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中原家庭教会での説教から 聖書の奥義とは何か

◯つれづれ日誌(令和4年11月16日)-中原家庭教会での説教からー聖書の奥義とは何か


聖書には、重大な内容が比喩と象徴で描写されているのです。比喩と象徴は天からくるメシアによってのみ明確にされます。旧約の律法の核心内容を明確に教えてくださった方がイエス様であり、先生の教えを通して、新旧約聖書全体に貫き流れる神様の救援摂理に関する天の秘密が、明確に現れているのです。聖書は神の創造理想、堕落、復帰の道が隠された秘密の啓示書です。先生が明らかにした原理は、各種の経書で疑問視されていることに対するすべての答えが、明快に表されています。(平和経・神様のみ旨から見た環太平洋時代の史観1P1590)


文鮮明先生は、聖書には暗示的で隠された神秘、神の救済歴史の秘密、即ち、「奥義」があると言われました。そしてこの聖書の奥義を完全に解いたのが原理であるというのです。


【聖書の研究と解明に集中された文先生】


「開始1984年12月11日日午前 0 時、読了 1985 年 1 月 13 日 3 時 33分 34 秒、読むのに要した期間、33 日 3 時間 33 分 34秒、神の御旨をすべて明らかした」(文鮮明先生の聖書記載文言)


上記文言は、文先生がダンベリー刑務所で聖書を通読され、読了後、韓国語聖書の裏表紙に書き込まれていた走り書きです。北朝鮮訪問に同行した世界日報の記者が目撃しました。


また、著名な建築家の厳徳紋(オム ドンムン)氏は、学生時代に文先生の下宿で、下記の事実を目撃したと証言されました。


「下宿した私の机には、常に英語、日本語、韓国語の三種類の『聖書』を並べて広げておき、三つの言語で何度も何度も読み返しました。読むたびに熱心に線を引いたりメモを書き込んだりして、聖書はすっかり真っ黒になってしまいました」(『自叙伝』P79)


さらに、1946年5月27日、「天命」を受け、妻子を置いてソウルを離れ、ソ連軍占領下の平壌に向かわれました。使い古した聖書一冊だけを持って、着のみ着のまま単身北朝鮮に行かれた文先生でした。その時、北で初期に導かれた金元弼(キム ウォンピル)氏は、文先生の聖書にはくまなく傍線がひかれ、行間にメモ書きが書かれていたと証言しました。


このような証言が如実に語っているように、文先生が如何に聖書を丹念に読まれ、つぶさに研究されたかがよく分かります。文先生は、正に聖書研究の上に立っておられるというのです。


1935年4月17日早朝、イエス・キリストが文先生に顕現され直接使命を託されました。その後10年余、聖書の奥義の解明に投入された文先生には、断続的に新約聖書に基礎を置く啓示があり、その中で原理を明らかにされていかれました。


1941年4月に早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科に入学されて以後、本格的に原理の究明と体系化に没頭され、聖書全体を反復して読破し、新たに発見された原理と照らし合わせて検証されていったといわれています。


【中原家庭教会での礼拝説教】


さて筆者は知人の紹介で、11月13日、川崎の中原家庭教会にて、聖日礼拝の説教を担当しました。題目は「聖書の奥義とは何か」で、久しぶりの礼拝スピーチです。


最近、第一地区主宰で行われたネットでの原理研修会があり、これに出られた中原家庭教会の劉仁永教会長が、講師から聞いた話しが発端となり、筆者に聖書と原理の関係について話して欲しいとの依頼があったという次第です。つまり劉教会長は、原理を深く理解するためには、原理の元になっている聖書を理解することが大事だと言われた中村講師の言葉に反応して、早速筆者に説教を依頼されたという訳です。


そこで筆者は、「原理講論は聖書の新しい解釈論である。また聖書の奥義を解明した神学書である」というテーマ、即ち「聖書の奥義とは何か」という題目で語ることになりました。以下はそのスピーチの内容です。


<ユダヤ教は長男、キリスト教は次男、統一教会は三男>


「アメリカには同じ神様を父と信じる三兄弟が住んでいます。長男がユダヤ教、次男がキリスト教、三男が統一教会です」(史吉子著『原理に関するみ言の証』HJ明圓P349)


このように文鮮明先生は、ユダヤ教、キリスト教、統一教会は同じ神を信じる三兄弟であり、一番弟の統一教会は二人の兄に侍って吸収し、これを凌駕して長子権を回復しなければならないと言われました。即ち、長男のユダヤ教、次男のキリスト教を消化、吸収してこそ完成期的な長子として立てるというのです。


