○つれづれ日誌(令和2年9月15日) 緊急追悼文(2)-李登輝先生の思想と信仰
[はじめにー愛国者李登輝]

前回、追悼文、「李登輝先生の逝去を悼む」を発信したところ、内外、結構反響があり、また中には、李登輝と新渡戸稲造との深い関係について触れて欲しいというリクエストもあり、追悼文(2)を出すことにいたしました。
今回は、第一に、李登輝の思想形成に決定的な影響を与えた新渡戸稲造との出会い、及び武士道について、第二に李登輝のキリスト教信仰が政治家李登輝に如何なる影響を与えたか、第三に、これからの日台関係とアジアの未来について、を順に考えていきたいと思います。
李登輝は、人民日報系の環球時報によって、日本に媚びる「媚日派」であり、頑固に「台湾独立」を主張し両岸(台中)関係の発展を破壊した、と批判され、尖閣諸島に関する発言について国民党からも「売国奴」と非難されました。
しかし李登輝は、媚日派でも、台中の破壊者でも、売国奴でもありません。彼のアイデンティティーは、愛国者であり、キリストに属する者であります。即ち、何をすることが台湾の国益になるのか、そしてそれがキリスト者としての自分と矛盾しないか、この2点を常に考えて行動してきた愛国者であり信仰者でありました。
この思想は、新渡戸稲造や内村鑑三が誓った「二つのJ」に通じるものがあります。二つのJとは、人生を二つのJ、即ち、「Japan」と「Jesus」(イエス・キリスト)に身を捧げるという思想であり、李登輝もまた台湾とキリストに人生を捧げたのです。
そして李登輝は、親日家として有名ですが、これは決して日本におもねっているわけでも、媚びているわけでもありません。李登輝の正直な気持ちの発露であります。李登輝は、心底、日本の台湾統治を高く評価し、感謝しているのです。
戦前は日本人として、戦後は台湾人として生きることを余儀なくされた李登輝でしたが、2018年6月、人生最後となる日本訪問で沖縄の「台湾出身戦没者慰霊碑」の除幕式に出席し「台湾人としての私はわが国を強く愛しており、生涯学んできたことでわが愛する台湾の土地に貢献してきました」と台湾への愛を示しました。
筆者は、其々の指導者に思想や立ち位置の相違があるにせよ、蒋介石に端を発し、蒋経国に引き継がれた台湾統治が、本省人である李登輝で一旦完結したことを、アブラハムに端を発し、イサクからヤコブで完結した族長の歴史を見るような気がして感慨深いものが有りました。
[思想的原点としての新渡戸稲造]
李登輝は、後藤新平から台湾近代化の道を学びましたが、新渡戸稲造からは思想を学びました。この二人は李登輝の恩師であります。
李登輝は、高校時代から多感な青年であり、人生とは何か、生とは何か、死とは何か、自分とは何か、といった本質問題を深く考えて来ました。当時、哲学、歴史、倫理学、生物学、科学と、ありとあらゆる分野の本を読み、高校を卒業するまでに、岩波文庫だけで700~800冊は持っていた、と述懐しています。
その李登輝が、何故新渡戸稲造の著書『武士道』に関心を持ち、自らその解説書『武士道解題』を書くことになったのか、また何故出世が保証された東大法学部に行かないで、京大のしかも地味な農学部に入ったのか、これらの疑問を解かなければなりません。
日本統治下の1940年(昭和15年)、旧制の台北高校に進んだ李登輝青年は、図書館で多くの書物を読み漁っているうちに、新渡戸稲造の「講義録」と出会いました。
新渡戸稲造は『武士道』を刊行した翌年、明治34(1901)年に後藤新平に乞われ、台湾総督府の農業指導担当の技官として赴任し、台湾製糖業の発展に大きな貢献を為しました。まだ、李登輝が生まれる22年前のことです。台湾糖業博物館(高雄市)には「台湾砂糖之父」として新渡戸の胸像が置かれています。
