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内村鑑三の世界③

🔷聖書の知識38ー内村鑑三の世界(3)

そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。(ルカ21:27)

今回は、内村鑑三の再臨運動、再臨思想がどのようなものであったのか、また我々はそこから何を教訓として引き出すことかできるのか、を考えていきたいと思っています。

再臨とは、復活し、天に昇ったとされるイエス・キリストが、終わりの日に世界を義をもってさばき、神の国を実現するために、また、キリスト教徒を天に導くため、再び地上に降りて来られることであります。

しかし、本来キリストによる審判とは、人類の滅亡ではなくサタン(悪)への審判であり、世界が滅亡する事ではありません。希望の神学を提唱したモルトマンは、永遠の刑罰を否定し、終末においてすべての人間が救われるとする普遍救済主義を唱えました。

聖書を文字通り信じる伝統的クリスチャンは、艱難の時代にイエスの空中再臨があり、信者は天に携え挙げられ(携挙)、そしてやがて地上再臨があり千年王国が訪れると信じました

また、世の終わり、即ち、終末には、戦争、飢饉、地震、宗教的迫害、背教・躓き、偽預言者など愛が冷え不法がはびこる大艱難(再臨の徴候)があり、そののち再臨があるとします。そして、その時は誰にも分からないとされています。

「人の子(キリスト)は思いがけない時に来るのですから」(マタイ24:44)

以下、内村の再臨運動、再臨思想を見ていくことにいたします。

1、再臨運動


再臨運動は、1918年から1919年にかけて「イエスが世に再び現れる」という内容で東京を中心に広がり、その中心が内村でした。その前1917年、中田重治の東洋宣教会を中心に再臨運動の前触れがありました。

内村が再臨運動に参加した遠因には、先ず、1912年の娘ルツ子の病死が挙げられます。最愛の娘の死を通じて霊魂不滅と復活を単なる教義としてではなく、明示された事実として体感した経験でした。更に、アメリカ人の友人ベルからたびたび送られて来る手紙、再臨に関する雑誌記事が入った書簡の影響があり、そして第二次世界大戦の勃発、米国の世界大戦参加への失望、非戦論の無力さへの認識などがあったと言われています。

更に1914年から始まった第一次世界大戦、スペイン風邪の流行、米騒動などの世情不安があり、キリスト教文化圏においては、艱難期に再臨があり千年王国が出現するという、前千年王国論が生まれる傾向がみられました。

しかし、なんといっても最も大きな要因は、聖書の研究を通じて再臨の教理を学び、再臨を聖書的に確信したことでありました。

1918年より再臨運動を開始した内村は、再臨信仰において一致できる人々と協力しましたが、その一人が日本ホーリネス教会の監督中田重治であります。もともと中田の設立したホーリネス教会は、主要教理の四重の福音(新生・聖化・神癒・再臨)の一つとして再臨を強調していました。

中田と内村は同じ柏木に住んでいて、それまで交流はありませんでしたが、近所で発生した火災をきっかけに交流を持つようになり、互いに再臨信仰への使命も持っていることを知り、急速に接近して協力するようになりました。

それに加えて、組合教会の巡回伝道者の木村清松とも意を通じ再臨運動を始めることになりました。さらに、アメリカ留学から帰国したばかりの平出慶一、武本喜代蔵、自由メソジストの河辺貞吉、聖公会の藤本寿作らなどが加わり、超教派の運動として再臨運動は展開されました。

1918年1月6日、東京基督教青年会館において、聖書の預言的研究演説会が1000名以上の聴衆を得て開催され、運動は、東京、関西、後には北海道から岡山にまで及び、多くの聴衆が参加しました。内村の演題は、「聖書の預言的研究」「マタイ書に現れたる基督の再来」「世界の平和は如何にして来る乎」「基督再来の欲求」「イエスの終末観」「死後の生命」などがあります。

各地の教会に信仰復興が起こり、キリスト教界に大きな影響を与えました。日記に、「1918年の1年間で計56回2万人に福音を説いた」と記しています。

しかし、1918年3月~5月には、再臨の聖書解釈の違いから海老名弾正らを中心に紙面による再臨論批判が起こりました。また1919年には、組合教会の小崎弘道、メソジストの平岩喧保らが基督再臨反対演説を行いました。

