇したとき、永遠の霊界に思いを馳せるきっかけになるものです。


今回は、前回に引き続き、30年間霊界を生きながらにして探訪してきた科学者スウェーデンボルグを、原理との対比を意識しつつ考察することにいたします。


【スウェーデンボルグの召命】


先ず、スウェーデンボルグが、神に召されるまでに辿った思想遍歴について 見ていきたいと思います。


<鉱物から生物へ>

前回触れましたように、スウェーデンボルグは、1736年ころ、研究対象をそれまでの「鉱物」から、「生物」へ転換を諮りました。解剖学、生理学の研究です。


彼は科学・工学の研究を続けていく中で,「真理は物質の中にではなく,有機的な生命の中にある」と考えるようになり,生理学や解剖学の研究に転向します。


そしてこれは、人体の組織と機能の研究を通じて、最終的に「霊魂」の所在と働きを突き止めるためでした。


ちなみに霊魂とは、人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在と言われています。個人の肉体や精神をつかさどる人格的・非物質的なもので、感覚による認識を超えた永遠の存在と考えられています。


<生物から宗教へ>

しかし,彼は満足できませんでした。霊魂の所在を脳に突き止めたものの、脳と身体の関係をいくら研究してみても,人間の本質にたどり着けなかったのです。真理は肉体生命の中にはない、そこで彼は、宗教の研究に没頭するようになります。そしていつしか「霊界に参入する神秘体験」を経験するようになり、57歳のある日、「霊界を証明せよ」とのキリストの命令を受けることになりました。


彼は、「人体は霊魂の治める王国」であると考え、脳の先にある霊魂は肉体の霊魂ではなく、「霊的な霊魂」だと認識するに至りました。


<イエス・キリストの召命>

1744年4月6日、スウェーデンボルグは「イエスとの霊的体験・幻視体験」をすることになりました。


そして1745年自宅にて、遂に「聖書の真の意味を啓示する使命」をイエスから託されたというのです。これこそロンドンでの召命体験であります。時に57才でした。


「私は主なる神、世界の創造主にして贖罪主である。人々に聖書の霊的意味を啓示するため汝を選んだ。この主題に関して何を書くべきかを汝に示そう」


彼の霊界への道は、鉱物→生物→宗教→霊的体験→召命という流れを辿りました。かくしてスウェーデンボルグは、以後30年余、科学を捨て霊的世界の探求と150冊もの著述に没頭することなります。当に奇跡的な人生としか、言いようがありません。彼は、霊界の存在の証し人として、神に召されたのです。


スウェーデンボルグは、イエス・キリストに命じられたように、その後の人生を「霊界の証明」に邁進しました。そして、1772年3月29日、分が予告した日に死んだと言われ、自分が死ぬことを、全く恐れていなかったとい言われています。あたかも故郷に帰るかのように、喜びに溢れつつ、死んでいったといいます。



但し、前回も触れましたが、スウェーデンボルグの神学思想は、三位一体の神やイエス・キリストの代理贖罪を認めていないなどの理由で、伝統的キリスト教からは異端視されています。


【スウェーデンボルグ著『天界と地獄』】


ここでスウェーデンボルグの著書『天界と地獄』と、李相軒氏の霊界通信『霊界の実相と地上生活』を対比しながら見ていきたいと思います。


<天界と地獄>

スウェーデンボルグは、霊界には天界、精霊界、地獄界があるとし、次のように語りました。なお、霊界とは、死んだ直後に入る精霊界と、精霊界を通過した後に入る天界または地獄界の全てを指します。


「人間における天界の状態とは、その人の中で善と真理が結び付くことであり、地獄の状態とは、その人の中で悪と虚偽が結び付くことです。精霊界は天界でも地獄界でもなく、その二つの中間の場所であり、 中間の状態です」(『天界と地獄』第1章)


またスウェーデンボルグは、死とは肉体と結合している霊魂が、肉体と分離し、霊体として霊界で生きることであると述べています。つまり、霊魂にとって、死は霊界への移住にぎないというのです。


