殉教を考える② 日本における殉教について
- 2020年10月8日
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更新日:1月12日
🔷聖書の知識28ー殉教を考える②ー日本における殉教について
涙をもって種まくものは、喜びの声をもって刈り取る(詩篇126.5)
プロローグ
前回、初期教会及び古代ローマにおける殉教について見てきましたが、古代ローマの多くの殉教と並んで、特筆すべきは宣教国での「宣教に伴う殉教」であります。イエス・キリストの宣教命令に従って、キリスト教徒は、競って世界宣教に出掛けて行きました。ユダヤ教や神道の民族宗教には伝道という概念はありませんが、キリスト教ほど熱心に伝道する宗教はありません。以下の明確なイエスの大宣教命令があるからです。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によりバプテスマを授けなさい」(マタイ28.19)
「全世界に出て行き、すべての作られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16.15)
かくしてこの聖句を固く握って世界宣教に旅立ち、宣教地において多くの殉教者を出すことになりました。ヨーロッパ北方への宣教師や改宗した信徒が現地の文化や宗教と衝突して殉教した事例、イエズス会等が非キリスト教地域に宣教に乗り出し殉教した事例、その他多くの宗派が世界中に宣教者を送り出して殉教した事例、などであります。
1740年代、スペイン統治下の南米パラナ川上流域に住むグアラニー族へのキリスト教の布教は、険しい地形とジャングル、そして精悍なグアラニー族の抵抗に阻まれ、多くの宣教師が命を落としました。1750年~58年、ブラジルとアルゼンチンの両国にまたがるイグアスの滝を舞台に殉教した2人のイエズス会士の実話は、映画「ミッション」で描かれました。
西洋には、頭蓋骨を描いた絵画が多くあります。これは「ヴァニタス」という「虚ろ」を意味する静物画で、「人生の虚しさ」や「地上のあらゆるものの儚さ」を表しています。ヴァニタスの根底には「死を想え、死を忘れるな」というキリスト教思想があるのです。我ら信仰者において、これら殉教者の生と死に、一度は深く想いを馳せることが肝要であり、信仰をより深める契機になると信じます。
そして今回は、日本における殉教を概観したいと思います。
【再度、殉教の意味を問う】
殉教とは、「命を犠牲にしても信じる福音の正しさを証明すること」とも言えます。殉教の型としては、キリスト教徒であること自体で殺害される場合、棄教を拒否して処刑される場合、異教・異端として処刑される場合、宣教に伴う殉教、などがあると思われます。
では、来るべきメシア(再臨主)とは誰でしょうか。第一に、聖書の奥義を完全に明らかにされる方に他なりません。第二には、完全な贖いを得させる重生、即ち、霊と肉の救いをもたらされる方です。そして第三には、ヘレニズム思想の鬼っ子たる共産主義を屈伏される方であります。しかし、それにもまして重要なメシアの要件とは何でしょうか。それこそ「受難者・殉教者」であることに他なりません。実人生において犠牲の道、殉教の道を歩まれた方、過去幾多の殉教者にもまして完全な殉教者である方、これこそメシアの要件であり、正にイエス・キリストはそのモデルでした。そして、来るべきメシア(再臨主)は、更に完全な殉教者であるはずであります。何故なら、償うべし、贖うべし、清算すべしという歴史原則(蕩減原則)は、完全な殉教者だけがそれを担い得るものであるからです。
殉教は肉体と精神の両方を伴いますが、前者を肉体的殉教、後者を精神的殉教と呼ぶとすれば、信教の自由が保証された近現代以降は肉体的殉教はほぼなくなりました。これは、償いが満たされ(黙示録6.11)、時代的恩恵の中で人権思想が生まれてきたことによるものと言えるでしょう。一方、精神的殉教とは、心情的十字架を背負う者であり、生きた供え物としての道を行く者と言えます。それは、ともすれば死よりも苦しい受難の境地であり、歴史を清算し、受難の神自体を解放すべき使命を担う来るべきメシアが行かれる道であります。生きながらにして死を歩み、且つその死から蘇えられた方、十字架に架かりながらなお十字架を生きて越えられた方、そして、罪と死とサタンに打ち勝たれた方、この方にこそ霊と肉の完全な救いがあるということであります。その生き様は次の聖句が象徴的に語っています。
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ロマ書12.2)
