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内村鑑三の世界①

◇聖書の知識36ー内村鑑三の世界(1)

自己を省みる事を止めて、罪を贖ひ給ひし十字架のキリストを仰ぎみよ(内村回心の言葉、1886年3月7日、シーリー学長)

はじめに!

前回、日本のキリスト教歴史の全体像をみてきましたが、これを踏まえ今回は、日本における代表的クリスチャンを取り上げたいと思います。日本にも名だたる優れたキリスト教徒がいますが、この人を深掘りしてみたいなと思う方はそう多くはいません。やはり、何といっても内村鑑三、賀川豊彦、新渡戸稲造の3人でありましょう。

他にも新島襄、植村正久、本多庸一、海老名弾正、中田重治、カソリックでは、ヴァリニャーノ、曽野綾子といった著名なキリスト教徒もいますが、「この人を書いて見たい」とまではいきません。

では、そういった中で、今回、何故内村鑑三を取り上げるというのでしょうか。先ず、この理由から述べなければなりません。

今、何故内村鑑三なのでしょうか!

第1になんといっても「華」があるからです。華とは、実力や実績では量れない人を惹き付ける人間力です。内村には、憂いと希望が入り雑じった危なっかしさがありますが、人間的な魅力を感じさせる華がありました。従って、日本のキリスト者の中で、内村ほど多くの学者や文筆家によって論評され、又多数の伝記を書かれた人物はなく、なお今も書き続けられています。

第2は内村の信仰者としての革新的な姿勢と神学思想です。彼は、按手礼を受けた牧師でも、教会指導者でもなく、どの教派にも属さず生涯一信徒として信仰を貫いた、良くも悪くも異端児でした。日本独自の「無教会主義」という思想の中に、内村の革新的なキリスト教徒の信仰の在り方や神学思想が象徴されています。

無教会主義キリスト教の論客として、キリスト教界に大きな波紋をおこしたのみならず、その預言者的言辞は、日本の宗教、教育、思想、文学、社会など多方面に広く深い影響を及ぼし、その門から多数の人材を輩出させました。

従って、植村正久のように、プロテスタント教会全体の組織釣発展に貢献したわけではありませんが、しかし、キリスト教思想、キリスト教文化の普及に大きな影響を与え、多くの知識人にキリスト教の魅力を啓蒙したことは明らかです。

「聖書乃研究」の発刊、「聖書研究会」の主宰を両輪に、内村の弟子筋から藤井武、塚本虎二、矢内原忠雄、南原繁など時代を背負う著名なリーダーが出たことを見ても影響の大きさが伺えます。丁度、吉田松陰の松下村塾から維新の立役者が出たようにです。

又文学界の有島武郎、小山内薫、正宗白鳥、志賀直哉、武者小路実篤、国木田独歩といった名だたる著述家にも影響を与えており、内村の華麗な人脈には驚かされます。

第3は、内村の文筆力、講演力、つまり言語的発信力の卓越性、そして預言者的言辞の革新性です。これは、「余はいかにしてキリスト教徒となりしか」「代表的日本人」などの多くの著作や講演録、預言的な再臨論を見ても明白であります。

そして第4に敢えてもう一つ付け加えるなら、彼は不幸でした。2度の離婚、再婚の妻や最愛の娘ルツとの死別、生涯4度の結婚、弟との確執というように家庭的事情は尋常ではありません。

それに加えて、職業的にも職を転々とし、経済的に安定しませんでした。1888年ハートフォード神学校を退学して帰国後、新潟の北越学館に赴任しましたが、宣教師らと教育方針で衝突してすぐ辞職しました。以後、東洋英和学校、東京水産伝習所、明治女学校の教師、第一高等中学校嘱託職員、 大阪の泰西学館、熊本英学校赴任と転々とし、1897年「万朝報」の英文欄主筆、そして、ようやく1902年の角筈(つのはず)聖書研究会の発足に至ります。

更に内村には人格的弱さがあった、あるいはその個性故に強調性に欠ける面があった、とも考えられます。人や組織との衝突を繰り返し、最後には藤井武や塚本虎二らの最側近の直弟子が離反していきました。勿論、これは安易な妥協を嫌う内村の純粋な性向の表れかも知れません。