つまり、旧約聖書は新約聖書の土台になり、新旧約聖書は原理の土台になっているというのです。これを一つの木に例えれば、神が根っ子にあり、幹が旧約聖書、枝葉が新約聖書、そして果実が原理だというのです。私たちは原理という果実を食べてそれなりに満足していますが、その果実の味の深さを知るためには、その果実のよって立つ養分、即ち新旧約聖書を知らなければなりません。つまり、 原理をより深く理解するためには、その土台にある聖書の理解が必須であり、これが「何故聖書を学ぶのか」の第一の理由です。


筆者はかってある日、「原理講論は聖書の新しい解釈論である」とのインスピレーションを受けました。こういうことは、前から聞かされていたことでしたが、改めて認識して目から鱗でした。原理講論に頻繁に出てくる聖書からの引用の多さがこれを証明しています。聖書が比喩や象徴で暗示する部分、即ち聖書の奥義を明らかにして、新しく解釈したのが原理講論であるというのです。これは確かに、一つの見方として十分頷けるものがあります。


旧約の律法の核心内容、即ち旧約聖書の奥義を明確に教えてくださった方がイエス様であり、新旧約聖書全体の奥義を明らかにされるのが来るべきメシア、即ち文先生であります。正にこれが神学的体系としてまとめられた原理講論であり、その後まとめられた天一国経典三部経(天聖経・父母経・平和経)であります。聖書には「霊」が宿り、原理講論には「真理」が宿り、天一国経典には「愛」が宿るというのです。従って私たちは、聖書、原理講論、天一国経典を「神の言葉」として研究し体恤しなければなりません。




<人生の三つの宝>


また筆者は礼拝の中で、「人生の三つの宝」について言及しました。即ち、私たちにはかけがえのない三つの宝があるというのです。一つは神、一つは神の言葉、一つはキリスト(イエス・真の父母)であります。神と神の言葉とキリスト、この三者こそ私たちの宝であり、唯一にして最大の財産であります。


「神を知ることは、知識のはじめ」(箴言1.7)とある通り、一度しかない人生において、生命の源なる神を知り、そして真の神と出会うこと、これに優る宝はありません。


「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6.4~5)


ユダヤ人たちは、朝夕の祈りの中で、シェマ―(聞け)と呼ばれる上記の言葉を唱えることを最も聖なる義務の一つだと考えてきました。イエス様も「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ22.37~38)と言われました。


ユダヤ人は、 世界人口の0.2%しかいないにもかかわらず、ノーベル賞受賞者が何と20%もいるというのです。この秘密は、「知識の初め」なる神を小さいときから教えられているからだと言われています。


次にもう一つの宝は神の言葉です。孔子の言葉に「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(論語―里仁)という言葉があります。これは、人生において真理と出会えたなら死んでも本望だという意味であり、真理の追求の重要さと、それにかける情熱を強調したことばとして知られています。


かって筆者も、神にどん底まで追いやられ、そのどん底で神の言葉と出会った体験があります。神は全てを失った筆者に、「神の言葉は唯一最大の財産ではないか」と語りかけられました。この瞬間、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それは、わたしがキリストを得るためでありる (ピリピ3.8)とのパウロの言葉が甦ってきました。この顛末については、「つれづれ日誌(令和4年10月26日)-どん底からの復活」で記しています。


そして筆者は、文鮮明先生が「何故メシアと言えるのか」について、聖書の奥義を解明されたこと、即ち隠されていた宗教真理を紐解かれ明らかにされたことを筆頭に挙げています。(「つれづれ日誌-令和4年8月10日-文鮮明先生は何故メシアと言えるか」参照)


そしてこの業は、本然の神の血統から来られた原罪なきメシア、サタンの讒訴圏なき再臨のキリストにしか出来ないみ業であります。


神の言葉。私たちの人生の中で、神の言葉と出会えることは、何よりの慶事です。そして、その神の言葉の実体であるキリストとの出会いは、更なる喜びであり、ここに救いがあります。即ち、生命の源たる神、神の言葉、神の言葉の実体たるキリスト、この三者は私たちの宝であり、一度しかない人生の中でこの宝と正しく出会えたとするなら、他の全てを失ったとしても、その人の人生は「成功者の人生」と言えるでしょう。正に「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」です。