また、1956年に14才の韓鶴子女史が初めてUC創始者に会われた時、「これからは犠牲にならなければならない」と言う言葉が最初の言葉でした。その時以来、完全な犠牲、即ち殉教が人生のテーマとして内心に刻まれたと韓鶴子女史は語られています。(平和の母P97~P98)
【日本における殉教の歴史】
1549年のイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルに始まる日本への宣教は、宣教出発地の九州を始め、当初、織田信長の保護もあり、一時期かなり浸透し、1600年の最盛期には、当時の人口が1500~2000万人に対して、キリシタン人口は推定約40万人~60万人とされ、人口比3%以上に昇りました。ザビエルの日本滞在は約2年半でしたが、「キリシタンの世紀」と言われた1549年から1643年までの94年間に来日した宣教師は、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会など総計300名(その内、イエズス会は146名)で、多くの南蛮宣教師が来日して日本の宣教に携わりました。
ちなみに日本に初めてキリスト教を伝えたザビエル(1506~1552)は、スペインのピレネーの山麓ハビエル城で生まれ、地方貴族の相続人でありながら、地上の黄金、権力、肉欲と決別し、神の使徒としての道を歩みました。1525年、19歳で名門パリ大学に留学して学んでいるとき、戦争で片足を失った37才の転校生イグナチオ・デ・ロヨラに出会い、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになりました。そして1534年8月15日、ロヨラを中心にザビエル、ファーヴルなど7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てましたが、これが「モンマルトルの誓い」であり、イエズス会の創立であります。一同はローマ教皇パウルス3世の叙階許可を得て、1537年ザビエルもロヨラらと共にに司祭に叙階さました。
日本への宣教は、当初かなり浸透し、大友純忠など多くのキリシタン大名を生み、長崎だけでも6万人を越え、教会会数も40以上あったと記録されています。しかし、こうした宣教師の犠牲にもかかわらず、1587年豊臣秀吉のバテレン追放令と1996年の禁制の強化、1612年と1614年の徳川幕府のキリシタン禁教令によってキリスト教が日本に根付くことはなく、1873年禁教令が撤廃される迄の約260年間に、多くの殉教者を出すことになりました。全体で4000人を越える殉教を出したと言われ、島原の乱を含めると数万人を越えるという数字もあります。
これらの禁教政策がとられた背景には、一向一揆に見られるような強い信仰に為政者か警戒心を抱いていたこと、一部の外国人が日本人を奴隷として売買していたこと、仏教勢力からの圧力があったことなど、そしてキリスト教宣教師らはスペイン人やポルトガルの植民地化の尖兵ではないかと危険視したこと、などがあります。そしてこの禁教以来、特に島原の乱以降、多くのキリシタンは棄教を余儀なくされ、あるいは棄教を装い、潜伏キリシタンとして信仰を守っていくことになりました。
<徳川幕府の禁教令>
徳川家康は海外との貿易の実利を求めていたこともあり、当初キリスト教宣教を黙認していました。しかし1612年に岡本大八事件(有馬晴信がからんだ疑獄事件)が起こると、関係者がキリシタンであったことから、家康はそれまでの態度を一転して諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達し、キリシタン大名やキリシタン旗本が改易されました。1614年、キリスト教信仰の禁止が明文化され、全国で迫害が行われるようになり、キリシタン大名の高山右近やキリシタン旗本の原主水などが改易されました。以後、禁教令の解除まで約260年の間、キリスト教徒は幕府により迫害されることになります。
前記の通り、1614年、キリスト教信仰の禁止が明文化され、以後、禁教令の解除まで約260年の間、キリスト教徒は幕府と、幕府の庇護する仏教、神道などにより迫害されることになります。 神道や仏教など多神教的宗教的秩序の上にあり、天皇自らが神道の祭祀を主宰してきた朝廷にとって、一神教のキリスト教は早くから警戒され、排除が試みられる対象でありました。 キリスト教禁止は江戸幕府と朝廷が連携・協同して取り組めるもので、朝幕関係にとっても望ましかったのです。特に「島原の乱」以後、幕府はキリスト教徒を取り締まるために「踏絵」を実施し、また「寺請制度」によって檀那寺に登録することで管理しました 。ちなみに寺請制度とは、檀家制度により登録を義務付けられた檀信徒が、「禁制とされたキリシタンでない」ことを、仏教寺院が各戸ごとに証明する制度であり、キリシタンでないことを保証する「寺請証文」を出せました。
