○つれづれ日誌(令和2年9月9日) 李登輝李登輝元台湾総統の思想と信仰① 緊急追悼文ー李登輝元台湾総統の逝去を悼む
けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる(詩篇73.23)
2020年(令和2年)7月30日、台湾の李登輝元総統が台北市内の病院で、多臓器不全などのため逝去されました。(享年97歳) 心からご冥福をお祈り申し上げます。
さて、李登輝元総統(以下、敬称略)はその生涯において多くの業績を挙げ、現在人口2350万人超、九州位の国土を持つ先進国家台湾において、イスラエルのモーセ、アメリカのワシントンに匹敵する存在と言われています。
李登輝は特に次の3点において画期的な仕事をやり遂げました。
第一に、台湾に民主主義を定着させたことです。
台湾は戦後大陸から入ってきた国民党の独裁政権が長く続きましたが、現在日本と同様、政権交代可能な民主主義国家に生まれ変わりました。李登輝はこれをやり遂げ、「台湾民主化の父」と呼ばれています。
台湾の蔡英文(ツァイ・インウェン)総統は30日、深い哀悼の意を示し「台湾民主化への貢献はかけがえのないものだった」と表明しました。李登輝は、蔡英文総統の精神的な支えとなってきたのです。
第二は、李登輝は台湾独立の道筋を示し、中共から東南アジアの自由を守りました。
仮に台湾が中国の支配に陥っていたなら、台湾島は中国の領土となり、南シナ海は完全に中国の海となっていたでしょう。日本は石油ラインを阻止され中国の属国に転落していました。李登輝は常々、台湾と日本は運命共同体であると言っていました。
第三は、台湾と日本の橋渡しになったことです。
「自分は日本人」と公言し、日本人以上に日本を知る人と言われ、今日のアジア随一の親日国家台湾を育てました。これは、反日国家韓国との大きな違いです。韓国にも、李登輝のような人材が出ていたなら、日韓関係はもっと円滑であったはずです。
そして特筆すべきは、李登輝は1961年(38才)、プロテスタント長老派キリスト教に入信した「敬虔なクリスチャン」だったことであります。李登輝の信仰については後述することにいたします。
【李登輝の歩みと業績】
以下、順を追っては李登輝の歩みとその業績をを振り返ることといたします。
<学者として>
1923年1月15日、李登輝は当時の台北県三芝郷埔坪村に、父李金龍(警察官)、母江錦の次男として生まれました
京都帝国大学農学部に進学し、戦後は台湾に戻り、台湾大学卒業後、大学教員や農業技師を務め、学者としての道を歩みました。大学時代は「農業簿記」を学び、同時にマルクスや河上肇などの社会主義関連の書籍に親しみました。後日、李登輝は自身が一時期共産主義者であったことを認めています。
1944年には、学徒出陣により出征しました。日本陸軍の大阪師団に入隊し、名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属され、終戦を名古屋で迎えました。1945年2月15日、兄の李登欽がマニラ湾において戦死し(享年24才)、大日本帝国軍人として靖國神社に祀られています。
また、台湾大学編入後の1947年、国民党政権の大弾圧である「二・二八事件」が発生し、2万人~3万人の台湾人が犠牲になりました。李登輝は台湾人および日本人としての経歴から、この事件で粛清の対象になる可能性が高かったため、知人の蔵に匿われました。
1952年、アメリカに留学し、アイオワ州立大学で「農業経済学」を研究しました。1953年に修士学位を獲得して台湾に帰国し、台湾省農林庁技正(技師)兼農業経済分析係長に就任する傍ら、台湾大学講師として勤務することになりました。その後、台湾大学助教授として
学者としての道を歩みました。
1965年、42才でコーネル大学に留学し、同大学では農業経済学を専攻しました。米国で農業経済に関する「最優秀博士論文賞」を受賞して帰国しました。1968年7月に台湾帰国後、「台湾大学教授」兼農復会技正(技師)に就任しています。
<政治家への道>
帰国後、国民党を率いた蒋介石総統の息子で後継者の蒋経国に農業専門家として見込まれ、71年に国民党に入党し政界入りを果たしました。
入党後は、蒋経国が行政院長に就任すると無任所大臣に当たる政務委員として入閣(49歳)、1978年、台北市長に任命、1981年には台湾省主席に任命されます。
もともと学者だった李登輝は、出世には興味がなくお世辞を言わずズケズケものを言いましたが、李登輝の持つ勤勉さ、誠実さ、正直さと言った日本人気質を蒋経国は高く評価していたと言われています。
