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トマス・アクィナス再考② 信仰と理性、そして神秘

○つれづれ日誌 (9月30日)-トマス・アクィナス再考② 信仰と理性、そして神秘

今や代々に渡って隠されていが、今やあらわにされ、告げ知らされた奥義の啓示によって知られる(ロマ書16.25)

前回、トマス・アクィナスの衝撃的な神秘体験が、一体何であったのかを考察しました。今回は更に踏み込んでその真相に迫りたいと思います。


前回述べた通り、イタリアの貴族の家に生まれたトマス・アクィナスは、ドミニコ会修道士からパリ大学教授となり、アリストテレス哲学をキリスト教信仰に調和させて解釈し、信仰と理性の一致をめざしました。トマスはアウグスティヌスを最高の神学者であると考えており、またアリストテレスを最高の哲学者と考えていました。そしてトマス神学の最大の特徴は、キリスト教信仰とアリストテレス哲学を統合した体系を構築したことであり、このトマス神学最大の課題である「信仰(神秘)と理性及びその関係」は、中世を席巻したスコラ学の最大のテーマでもあります。「スコラ学」は、主としてキリスト教神学を、ギリシア哲学(特にアリストテレス)によって理論化、体系化することにありました。


そこで先ず、トマス神学最大の課題である「信仰(神秘)と理性及びその関係」について前半で考察し、その次に今回のテーマであるトマスの神秘体験が何であったかを後半で論じることにいたします。奇しくもUC創始者は、2008年4月19日にヘリコプター事故で九死に一生を得たあと、同年8月18日、清平訓読会のみ言の中で、「ギリシャ哲学の平和の概念を編み直して解決しなさい」と言われ、ギリシャ哲学を高く評価されると同時に、この克服を願われました。

[信仰(神秘)と理性についての考察]

 

事実には、「歴史的・科学的事実」と「信仰的事実」があると言われます。ユダヤ人にとって神の存在は自明の信仰的事実でありましたが、トマスは、「哲学のほとんどすべてをあげて、その考察は神の認識へと秩序づけられている」と明言したように、「神とは何か」がトマスの最大の関心事であり、神の存在を哲学の力を借りて証明しようとしました。また、「神の存在」、「イエスの処女懐胎・受肉」、「三位一体の神認識」、「キリストの復活」など、これらは後世、信仰的事実の問題として論じられることになります。

 

パウロは、「世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、告げ知らされた奥義(神秘)の啓示」(ロマ書16.25)と言っていますが、これは、あまりにも隠されているので理性で理解することができない神的な神秘であり、トマスは「キリストの神秘」「受肉の神秘」「信仰の神秘」「三位一体の神秘」「恩寵の神秘」という言葉を多用しました。ヘンリー・シーセンも「三位一体の神秘」(シーセン著「組織神学」P224)と言っていますように、確かに、神の奥義は理性を超えた信仰の領域の問題、啓示の領域の問題であると言えるでしょう。


<神学と哲学の関係ー信仰・啓示及び理性>


ところで神学の3要素は「信仰」「啓示」及び「理性」だといわれ(カトリック神学入門)、これら3つはそれぞれ重要で、それぞれ役割が違いますが、宗教的真理を知る上でいずれも欠かせないものであります。しかし、神学は信仰によって獲得した真理を理性の力で確かめつつ体系化することであって、理性によって信仰に行き着くことではありません。カルビンは、「神の認識は理性ではなく信仰による」と言っています。しかし、神の存在は理性が最後まで証明できない何かでありますが、神の存在が理性に反しているということでなく、信仰的認識は理性を超えているが、理性と矛盾するものではないというのです。

このように神学において、理性は「神学の伴侶」乃至は「神学の侍女」(トマス・アクィナス)であるというのです。即ち、信仰のもとにあっての理性であり、「哲学は真理を求め、神学は真理を見出だし、宗教(信仰)はこれを所有する」という言葉は、これらの関係をよく言い表しています。「我々が正しい信仰をもつためには、第一に祈祷により、神霊によって、神と直接霊交すべきであり、その次には、聖書を正しく読むことによって、真理を悟らなければならない。イエスが神霊と真理で礼拝せよ(ヨハネ4.24)と言われた理由はここにある」(原理講論P191)とある通りです。


そして信仰と理性の融合、即ち、聖書的信仰(ヘブライズム)とギリシャ哲学(ヘレニズム)の融合の歴史はヨーロッパの伝統であり、前述のようにアウグスチヌスはキリスト教神学にプラトンの哲学を活用し、トマス・アキナスは自己の神学体系にアリストテレスの思想を借用しました。即ち、キリスト教神学には、キリスト教の外にあるギリシャ哲学などの知的財産を、神学的洞察を発展させる手段として用いる伝統があるというのです(アリスター・マクグラス著「神学のよろこび」P33)。その哲学的な諸体系は、神学に刺激を与え、キリスト教と異教徒の間の懸け橋になるというのです。その重要な例が、正にプラトン主義とアリストテレス主義との対話です。