そうして新渡戸は、台湾の製糖業に関係している若きエリートたちを集めて毎年夏に講義をしていたのです。それはイギリスの思想家トーマス・カーライルの哲学書『衣裳哲学』を解説した講義でした。その講義録を読んで李登輝氏は新渡戸稲造の偉大さに心酔するようになり、新渡戸の著書をすべて読んでいき、その過程で出会ったのが新渡戸の著書『武士道』でした。
実は李登輝は、当時トーマス・カーライルの哲学書『衣裳哲学』と取り組んでいたのですが、難解で理解するのに苦労していました。そんなとき、台北の図書館で新渡戸稲造の『衣裳哲学』についての上記講義録に出合いました。これに大いに助けられ、またその内容に感銘を受けた李登輝は、新渡戸稲造の書物を読み込み、遂に『武士道』を座右の書とするようになったという訳です。
「私の青春時代の魂の遍歴に、最も大きな影響を与えた本を三冊あげよと言われれば、躊躇なく、ゲーテのファウスト、倉田百三の出家とその弟子、そして衣装哲学をあげます。そしてその三冊をアウフヘーベン(止揚)したところに、新渡戸稲造先生と武士道があったと言っても過言ではないでしょう」(著書『武士道解題』P71)
また、李登輝が京都帝国大学農学部に入り、農業経済学を学んだのも、農業経済学者であった新渡戸の影響を受けたことが決定的だったと言っています。
こうして李登輝は、新渡戸から深く思想的、実践的な影響を受け、解説書『武士道解題』を書くことになり、また農業経済学を学ぶことになりました。そして李登輝は38才でキリスト教に入信しますが、敬虔なクリスチャン(クエーカー派=フレンド派)であった新渡戸からも影響を受けたと思われます。
こうして李登輝は、武士道、農業経済学、キリスト教という3つの分野において、新渡戸稲造から色濃く影響を受けました。李登輝にとって、さしずめ後藤新平が台湾近代化の恩師であるとするなら、新渡戸稲造は思想の恩師ということでしょうか。ただでさえ孤独で批判にさらされる12年間の総統時代、新渡戸精神が政治家李登輝を支えていたと述懐しています。
なお、カーライルの衣装哲学とは、イギリス人 T.カーライルの自伝的著作で、ドイツの大学教授トイフェルスドレック (悪魔の糞) の伝記という形をかりて,カーライル自らの思想の発展段階を述べたものです。この世の人間的制度や道徳は、すべて存在の本質がそのときどきに身に着ける衣装で、一時的なものにすぎない、即ち、「宇宙のあらゆる象徴、形式、制度は、所詮一時的衣装にすぎず、動かぬ本質はその中に隠れている」ということを多面的に例証したものです。
新渡戸稲造は衣装哲学によって救われた体験があり、「衣装哲学は命の恩人」といい、生涯34回も熟読したと語っています。また、内村鑑三の著書『余はいかにしてキリスト信徒になりしか』にも大きな影響を及ぼしました。
[李登輝が理解した武士道]
新渡戸稲造著『武士道』は、 アメリカの教育の原点にキリスト教的モラルがあるように、それに対応する日本の道徳が、実は武士道であるということを欧米人に伝えようとした書です。 内村鑑三も日本の武士道精神は、アメリカのキリスト教以上にキリスト教的であると言っています。
また武士道とは新渡戸によれば、西欧の騎士道と類似概念で、武士が守るべき道徳律、掟であり、それはまた、目に見えない日本人の道徳体系でもあるとしました。即ち、新渡戸の武士道とは、副代に日本精神とあるように、武士を中心とする日本精神一般を説いたもので、狭義における武士の道とは同じではありませんでした。
李登輝は、「武士道などと言えば、戦後の自虐的価値観の影響で、非人間的、非民主的な封建時代の亡霊であるかのように扱われているが、決してそうではない」とし、「私は、新渡戸が説いた武士道こそ、日本人の精神であり道徳規範であると考える。それは単に精神、生き方の心得というだけでなく、日本人の心情、気質、美意識であると思う」と語っています。(李登輝著「新台湾の主張」P45)