1984年、蒋経国により副総統候補に指名され、第7期「中華民国副総統」に就任しました。
そして、蒋経国氏の死去を受け、88年に65才で副総統から「総統」に就任し、同時に「国民党主席」も兼務して権力を掌握することになります。
<民主化の父>
初の「本省人」(戦前からの台湾人)総統として、蒋一族に連なる「外省人」(戦後、台湾に渡って支配した中国大陸出身者)政治家を政権中枢から退け、国民党の独裁体制を解くことに成功しました。そして96年の直接選挙導入につなげ、選挙で選ばれた初めての総統に就任し(73才)、台湾を自立した民主体制につくり替えていきます。
こうしてついに一滴も血を流すことになく、民主化が実現し、6度にわたる憲法改正によって、静かなる革命を成就させました。李登輝は「民主化の父」と呼ばれています。
1988年、中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の本土化(台湾化)を推進しました。中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガン、即ち、今までの「中華民国は中国全土を代表する政府」という建前から脱し、「現実外交」を展開しました。
中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国(台湾)という別の国家が存在すると主張しました。台湾の統一を目指す中国とは度々、摩擦を生みましたが、99年には「台湾と中国は特殊な国と国の関係」と表明し「二国論」を展開し、「一つの中国」を主張する中国と対立しました。
この李氏の現実的な二国論の決断が、台湾の国家的自立を世界に宣言することになり、この決断がアジアの自由を守ることにつながりました。
李登輝の目指したものは、「託古改制」から「脱古改新」でした。託古改制とは「古に照らして制度を改革する」という旧態依然とした制度を重んずる考えであり、それに対して「脱古改新」とは、古を脱し、新しく改めること、つまり中国的、アジア的価値から脱却し台湾の主体性を確立するということであります。しかし、台湾の民主化、中国との関係、政治の安定を実現するためには決して一筋縄には行かず、この間の事情をイスラエルの出エジプトになぞらえて次のように述べています。
「旧約聖書によれば、モーセが奴隷部族に自由と解放のビジョンを与えて、一つの民族にまとめあげ、カナンの地に連れて帰るために、40年の歳月を要した。一方、台湾人は50年かけて民主政治を手にしたはずなのに、政権が台湾の人の手に渡った途端、政治は堕落してしまった。私は教会に行くたびに、『台湾人が国家を作れるのに、あと何年かかりますか』と祈らなければならないほどだった」(李登輝著『新・台湾の主張』PHP新書P123)
<指南役として>
2000年の総統選には出馬せず、台湾独立志向を持つ民主進歩党(民進党)陳水扁氏に政権を明けわたしました。55年続いた国民党からの初の政権交代となり、民主主義を根付かせました。李登輝は国民党主席を辞め、01年には党からも退きました。
総統退任後も政界では大きな影響力を見せ、台湾独立志向を鮮明にしました。08年以降の国民党・馬英九(マー・インチウ)政権の対中融和路線を批判して民進党に近づき、12年1月の総統選では同党候補の蔡英文(ツァイ・インウェン)氏を応援しています。
この国民党から民進党への変身など、立場、立場で政治的主張が異なることがあり、一見風見鶏に見え、台湾国内では「駆け引き上手な現実主義者」というイメージが強いとも言われています。勿論、リアリスト李登輝一流の懐の深さでありましょう。
16年に就任した民進党の蔡総統に対しては、対中傾斜を修正して台湾の自主性を強化する方針を支持し、その精神的な柱となりました。
親日家で知られ、日本に知己を広げ、国民党の独裁政権下で禁止された日本文化を開放するなど日台交流に貢献しました。李登輝は、21才まで日本の占領下で育ち、日本の文化にも精通し、流暢な日本語で政界などに日本の知己も多く、日本と台湾の交流拡大に多大な力を発揮しました。
01年、心臓病治療を理由に16年ぶりの訪日を果たしました。それが日中間の外交問題となりましたが、その後も度々訪日いたしました。07年には1945年に日本軍兵士としてフィリピンで戦死した実兄が合祀(ごうし)されている靖国神社にも参拝しています。
なお李登輝は、1949年、淡水の地主の娘である曽文恵と見合いにより結婚しました。1男2女をもうけましたが長男を癌で亡くしています(享年32才)。哲学にも造詣が深く、熱心なキリスト教徒でした。信仰する宗教はプロテスタント(長老派)で、日本統治時代に使用していた名は岩里政男でした。
