○つれづれ日誌 (9月30日)-トマス・アクィナスの再考②
今や代々に渡って隠されていた神秘は、その神秘の啓示によって知らされる(ロマ書16.25)
前回、トマス・アクィナスの衝撃的な神秘体験が、一体何であったのかを考察しました。今回は更に踏み込んでその真相に迫りたいと思います。
前回述べましたように、トマス神学の最大の特徴は、信仰(神秘)と理性、神学と哲学の関係を整理し、この統合を目指したところにあります。即ちキリスト教思想とアリストテレス哲学を統合した総合的な体系を構築したことであると言われています。
そこで先ず、トマス神学最大の課題であり、中世を席巻したスコラ学の最大のテーマでもある「信仰(神秘)と理性及びその関係」について前半で考察し、その次に今回のテーマであるトマスの神秘体験が何であったかを後半で論じることにいたします。
[信仰(神秘)と理性について]
事実には、歴史的・科学的事実と信仰的事実があると言われます。ユダヤ人にとって神の存在は自明の信仰的事実でありました。また、神の存在、イエスの処女懐胎、三位一体の神認識、キリストの復活、これらは後世、信仰的事実の問題として論じられることになります。
ヘンリー・シーセンが「三位一体の神秘」(シーセン著「組織神学」P224)と言っていますように、確かに、神の認識は理性を超えた信仰の領域の問題であると言えるでしょう。
アウグスチヌスは信仰と神学の関係を「神学なき信仰は盲目であり、信仰なき神学は不具である」と言い表しました。またある神学者は、「神学を証すことが出来るのは、信仰をもった理性である」と述べています。
ところで神学の3要素は信仰、啓示、理性だと指摘され(カトリック神学入門)、これら3つはそれぞれ重要で、宗教的真理を知る上でいずれも欠かせないものですが、それぞれ役割が違うというのです。
このように、究極的な神学的真理の認識には信仰と理性、それに啓示が不可欠であるというのです。しかし、神学は信仰によって獲得した真理を理性の力で確かめ体系化することであって、理性によって信仰に行き着くことではありません。カルビンは、「神の認識は理性ではなく信仰による」と言っています。しかし、神の存在は理性が最後まで証明できない何かでありますが、神の存在が理性に反しているということではありません。即ち、信仰的認識は理性を超えているが、理性と矛盾するものではないというのです。
このように神学において、理性は「神学の伴侶」乃至は「神学の侍女」(トマス・アクィナス)であるという訳です。即ち、信仰のもとにあっての理性であり、信仰は主体であり、理性は対象であるということになります。
「哲学は真理を求め、神学は真理を見出だし、宗教(信仰)はこれを所有する」という言葉は、これらの関係をよく言い表しています。
「我々が正しい信仰をもつためには、第一に祈祷により、神霊によって、神と直接霊交すべきであり、その次には、聖書を正しく読むことによって、真理を悟らなければならない。イエスが神霊と真理で礼拝せよ(ヨハネ4.24)と言われた理由はここにある」(原理講論p191)とある通りです。
[信仰と理性の調和]
2006年9月、ドイツの大学で教皇ベネディクト16世が「信仰と理性の考察」というタイトルで講演を行いました。そのテーマは「信仰と理性の調和」でありました。つまり、近時のヨーロッパにおいて、理性が世俗化する一方、逆に信仰が理性と切り離され理性が軽視されているという指摘であります。確かにルターの宗教改革は「信仰と聖書のみ」に基礎をおき、理性による哲学を排除したと言われています。
しかし、信仰と理性の融合、すなわち聖書的信仰(ヘブライズム)とギリシャ哲学(ヘレニズム)の融合の歴史はヨーロッパの伝統であり、アウグスチヌスはキリスト教神学にプラトンの哲学を活用し、トマス・アキナスは自己の神学体系にアリストテレスの思想を借用しました。即ちキリスト教神学には、キリスト教の外にあるギリシャ哲学などの知的財産を、神学的洞察を発展させる手段として用いる伝統があるというのです。(アリスター・マクグラス著「神学のよろこび」P33)
