◯つれづれ日誌(令和4年7月20日)-久喜セミナーで語ったこと 日本的霊性について
そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。
「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」(使徒17.22~24)
去る7月9日、久喜市にて、「日本的霊性」を中心テーマにセミナーが開催され、筆者は講師として参加いたしました。このセミナーは、筆者の長年の知人であるK氏が主宰したものです。
【八紘一宇と人類一家族の思想】
K氏は、「八紘一宇」(はっこういちう)というキーワードを掲げ、「八紘一宇社会を考える会通信」を発信し、啓蒙を続けています。
K氏は、「八紘一宇」と「神の下の人類一家族」(One Family under God)には違いがあり、八紘一宇には、 日本のよき家族思想の香りがするが、One Family under Godには、上意下達の支配組織の感がするといいます。
ちなみに、八紘一宇とは、「天下、世界を一つの家のようにすること」を意味する言葉であり、大和橿原(かしはら)に都を定めた時の神武天皇の詔勅「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」(日本書記)を、全世界を一つの家のようにすると解釈したものだと言われています。
しかし「八紘一宇」は、第二次世界大戦中、日本の中国・東南アジアへの侵略を正当化するスローガンとして用いられたとも言われ、一方では、この語については侵略思想を示すものではなく「人道の普遍的思想」を示すものであるとの見解があります。
上記K氏の指摘が妥当が否かは別として、ともあれ八紘一宇には、日本が発信した世界統一の原理として造られた言葉という性格があると言え、究極的には人類一家族と同じ意味と捉えても間違いではないと筆者は考えています。
そしてK氏が今回のセミナーのテーマに日本的霊性を掲げたのは、八紘一宇の思想的淵源に日本的霊性といった精神性があるのではないかと考えたからではないかと想像しているところです。
【セミナーについて】
今回のセミナーは、五回シリーズで行われることになっており、その骨子は次の通りです。
一回目は、「日本的霊性とは何か」という題目で、日本的霊性の定義を明らかにしました。
二回目は、日本的霊性の主たる源泉である「古神道」について論考し、併せてそもそも神道とは何かを考察いたします、
三回目は、神道とユダヤ教、なかんずく、神社とイスラエルの幕屋の類似性を対比し、併せて神道とユダヤ教との異同を明らかにいたします。
四回目は、八百万の神とヤハウエの神、即ち多神教と一神教について論じ、併せて、何故日本に一神教が根付かないかの5つの理由について考察いたします。
五回目は、アメリカの市民宗教(アメリカ的霊性)、及び聖書的霊性とは何かについて論考し、日本的霊性との対比を通じて、日本的霊性の本質に迫ります。
【日本的霊性を巡る議論ー講義内容より】
先ずは、日本的霊性とは何かについて、セミナーの内容に従って、筆者の考えているところを解説したいと思います。
<鈴木大拙と山本七平の定義>
日本的霊性という言葉自体は、仏教学者の鈴木大拙が、著書『日本的霊性』という本で始めて使った言葉で、日本人の基層にある独特な精神性を言い、大拙は、これを「禅と浄土教の他力思想が核となった超倫理的、超精神的宗教意識」と定義しました。
そして、「精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越している、即ち霊性は精神を超えた概念であり、精神は分別意識を基礎としているが、霊性は『無分別智』である」 (鈴木大拙著『日本的霊性』P30~31) と述べています。
ちなみに「無分別智」とは、大乗仏教の根本的立場を示す重要な用語で、通常の主観と客観の見方(分別)にとらわれない知慧(ちえ)、即ち、主客の対立を離れた絶対智として真理を見る心のはたらきをいいます。この考え方は、兄(カイン)と弟(アベル)、夫と妻という分別概念を超越したUCの唱える「父母思想」と親和性があり、この無分別智に基づく仏教的思想は、西田幾多郎などに大きな影響を与えました。
そして大拙は、精神の意思力は霊性に裏付けられて始めて自我を超越したものになり、霊性の直覚力は精神よりも高次であると語りました。(同書P30~31)
また、作家の山本七平は、日本には、日本人の内に無意識に染み込んでいる宗教(=日本的霊性)があり、これを「日本教」と呼びました。
即ち、「日本人内に無意識に染み込んでいる日本教という宗教が存在し、それは血肉となっていて日本人自身も自覚しないほどになっている」とし、信仰する宗教は仏教であり、キリスト教であっても、それは「日本教仏教派であり、日本教キリスト教派である」、つまり、現住所は仏教でありキリスト教でも、本籍は日本教であるというのです。