反対の理由は、再臨に関する聖書解釈の違いによる神学上の批判であり、もう一つは、無教会を標榜する内村の講演により、青年が惑わされ、教会の存続が危うくなるというものでした。1000名も集まった内村の演説会への嫉妬があったかもしれません。当時、多くの教会は、礼拝数20人程度、甚だしくは数人という有り様だったのです。 

一方、その反対の中で、日本基督教希望団、内村の柏木兄弟団が結成され再臨運動を支援しました。

しかし、再臨運動批判により、今まで使っていた東京基督青年会館の使用拒否にあって、1919年6月に演説会場を大日本私立衛生会館に移しました。そしてこのころから講演内容は「モーセの十戒」「律法と福音の関係」「罪の許し」などとなり、終末論から復活論、律法論、救済論へと移っていき、再臨とは直接関係のないスピーチになっていきました。

こうして内村の再臨運動は中途半端な形で終わることになります。世界大戦も終わり、キリスト教界に賛否両論の議論を生んだ再臨運動は、明確な決着を見ずに、ほぼ2年弱で終息したのです。しかし、内村のカリスマ性に魅了された聴衆は、その果実として数百名単位の内村鑑三講演会として残ることになりました。



前列二列目 左から5人目が内村鑑三(左隣は新島襄)



2、再臨運動の霊的背景


さて、ここでその当時の北東アジアの霊的背景を述べなければなりません。

内村が再臨運動を行った1918年~1919年は、朝鮮半島では正に我が原UC創始者が誕生される前後でありました。生誕が、1920年1月6日(陰暦)ですので、1919年3月頃母親の胎中に身籠りがあったということになります。

当時平城は、東洋のエルサレムと呼ばれ再臨待望論があり、新イエス教、聖主教などのキリスト教霊的集団により、メシア到来の霊的準備がなされておりました。そして1919年3月1日にキリスト教徒を中心に独立運動が勃発しました。この独立運動は、規模こそそれほど大きくはありませんでしたが、その霊的意味には深いものがありました。

即ち、かってイエス誕生の時、ユダヤはローマの支配下にあったと同じように、朝鮮半島は日本の支配下にありました。その外国支配の中にあって、メシア誕生に際し、神の主権を主張できる霊的条件が必要であり、それが独立運動の本質であったというのです。形だけとは言え1919年、李承晩・呂運亨・金九らによって樹立された上海臨時政府はその象徴でした。

このように、内村の日本で再臨運動は、奇しくも半島のメシア誕生と期を一にしており、内村の再臨運動の背後に神の働きを感じさせるものがあります。内村の鋭敏な霊的感性は、図らずも我知らずの内に、この霊的摂理を感じとっていたに違いありません。実際、内村の再臨運動が、聖書研究会に参加していた朝鮮人クリスチャンに愛国的独立心を鼓舞したと言われ、3・1独立運動と連動していたという話しもあります。

以上が、再臨運動の最も内的な背景であります。内村の再臨運動が奇しくも創始者の身籠りを目指して勃興し、1919年半ば、その身籠りを見届けるように終息していきました。

3、再臨運動の思想と特徴


内村の生涯に3度の大変化がありました。第1が1878年、多神教より一神教への転換で唯一の創造主なる神を信じたこと(入信)、第2が1886年、アマースト大学においてキリストの十字架による罪の贖いを信じたこと(回心)、そして第3が1918年、キリスト再臨への確信を得て再臨運動に臨んだことでした。

内村の再臨思想の特徴としては、再臨の時期を特定しないこと、千年王国の千年は、文字通りの数ではなくある象徴的な意味を示すこと、神癒を信じないこと、この3つだと言われていますが、以下内村の再臨思想の聖書観を見ていくことにいたします。

第1に、再臨はキリスト自身の再臨、つまり、肉体を伴う有形的再臨であって、聖霊の臨在と称する内在する霊的再臨ではないという主張であります。そして、死せる信者の復活があり、生ける信者が復活のからだに変えられて携挙されること(1テサロニケ4・17)を信じ、神の国建設が行われるというものです。 

人の救いは、霊だけではなく、霊と肉とによる救いでなければならず、霊の救済は十字架により成就しましたが、身体の救済は再臨によって成るというものです。再臨による完全な救いの完成です。内村のいう万物の復興であり完全な救いへの希望であり、パウロの十字架の贖罪信仰だけでは解決できない葛藤を再臨に委ねたと言えるでしょう。

「基督再臨とは万物の復興である。また聖徒の復活、神政の実現である。人類の希望を総括したもの、それがキリストの再臨である」(関根正雄編著『内村鑑三』)