新渡戸は、武士道の淵源には、仏教、神道、儒教があり、儒教などが示す五常、五倫の道は「中国から輸入される以前から民族本能が認めていたところであって、孔子の教えはこれを確認したに過ぎない」(新渡戸稲造著「武士道」P36)と指摘しています。
李登輝は「私が生まれ育った台湾という小さな島が、何故今日のような世界でも有数の豊かで幸せな国として急成長することが出来たのか」と問いかけ、「この根本的な疑問に明快極まりない答えを与えてくれたのも、新渡戸稲造先生が世界に向かって提示して見せてくれた『武士道』という本以外の何ものでもありませんでした」と明言しました(著書「武士道解題」P78)。
新渡戸は『武士道』のなかで、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」を武士の徳目として挙げています。しかし李登輝は、武士道で何より重要な点は、それらの実践躬行を強調していることであると理解し、「公」のために働くことの大切さや尊さについて『武士道』や『衣裳哲学』から学びました。
日本軍は、日露戦争で「武士道」に則った戦いぶりを見せ、世界を感動させました。乃木将軍や東郷元帥が日本古武士の典型として国際社会からの尊敬を受け、ルーズベルト大統領も日露講和の仲介を買って出たと言われています。
中国からのミサイルの脅しに対して、敢然と立ち向かう姿は、いかにも勇ましい武士らしき姿ですが、新渡戸稲造が説き、李登輝が解説する「武士道」とは、そのような「勇」一辺倒のものではありません。新渡戸は、武士道の徳目の最初に「義」を挙げました。「義」とはすなわち「正義の道理が我われになすことを要求し、かつ命令するところ」と言い、孟子が「義は人の路なり」とし、キリスト教では正義が実現されること、即ち「神との正しい関係」と理解されています。
ちなみにパウロは義にもう一つの意味を込めました。それは、「神の救い」と結びつけられた救済論的な意味です。つまり、「義」は神によって無罪とされることであり、「救い・解放・恵みの業」を意味し、「神の義」は、「神の救い・神の恵みの業」を意味しています。同様に、「義とされる」は、「救われる・解放される・神の恵みの業にあずかる」ことを意味します。いずれも、「神からの救い」と結び付けた意味で用いられていますから、救済論的な意味と言われます。
李登輝は「義」は「個人」のレベルに閉じ込めておくべきことではなく、必ず「公」のレベル、すなわち「公義」として受け止めなければならないと説き、それは社会のために各人が為すべき事を指します。人の生き方として実践を重んずる武士道は、「義」について抽象的哲学的にあれこれと論じたりはしませんでした。それよりも「義を見てせざるは勇なきなり」の一言で、武士としての生き方を表現しました。
武士道の2番目の徳目である「勇」とは、あくまで「義」を実践する時の姿勢であって、「義なき勇」は「匹夫の勇」、即ち、思慮分別なく、血気にはやるだけのつまらない人間の蛮勇として、軽蔑されたのです。
新渡戸稲造の生き方そのものに「義を見てせざるは勇なきなり」があった、と李登輝は次のように述懐しました。
「新渡戸稲造先生が台湾に来てくれるよう要請されたとき、彼はまだアメリカにおり、健康状態もかなり悪かった。しかし、『義を見てせざるは勇なきなり』の武士道精神に基づいて、総督府の一介の技官(地方の課長)という大して高くもないポストに従容として赴き、いったん現地に入ったからには命を賭して大事業の成就に向かって全力疾走を続けたのです。なぜなら、国家がそれを必要としていたからです。これこそ、武士道の精華であらずして何でありましょう」と。(著書「武士道解題」P80)
「私事にわたりますが、もともと学者か伝道者として生涯を全うしようと思っていた私が、思いがけなくも政治の道への足を踏み入れてしまったのも、いまにして思えば、『天下為公』(天下は公のもの)『滅私奉公』といった武士道精神に無意識のうちに衝き動かされてのことであったように感じられてなりません」とも述懐しています。