このように、内村の人生は決して順風満帆とは言えない綱渡りのような一面を持っています。しかし、この試練こそ内村の思想的源泉であり、受難に晒される内村の中に、多くの人々は共感を感じてきました。私もその一人です。彼は、その欠陥にもかかわらず、いやその欠陥故に、なお魅力的なのです。

以上が、今回内村鑑三を取り上げた理由であります。内村を縦軸として、明治、大正時代のキリスト教を見ることによって、その実相がよりよく見えて来ます。更に内村が提起した思想と神学を、原理観から点検・論評することによって、その功罪が鮮明になり、我々のより深い原理理解の助けになるはずであります。

内村鑑三とは誰か!

では、内村鑑三とは誰なのでしょうか。一体、内村のアイデンティティーとは何でしょうか。キリスト教思想家、聖書学者、文学者、教師、新聞記者、出版社経営者、社会運動家等々、皆当たらずとも遠からずです。いずれも内村の一面を表しています。

しかし、一つだけ挙げよと言われれば、私は躊躇なく「福音の宣教師・預言者」と答えるでしょう。彼は生涯、キリスト教福音の一宣教師・預言者であり、遅れてきた使徒だったのです。

内村の大きな特徴は、既成のキリスト教の在り方にとらわれない自由な神学、自由な教会運営の在り方、自由な伝道方式をとったということです。つまり、既成のキリスト教への独自性、あるいは、自由と独立です。但し、これは教会を否定することでも、違った教理を打ち立てることでもありません。彼はなお、福音の正当な相続人でありました。内村が目指していたものは「日本的キリスト教の創造」でありました。

この内村のキリスト教信仰の特徴は、a救いの教理の独自性(十字架信仰)、b革新的な教会論(無教会主義)と聖書研究会、c信徒伝道(在家信仰)、d非戦論(絶対的平和主義)、e預言的な再臨論(宇宙の完成としての再臨)、f復活の死生観(二人の死の経験から)、などとして表れています。

確かに内村は、植村正久のように日本基督教会を作った訳でも、新島襄のように大学を創立した訳でもありません。ライフワークだった「聖書之研究」は死後廃刊され、聖書研究会は解散しました。内村は自らキリスト教教師(牧師)の資格を得る道を放棄し、ハートフォード神学校を退学しました。しかし内村には、他の追随を許さない、内村ならではのキリスト教理解と思想を残したのです。

これら、内村の思想と特徴を、シリーズで順次見ていくことにいたします。1回目は、生涯経歴及び洗礼と回心に至る経緯について、2回目は、内村の教会論(無教会主義)と聖書研究会及び非戦論(絶対的平和主義)について、3回目は、内村の再臨論及び死生観について、であります。ページ数が増える場合は、更に回数を増やすこともあります。

1、先ず初めに、簡単に内村鑑三(1861年3月23日~ 1930年3月28日)の履歴を見たいと思います。この章はざっと目を通して頂いてもいいでしょう。

内村の人生は、キリスト信仰を中心として見た場合、概ね4つの時代に区切られるようです。第1期は誕生から洗礼まで、第2期は洗礼から回心まで、第3期は回心から聖書研究会発足まで、第4期は聖書研究会から再臨運動を経て他界するまで、の4期です。

第1期-洗礼まで

・1861年 - 高崎藩士(佐幕派)内村宜之の長男として生まれる。明治時代の著名なクリスチャンは、ほとんどが職を失った佐幕派の武士出身だった。明治政府の中枢は薩長閥だったのである。

・1873年-東京の有馬学校入学

・1874年- 東京外国語学校入学、一年病気で休学し、新渡戸稲造、宮部金吾と同級になる。その頃初めて英文講読で『旧約聖書』の聖書物語に触れた。

・1877年16才- 経済的理由もあり札幌農学校入学。新渡戸稲造と宮部金吾が署名したこともあり、強制的に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させらクリスチャンに。