このように、日本人の根底には独特の精神性、見えざるアイデンティティーがあり、これを日本的霊性(=日本教)と呼ぶことにいたします。
<外国人の二つの驚き>
さて外国人が日本を訪問し、二つのことに驚くと言われています。
一つが日本人が示す独特の宗教行動で、年末年始の宗教風景を見るとそれが良く分かります。12月25日にはキリスト教会でクリスマスを祝い、大晦日にはお寺の鐘を聞いて一年を顧み、元旦には初詣に神社に出かけます。また7・5・3は神社で、結婚式は教会で、葬式はお寺で行います。
そして日本人は、これらのことを何の違和感も矛盾もなく行うというのです。これをキリスト教徒やイスラム教徒から見れば驚きで、「何と節操もない」ということになります。
二つ目は、外国旅行客の驚きで、日本人は「親切で礼儀正しく、きれい好きでよく働く」という評価をし、ヤハウエの神もアラーの神も知らない日本人が、何故、このような高い倫理性、道徳性を持っているのだろうか、と云うのです。
かっての東北大震災の時、2万人もの犠牲者を出しながら、暴動も略奪も混乱もおこらず、日本国民は秩序整然と行動したと世界は絶賛しました。一体、このような節度を如何にして養ったか、何が日本人を規範づけているのかということであります。
<新渡戸稲造の武士道>
新渡戸稲造は、日本人の根底にあるこのような高い道徳性、倫理性を「武士道」に見出だしました。
新渡戸は、アメリカで日本人の宗教は何か、日本人は何を精神的な拠り所としているのか、一体日本人のアイデンティティーは何か、を問われ、即答に困ったといいます。
そうして、新渡戸が見出だした結論が、「日本人の道徳の淵源は武士道にあり」というものであり、新渡戸は、外国人に日本とは何かを紹介する目的のために、英語で『武士道』という本を著したというのです。尤も武士道と言っても、武士だけの規範ではなく、武士道に象徴される広く国民道徳という位置付けで書かれました。
新渡戸は、武士道の淵源として、「仏教」から無常観・死生観・平常心、「神道」から祖先、主君、親への崇敬、そして「儒教」から 五倫(父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信)、 五常(仁・義・礼・智・信)などの規範を獲得したと指摘しました。
【日本的霊性とはーその定義】
それでは、上記で述べてきたことを前提に、日本的霊性とは何かについて、筆者の見解を述べることにいたします。
<定義とその解説>
日本的霊性とは、日本人の基底にある宗教意識であり、「自然を崇め、先祖を尊び、和を重んじ、清浄を好む」という古来からの精神性が日本的霊性の核をなし、仏教の無常観や武士道的な忠孝の規範性が加味されて形成されている「無意識的な宗教意識」と一応定義できるでしょう。
この定義に見られる、「自然」「先祖」「和」「清浄」という4つのキーワードを、更に考察したいと思います。
先ず日本は、世界でも希に見る美しく豊かな自然を持ち、山岳地帯が国土の75%を占め、ここから清浄な水と空気が供給され、四季もはっきりしています。このような自然を、日本人は神々しいものとして、古来から感謝し、崇拝してきました。また一方では、地震や洪水や暴風や干魃をもたらす荒ぶる自然として、鎮魂の対象でもありました。
また、死ねば先祖は皆、神に帰るといった死生観を持ち、先祖は畏敬の対象であり、一方、たたりや災厄をもたらす霊として、鎮魂や慰霊の対象でもありました。そして先祖を祭ることは、天皇や父母や目上の人を敬うという倫理観につながっていき、新渡戸稲造が指摘しているように、五倫の思想が自然のうちに形成されて日本人の精神性となりました。
次に和の精神ですが、これも日本人の大きな特徴です。この思想は母性的な精神性でもあり、日本人は西欧のキリスト教のように、白黒はっきりする父性思想より、先ずは和して一つになる母性的傾向を希求しました。この和の精神性は、縄文人と弥生人の平和的な融合に見られ、また出雲の国の国譲りの神話にも見られます。
四番目の清浄を好む性向ですが、西欧キリスト教に見られる善悪の価値観ではなく、日本人は浄不浄、即ち、美醜の価値観を持つ傾向にあります。
こうして日本人は、儒教や仏教やキリスト教などの外来思想や宗教が来て、それなりの影響を受けましたが、取捨選択して良いものは取り込むが、基本的なところでは決して染まらない、基底をなす「日本的霊性」があるというのです。
<日本的霊性の淵源>
アメリカにはアメリカ的霊性とも言うべき「市民宗教」(アメリカ教)があると言われ、ワシントン、リンカーンなどは、この市民宗教の信奉者でした。これは、ピューリタニズム、聖書的選民観、愛国的心情などが源泉となって融合した「見えざる国教」とも言うべきアメリカの霊性であります。