[内省を深める哲人李登輝]
「私は十五、六歳のころから人間の生死の問題を真剣に考えてきました。『人間とは何か』『死とは何か』『死に直面して、生死をさまよう人間とは何なのか』という大命題の思索に耽り、『自我の死』を理解して初めて真の肯定的意味を持つ人生の『生』がうみだされることに気づきました。カーライルのいう『永遠の否定』からの『永遠の肯定』です」と告白しました。そして李登輝は次のように言っています。
「人間『死』という問題を考え抜いて、初めて『生』についても真剣に考えることができるようになるのです。死生観ですね。そしてこの問題に一つの大きな鍵を与えてくれたのが『永遠の否定』であり、またそれをいかにして『永遠の肯定』に変えていくかという生の哲学だったのです」」(著書「武士道解題」P72 )
「ニーチェにせよ、ハイデガーにせよ、サルトルにせよ、いずれも『自我が死んだ後に誕生するもの』の意味を教えています。それを私なりの言葉で表したのが『私ではない私』ということなのです。それはつまり、人間のもつ自我を排除し、神の御心のみを判断基準として生きていく私という意味です」と。
それこそ、ガラテヤ2.2の有名な聖句「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」が言い表している境地でしょう。
言い換えれば、古い自我から解放されて、新しい自我、仏教でいう「真我」に目覚めることであります。
ルターは、自由とは自分を束縛しているものから解放されることと考え、著書『キリスト者自由』の中で、自由とは、信仰によって義とされることであり、それは律法からの解放であり、教会(カソリック)制度からの解放であると述べました。(ルター著「キリスト者の自由」)
李登輝にとって、自分を拘束しているものが、他ならね自分自身であるとし、その自分(自我)から解放されることが真の自由であり、「自分でない自分」を見出だすことでありました。哲学的に言えば「絶対否定の上に立つ絶対肯定」であります。
筆者は、これを「復活」と呼んでいます。イエスキリストは、十字架で死んで(絶対否定)、復活されました。復活は死を前提とした言葉であり、復活するためには一度死ななければなりません。死ぬことによってこそ復活は有り得るのであり、自我の死(否定)を経てこそ新しい自分が生まれるというのです。
そして李登輝は、「武士道の台木にキリスト教を接いだもの、其の物は世界最善の産物であって、これに日本国のみならず全世界を救う能力がある」との内村鑑三の言葉を引用し共感しています。
[李登輝のキリスト教と信仰]
李登輝は、自らの思想遍歴について、10代では戦前の日本教育の影響で唯心論者となり、大学時代は一時期唯物論者となり、そうして38才でキリスト教徒になったと語っています。
そして李登輝は、「最高指導者の条件とは何か、それは信仰です」と明言しました。
アメリカの基礎を造ったワシントンもリンカーンもアイゼンハワーも、皆、大統領である前に敬虔なキリスト者でありました。彼らは皆、政治的演説に、必ず聖書の言葉を引用しました。
「哲学や政策など、政治をこえたところにある『何か』を自分の内に持たずに政治を行う人は、それがために使命感が希薄になり、実行するエネルギーも弱くなるように思う」と述べ、「自己の存在を超越した『何か』を信ずることは、あらゆる困難を突破する際、精神面での助けになります。『自己を離れた存在』、即ち『神』が私を助けてくれると信じていれば、どんな事柄であれ、恐れずに処理できます」とも語りました。
まさに李登輝の政治的信念を貫くうえでの力の源は信仰でした。