第2期-洗礼から回心まで

・1878年17才 - メソヂスト監督教会宣教師M・C・ハリスより受洗。洗礼名ヨナタン。

牧師の役を交代で務め、毎日曜日の礼拝を学内で開き、水曜日には祈祷会を開いた。小さな教会と呼び、これが札幌バンドである。

・1881年20才- 首席で農学校卒業(水産農学士)、開拓使御用係(のち札幌県御用係)、農商務省農務局水産課に勤める。卒業の際、新渡戸、宮部、内村の3人は札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。

・勤務の傍ら、札幌独立基督教会を創立する。また、1881年10月に結成された札幌YMCAの副会長になった。

・1882年 - 父・宜之受洗礼。

・1884年3月28日23才-安中教会で知り合った浅田タケ(新島襄から受洗)と結婚するも7ヶ月後破婚。

・1884年11月、農商務省農務局水産課を辞し渡米。拝金主義、人種差別の横行するキリスト教国の現実を知って幻滅する。

・1885年 - エルウィン知的障害児養護学校にて看護人として働く。

・1885年医学、生物学の道を捨て苦悶の末伝道者になる道を決断し、新島の勧めでアマースト大学に入る。新島の恩師J・H・シーリーの下で学ぶ。

・1886年25才 - 学長であり牧師であるシーリーの人格と信仰の影響を受けて回心、キリストの贖罪の信仰を得る。  

第3期-回心から聖書研究会開始まで

・1887年26才- アマースト大学卒業。シーリーの勧めでハートフォード神学校入学。

・1888年27才 - ハートフォード神学校の神学に失望し退学、帰国する。帰国後、新潟の北越学館に赴任。北越学館ではエレミヤ書を講義し、土曜日には講演会を開き、ルターについて講義した。12月にアメリカ宣教師らと教育方針で衝突して辞職、帰京。植村正久の一番町教会で説教を行う。

・1889年 - 東洋英和学校、東京水産伝習所、明治女学校で教える。

・1889年7月31日28才、旧高崎藩士の娘・横浜加寿子と結婚。

・1890年 - 9月に第一高等中学校嘱託職員。

・1891年1月9日30才(明治24年)、教育勅語奉読式で「不敬事件」

・1891年4月19日、妻加寿子が病死。

・1892年1月より、横井時雄の世話で、日本組合基督教会の京橋の講義所の説教者になる。同年の夏千葉県君津郡竹岡村で一ヶ月間熱心に伝道し、8月25日に天羽キリスト教会が設立されることになった。

・1892年31才 - 大阪の泰西学館に赴任。

・1892年12月23日岡田シズと結婚

・1893年 - 流浪・窮乏の時代のこの時期に、多くの著作・論説を発表した。処女作は『基督信徒のなぐさめ』。同書で「無教会」という言葉を初めて使った。

・泰西学館辞任。熊本英学校赴任。8月すぐに辞任して京都へ。

・1897年 - 「万朝報」の英文欄主筆になる。

・1898年-『東京独立雑誌』を創刊(1900年7月まで)

・1900年9月『聖書之研究』を 創刊。

『聖書之研究』創刊号で生徒を募集し10月に聖書研究所を発足させる。自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れる。それらは、25人定員の角筈聖書研究会になる。

