〇つれづれ日誌(令和2年5月23日)ープロテスタント発祥の地を訪ねて 横浜海岸教会
ついに我々の上に霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる( イザヤ32.15)

この23日、プロテスタント教会としては日本で最初に誕生した教会「横浜海岸教会」(Yokohama Kaigan Church)を訪問いたしました。いわばプロテスタント発祥の地であります。横浜湾と横浜中華街に挟まれた品の良いたたずまいを感じさせるエリアにひっそりと建っていました。
礼拝堂に入って驚いたのは、プロテスタントの教会では普通十字架のシンボルが正面に書かれていたりしますが、この教会には十字架もなく(もちろんカトリックのようなイエスの磔刑像もマリア像もありません)、内部は簡素にして荘厳な趣になっていました。「聖書のみ」というルターやカルバンの思想が顕れていて、筆者としては「我が意を得たり」の感がいたしました。UCの教会も大いに参考になると思います。そこで、以下、横浜海岸教会の歴史について、教会ガイドを参考にして振り返ることにいたします。
【プロテスタントの宣教】
日本で最初にキリスト教をもたらしたのは、1549年、イエズス会から派遣されたザビエル一行であり、戦国時代、江戸時代を通じて日本の宣教を担ったのはカトリックでした。そして幕末から明治にかけて、日米修好通商条約(1958年)、日仏修好通商条約(1958年)など5ヶ国と修好通商条約が締結され、外国人居留地での信教の自由が認められました。それに伴い、アメリカを中心に日本にプロテスタントの宣教師がやってきました。まだキリシタン禁教の時代でしたが、日本にキリストの福音を伝えようと、海外から非常な危険を冒して多くの宣教師たちが日本に上陸して来ました。これが日本の歴史の中でプロテスタントが初めてその種を蒔いた瞬間であります。
特に1873年の切支丹禁制の高札撤廃後、プロテスタント各教派が積極的に日本宣教に参加し、またカトリックでも多数の宣教師、修道女らが来日し、教育・医療・社会事業などの諸分野で活動をはじめました。日本におけるプロテスタントの布教活動は、まずアメリカの「外国伝道協会」の下に各教派が協力して推進されましたが、明治時代になると当初の協力体制は、各教派がそれぞれの独自性を発揮したことにより崩れていきました。
先ず1859年、アメリカ監督教会(聖公会)の宣教師J・リギンズ、C・Mウイリアムズ、オランダ改革派教会のG・F・フルベッキが長崎に着任しました。神奈川に赴任したのがアメリカ長老教会のC・ヘボン、米国改革派教会のS・R・ブラウン、D・B・シモンズ、そして1861年11月、米国改革派教会のJ・H・バラ夫妻です。
日本のプロテスタントの歴史は概ね、①1859年~1873年(明治6年)の「準備時代」、②1873年(明治6年)~1889年(明治22年)の「創立の時代」、③1889年(明治22年)~1909年(明治42年)の「試練の時代」、④1909年(明治42年)~1931年(昭和6年)の「発展の時代」、⑤1931年(昭和6年)~1945年(昭和20年)の「艱難の時代」、⑥1945年(昭和20年)~2024年(令和6年)の「自由の時代」、の6時代に区分できるでしょう。(藤代泰三著『キリスト教史』講談社文庫P464)
ちなみに、①1859年~1873年の準備時代は、いまだ禁教政策の時代であり、宣教師は公には宣教できませんでしたが、指導者の養成、聖書の邦訳、宣教師の日本語習得などの宣教準備はできました。②また1873年~1889年の創立の時代は、解禁により教会の基礎作りが進んだ時代です。横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドなどが形成されました。③そして1889年~1909年の試練の時代は、大日本帝国憲法(1989年)や教育勅語(1990年)が発布され、天皇絶対主義の国粋主義が台頭して、キリスト教排斥気運が高まりました。1991年には内村鑑三の不敬事件が勃発しています。加えて、自由主義神学の流入により、教会自体も動揺しました。
④ 1909年~1931年の発展の時代は、プロテスタント8教派合同の日本基督教会同盟の結成され(1911年)、1914年から20世紀大挙伝道運動が展開されました。また中田重治のホーリネス運動や内村鑑三の再臨運動も活発に行われました。⑤1931年~1945年の艱難の時代は、天皇絶対の思想統制の中で弾圧された時代です。ホーリネス系教会やセブンスデー・アドバンティスト教会の弾圧(1942年~1943年)が行われました。
【横浜海岸教会】
J・H・バラ夫妻は、まず横浜で英語私塾を開き、同時にキリスト教の開拓的伝道のための準備を始め、1868年11月には現在の横浜海岸教会の所在地(居留地167番)に、バラの依頼によって横浜在住の外国人のための礼拝所、日本人のための英語教室として、石造りの小会堂が建設されました。バラは小会堂を利用して20数名の学生を教えました(バラ塾)。