【親日家李登輝とその思想】
「台湾は日本の優れた統治によって近代化できた。私は日本人以上の日本人」と公言して憚らない李登輝ですが、以下、その原点を探りたいと思います。
<李登輝のルーツ>
李登輝のバックグラウンドには、中国の客家(はっか)の血筋、戦前の日本の教育による日本精神、二度のアメリカ留学でのアメリカ文化、そして長老派クリスチャンという多様なルーツがあります。
ちなみに李登輝のルーツである客家(はっか)とは、中国漢族の中の一部グループで、古代王朝の中心地(黄河中流周辺地域)から、戦乱に追われて南方に移ったと伝えられ、主に広東、福建、江西省の境界の山岳地に住んだ独自の言語や慣習を持つグループです。香港、台湾、東南アジアへの移住が多く、それぞれの地で政治家や企業家が輩出し、太平天国の指導者である洪秀全、中国国民党の孫文、中国共産党の鄧小平、シンガポールのリー・クアンユー、台湾総統の李登輝などが出ました。ディアスポラのユダヤ人と称されることがあります。
その多様なルーツの中でも、「日本精神」と「キリスト教」は李氏の思想形成に最も大きな影響を与えました。そこで、先ず、生涯流暢な日本語を話し「21歳(1945年)まで日本人だった。難しいことは日本語で考える」と公言して憚らない親日家李登輝の思想と世界観を見ていくことにいたします。
<親日家李登輝>
李登輝は、日本精神を高く評価し、台湾総督府民政長官を務め台湾の民生改革を行った後藤新平を「台湾発展の立役者」として心酔しています。
台湾は日清戦争の結果、1895年から1945年まで50年間、日本に統治されました。李登輝は月刊誌ボイス(9月号)に寄稿し、「戦前日本と台湾は同じ国だった。当時我々は、紛れもなく『日本人』として、祖国のために戦った」などと語りました。
そして、台湾における日本の植民地政策が、台湾をして非近代的な社会から近代的な社会に引き上げたということを、台湾の人民はよく知り、今や台湾はアジア最大の親日国家となっています。
2007年5月末から6月初旬にかけて訪日した際、日本外国特派員協会で開かれた記者会見で「靖国問題とは中国とコリアがつくったおとぎ話だ」と発言しました。実際、2007年6月7日には、日本兵としてマニラで戦死した兄が奉られている靖国神社を参拝し、その際に同神社に対し「兄の霊を守ってくれることに感謝している」と述べました。
また、訪日の際に日本外国特派員協会において「尖閣列島は台湾のものではありません。日本のものです」とも発言しています。勿論、国民党の馬英九総統は「台湾を裏切り、人民を辱める発言」と激しく李氏を批判し、李氏に発言の撤回と謝罪を求めています。
また、李登輝は記者会見で次のように語っています。
「私は日本の統治の仕方については、高く評価しております。台湾を非近代的な農業社会から近代社会に持ち込むときに、一番大きな問題は司法と行政が分割しない中国社会でした。これを日本ははっきり司法と行政を分けました」
「後藤新平は私の先生ですよ。本当に台湾のために奮闘しました。こういう人たちがいるからこそ、台湾人は永久に日本を忘れません。そして15万町歩を灌漑した八田與一先生。こういう人たちに対して、台湾では依然として神様みたいにして大事にしておりますよ」
李登輝は「後藤新平と私の間には精神的な深いつながりがある」といい、「今日の台湾の繁栄は後藤が築いた基礎の上にある」と明言しました。確かに後藤は、民政長官として在任した9年あまりの間、その力量を遺憾なく発揮し、台湾は未開発社会から近代社会へと、「一世紀にも等しい」と言われるほどの開発と発展を遂げることになりました。
当時の台湾は匪賊が跳梁跋扈して治安が悪く、マラリアをはじめとする疫病が蔓延する危険な地であり、のみならずアヘン吸引者も多く、産業にみるべきものもない、まさに未開発の状態だったのです。
台湾には今も「日本精神」(リップンチエンシン)という言葉が残り、李登輝は次のように述べています。
「台湾人が好んで使う言葉に『日本精神』というものがある。これは日本統治時代に台湾人が学び、戦後大陸から来た中国人が持ち合わせていない精神として、台湾人が自らの誇りにしたものである。『勇気・誠実・勤勉・奉公・自己犠牲・責任感・遵法・清潔』といった精神を表す。私は改めて家内と『日本の教育は素晴らしかったね』と語り合った」(『新・台湾の主張』P18)