では、日本的霊性の源泉は何でしょうか。日本的霊性の源泉には、神道、仏教、儒教の3つがあると思われます。即ち、仏教の無常観・死生観、武士道の儒教的規範性(五倫)、そして神道の自然観・先祖観・和の思想です。
その内、縄文・弥生時代以来の「古神道」の影響を最も強く受け、これが日本的霊性の基層をなしていると思われます。ちなみに古神道とは、仏教など外来宗教の渡来する以前に、日本にすでにあったとされる固有の信仰や儀礼の総称で、自然崇拝、祖先信仰、神意判断などをそのおもな内容としています。
即ち、前述しましたように、「自然を崇め、先祖を尊び、和と共生を重んじ、清浄を好む」というもので、この思想が日本的霊性の核をなし、仏教の無常観や武士道的な忠孝の規範性が加味されて形成されていると言えるでしょう。
日本人は、古来、目に見えぬ何かに対して、畏敬の念を抱く心、良心作用を発揮してきました。日常には、一種の霊的感性に基づく慣習が違和感なく溶け込み、霊的感受性が強い民族であり、「お蔭様」「世のため人のため」という日本語は日本人の倫理に根付いています。
前述した一連のお正月行事に見られるような、「世の常ならずすぐれたる徳のありて畏きもの」(本居宣長の神の定義)を崇める神道的な風習の中にも日本人の精神性、即ち日本的霊性が散見されるというのです。
この日本的霊性は、ヤハウェやアラーの神がいない日本において、キリスト教倫理に匹敵する高い倫理観の源泉になって来ました。曖昧で一貫性がない、ぬるま湯的で節操がないと揶揄されることもありますが、一方では、「見えざる国教」として、外来文化を柔軟に取り入れ、高い倫理性を保ち、国民の見えざるアイデンティティーとして大きな力を発揮してきたのです。
新渡戸稲造は、著書『武士道』の中で、「君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友における五倫の道は、経書が中国から輸入される以前から、わが民族的本能の認めていたところであって、孔子の教えはこれを確認したに過ぎない」(P36)と述べています。
つまり、五倫、 五常などの儒教的な徳目は、文字にこそ著されていないにしても、既に日本の太古にあったというのです。
【唯一神思想と贖罪観念の欠如】
聖所と至聖所からなるイスラエルの幕屋と、拝殿と本殿からなる日本の神社は瓜二つと言われていますが、幕屋にあって神社に無いものが一つあります。それが「祭壇」であります。幕屋にある祭壇は、イスラエルの罪の贖いのために、牛や羊を供え物、全焼のいけにえとして捧げるための祭具ですが、神社にはそれがありません。これは、罪観の違いからきていると思われますます。
ユダヤ・キリスト教には人間に内在する罪(原罪)という観念があり、これをいけにえによって贖うという贖罪思想がありますが、神道にはこういう「贖われるべき罪」という観念はありません。神道では、罪穢れは、あたかもほこりのように外から人間に付着するもので、これを禊(みそぎ)で清め、祓(はらい)によって取り払うという訳です。また前述したように、ユダヤ思想には、善悪の価値観があり、これを分別する(選り分ける)という観念がありますが、神道は浄不浄(きれいか汚いか)という価値観を有し、不浄を祓うという考え方につながっていきます。
新渡戸稲造は、日本の精神性を高く評価しながらも、「神道の神学には原罪の教義がない」と指摘し(新渡戸稲造著『武士道』P34)、また内村鑑三は、著書『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』の中で、「日本の倫理的、道徳的規範性は、決してキリスト教に引けを取らない」としながらも、「一神教の神観と贖罪観念が欠如している」と指摘しました。
「画竜点睛を欠く」という言葉が有りますが、このように、日本的霊性には、他の全てのものが揃っているけれども、肝心の眼、即ち、「唯一創造の神」という神観、そして 「罪の贖い」(贖罪)という観念が欠如しているというのです。
日本の神々は多神教の神であり、従って、日本精神に唯一神という眼が入り、祭壇に象徴される原罪という罪観が入れば、文字通り「鬼に金棒」ということになるでしょう。
筆者は、幕屋の契約の箱にモーセの律法(石板)が安置されているように、全国8万神社の本殿に、ご神体として聖書(神の言葉)を安置することを提唱しています。
「主は言われる、背信のイスラエルよ、(私に)帰れ。わたしはいつくしみ深い者である。いつまでも怒ることはしないと、主は言われる」(エレミヤ書3・12)とある通り、神は背信のイスラエルに向かって「神に帰れ」と語られました。
パウロが言った「知られない神」(使徒17.23)を明らかにし、日本的霊性に唯一神という眼を入れて真の神に帰ること、これこそ日本大復活の鍵であると思われますが如何でしょうか。(了)
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