・1901年40才 - 「無教会」を創刊。万朝報の「理想団」に理事として参加、足尾鉱毒事件では鉱毒反対運動にかかわり、社会運動家 としても活躍。

・1902年41才 - 角筈聖書研究会を自宅で始める。以後、雑誌「聖書之研究」刊行と聖書講義とが一生の仕事となる。

第4期-聖書研究会から再臨運動へ

・1903年 42才- 日露非開戦論、戦争絶対反対論を「萬朝報」「聖書之研究」で発表。萬朝報を辞す。11月、角筈より柏木に移転

・1904年11月母親が死去。死因を巡り弟達三郎との骨肉の争い。聖書研究会が再開され、聖書之研究の読者組織である「教友会」が全国で結成。

・1907年11月、内村一家は角筈から淀橋町の柏木に移った。未亡人ノブの寄付により同年末に建物を建設し(今井館)、無教会主義キリスト教の本拠になった。

・1909年秋には、新渡戸稲造の読書会グループの学生たちが、内村の弟子に入門し「柏会」と命名された。

・1912年51才 - 長女ルツ子が病になり、1月12日死去する(18才)。ルツ子の死を通して復活信仰を得る。

・1915年『聖書之研究』にて社会主義批判を強める。

・1918年57才 - 中田重治、木村清松らと共に、再臨運動を始める。

・1930年69才 - 3月28日死去、遺言により「聖書之研究」は廃刊、内村鑑三聖書研究会解散。

主な著作は次の通り。

『基督信徒のなぐさめ』

『余は如何にして基督信徒となりしか』

『代表的日本人』

『求安録』

『後世への最大遺物』

『羅馬書(ロマ書)の研究』

『内村鑑三全集』全40巻、他

2、次に、回心までの道のりを辿っていきましょう。先ず洗礼までです。

内村の洗礼!

武士の子であり愛国心の強い内村鑑三が、外来の宗教であるキリスト教の信仰へと到った葛藤の経緯、回心までの道のりが、著書「余はいかにしてキリスト信徒となりし乎」(自伝)に詳しく書かれています。

内村は高崎藩の武士出身らしく、儒教的道徳や武士道を重んじる風潮の中で育ち、キリスト者になっても、二つのJ(日本とキリスト)に仕える者と自らを規定しました。これは、次の墓碑銘に表れています。

"I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God."

(私は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、全ては神のため)

内村は、洗礼を受けて唯一創造の神を受け入れるまで、小さい時から自らが完全な多神教の信者であったことを告白しています。

「各神社の前を通る時には、それぞれの神々に祈りを捧げ、拝まなくてはならない神々の数は日増しに増えていき、もはや手におえなくなった」と証言しています。(自伝)

縁日には神社に供物を捧げる儀式を欠かさず行い、鎮守の神様に心からなる祈りを捧げたといいますから、それが異教の神々であっても、内村の宗教的感性は子供のころから異常に鋭敏だったと言わざるをえません。

そうして1877年札幌農学校に第二期生として入学しますが、すぐに第一期生に半ば或いはかなり強制されて「イエスを信じる者の契約」にサインさせられます。結局、この強制に抗うことは出来なかったのです。 

「当時私は16歳の若者に過ぎませんでした。ご覧のように、私のキリスト教への第一歩は、私の意に反して強制されたものでした」(自伝)

彼がキリスト教入信に抵抗したのは、「子供のころから祖国と祖国の神々を尊ぶことを教えられ、外国に由来する信仰が、祖国の宗教の背教者となり、祖国の裏切者になる」(自伝)という観念からでもありました。

そして翌1878年、新渡戸、宮部ら仲間と共にメソジスト監督教会の宣教師M・C・ハリスから洗礼を受けることになります。洗礼名はヨナタンでした。ヨナタンとは、ヨナタンの父サウル王に追われたダビデの親友となり、生涯友情を全うした人物で、内村らしい選択でした。 

メソジストの特徴は、倫理的禁欲主義と信徒伝道でした。内村は、嫌がおうにも、禁酒・禁煙・禁賭博の規律と、伝道という義務を課されることになりました。

内村がキリスト者になって最初の実益は、かって神社ごとに祭られている神々に、前を通る度に一々祈りを捧げる必要がもはやなくなり、ただ、一人の神だけを仰げばよくなった、ということだったと告白しています。彼は、それほど日本の神々に忠誠を尽くしていたのです。こうして八百万の神々から解放されました。

「キリスト教の唯一神信仰が、私の迷信の根を、すっかり断ち切ることになりました。私はイエスを信じる者の契約に署名させられたことを後悔しませんでした。ルビコン川はこうして永遠に渡られたのです。私たちは新しい主君に忠誠を誓いました」(自伝)

その後彼は聖書と神学の勉学に励むことになり、教派の相違も分からないままメソジスト監督教会に入会いたしました。(その後、教派を越えた札幌独立教会を設立します)