即ち、ギリシャ哲学など異教徒の中にも、キリスト教と肩を並べる活用すべき思想があるというのです。この点新渡戸稲造や内村鑑三は、神道、仏教、武士道などで構成される日本の精神性や道徳観念は、唯一神・贖罪の思想を除けば、決してキリスト教に引けを取らないと述べています。またUC創始者は、2008年4月19日にヘリコプター事故で九死に一生を得たあと、同年8月18日、清平訓読会のみ言の中で、「ギリシャ哲学の平和の概念を編み直して解決しなさい」と言われ、ギリシャ哲学を評価されると共に、その克服を願われました。


このように、キリスト教のライバルになり得る世界観はプラトン主義であり、殉教者ユスティノスやクレメンス、そしてアウグスチヌスといった著述家らは、プラトン主義の持つ知的な長所を、キリスト教自身の完全性を損なうことなく、如何に活用するかに腐心しました。そしてもう一つがアリストテレス主義の活用です。13世紀のスコラ哲学が万学の祖アリストテレスを再発見し、自然学(物理学)、論理学、倫理学、政治学などアリストテレス哲学の見解や方法を活用しました。キリスト教神学はこれらを「神学の侍女」(箴言9.3)として用い、その金字塔がトマス・アクィナスの神学大全です。トマスは、『神学大全』第一部第一問第五項で「聖なる教(神学)は他の諸学(哲学)よりも高位のものであるか」と問いかけ、「神学はその真理を諸学からではなく、直接神から、啓示によって受け取っている。それゆえこの学は他の学を自分より下位のもの、ないし婢(はしため)として使用する」(山田晶訳神学大全1中央クラシックスP34)と応答しています。


但し、マルティン・ルターは、中世期、アリストテレスの思想を過度に、無批判に用いて、神学的歪曲に陥ったと批判しています。なお19世紀において、ドイツの神学者がヘーゲルやカントの思想を有益な神学のパートナーとして活用し、20世紀のプルトマンやティリッヒらは、実存主義を神学のパートナーとして活用しました。

<啓示について>

ユダヤ人は啓典の民と言われ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は啓示宗教といわれています。神は預言者、賢者、使徒たちを通して、神の言葉を啓示されてきました。啓示とは、「隠されていた覆いが取り除かれて明らかになる」という意味で、様々な形で私たちに語りかけて(啓示されて)おられます。そして理性は啓示に対して従属的立場にあり、啓示によって知られる真理は、人間理性の編み出した議論の産物ではありません。

さて啓示は「一般啓示」と「特別啓示」に分けられます。一般啓示には、自然(神は自然を通して自らを顕されている)、良心(神は人間の良心に臨在する)、歴史(特にイスラエルの歴史に神の啓示が顕れている)、があり、神はこれらを通して自らを啓示されるというのです。しかし、救いを伴う完全な啓示、即ち特別啓示は聖書(原理)及びキリストであり、神は聖書を通し、キリストを通して特別啓示として自らを完全に顕されたというのです。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである」(へブル1.1~2)とある通りです。

UC創始者は「原理には、神の直接の啓示にはるかに勝って、人間を指導し造りかえる偉大な力がありますから、原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしているのです」(創立以前の内的教会史より)と語っておられます。ここに至って隠された神の神秘は明らかになるというのです。そして啓示は、聖霊に照らされた人間の精神が見出すもので神の言葉に他ならず、これは信仰の光に照らされなければそれを受けることが出来ません。啓示は理性に優り、信仰は啓示に優るという意味がここにあります。


「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵求む」(1コリント1・22)とありますが、この聖句は、ヘレニズムとヘブライズムの特徴を端的に表しています。即ち、ユダヤ人は神について考えることよりも、神の啓示(しるし)に耳を傾けました。イスラエル一神教は、自然について考察した結果でも、神の本質について抽象的瞑想の結果でもなく、むき出しの啓示と弁解できない力強さをもって上から与えられたものであります。即ち、イスラエル思想は、思索から生まれた概念ではなく、しるし、寓話、象徴によって表現されものであり、その表現手段は、詩であり、宗教的呼びかけであり、物語であり、教訓であって、哲学的な抽象的概念はイスラエルの思想の中に占める場ません。一方、ギリシャ人は思索や哲学を好み知恵を求め愛しました。

<信仰体験からー信仰告白は理性を超克し神秘を認識する>

神学や哲学の力でギリギリまで突き詰めても、なお認識できない宗教的真理(神秘)があるというのです。では、人間は如何にして理性の彼方にある神秘、即ち究極的な宗教的真理を認識することができるのでしょうか。筆者は次の言葉によってこれを実現しました。

「究極的な宗教的真理の認識は、信仰告白によって可能になる」(韓国牧会者団宣言)

次の聖句は、上記の言葉を裏付けています。

「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ10.9~10)

こうして「究極的な宗教的真理の認識は、信仰告白によって可能になる」との言葉は、筆者において信仰と理性の問題に決着をつける言葉になりました。「目からうろこ」とはこのことです。つまり人間理性の限界を超えるものが信仰告白であるという真理です。かくして筆者は、65才の夏、アリゾナ州セドナにある聖十字架教会にて、イエス・キリストが無原罪降臨のメシアであること、UC創始者(真の父母)が無原罪誕生の再臨のキリストであることを、心で信じ口で言いあらわして告白いたしました。無原罪来臨という宗教的真理を、理性の壁を破って完全に認識した瞬間であります。  