「人間は死ぬとその霊は肉体から離れますが、生きていた時と同じように生きています。霊になっても身体を持ち、清められた全ての感覚を持っています」(『天界と地獄』第1

章)


上記に見てきた霊界観は、「死は次世界への第二の出生である」とする原理の霊界観とほぼ一致しており、スウェーデンボルグの見た霊界は、妥当であることが分かります。


また、天界での仕事は無数にあり、その活動とは「善行」のこと、即ち自らを全体のために役立てることだと言います。神の国は「役立ちの王国」であると語りました。

そして、「神が愛の主体であり、霊魂が有限な人間の愛の主体である」とし、「愛が人間の最深部のものであり、人間の知性的機能は愛から発したもの、愛が形をとったものである」と指摘しました。(高橋和夫著『スウェーデンボルグの思想』P176)


当にこれらは、原理が示す「為に生きる」という天国の愛の在り方と同様であります。


李相軒霊界通信『霊界の実相と地上生活』には、「天国とは思いがそのまま実体となるところであり、天国は愛の至聖所であり、地獄は愛に背を向けた所です」(P30)とある通りです。


<40日の復活と永生>

そして肉体の生命が終わったのち、少なくとも40日が過ぎてから、完全な霊界人になり、40日間は、地上と霊界を往来しながら、自分の居場所を定めると言われています。即ち、「自分の居場所は、自分自ら探していく」というのです。(『霊界の実相と地上生活』P36)


これは、イエス・キリストが40日間復活された後、昇天された聖書の記述と符号します 。


【スウェーデンボルグの神学論点】


それにしても、スウェーデンボルグは、不可解と思える謎が多い人物でもあります。科学者でありながら、何故30年間も霊界を見せられたのか、スウェーデンボルグは、何故生涯独身だったのか、キリスト教会ではスウェーデンボルグを、何故あまり語らないのか、そしてそもそも何故今、スウェーデンボルグを学ぶのか、といった疑問であります。


<キリスト教は、何故彼を異端視するのか>

前回にも記しましたが、伝統的キリスト教は、スウェーデンボルグが三位一体などの教理やイエスの贖罪を否認していること、聖書の独自の解釈、形骸化するキリストを批判していること、などを理由に、彼を異端視する傾向があります。


スウェーデンボルグは、霊界体験と科学的知識の融合により、独自の霊的思想を語りましたが、これらは、必ずしも伝統的キリスト教の教理と一致するものではなく、また普遍宗教へと向かう傾向がありました。従って、キリスト教は、あまりスウェーデンボルグについて語りません。


次の項で、スウェーデンボルグがキリスト教から異端視される最も大きな理由である三位一体論とキリスト論について、高橋和夫著『スウェーデンボルグの思想』を参考に、考察していきたいと思います。


【三位一体論、キリスト論に関して】


これからの話しは、やや神学的な議論になり、ちょっと取り付きにくいかも知れませんが、暫くお付き合い下さい。


<三位一体論について>

キリスト教の三位一体の教義が最終的に確立されたカルケドン公会議(451年)で、「神は唯一の実体であり、父、子、聖霊という3つの位格(人格)を有し、そして父・子・聖霊は各々が神であり、しかも同質で一人の神として存在する」と宣言されました。


即ち、「父と子と聖霊は、それぞれ独立した神であるがそこに三人の神がいるのではなく、三者は完全に一つとなっており、そこにいるのは一人の神である」(梅本憲二著「やさしいキリスト教神学」P36)というわけであります。


そして、三位一体は、3人の神がいるという「三神論」ではなく、また神が父と子と聖霊という三役をしている、といった「様態論」でもないとされています。


また、救済摂理の経綸においては、天地の創造者は父なる神、十字架に架けられたのは子なる神、信徒に癒しや奇跡を与えたのは聖霊、であるとしました。即ち、唯一の神が、天地創造において父なる神として、救いの経綸において子なる神(イエス・キリスト)として、救いの導きと聖化において聖霊なる神として働くというのです。(経綸的三位一体論)


