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新しい福音主義とは何か 究極の回復を目指して

🔷聖書の知識26ー新しい福音主義とは何か→究極の回復を目指して

水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである(イザヤ11・9)

去る3月14日の第11回聖書勉強会におきまして、冒頭、「キリスト教の最大の特徴を3つ挙げよと言われれば何を挙げますか」という問を発しました。筆者は、「殉教」、「異端」、「リバイバル」の3つのキーワードをあげたいと思います。

キリスト教が初期ローマ帝国下にあって、多くの殉教者を出したことは周知の事実であり、我が日本でも、秀吉や徳川幕府の禁教令時代に数千人を越える殉教者を出しています。お隣の韓国では、1801~1871年の李王朝下で数万の殉教者を出し、ローマ帝国下の迫害以上だったと言われています。このように、キリスト教の歴史は即ち殉教の歴史と言っても過言ではありません。

特筆すべきことは、殉教は更に多くの信者をもたらしたことです。3世紀の教父テリトリアヌスは、「キリスト教徒の血は、地に落ちて実を結ぶ種子」だと語りました。

2番目の特徴は、異端、分派の発生です。「イエスは神ではない」と言って異端とされたアリアス派などはその典型例です。アウグスチヌス著「神の国」を見る迄もなく、そもそもキリスト教神学は異端・分派との論争の中から生まれてきました。いわば異端は神学の母なのです。

最近、天理教について学ぶ機会があり、知って驚きましたが、天理教には分派が50以上もあるそうです。日蓮正宗にも、創価学会と顕正会という派閥があり、骨肉の争いをしていています。このように、異端・分派は宗教団体の宿命、言わば「お家芸」と言ってもいいものです。我がUCも反面教師になります。

3番目は、本題のリバイバルです。キリスト教は、教会が形骸化して信仰が沈滞したり、腐敗したりした時、必ずリバイバル(霊的覚醒)が勃興しました。典型的には、アメリカの4回にわたるリバイバルです。これは、3・14聖書勉強会レジメのP8以下に詳細を記載しましたのでご参照下さい。

そして、アメリカのリバイバルは、19世紀後半、福音派を生み出し、今や、この福音派が伝統教会を越える大きなグループに成長しました。

前回、今日のキリスト教の大きな流れが、より神学を重視する主流派の伝統教会グループと、聖霊の働きをより強調する福音派グループに二分されていると述べましたが、それぞれに一長一短があり、やがてこの歴史の二流は一つになっていくべきであるし、そのようになる運命にあると述べました。

そこで今回は、この二流の統合を目指す「新しい福音主義」について、その思想と特徴について考えたいと思います。

1、聖書の言葉をそのまま信じ、聖霊の働きや回心体験を重んじる傾向の強い人々を福音派といい、より合理性を持って聖書を解釈し、神学や教育を重んじる傾向の強い人々を伝統派(リベラル派)と一応定義できます。

そして、福音主義の源泉は、先ず第一に使徒時代の原始教会に見出だすことができ、近現代では、宗教改革から生まれたルター派・改革派、メソジストから派生したホーリネス教会、そして、リバイバルから生まれたペンテコステ教会・カリスマ運動ということになるでしょう。

宗教改革から始まったプロテスタントは、当初、聖書は神の霊感で書かれた誤りなき神の言葉であるとの聖書主義の立場に立っており、その意味で正に福音主義でした。しかし、18~19世紀に生まれた自由主義神学や進化論(1859年ダーウィンの種の起源)の影響もあり、福音主義の伝統派教会にも自由主義神学の波が押し寄せ、リベラルの影響を受けるようになっていきました。

そこで便宜上、宗教改革から自由主義神学迄の聖書の無謬性を受け入れている主にルター派と改革派教会などを「前期伝統派教会」と呼び、自由主義神学の影響を受けた以降の教会を単に伝統派教会と呼ぶことにいたします。そして、前期伝統派教会の神学が「正統主義神学」と言われているもので、プロテスタントの神学の「オリジナル版」と言えるものです。