[トマス・アクィナスは何を見たのか]


さて、前おきが長くなりましたが、いよいよトマス・アクィナスの神秘的体験に関する前回の続きを語らなければなりません。

遂にトマスは、「顔と顔とを合わせて」(1コリント13.12)神と出会い、理性で理解することができない神的な神秘と遭遇することになりました。それは神学大全に書いたものを根本的に覆すことになりかねず、トマスは深刻な葛藤の中に晒されました。トマスの妹テオドラは、憔悴した兄の変わりように大きな恐れと悲しみを感じたといいます。「神が沈黙を命じられた」とかの知人は主張しますが、正に時は未だ満ちていなかったからだというのです。

前回述べましたように、このトマスの神秘体験は、神学大全第三部の「キリストの聖体の秘跡についての論考」を書き終えた後、「悔悛の秘跡」に取りかかっていた時のことでした。友人レギナルドスに口外するなと釘をさした上で、「これまで書いたものは全てが藁くずのように見える」と告白し、第90問題第4項をもって永遠に筆をおきました。

1273年12月6日、ナポリの聖ニコラウス礼拝堂のミサで啓示された内容とは何か、その後の異常なトマスをどう説明するか、これをトマスの精神異常とする見方もありますが、神学者の稲垣良典氏は著書『トマス・アクィナス』の中で、S・ダグウェルの推測を紹介しています。トマスは死の直前、聖体儀式にあずかりましたが、ダグウェルは、聖体の秘跡と結びつけて推測しました。トマスは、信仰よりも大いなる知識、神への直視とも言うべき神秘体験、即ち、「顔と顔を合わせて見る」(1コリント13.12)神体験をしたというのです。言葉には刻みがたい秘義は、その荘厳さ故に、それに比して自らの真理探求全体の努力が、力なき単なる言葉、即ちわらくずのように見えるという訳です。(『トマス・アクィナス』P191)

このダグウェルの推測は、一面の妥当性がなくもありません。この時、理性の壁は完全に打ち破られて神秘が啓かれたことは確かであり、信仰と理性の問題はトマスにおいては解決したと言えるでしょう。しかし、ならば何故憔悴し、以後沈黙したのかという問題が残ります。理性の彼方にある神秘を見たのであれば、聖霊に満ちてパウロのように大胆に語ってもいいはずではありませんか。しかしトマスは絶筆し、後世に重大な神学上の課題を問題提起して他界しました。

ところでトマスの神学大全は、きわめて明快に理性と啓示(信仰)の融合がはかられ、キリスト教信仰に関する事柄でも最大限理性で納得できるよう努力して書かれています。しかしトマスは神学大全のなかで、理性では知り得ない事柄として、「キリストの神秘」「三位一体の神秘」「受肉の神秘」などを告白しています。筆者は、正にこれらの神秘が何を意味するのか、あのミサでの神秘体験でことの真理を知ったと確信しています。それは、今までの著書の中で主張してきた枠組を否定するものであり、コペルニクス的な神学上の転向を余儀なくされるものでありました。即ちダビデの若枝たる再臨によって明らかにされる「キリストの神秘」であります。


単に理性の壁を越えたに留まらず、また顔と顔を見合わせる神体験に留まらず、トマスは封印されていた7つの巻物(黙示録5.1)を覗き見て、彼が多用した「キリストの神秘」(受肉の神秘・三位一体の神秘)、そして「再臨の神秘」(十字架と復活の神秘)を垣間見たのです。イエス・キリストの誕生が処女誕生でも受肉(神が人となること)でもなかったこと、十字架の贖罪が未完成のものだったこと、故に再臨が必要であること、即ち再臨がもたらす真理の一端を知ったのだと思います。故に今まで書いたものが「藁くず」のように見えたのです。もしこれらの事実をトマスがあの神秘体験で知らされたのだとしたらどうでしょうか。これらは未だ時来たらず、トマスが沈黙し、神が沈黙を命じられた説得力ある理由になります。世界の神学者は、ファティマ第三の予言を知ろうとするように、トマスの沈黙の意味を深刻且真摯に祈り求めて欲しいと希望してやみません。

以上、哲学者、聖人にしてカトリック最大の神学者トマス・アクィナスについて2回に渡って論考いたしました。トマスの神秘的啓示体験は、少なくとも理性の壁を突破し、信仰が理性に優ることを実証しました。このことは、トマスの最大の功績であります。トマスの旺盛な探求心に神が答えて下さったのです。しかし一方では、何故沈黙したかという神秘を残していくことになりました。従ってトマスの神学大全は、原理がいう、時が来て「あからさまに」真理が明らかにされるまでの「過渡的真理」というべきでありましょう。トマスの神学が人々を再臨につなぐための時限的、過渡的神学であり、またその自覚がある限りにおいて、なおその光彩を放つと思料いたします。(了)



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