1872年2月9日(明治5年)より、バラ塾で学んで霊的感化を受けていた青年達の申し出により「初週祈祷会」が開かれました。そこで連日熱心な祈りがささげられ、一種のリバイバルが起こり、同年3月10日、バラによって洗礼式が行われ、篠崎桂之助、押川方義(のち東北学院初代院長)ら9名が受洗しました。同日、既に他所で受洗していた2名を加え、11名で「日本基督公会」を設立し、バラが仮牧師となりました。この日が横浜海岸教会の創立記念日となっています。他にも、のちに青山学院院長になる本田庸一、日本基督教会の重鎮となった植村正久らもバラにより受洗しました。こうして神は、カトリックとならんでプロテスタントにも大きく働かれたのです。
日本基督公会は、のちに「日本基督教会」へと変わりますが、「我輩の公会は宗派に属せず。ただ主イエス・キリストの名に依て建る所なれば・・・」と謳い、いずれの教派にも無教会派主義と独立自治を標榜しました。ちなみに公会主義(こうかいしゅぎ)とは、いかなるキリスト教の教派にも属さないキリスト教無教派の理念、理想で、日本基督教団は公会主義を継承する唯一の団体と言われています。
そしてバラらの尽力により3年後の1875年7月10日に400名以上の収容が可能な大会堂が献堂され、同時に「日本基督横浜海岸教会」と改称されました。現在の会堂は1932年末に竣工し、1933年3月12日に献堂されたものです。毎週の主日礼拝は、第二次大戦中のキリスト教弾圧の時代にあっても一回も欠かすことなく守られ、受洗者総数は累計すれば約6000名を下らないものと推計されています。教会設立出発点となった1872年の初週祈祷会の折に、バラから篠崎桂之助らに与えられた聖句はイザヤ32章15節でした。
「ついに我々の上に霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。」( イザヤ32.15)
上記の通り、1872年、横浜にプロテスタント最初の教派を越えた「日本基督公会」(海岸教会)が創立されましたが、これが「横浜バンド」の前身であります。この他にも全国では「熊本バンド」、「札幌バンド」も産声をあげています。この横浜バンドには、東北学院を創立した押川方義のほか、メソジスト系の青山学院の院長となる本多庸一や、明治学院創設メンバーである植村正久、井深梶之助らがいました。これらは、1890年に設立された「日本基督教会」へと発展し、日本のキリスト教界を担うことになり、長老主義的な神学思想を形成していきました。
【士族層によるキリスト教の受容】
1872年の横浜公会設立から翌年8月までの受洗者は約58名で、旧武士出身が多数を占めていました。士族層によるキリスト教の受容は、旧幕臣や旧佐幕派諸藩の出身者に多く見られましたが、それは薩長閥で占められた明治政府には彼らの入る余地がなかったことと共に、彼らが宣教師に接近して洋学・英学を学ぶうちに、ピューリタリズムの精神を受け継いでいた宣教師の崇高な倫理観に強い感化を受けたことがあります(五野井隆史著『日本キリスト教史』吉川弘文館P208)。
そしてプロテスタントの初期伝道がカトリックに比べ、上層の士族や知識人のひろい支持を得た今一つの理由は、キリスト教が「文明の宗教」として理解され受け止められた点にありました。即ち、欧米文化・文明の背景にキリスト教の精神文化を見て取ったからであります。
こうして明治の前半、キリスト教は一つの開花期を迎えますが、その後国家主義的な明治憲法(明治22年)や教育勅語(明治23年)などの発布、そして聖書の無謬性に疑義を呈する自由主義神学の流入などがあり、試練期を迎えます。これにより日本のキリスト教は、大きく、①横浜バンドの植村正久を中心とする伝統的な流れ、②熊本バンドの海老名弾正を中心とする自由主義神学の流れ、③札幌バンドの内村鑑三を中心とする無教会主義の流れに分かれるようになりました(梅本憲二著『やさしいキリスト教史』光言社P89)。
筆者はこの日、150年前の横浜バンドを偲びなから、彼らがこの「再臨の日」に共に再臨復活し、我らUC信徒を協助して下さるようしばし祈りを捧げ、上記横浜海岸教会設立の11名に思いを馳せました。筆者自身、令和元年2月10日、日本聖公会宮岸進司祭により、牧師叙階の按手礼を受けましたが、これをキリスト教伝統の正式な相続者の印として神が付与して下さったと理解し、このキリスト教伝統相続の上に立って、更に再臨へと歩をすすめていくきっかけになれば、この日の海岸教会訪問は意義があったかもしれません。
この横浜海岸教会一帯は、山下公園あり、横浜港開港の記念館あり、港ありで、格好の散策エリアで、お薦めいたします。帰りに横浜中華街に立ち寄って、美味しい中華料理に舌鼓を打たれてはどうでしょうか。(了)