2、前記歴史の二流の問題は、信仰と理性(神学)の問題と言い換えることができるかもしれません。

アウグスチヌスは、「神学なき信仰は盲目であり、信仰なき神学は空虚である」といいました。健全な信仰には神学の導きが必要であり、生きた神学には信仰の根が不可欠だというのです。

これはそのまま、福音教会と伝統教会の関係に当てはめることが出来ます。福音教会には、神学の導きが必要であり、伝統教会には、聖霊の賜物が不可欠であるということでありましょう。「神霊と真理で礼拝すべきである」(ヨハネ4・24)との聖句の通りです。

3、福音主義の特徴として、聖書を文字通り信じる聖書観、聖霊の賜物を強調すること、回心体験を重視すること、福音伝道を熱心に行うこと、の4点が挙げられますが、福音主義の最大の弱点は、聖書を文字通り信じる聖書観にあると思われます。

聖書の歴史的、批評的研究を行う自由主義神学が興隆した時期において、宗教改革以来の伝統を受け継いで来た福音主義教会は根源的な批判を受け、神を知り得る唯一の資料としての聖書への批判的な問いが提起されました。福音主義は、自由主義神学によって指摘された「聖書文言の完全無欠性への疑問」を克服できていません

また「聖書を間違いを含む人間の証のことばである」とする新正統主義神学の元祖であるカール・バルトの問題提起にも答えなければなりません。バルトの新正統主義とは、自由主義神学を批判して、神の超越性、人間の罪性、神の恩寵を強調すると共に、宗教改革の思想(正統主義)を新しい次元で捉え直そうとする20世紀の有力な神学の流れです。弁証法神学とも呼ばれています。

聖書は神の証や啓示の伝達方法であり、聖書の文字そのものが神の言葉ではなく、「神との出会いの契機において、神のことばと見なされる」とし、聖書の客観的な権威自体は認めませんでした。この点こそ福音派との最大の違いであり、バルトの神学が新福音的神学と言われている所以であります。

即ち神が聖書の言葉を使って誰かをキリストに向けさせる時だけ、聖書は神の言葉になるというこのバルトの洞察は、示唆に富む見方です。これは、「聖書は真理そのものではなく、真理を教える(過渡的な)教科書である」とする原理観とほぼ一致しています。

更にバルトは、自由主義神学に欠陥があるとして批判しましたが、一方、リベラル派が主張している「高等批評」は受け入れました。 新正統主義の神学者ブルンナーは、文字通り信じる福音派の聖書観を「紙の教皇」(Paper Pope)と呼んで否定しています。又伝統教会からも「文字崇拝に陥っている」と批判されています。

聖書を神の言葉として貴重視するのは是としても、一字一句、文字通り信じる信仰では、科学を重視する現代人を納得させることは出来ません。福音派はこの要請に答え、自らの聖書観を克服しなければなりません。そして、その克服の彼方に「新しい福音主義」の姿が見えてくるはずです。

4、このような福音主義の唯一の弱点とも言うべき聖書観は、結局、聖書解釈が各派バラバラで、統一的な解釈原理が無いことに起因しています。即ち、聖書の奥義が未だ解明されず、「あからさまに、きかせる時」(ヨハネ16・25)を見出し得ていないところに聖書観の混乱があるということであります。流石にかのバルトも、この問題だけは手をつけることは出来ませんでした。

聖書に「あなたは、もう一度、多くの種族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(黙10・11)とあり、「ユダ族のしし、ダビデの若枝あるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙示録5・5)とありますように、福音主義の弱点を克服し、バルト神学を更に乗り越えた「新しい福音主義」は、イエス・キリストの再臨によってしかもたらされることはないでしょう。

再臨のキリストとは即ち、聖書の奥義をことごとく明らかにして、聖書解釈の混乱と教派の分裂に終止符を打たれる方であります。

教会も信徒もやがて究極の回復の時を迎えなければなりません。究極の回復の時とは、キリストの再臨の時であり、その日、もはやカソリックもプロテスタントも、また福音派も伝統派もなく、全地はただ一つの教えとなるはずであります。「水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである」(イザヤ11・9)とある通りです。主よ、来たりませ(了)


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