しかし、この三つが一つであり、一つが三つであるという教理は、極めて理解が難しく、著名な神学者もその難解さを率直に吐露しています。ヘンリー・シーセンは「三位一体の教理は偉大な神秘である。唯一の神でありながら、同時に神格に三位格があるというようなことが、どうしてあり得るだろうか」(「組織神学」P224)と告白し、AEマクグラスは「三位一体論は、キリスト教神学において最も混乱を招く側面となっている」(「キリスト教神学入門」P437)と表明しました。


一部のプロテスタント教会においては、16世紀から19世紀にかけて、三位一体論は不合理であるとしたり、信仰者の生活への混乱をもたらすとして批判がなされてきました。  


こうして、三位一体論が難解であることはキリスト教会において前提となっており「三位一体論は、理解する対象ではなく信じる対象としての神秘」とされ、一種の「信仰告白」であると言われています。


即ち、この三位一体の教理は、一神教という枠を保持しながらキリストと聖霊の神性を両立しようとする信仰の論理、即ち「信仰的事実」であるというのです。


<スウェーデンボルグの三位一体論>

スウェーデンボルグの神学論は、伝統的な三位一体論を、父・子・聖霊を独立した別個の三つの人格、三つの神に分断してしまった「三神論」であるとして批判しました。


しかし、「三一性」という考え方で、「父を意味する創造神、子を意味するイエス・キリスト(神人)、聖霊を意味する霊の働きという三つの性質が一つの人格神のうちにある」ということを認めています。つまり、創造者なる父(神)、救済者なる子(イエス)、聖化させる者(聖霊)の三者は、一神の一人格の有する三つの本質的要素だとしました。(高橋和夫著『スウェーデンボルグの思想』P180)


この見解は、前述した、神が父と子と聖霊という三役をしているという「様態論」に近い考え方であります。 ちなみに様態論とは、キリスト教では、父・子・聖霊の三位格をそれぞれ自立した神と解する三位一体論ですが、これに異を唱える唯一神論であります。


<スウェーデンボルグのキリスト論>

三位一体論と密接に関わる問題として「キリスト論」があります。キリスト論とは、端的に言えば、「イエス・キリストは誰か」という問題、即ちイエスは神なのか(神性)、人なのか(人性)、あるいはその双方なのかという極めて重要な問題を扱っています。


スウェーデンボルグは、イエスの肉体と、魂の外側は人間のものであったが、魂の内側は神であったとしました。つまり、イエスの心ないしは霊魂の内部は神自身であるが、マリアから受けた外部は私たちと同じ人間であり、イエスは神人であるというわけです。そして神的人間性になるプロセス(栄化)を経てイエスは永遠の救済者になったとしました。


即ち、父とは神性それ自体であり、子は神的人間性であり、聖霊とは、神性が神的人間性を通して全ての被造物へと発出する、神的発出であるというのです。そして父・子・聖霊は、一なる神の三つの本質的な要素であり、この三つは、心・体・活動が一つであるように一つになっていると主張しました。


つまり、神的な三一性を自らに内臓する一神が存在し、その神とはイエス・キリストであるとする独特のキリスト論です。


結局、スウェーデンボルグのキリスト論は、イエス・キリストは「神人(神性且つ人性)」であるとしましたので、これはイエスが完全な人間ではなかったことなり、「イエスは完全な神であり、また完全な人間である」とするキリスト教の正統派神学から見れば異端となります。


以上の通り、スウェーデンボルグは、キリスト教の従来の三位一体論を否定したものの、あるいは独自の三一論を唱えたものの、イエスを神人(神)とした点で、あくまでイエスを創造目的を完成した人間(被造物)とする原理観とは、異なっています。


ただ、メシアは、神が実体化した存在ですから、その意味で、イエスを神と実感したとしても、無理からぬことであり、その意味では信仰によってイエスを神とすることは、当たらずとも遠からずかもしれません。