その哲学的な諸体系は、神学に刺激を与え、キリスト教と異教徒の間の懸け橋になるというのです。その重要な例が、プラトン主義とアリストテレス主義との対話です。最初の5世紀まで、キリスト教とライバルになり得る世界観はプラトン主義であり、殉教者ユスティノスやクレメンスといった著述家らは、プラトン主義の持つ知的な長所を、キリスト教自身の完全性を損なうことなく、如何に活用するかに腐心しました。
そしてもう一つがアリストテレス主義の活用です。13世紀のスコラ哲学がアリストテレスを再発見し、物理学、哲学、倫理学などアリストテレスの見解や方法を活用したことで、その金字塔がトマス・アキナスの神学大全です。キリスト教神学はこれらを神学の侍女として用いました。(同書) ギリシャ哲学など異教徒の中にも、キリスト教と肩を並べる活用すべき思想があるというのです。この点新渡戸稲造や内村鑑三は、神道、仏教、武士道などで構成される日本の精神性や道徳観念は、唯一神と贖罪の思想を除けば、決してキリスト教に引けを取らないと述べています。
さらには19世紀においてドイツの神学者が、ヘーゲルやカントの思想を有益な神学のパートナーとして活用し、20世紀のプルトマンやティリッヒらは、実存主義を神学のパートナーとして活用しました。但し、マルティン・ルターは、中世期、アリストテレスの思想を過度に、無批判に用いて、神学的歪曲に陥ったと批判しています。
[啓示について―信仰、啓示、理性]
ユダヤ人は啓典の民と言われ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は啓示宗教といわれています。神は預言者、賢者、使徒たちを通して、神の言葉を啓示されてきました。
啓示とは、「隠されていた覆いが取り除かれて明らかになる」という意味で、様々な形で私たちに語りかけて(啓示されて)おられます。そして理性は啓示に対して従属的立場にあり、啓示によって知られる真理は、人間理性の編み出した議論の産物ではありません。
さて啓示は「一般啓示」と「特別啓示」に分けられます。一般啓示には、自然(神は自然を通して自らを顕されている)、良心(神は人間の良心に顕れる)、歴史(特にイスラエルの歴史に神の啓示が顕れている)、があり、神はこれらのものを通して自らを啓示されています。しかし、救いを伴う完全な啓示、即ち特別啓示として聖書(原理)があり、その頂点に立つのがイエスの受肉だといわれています。神は聖書を通し、イエスを通して特別啓示として自らを完全に顕されたというのです。(ヘブル1.1~2)
UC創始者は「原理には、神の直接の啓示にはるかに勝って、人間を指導し造りかえる偉大な力がありますから、原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしているのです」(創立以前の内的教会史より)と語っておられます。啓示は、聖霊に照らされた人間の精神が見出すもので神の言葉に他ならず、信仰の光に照らされなければそれを受けることが出来ません。啓示は理性に優り、信仰は啓示に優るというのです。
[.ユダヤ人の神認識について]
「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵求む」(1コリント1・22)とありますが、この聖句は、ヘレニズムとヘブライズムの特徴を端的に表しています。即ち、ユダヤ人は神について考えることよりも、神の啓示(しるし)に耳を傾けました。イスラエル一神教は、自然について考察した結果でも、神の本質について抽象的瞑想の結果でもなく、むき出しの啓示と弁解できない力強さをもって上から与えられたものであります。
即ち、イスラエル思想は、思索から生まれた概念ではなく、しるし、寓話、象徴によって表現されものであり、その表現手段は、詩であり、宗教的呼びかけであり、物語であり、教訓であって、哲学的な抽象的概念はイスラエルの思想の中に占める場ません。