【聖書の奥義とは何か】


文先生は、「聖書には、重大な内容が比喩と象徴で描写されている 」と指摘されましたが、この聖書の暗示こそ奥義です。


そして筆者は礼拝の中で、代表的な3つの奥義を挙げて説明しました。


一つは創世記3章の失楽園の物語です。人間の堕落を描いたこの章は、過去幾多の解釈がなされ、未だに確固たる解釈はなく、ただここから罪(原罪)が生まれたという漠然とした説明に終わっています。そして創世記3章を完璧に解釈したのは原理です。


次に、創世記38章のユダとタマルの顛末です。キリスト教では、ユダとタマルが関係したことは汚点とされ、汚れた話と解釈されています。この物語が、メシアを生むための血統転換の秘密につながる神の摂理だとは、まさか思いもよらないことであります。


創世記38章28節に「出産の時に、ひとりの子が手を出したので、産婆は、『これがさきに出た』と言い、緋の糸を取って、その手に結んだ」とあります。文先生は、「これを聖書が書いてくれていたお陰で、血統転換の教理を整合性を持って説明することができた。このようなことが書かれていること自体、聖書が神の救いの経綸を記した神の言葉である証左である」と語られました。


もう一つはマタイ書1章の聖霊による処女マリアの身籠りです。この箇所も諸説あり、未だ確定した解釈はなく、ただ一つの信仰的事実として信じ、実際は棚上げされてきました。


以上、代表的な聖書の奥義を3点挙げましたが、その他にも聖書にはあまた隠された奥義が散見されます。そしてこれらの奥義は歴史上、如何なる神学者も手が出ませんでしたが、文先生はこれらの奥義を悉く明らかにされました。聖書の完全な解釈、聖書の唯一の正当な解釈、これが原理であります。


【礼拝とは】


礼拝の締め括りに、聖日礼拝の意味について言及しました。


礼拝 には大きく、①神を礼拝すること、②み言を学ぶこと、そして、③信徒の交わりという三つの意味があると言われています。今回は、①の「神礼拝」について述べたいと思います。

「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4.24)とありますが、先ず礼拝は神を神霊と真理をもって礼拝することです。 この点、世界宣教師訓練センター所長の奥山実牧師は、「人間は神を礼拝するために生まれてきた。神礼拝は人生の目的である」と意味深なことを言われています。即ち、私たちは何のために教会の礼拝に行くのかと言えば、正に「神を礼拝する」ために行くというのです。


では礼拝すべき神はどこにおられるのでしょうか。神は教会の中にいましたまい、家庭の中にいましたまい、そして私たちの心の中にもいましたまいます。私たちは教会の祭壇の前で祈り、家庭の祭壇の前で祈り、そしてわが内にある祭壇の前で祈ります。


とりわけ教会で神を礼拝することは、特別の恵みがあります。何故なら、教会は公的性が高く、環境的にも祈りに適し、何よりも今まで多くの信徒の祈りの蓄積と霊的な基台があるからです。神様と自分が一対一で真剣に対峙するよい機会になります。


筆者は決して礼拝参加の優等生ではありませんが、時々教会で行われる祈祷会には必ず参加するようにし、礼拝堂で深く祈ることを楽しみしています。そして忙しい時には、我が「内なる祭壇」の前で祈り、神を礼拝しています。


筆者は、最近、奥山実牧師の「神を礼拝することは人生の目的である」との言葉に大変共感するようになりました。唯一神の観念が欠如している日本の多神教世界の中にあって、そして一度しかない人生の中にあって、神を知り、神と出会い、真の神を礼拝できる幸いは何にも優る宝であることを実感するようになりました。正に奇跡です。あの異邦人で反キリスト的だった筆者がです!


そうです。私たちは、天地を創造された唯一にして愛なる神を礼拝するためにこそ礼拝に行くのです。



以上、今回は聖日礼拝の説教を担当し、その中で語ったことをシェアいたしました。中原家庭教会は文字通り家庭的な教会で、礼拝堂は畳敷きであり、思わず48年前、福井の地区長をやっていた時の畳敷きの礼拝堂のことを思い出しました。


あの福井教会の礼拝堂で、田中イサエさんという信仰心の厚い 一人の婦人に、一対一で7日間原理講義をしたことがありましたが、この品のいい婦人が、田中富広現会長のお義母さんになろうとは夢にも思わなかったことであります。筆者は、このお義母さんが、富弘さんのために必死で祈られている姿をつぶさに感じながら、毎回つれづれ日誌を送って励ましています。富弘さんは、かくも素晴らしいお義母さんと出会えた果報者です。(了)