<スウェーデンボルグの贖罪論>

前述しましたように、スウェーデンボルグはキリスト教の代理贖罪論を否定しています。


贖罪には、罪を贖うこと、償うこと、和解させること、といった意味がありますが、一方、救済とは、救い出すこと、解放することであります。


キリスト教では、イエスは「贖罪者」とされ、罪にたいする神の怒りと罰をなだめる犠牲として、人類の身代わりとなって死んだという十字架信仰に基づいています。


つまり、キリスト教は、イエスを救済者というより、贖罪者であることに力点を置き、これこそ、代理贖罪・代罰説の根本思想であります。


一方スウェーデンボルグの贖罪観は救済論に近く、イエスを贖罪者としてより、「救済者」と見る傾向があります。


贖罪とは、霊界(つまり天界と地獄)、ひいては自然界の秩序の復元であるとし、地獄を撤廃するためには、神は有限な人間性を身に帯びなくてはならなかったとしました。(真のキリスト教115)


そしてイエスの生涯は、絶えざる試練と絶えざる勝利にほかならない(『天界の秘義』)とし、イエスは、十字架の死によって人類の罪の身代わりになったのではなく、その試練をも克服して人類を悪と罪から解放した救済者であるというのです。


しかし、贖罪者と救済者とは、コインの表裏と考えるのが妥当であり、従って、イエスは贖罪者であり救済者であるというのが、正解であると思われます。


いずれにせよ、三位一体論、キリスト論、贖罪論という、キリスト教の根幹に関わる教理について異を唱え、その妥当性はともかく、一石を投じ、問題提起をしたことは確かです


<霊界日記について>

スヴェーデンボルグが生前公開しなかった『霊界日記』において、聖書中の主要な登場人物をこき下ろしている箇所があります。


使徒パウロが地獄に堕ちている、ダビデを「ドラゴン」と呼び彼も地獄に堕ちている、著名なプロテスタントのフィリップ・メランヒトンが地獄に堕ちた、などと書きました。


一方、主イエスの母マリアは、白衣を着た天国の天使としてあらわれており、「現在、私(マリア)は彼(イエス)を神として礼拝している。」と記しています。


しかしこの霊界日記は、本来非公開の日記であり、後日ここから取捨選択して、真に神の啓示と信じるものについて公開すべき性質のものであり、日記の字句通りの受けとめは意味がありません。


なお、スウェーデンボルグによる霊界の描写は、現代人に起こる「臨死体験」と共通点が多いとされています。両者に共通する点は、広大なトンネルを抜ける体験、光体験、時空を超えた領域を訪れる体験、などであります。


【預言者スウェーデンボルグ】


また、スウェーデンボルグの前世は,平安末期の仏教僧源信 であるとか、前々世は,旧約聖書に登場する預言者ヨエルだとかの説があります。


源信の著書『往生要集』には赤裸々な地獄の様子が書かれ、凄惨な地獄の描写が中心でありますが、スウェーデンボルグの『天界と地獄』は,麗しき天国の描写が中心になっています。


<スウェーデンボルグとヨエル>

預言者といえば,堕落する民に警告を発し、悔い改めを説いた人々ですが、ヨエルの特徴は、真の悔い改めとは外的な「生活の改善」ではなく、「内面の回心」であることを強調したことにあると言われています。主の日(艱難時代)の裁きは、悔い改めの機会てあり、また清算の時であります。


そして預言者は,裁きの警告と共に、将来の希望を約束しました。ヨエルの預言した復活の希望として、以下の聖句が有名です。


「その後,わたしは,わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し,年寄りは夢を見,若い男は幻を見る。その日,わたしは,しもべにも,はしためにも,わたしの霊を注ぐ」(ヨエル書2.28~29)


スウェーデンボルグは、霊界を証すことを通じて、私たちの人生の在り方に警鐘を鳴らし、反省を求め、来世の希望を述べた点で、立派な預言者と言えるでしょう。


<真のキリスト教>

スウェーデンボルグの本心は、彼の最後の著作であり死の前年に出版された大著『真のキリスト教』にあるといわれています。


彼はこの著作において、キリストの贖罪を偏って解釈するキリスト教、悔い改めなきキリスト教、形骸化したキリスト教、を批判しています。そういうキリスト教徒に対し,スウェーデンボルグは真のキリスト教のあり方を強く主張しました。