以上の通り、李登輝は台湾の民主化に寄与し、よき日本の理解者として、日本と台湾の架け橋になり、アメリカと並んで東南アジアの自由の紐帯を確かなものにしました。台湾に李登輝が出たことは台湾の最大の幸運でありました。そして台湾だけでなく、日本やアジアの自由にとってもかけがえのない運命的な存在でありました。くれぐれも哀悼を表したいと思います。
<李登輝の世界観に学ぶ>
また、この難しい国際情勢の中にあって、李登輝の世界観は大いに参考になります。李登輝は著書『新・台湾の主張』の中で、「戦争はいつまでも国際政治における現実である。その現実を冷静に見つめて軍隊を保持しつつ、戦争に訴えることなく秩序を保ち、国益を増進する方法を考えるのが、もっとも有効な見解だと言える」(P165)と語っています。
そして日本に対しては、「今日の日本にとって最大の課題は、国家の基本法たる憲法をどう改正するかである」と問題提起し、「安倍首相が決断した集団的自衛権の行使容認は、安倍政権の最終目標である憲法改正、ことに第九条の改正への第一歩となるだろう。日本が自立した国家として歩むことは、同時にアジア全体の平和と安定につながる。台湾を始めとするアジア諸国は日本の再生を歓迎し期待している」(『新・台湾の主張』P173)と強調しています。
私たちは、今や第三次世界大戦の第二段階ともいうべき只中にあります。ソ連共産主義が第一段階とすれば、より狡猾で手強い中国共産主義との第二段階目の世界大戦に直面しています。今こそ、李登輝が遺した思想を想起し、第三次世界大戦の後半戦を勝利しなければなりません。
私たちは何故共産主義と戦わなくてはならないのでしょうか。李登輝も指摘した通り、共産主義は必ず独裁と対外膨張を伴い、国民が犠牲になるからです。そして何よりも神を否定する哲学と、憎悪を根底とする暴力的な階級闘争を伴うからであります。
私たちは、中共ときっぱり決別し、世界的には、アメリカ、イギリス、日本の海洋3国家が自由の連帯を固めて世界をリードし、アジアにおいては、日本、韓国、アメリカ、そして台湾が一体となって中共の脅威に備えるべきであります。
また、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの情報網「ファイブアイズ(5eyes)」を、日本を加えた「シックスアイズ(6eyes)」へと拡大するべきだと思います。スパイ防止法の制定など、そのための備えをしたいものです。
【クリスチャン李登輝の信仰】
さて、李登輝の思想と政策を知るためには、日本精神と並んで「クリスチャン李登輝」を知らなければなりません。何故なら、李登輝の政治信念の根底にはキリスト教信仰があるからです。つまり、学者、政治家である前に、李登輝は敬虔なキリスト教徒でありました。
李登輝は、1961年38才の時、洗礼を受けて長老派のキリスト教に入信しました。
李登輝元秘書の早川友久氏によると、李登輝はあるとき「お前は60歳になったら山へ入り、人々を伝道するのだ」という夢を見たといいます。これを神が自分に告げた使命だと悟った李登輝は、以来、60歳になったら山の人たち、つまり日本時代は高砂族と呼ばれた原住民の人々にキリスト教伝道をしようと決意したといわれています。
従って、蒋経国から副総統に指名されたとき李登輝は61歳で、「そろそろリタイヤして伝道に携わろう」と思っていたといいます。敬虔なキリスト教徒として、悩みに悩む李登輝のもとへ、蒋介石や蒋経国といった蒋家の牧師を務めた周聯華(ジョウリェンホァ・1920~2016)から手紙が届きました。
「神様が60歳を過ぎたら山へ伝道に行きなさい、と告げたとしても、今や国家があなたを必要としている。副総統として国や人々のために働くことは、より重要なことだ。とにかく今は副総統の職務を全うして、山へ伝道に行くことはまた後で考えればよいのだ」と。
こうして、李登輝は自身が伝道に携わることをいったん棚上げし、副総統としての職務に邁進することを決めたのでした。
では李登輝は、何故かくもこれほどまでに敬虔なキリスト信徒になったのでしょうか。早川氏は次のように述懐しています。
李登輝は、「心の虚しさを埋めてくれるものが信仰であり、キリスト教だった」と語りました。では李登輝の心の虚しさとは何でしょうか。当時、日本の支配から中国の支配への大転換の時であり、価値観が交錯していました。学生時代は一時期マルクスの本をよく読んだりもしました。しかしいかなるものも、結局李登輝の心まで満たすことは出来ませんでした。
その心の穴を埋めてくれたのがキリスト教への信仰だったのではないでしょうか、と。
つまり、自分は台湾人なのか、日本人なのか、はたまた中国人なのか、一体自分とは何かについて、アイデンティティーが喪失して空しかった自分に、「キリスト者という新たなアイデンティティー」を得ることができたというのです。