「自らの倫理観を貫き、能力を十分に発揮するうえでも、信仰の存在は大きいのです」と言い、「私の場合は、聖書の強調する愛と正義の精神が力の源であり、主イエスは常に私と共にあると考えています。いわば、自分の体の中に、イエス・キリストが陣取り、その私は『私ではない私』なのです」と。
しかし、李登輝は、信仰的回心に至るまでに大いに悩んだといいます。
「かって私は、キリスト教に回心するにあたって非常に苦しんだことがあります。『何故マリアは処女にしてイエスを産んだか』『何故イエスが磔にされて、そして生き返ったのか』。どう考えても理性では説明がつかない不可能なことです。5年の間あらゆる教会を回り歩き、これは何なのかと悩み続けました。
その結果、これはもう理性的に考える必要はないのだ、と悟ったのです。そうなのだ、イエスは本当に磔にされて生き返ったのだと信じること、それが信仰なのです」(著書「武士道解題」P132)
それはまた、新渡戸が衣装哲学から引用した一節「神の存在と霊魂の不滅であるが、このことはただ信ずべきものにして何十年考えても解することの出来ぬものである」にも表されています。
上記、二人の信仰告白は、筆者が宗教的認識とは何かについて出会った回心の言葉「究極的な宗教的真理の認識は『信仰告白』によって可能になる」という韓国牧会者団宣言文の一節と軌を一にしています。
[台湾は日本の生命線]
最後にこれからの日本と台湾のあるべき関係について述べなければなりません。
1999年に李登輝著「台湾の主張」の日本語版が出版された際、記念イベントが東京で行われ、李登輝はビデオメッセージで、「日本にとって台湾はただ南に浮かぶ島ではなく、日本の存続に関わる重要な防御壁だ」と訴えました。同書は日本人の台湾に対する理解促進に寄与したとして、第8回「山本七平賞」を受賞しています。
李登輝は、「自由で独立した台湾なくして、自由で独立した日本はなく、また、同時に、自由で独立した日本なくして、自由で独立した台湾はない、両国は運命共同体なのだ」と語りました。

仮に、中共が台湾を併合するという野望が実現した場合、日本の安全保障は著しく損なわれます。南シナ海は中共の海になり、日本のオイルルートは寸断されるでしょう。日本に入ってくる石油の80%が台湾海峡を通ってきるからです。(藤井厳喜、林建良共著「台湾を知ると世界が見える」P38)
中共の狙いは尖閣諸島を獲り、台湾を併合すれば、太平洋への門戸が開け、太平洋の覇権を握れば地球の半分は中国のものになるという野望であります。
李登輝は、総統退任後、残された人生を台湾人、そして日本人を励ますために使うといい、日台が「運命共同体」「生命共同体」であることを叫び続けてきました。
「かつてのような智恵と勇気に溢れる日本という国を取り戻せ」と叱咤し、アメリカへの無条件の服従や中華人民共和国への卑屈な朝貢外交を批判した上、幕末に坂本龍馬が提示した近代日本の国家像に倣って、今後の日本のあるべき姿を語りました。
[台湾人の日本観]
台湾には、日本ではもう死語になった感もする「日本精神」(台湾語でリップンチェンシン)という言葉が今なお生きているといいます。日本精神とは、「規律、清潔、正義、勇気」であり、未開の地でこれといった歴史がない台湾にとって、日本精神こそ唯一の文明化された精神であり、これはもはや日本精神というより、台湾精神、即ち李登輝がいう「新台湾精神」と言うべきものです。
しかし、「今の日本人には規律と清潔は残っているが、正義と勇気を喪失した」と林建良氏は指摘しました。
李登輝は、2015年の訪日中、台湾も領有権を主張する尖閣諸島を巡り、この島は日本のものだと公言し、従軍慰安婦問題については、「台湾の慰安婦の問題は決着済み」と発言しました。
また、2007年6月7日、李登輝の兄が眠る靖国神社に参拝し、冥福を祈りました。そして靖国神社に兄が祀られていることに深く謝意を表したということであります。実は靖国神社に眠る台湾人の英霊は2万8000柱に上るのですが、多くの日本人はこの事実を知りません。