このようなキリスト教徒に警鐘を鳴らすスウェーデンボルグの姿は、全国民に抗して一人立ち上がった預言者ヨエルの姿を見るようです。


「主は言われる、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもって神に帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け。あなたがたの神、主に帰れ」(ヨエル2.12~13)


【結婚愛】


締め括りに、スウェーデンボルグの著書『結婚愛』について述べておきます。


霊界と精神界の巨人であったスウェーデンボルグは、「真の結婚の霊的な秘密を知った」として、1758年、結婚の問題を扱った大著『結婚愛』を出版しました。この本は食口神学者のU氏も絶賛され、食口必読書だと言われています。


その中で、彼は「真の結婚愛は天国と地上の根元的愛」であり、そこから他のすべての喜びが流れ出ていると明言しました。


「真の夫婦愛」の本質とは何かを、スウェーデンボルグは次のように説きます。


「天国では、夫は知性と呼ばれる心の部分を代表し、妻は意志と呼ばれる部分を代表している。この和合はもともと人の内心に起こるもので、それが身体の低い部分に下ってくる時に知覚され、愛として感じられるのである」


そして「この愛は『結婚の愛』と呼ばれ、両性の天使(霊人)は身体的にも結ばれて1つになる、つまり天国にあっては、夫婦は2人の天使ではなくて1人の天使である」と述べました。これが天国の天使たち(霊人たち)の「真の結婚愛」というのです。


以下、スウェーデンボルグの著書『結婚愛』やその他の著書からの結婚愛に関する抜粋です。これらは、原理が語る「純潔愛・為に生きる愛・天的公認の愛」と瓜二つであり、大変示唆的で、U氏が言われる通り、彼の思想の集大成と言えるでしょう。しかも、生涯独身だった彼が、結婚愛といった内容をテーマにすること自体、驚きという他ありません。


「愛は、それ自体、結合への欲求であり作動力である。そして結婚愛は、結合してひとつになろうとする欲求であり作動力である。人間の男性と女性は、あたかも一人の人間、一人の肉体になることができるように創造されている。そして二人がひとつになるとき、彼らは完全な意味において人間になる」(『神の摂理』37)


「天界は人類から成っており、そこには男性の天使と女性の天使がいる。また、創造により、女性は男性のために、男性は女性のために存在するので、一方は他方に属する。そしてこの愛(結婚愛)は、両者にとって生得的なので、天界には地上と同じように結婚がある」(『天界と地獄』)


「天界では、あなた方の性愛はありません。しかし、情欲の凡ての誘惑から自由になった貞潔な天使の性愛はあります」(『結婚愛』44)


「天界の結婚は、地上の結婚と次の点で異なります。地上の結婚は、子孫の産出のためであるが、天界においては、子孫の産出の代わりに、善と真理の産出があります」(『結婚愛』44)


「異なる宗教を信じている二人の間に結婚愛はありません。なぜなら、一方の真理は他方の善と調和しないし、二つの類似性のない不調和な本質が、二つの心をひとつにすることはないからであります」(『天界と地獄』378)


「私は、地獄から排出している霊気から、地獄霊はみな結婚愛に反していることを感じました。地獄を支配している享楽は姦淫の享楽であり、天界の喜びである結婚愛の喜びとは正反対のものであると言えます」(『天界と地獄』第2章)


なお、李相軒霊界通信『霊界の実相と地上生活』には、浄化され昇華された究極の結婚愛を、次のように描写しています。


「ここ天国で高級霊同士でなされる霊人体での夫婦愛は、まるで一枚の絵のようです。互いに愛するとき、二人の体は一体となるので、完全な愛を感じるようになります。広い野原の中でも、砕ける波の上でも愛の行為をします」(P48)


【墓碑銘】

筆者はかって多磨霊園に眠る内村鑑三の墓を訪れたことがありますが、その墓碑銘には次のように刻まれていました。


I for Japan

Japan for the World

The World for Christ

And All for God.


ーわれは日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、すべては神のためー


筆者も今回、墓を確保することにし、墓碑銘を刻むことにしました。(了)