この内村の思想は、死せる信者の肉体の復活、生ける信者の携挙(体を変えられて空中に引き上げられること)、超自然的方法での再臨という考え方を除けば、我が原理観と類似性があります。内村は再臨の日に、復活した愛娘と再会できるという望みを信じました。

第2に、内村は艱難期に再臨があり、その後千年王国が生まれるといういわゆる「前千年王国説」をとっています。

内村は、講演で「神の国は、人間の自然進化、社会改良、政治運動によって出来るのではなく、それは再臨による」と言い、先ず再臨ありて然る後に神の国の出現があるのであって、神の国完成の後に再臨があるのではないとします。

但し、内村は黙示録を象徴的文書と捉え、非神話化の醒めた視点を持っていました。千年とは文字通りの千年ではなく象徴と考え、また、雲に乗って来るとの「雲」(マタイ24・30)とは、文字通りの雲ではなく、多くのものの集まり、または聖なる群衆と捉え、比喩的解釈をしていました。しかし、いずれにせよ、超自然的方法で再臨が起こるということは信じていました。

第3に、内村は再臨問題は聖書問題であるとし、再臨は聖書に明確な根拠があるとしました。しかし、再臨批判者の多くは、聖書は一言一句文字通り信ずるものではなく、聖書にも誤謬があるとする海老名弾正などの自由主義神学の信奉者でした。ただ、反対者の中にも内村正久のように福音主義神学に立つものもいました。 

海老名は、再臨思想は一種の妄想であり、使徒時代のユダヤ主義の時代的背景を持つ思想だとしています。また、パウロも肉の再臨ではないと考えていたとし、霊的キリストとの交わりこそ再臨(霊的再臨論)だとしました。

これに対し内村は、聖書は神の啓示の書であるとし、聖書を誤りなき神の言葉(無誤謬)と信じました。従って、内村の肉の再臨への確信はこの聖書信仰に立ったものでした。ただ、内村はバルトと同様、聖書の文字の背後の神の意思を見なければならないとしており、その一字一句にまで霊感が及ぶとしたいわゆる逐語霊感説の信奉者ではありません。

内村は、1918年8月発行の「聖書乃研究」において「基督再臨問題は、聖書問題である。聖書の神的権威を認めて再臨を否むことは出来ない。余は再臨問題を以ってする前に聖書問題を以って是等の教会と争ふ必要を認めざるを得ない」と記しています。

確かにメシア思想は、聖書66巻を通しての中心テーマであって、聖書からメシア思想を除けば当に「単なる古典」になり下がってしまうことでしょう。再臨は確かにあるとして、問題は、いつ、どこに、如何なる方法で、如何なる使命と目的を持って誕生するのか、これが大問題であります。

それにしても、内村のいう、千年はある象徴期間であり、雲は聖なる群衆を意味し、再臨は霊の救いと共に肉の救いをもたらす者であるとした解釈は、我々の再臨観と親和性があるではありませんか!やはり内村は一級の預言者でありました。

4、終わりに


以上、今回は内村の再臨思想を見て参りました。内村が行った再臨運動は短期間で終わったものの、異教徒の国日本に「再臨」という思想的な種をその土壌に植え付けました。聖書をついぞ開いたこともなかった異邦人たる筆者でさえ、あの時、既に再臨という言葉とその響きを知っていたのです。

この蒔かれた種は、やがて刈り取る日が来ることでありましょう。「涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る」(詩篇126・5)とある通りです。そうしてこの再臨思想は、次元を高めてこの成約時代に甦らなければなりません。内村の再臨運動とその思想は、成約時代における再臨役事の予型と見るのは筆者の考え過ぎというものでしょうか。

今、無神論国家中国武漢発のコロナパンデミックの猛威が世界を席巻しています。街を歩く日本人ほぼ全員がマスクをしており、この光景はかって経験したことのない異様な光景であります。ドミニカ共和国からの便りによれば、キリスト教会ではAfterChrist(AC)をもじってAfterColona(AC)という言葉が流行っているそうです。

つまり、キリスト以前(BC)とキリスト以後(AC)では世界が一変したように、コロナ後(AC)という言葉は、無神論国家が神の審判を受けて、一変する世界が来るのではないかという期待を込めた言葉です。内村の再臨運動の成約版よ、来たりませ!

次回最終回は、いよいよ内村の結婚と愛、愛する者との死別、人生の悲哀、そして全体のまとめをしておきたいと思います。(了)



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