大陸中国の対日観には、「優越感」と「劣等感」と「復讐意識」が混在し、複雑な国民感情を持っているといいます。今なお中国においては、愛国教育イコール反日教育だというのです。(藤井厳喜、林建良共著「台湾を知ると世界が見える」P76)
これに対し台湾は、今なお日本人を先生と仰いでおり、戦後の自虐史観を脱して、本来の武士道の国、日本精神の国に立ち返って、自信と希望を持って欲しいと念願しています。
[台湾と中国]
台湾人の構成は、一般的には、台湾漢民族(漢人、客家人、外省人)が96.7%、台湾原住民が2.3% とされていますが、これは中国が戸籍を捏造し漢族に組み換えた結果であり、間違いだと林建良氏は指摘しています。
本来台湾は漢民族ではなく、山地に住む山胞族(高砂族)、平地に住む平埔族(へいほぞく)が87%を占め、遺伝学的にも明らかになっていると林氏はいいます。平埔族とは平地に住む民族のことで、清朝以前からもともと台湾にいた主に南方系の台湾原住民であります。
今台湾は、中国人でもなく、また日本人でもない、「台湾人である」という民族の主体性、アイデンティティーの確立に懸命になっています。その精神的核になり得るのが日本精神(=台湾精神)だというのです。
現在の大陸中国は、政治的には共産党の一党独裁であり、国民には拝金主義、つまり「金」礼拝が横行し、貧富の差が鮮明になって失業者が激増しています。この国内の矛盾や不満を対外的膨張でそらしているのが実体だというのです。
そして逆に、台湾の中国への影響は文化的、経済的、技術的に無視できないほどに高まっているといいます。これからの台湾と中華人民共和国との関係は、理不尽な膨張には断固として退けるという決意と、「君は君、我は我なり、されど仲よき」という関係が求められることでしょう。
[これからの日本と台湾]
これからの日台関係において、日本版台湾関係法の早期制定が急務です。
1979年、アメリカは国内法として台湾関係法を定めて台湾との関係を維持し、台湾防衛で中国を牽制しました。しかし日本では、72年の日中国交正常化にともなう日台断交以来、台湾交流の法的根拠を欠いたままであるのです。しかし一部には、中国が反対するから難しいと囁く人がいます。しかし李登輝は、「中国が口を出す権利がいったいどこにあるのか。台湾は中国の一部ではない、台湾は台湾人のものである」と断じました。
いまもなお、台湾は国連に加盟できていませんし、日本に正式な大使館も設置出来ない悲哀の中にあるのです。しかし上記しましたように、中共の独裁体制による脅威という点では、運命共同体です。これに備え、万一の事態を乗り切るためにも、台湾関係法(日台基本法)の早期制定をはじめ、日台はあらゆる面で強固な関係を築くことが不可欠であり、日本国民はこれを全面的に後押ししたいものです。
そして日本は、「祖国日本に捨てられた」との台湾人の思いを償う意味でも、日本は、「台湾が中国の一部であると認めたことは一度もない」と世界に明言すべきです。
李登輝氏は著書『武士道解題』を次のような言葉で結んでいます。
武士道は、我々の先人が700年の時間をかけて(台湾と日本の)国民精神の根幹として育て上げてきたものであります。それを戦後の70年ほど「お蔵入り」させていたわけだが、蔵にあるものは蔵から出せば良いのです。
「最後に、もう一度繰り返して申し上げておきたい。日本人よ自信を持て、日本人よ『武士道』を忘れるな」、と。
まさしく李登輝は、台湾民主化の父であるだけでなく、台湾のモーセとして、長く思想的、精神的な父として崇敬されることでありましょう。啓典の民イスラエルがモーセの十戒から始まったように、台湾の真の歴史は、李登輝の武士道、李登輝のキリスト教から始まると言っても過言ではありません(了)