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日本における年末年始の宗教風景

◇聖書の知識7 日本における年末年始の宗教風景

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。(ガラテヤ書3.24~25)

年末年始の日本の宗教風景には、日本ならではの独特の宗教風景が展開され、外国人、特に一神教を奉じる西欧人には理解できないものがあります。そこで今回は年末年始の宗教風景についてのお話です。


[外国人の二つの驚き]

日本では、12月25日のクリスマスには教会に行き(キリスト教)、31日には除夜の鐘を聞き(仏教)、元旦には神社参拝を行い(神道)、そして日本人はそこに何の違和感も不自然さも感じないというのです。一体、日本人は何の神を信じているのか、日本人の宗教感覚とは何か、これが外国人の第一の驚きです。

今一つの驚きは、ヤハウエの神もキリストの神もアラーの神も知らない日本人なのに(つまり一神教の神観がないのに)、何故、高度な科学技術文明社会を築き、何故、高い倫理観を持っているのか、即ち、経済の繁栄、良い治安、教育の普及、行き届いた医療、高い倫理(親切、礼儀正しさ、綺麗、勤勉)は一体どこから来るのかという点です。何故なら、一神教を知らない国は非文明国だという認識があるからです。7ケ国の先進世界サミット国で非キリスト教国家は日本だけで、後は全部キリスト教国家です。しかし、経済、倫理の水準は他を凌駕しています。この事実は実に神秘だというのです。


[日本文化の特徴]


日本人は、古来、目に見えぬ何かに対して、畏敬の念を抱く心、高い良心作用を発揮してきました。日常的に一種霊的感性に基づく慣習が違和感なく溶け込んでいる霊的感受性が強い民族であります。「お蔭様」「もったいない」「世のため人のため」という日本語は日本人の倫理観を端的に現しています。


これら日本の基層文化は、外来思想が入ってきても変わらず、むしろ儒教・仏教・道教などの外来思想を取り込んでいきました。加藤周一上智大学教授は「外来の世界観は仏教と儒教だが、日本土着の世界観を圧倒できなかった。土着が力を持ち、外来の世界観を日本化した。どれも取り入れたが、どれにも染まらなかった」と指摘されています。


[日本的霊性]


私は上記の回答として「日本的霊性」というキーワードを強調したいと思いす。この日本的霊性こそ、上記二つの疑問を解決する回答があるのではないかと思っているからです。では、日本的霊性とは何でしょうか。


この言葉は実は仏教の大家鈴木大拙が最初に使った言葉です。鈴木大拙は著書『日本的霊性』の中で日本的霊性とは何かを明らかにしました。氏によると、霊性とは、「精神とか心の中に包みきれないものを含ませた概念で、宗教意識と言ってよい」と指摘しました。精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越している、精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智であると述べました。つまり、「霊性は精神を凌駕した概念」だと言ったのです。そして、日本的霊性は、浄土系思想と禅とが、最もその純粋な姿を表していると主張しました。仏教学者らしい見解です。


一方、山本七平は「日本教」という言葉で日本的霊性を言い表しました。日本人内に「無意識に染み込んでいる日本教という宗教」が存在し、それは「血肉となっていて日本人自身も自覚しないほどになっている」と言い、日本人が教会で結婚式をあげ,神社に初詣や七五三にいき,寺で葬式をしても、それは決して宗教に寛容で多様性があるからではない。これらの実質はすべて日本教なのだから、使い分けることに違和感がない、と述べました。


つまり、仏教であれキリスト教であれ、一旦日本教の中に取り込まれると、それは「日本教仏教派」、「日本教キリスト教派」になるという訳で、お寺に行こうが教会に行こうが、もともとが日本教ですので何の違和感もないというのです。


即ち日本的霊性とは「神・祖先・自然への畏敬と共生の念や、清浄心・和・包み込み(母性)といった精神を有する古神道が基層となり、仏教的な無常観・死生観、武士道的な規範性が加味されて形成された日本人のアイデンティティー」と一応定義できると思います。即ち、日本的霊性は神道を基層にして仏教、武士道(儒教)の3つの淵源を持った概念と言えるでしょう。この日本的霊性が、異文化を柔軟に受容し且つ選別する能力、異文化を受け入れても崩れないアイデンティティ―となりました。


[臥竜点睛を欠く]


「臥竜点睛を欠く」という言葉があります。他の全てが日本にありますが、ただ一つ、唯一創造神の思想を欠くというのです。天地を司る神という肝心の眼が入っていないというのです。

筆者は、先日の統一神道研究会で、古代イスラエルの幕屋の至聖所に「契約の箱」が安置され、その中に「律法(十戒)の石板」が収められたように、神社の至聖所に当たる本殿に、御神体として「聖書」(神の言葉)を安置することが期待されると主張しました。御神体に鏡や剣ではなく「神の言葉」を安置するというのです。これにより、日本的霊性は「鬼に金棒」ということになると確信します。

ガラテヤ書3章24節でパウロは、旧約の律法が自分を新約の福音に導いた「養育係」になってくれたと述懐しました。ならば、日本的霊性は、日本人を神の言葉に導く養育係になってくれることは間違いありません。日本的霊性に、唯一・創造の神を埋め込むためのリバイバルが必要です。(了)



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