一方、ギリシャ人は思索や哲学を好み知恵を求めました。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵求む」、即ちヘブライズム真理をヘレニズムの言葉(ギリシャ語)で語るというこの言葉は、ヘブライズム思想とヘレニズム思想の関係を端的に表しています。
[ヘレニズムとヘブライズム]
さて、前記信仰と理性の問題は、文明史的に見れば、ヘブライズムとヘレニズムの問題に行き着きます。
ブライズム思想とはユダヤ・キリスト教の一神教の流れで、神中心主義、信仰・啓示・預言、非合理性、しるし・寓話・象徴・詩文での表現、などを特徴とします。一方、ヘニズム思想は、いわゆるギリシャ風の文化で、人間中心、理性重視、合理主義、論理的思弁的表現、などが特色です。ヨーロッパ、中東地域の文化は、この二つの潮流の中で、あるときは葛藤しあるときは調和して歴史を形成してきました。
BC4Cには、アレクサンドロス大王によるパレスチナ、中東地域の征服を通じて世界のヘレニズム化が進み、その後、4Cにはローマがキリスト教化され、逆にヘブライズムが支配的思想になっていきました。
14Cにイタリアで勃興したルネッサンス(人文復興)は、ヘレニズムに基づく人間性の解放を標榜し、中世の閉鎖社会から人間と合理性を取り戻したのでした。そして16Cには、宗教改革による霊的覚醒によって、ヘブライズムの再復権がなされていきます。
そうして歴史は19Cから20Cにかけて、ヘレニズム思想の集大成であり、またその鬼子とも言うべき共産主義を生みだしてしまいました。
このようなヘブライズムとヘレニズムの主権の交代というべき歴史の巡礼からすれば、共産主義崩壊後、ヘブライズムの集大成としての、あるいは、ヘブライズムとヘレニズムを総合したものとしての「新しいヘブライズム」の登場は、歴史の必然であると言わねばなりません。そしてこのヘブライズムの集大成は、新しい宗教による第三次宗教改革という形で現れて来るはずです。これこそが、信仰の光に照らされた理性による新しい思想、宗教と科学を統合した完全な霊的覚醒を可能にする宗教的真理であると言えるでしょう。
[信仰告白は理性を超克し神秘を認識する]
神学の力でギリギリまで突き詰めても、なお認識できない宗教的真理(神秘)があるというのです。では、人間は如何にして理性の彼方にある神秘、即ち究極的な宗教的真理を認識することができるのでしょうか。筆者は次の言葉によってこれを実現しました。
「究極的な宗教的真理の認識は、信仰告白によって可能になる」(韓国牧会者団宣言)
次の聖句は、上記の言葉を裏付けています。
「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ10.9~10)
前記しました「究極的な宗教的真理の認識は、信仰告白によって可能になる」との言葉は、筆者において信仰と理性の問題に決着をつける言葉になりました。「目からうろこ」とはこのことです。つまり人間理性の限界を超えるものが信仰告白であるという真理です。ある牧師は「神を知る方法は一つです。信じるということです」と語りましたが、信じる信仰こそ真理に到達可能な唯一の道であるということであります。
かくして筆者は、65の夏、アリゾナ州セドナにある聖十字架教会にて、イエス・キリストが無原罪のメシアであること、UC創始者(真の父母)が無原罪の再臨のキリストであることを、心で信じ口で言いあらわして力強く告白いたしました。無原罪来臨という宗教的真理を、理性の壁を破って完全に認識した瞬間であります。
[トマス・アクィナスは何を見たのか]

さて、前おきが長くなりましたが、いよいよトマス・アクィナスの神秘的体験に関する前回の続きを語らなければなりません。
かの知人は、前回の「トマス・アクィナスの神秘体験とは(1)」を踏まえて、次のようにコメンしました。