ちょうどそのころ、母親を亡くして心の痛手を受けていた夫人の曾文恵が、キリスト教に入信し心の安定を取り戻していったのを間近で見ていたこともありました。こうして夫人の曽文恵から勧められてキリスト教に入教したのです。以来、人生においては学者としての世界から、政治の世界へと入っていく李登輝でしたが、困難に直面するたびに聖書を開き、心の安定を図ってきました。
ひとつエピソードがあります。1988年1月、蒋経国総統が急逝し、その夜に総統に昇格した李登輝は、国家を背負う重責の大きさに恐れ、なかなか寝付くことが出来なかった時のことです。そんな夫を見かねて、夫人が「お祈りしましょう」と聖書を出してきました。李登輝夫妻のやり方はいつも聖書を両手で持ち、当てずっぽうに開き、そして開かれたページに書かれた文言を読むというものです。そこにはこう書かれていました。
「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる」(詩篇73.23)
これを読んだ李登輝は、安心して眠りにつくことが出来たといいます。そして、「クリスチャンに必要なのは、私の心の中にあるイエス・キリストに従って物事を判断し処理して行くこと」と語り、著書『新・台湾の主張』で次にように記しています。
「1988年1月、蒋経国総統の突然の死によって、台湾の総統に就任してからの12年間、一日として気の休まる日はなかった。私には頼れる人も、後ろ盾となる派閥も、情報期間や軍の支持も一切ない。ただ、キリスト教という強烈な信仰があった。この信仰によって、あらゆる困難を排除し、台湾の民主化を成し遂げる信念を持つことができた。私がつねづね『指導者は信仰を持たなければならない』と主張する理由はここにある」(P62)
独裁体制から民主化された台湾へ、李登輝の民主化は一滴の血も流さずに行われていきました。その台湾の民主化を語るうえで忘れてはならないのが、李登輝を精神的に支えた信仰の存在であります。そして李登輝が信仰を通じて最終的に見出した自分自身のあり方が次の聖句「私は私でない私」であったといいます。
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2.2)
2013年12月、台湾で同性婚を容認する法案に対し、「私はキリスト教徒だ。聖書に何と書かれているか見てみるべきだ」と発言し、反対の立場を表明しています。なお李登輝の信仰については、次回「つれづれ日誌(令和2年9月9日)李登輝の思想と信仰②」で詳述することにいたします。
以上の通り、李登輝の歩みと業績、そして信仰を見てまいりました。今、改めて思うことは、神が台湾に李登輝という民族のモーセを立てられ、自由アジアのために台湾を導かれたという実感であります。彼は、「キリスト教」と「日本精神」を土台に、台湾をもはや後戻り出来ない民主主義国家に育てあげただけでなく、日本とアジアがいくべき道までも明確に示しました。その意味で、シンガポールのリー・クアンユーやマレーシアのマハティールに優るアジアの巨星でした。
化外の民、夷狄の国、移民の国としてさげすまれてきた「悲哀の民」に、民族としての誇りを取り戻し、国家としてのアイデンティティーを確立したのです。申命記34章に、カナンの地を目前に120才で死んだモーセの最期が描かれています。
「モーセはモアブの平野からネボ山に登り、エリコの向かいのピスガの頂へ行った。そこで主は彼に全地を示された。 そして主は彼に言われた、『わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである』」(申命記34.1~4)
確かに李登輝は、モーセがカナンの地を目前にして死んだように、いまだ「台湾の独立」をこの目で見ることは出来ませんでした。しかし、ヨシュアのようなよき後継者が、早晩これを成し遂げるにちがいないありません。
今、自由主義国家の中で、台湾を国家承認すべしとの機運が高まっています。我が日本も例外ではありません。そして我々日本人は、これを後押しする義務があると思います。次回は、特に李登輝の思想と信仰について、更に掘り下げて考察したいと覆います。
最後に、よき戦いをなし終えて、堂々と天の国に凱旋された李登輝先生を偲んで、次の聖句をお送りし、追悼の言葉といたします。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった」(ヘブル11.13~16)(了)