そうして内村の伝道意欲は、先ず頑なに反対していた父親を改宗させ、そして家族、親戚の伝道にも向かいました。

そして自らがキリスト者となったのは、(かのナイチンゲールと同様)神の「召し」によるものであること、そして救いの福音を伝える神の道具としての使命、この二つの自覚でありました。

それにしても、あれだけ入信に抵抗した内村が、一旦新たな神を受け入れるや、短期間の内に良きクリスチャンに変貌していく姿は、やはり天性の宗教的資質が備わっていたとしかいいようがありません。私とは対極にあるその宗教的純粋性に嫉妬を禁じ得なかったことを告白いたします。

3、次に回心までの道のりです。

内村の回心!

内村は、最初の妻浅田たけとの離婚もあり、

傷心の傷を引き摺りながら、職業を捨ててアメリカに留学することになりました。エルウィン知的障害児養護学校看護人を経て、新島襄の勧めでアマースト大学に入学しました。医学と生物学の道を捨て、伝道者の道を選択して入ったアマースト大学は、1821年に創立されたキリスト教教養大学であります。

当時内村は、神、父母、君への負債や離婚の痛手を抱え、そして誰よりも罪の意識に苛まされた人でした。自己中心という罪にです。内村には、人並み外れた潔癖症ともいうべき繊細な良心が備わっていたに違いありません。

アマースト大学では、毎日2時間を聖書の勉強に割き、自らの心を掘り続けていきました。しかし、内村の魂を苦しめ、肉体をもさいなんでいた罪の問題は、尊敬するシーリー学長の次の言葉によって大転換することになります。

「内を省みる事を止めて、罪を贖ひ給ひし十字架のキリストを仰ぎみよ」(1886年3月7日、シーリー学長)

「君の義(無罪とされること)は、貴君の中にあるにあらず、十字架のキリストに在る」というシーリー学長の言葉は内村を回心に導きました。霊的感性の豊かな内村は、神の声を聞くへりくだった耳を持っていたのです。その瞬間、彼は「贖罪」という霊的意味を理解しました。贖罪の恩恵による罪からの解放であります。

1886年3月8日の日記に「私の生涯の中で非常に重要な日。キリストの贖罪の力が今日ほど明らかに表れた日はなかった」と記しています。そして又「この一言は自らの信仰に大革新を起さしめた。爾来、聖書の研究をもって天職とす」とも他の文書に記しています。

そして、人の義とされるのは行いに非ず信仰に由ること、自己自身の力で罪を克服すること(自己義認)を断念し、ただキリストを仰ぎ見ること、そしてここにこそ真の救いがあるという信仰に至ったのでした。これは、アウグスチヌスの恩寵救済論、ルターの信仰義認論に通じるものです。

内村は、日本には儒教あり、仏教あり、神道あり、そして何よりも武士道があると言い、これらの道徳観念は、決してキリスト教に遜色はないと主張しています。しかし、キリスト教にあって他にないものが一つあり、それが罪の許し、贖罪という観念であると指摘しました。これこそ自らをしてキリストの神に膝まづいた理由だとしています。

こうして信を得るまでの葛藤の中で、内村の思想の基本的なあり方が形成されました。内村が生涯愛しつづけることになる「二つのJ(Jesus, Japan)」の間にある緊張した関係は、米国留学中に体験した「回心」により内的には強く結び合うことになりました。しかし外的には離反していくかのように見え、その緊張関係が内村の思想と信仰の養分となっていきました。

以上、今回は、内村鑑三の回心に至るまでの

経緯を見て参りました。内村の回心体験は、イエス・キリストの十字架の贖罪が、限定的な救いを保証する第二次摂理であったことの無知から来るものであるにせよ、当時の罪に苛まされる内村にとっては、それが全てでありました。しかし、内村は、なおこの回心体験に飽きたらず、来るべき宇宙の完成をもたらす再臨を誰よりも待ち望むクリスチャンであったことは確かです。

次回は、これを踏まえ、内村の教会論、即ち無教会主義と聖書研究会について考え、更に内村の非戦論、即ち絶対的平和主義について論じることにいたします。(了)



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