「もしトマスが沈黙せずに語っていれば、大混乱を引き起こした」というのです。神学大全に書いたものを根本的に覆すことになりかねず、トマスは深刻な葛藤の中に晒されました。トマスの妹テオドラは、憔悴した兄の変わりように大きな恐れと悲しみを感じたといいます。「神が沈黙を命じられた」とこの知人は主張します。時は未だ満ちていなかったからだというのです。
このトマスの神秘体験は、神学大全第三部の「キリストの聖体の秘跡についての論考」を書き終えた後、「悔悛の秘跡」に取りかかっていた時のことでした。友人レギナルドスに口外するなと釘をさした上で、「これまで書いたものは全てがわらくずのように見える」と告白し、第90問題第4項をもって永遠に筆をおきました。
ミサで啓示された内容とは何か、その後の異常なトマスをどう説明するか、について、稲垣良典は著書「トマス・アクィナス」の中で、S-ダグウェルの推測を紹介しています。
ダグウェルは、聖体の秘跡と結びつけて推測しました。トマスは死の直前、聖体儀式にあずかりました。トマスは、信仰よりも大いなる知識、神への直視とも言うべき神秘体験、即ち、顔と顔を見合わせる(1コリント13.12)神体験をしたというのです。言葉には刻みがたい秘義は、その荘厳さ故に、それに比して自らの真理探求全体の努力が、力なき単なる言葉、即ちわらくずのように見えるという訳です。
前記ダグウェルの推測は、一面の妥当性がなくもありません。この時、理性の壁は打ち破られて神秘が啓かれたことは確かであり、信仰と理性の問題はトマスにおいては解決したと言えるでしょう。しかし、ならば何故憔悴し沈黙したのかという問題が残ります。理性の彼方にある神秘を見たのであれば、聖霊に満ちてパウロのように大胆に語ってもいいはずではありませんか。トマスは後世に、重大な神学上の課題を問題提起して他界しました。
[トマスはキリストの隠されていた奥義を見た]
トマスの神学大全は、きわめて明快に理性と啓示(信仰)の融合がはかられ、キリスト教信仰に関する事柄でも理性で納得できるように書かれていると言われています。トマスはアウグスティヌスを最高の神学者であると考えており、またアリストテレスを最高の哲学者と考えていました。
しかしトマスは神学大全のなかで、理性では知り得ない事柄として、「キリストの神秘」「三位一体の神秘」「受肉の神秘」などを告白しています。トマスは、当にこれらの神秘が何を意味するのか、あのミサでの神秘体験でことの真理を知ったというのです。知人が述べた通り、七つの巻物の中を覗き見たのです。それは、今まで著書の中で主張してきた枠組を否定するものであり、コペルニクス的な神学上の転向を余儀なくされるものでありました。即ちダビデの若枝、再臨によって明らかにされる「キリストの神秘」であります。
例えば、イエス・キリストの十字架の死は神の予定ではなく、ユダヤ人の不信の結果であり、十字架の贖罪が未完成のものだとしたらどうでしょうか。もしこの事実をトマスがあの神秘体験で知らされたのだとしたらどうでしょうか。これらはトマスが沈黙し、神が沈黙を命じられた説得力ある理由になります。そしてこれは筆者の仮説に過ぎませんが、トマスに起こった状況から見て有力な仮説ではないかと考えるものであります。世界の神学者には、トマスの沈黙の意味を深刻且真摯に祈り求めて欲しいと希望してやみません。
以上、哲学者、聖人にしてカトリック最大の神学者トマス・アクィナスについて2回に渡って論考いたしました。トマスの神秘体験は間違いなく理性の壁を突破し、信仰が理性に優ることを実証しました。このことは、トマスの最大の功績であります。トマスの旺盛な探求心に神が答えと下さったのです。しかし一方では、何故沈黙したかという神秘を残していくことになりました。
従ってトマスの神学大全は、原理がいう、時が来て「あからさまに」真理が明らかにされるまでの「過渡的真理」というべきでありましょう。トマスの神学が人々を再臨につなぐ時限的、過渡的神学であり、またその自覚がある限りにおいて、なおその光彩を放つというのです。(了)