以下、日本における主な殉教を概観して見たいと思います。
殉教者の中で、豊臣政権における「26聖人の殉教者」、徳川政権下での「聖トマス西と15殉教者」はカトリック教会で列聖され、「ペトロ岐部と187人殉教者」は2008年に福者に列せられました。また、2017年にはマニラで客死した高山右近が福者に列せられました。ペトロ岐部と187人殉教者とは、1603年から1639年にかけて日本各地で殉教した日本人のカトリック司祭・修道者・信徒で、列福された188人のキリシタンの総称です。司祭になるべくローマへ行ったペトロ岐部や、天正遣欧少年使節の一人である中浦ジュリアンらが含まれています。
日本の教会の殉教史で大殉教と呼ばれる殉教が3つあります。1596年の長崎の殉教、1619年の京都の殉教、そして、1922年の江戸の殉教であります。以下、これを見ていきます。
<長崎26聖人の大殉教>
1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、1597年、フランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じました。これが豊臣秀吉による最初の迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑されました。土佐に漂着したスペイン船サンフェリペ号の乗組員が世界地図を広げて、「 スペイン王国は宣教師の布教の後に軍隊を送って征服する意図がある 」と告白したことが咎めらる原因になった言われています。

京都、大阪などで捕らえられた神父ペドロ・バプチスタなどのスペイン人やポルトガル人の6名と日本人信徒20名は、片耳をそがれ、町々を大八車で引き回されたのち、880kmもある長崎に徒歩で送られ、刑場で処刑されました。驚くべきは、この殉教の道行きに、パプティスタ神父やパウロ三木の説教に励まされ、一人の脱落者も出なかったことです。 また最年少の12歳の茨木ルイスは、信仰を捨てれば救うといわれましたが、これを拒絶し、十字架上で「パライソ(天国)、イエズス、マリア」と叫びながら息絶えたと言われています。
この事件はたちまち世界のキリスト教国に伝わり、1862年には教皇ピウス9世によって「聖人」に列せられました。1961年には刑場あとに記念碑が建てられ、「殉教の丘」といわれてカトリック信者の世界的な巡礼地とされています。
<京都の大殉教>
1619年10月6日、鴨川の六条から七条の間、現在の正面橋のあたりで、将軍秀忠の命により、52人の信者が火あぶりの殉教を遂げ、うち11人は子供でした。殉教の目撃者が次のように証言しました。「私は京都にいた時、信仰を棄てないという理由で55人のキリシタンが殺されるのを見ました。彼らの中には母親の腕に抱かれた小さな子どもたちもいました。母親たちは『主イエスよ、この子供たちの魂を受けてください』と叫んでいました」
信者のほとんどは貧しく、「ダイウス町」と呼ばれた通りに住み、平穏に信仰を守り続けていましたが、1619年の初め、当時の奉行が信者の信仰を目こぼししていたため徳川秀忠の怒りを誘い、秀忠は新たに迫害を強化し、牢内の信者のみならず釈放された者全員の処刑を命じました。将軍の弾圧とは対照的に、殉教者は大いに喜んだといいます。彼らは、すべてをキリストに捧げるため熱心に準備し、最期まで立派に証しを立てたと言われています。聖霊が働いたのでしょう。
殉教者たちは牢から出され、みせしめのために六条から七条まで引き回された後、27本の十字架に縛られ、夕暮れになると、十字架を囲む薪の輪に火が付けられました。その中でヨハネ橋本太兵衛、妻テクラと子供の殉教が、とくに人びとの目を引いたといいます。3人の子供と一緒に縛られた若いテクラは、最期までわが子を堅く抱き締めていたと言います。(以上、カトリック中央協議会レポート)
<元和の大殉教>
元和の大殉教とは、1622年9月10日、長崎の西坂で神父や修道師を含むキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件です。処刑されたのは、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭9人と修道士数名、老若男女の信徒で、女性や幼い子供が多いのは、宣教師をかくまった信徒の一家全員を処刑したからであります。
この事件は、1620年(元和6)朱印船に乗船していた宣教師の潜入が、イギリス、オランダ両国により摘発され、共同で拿捕した船から、日本に密航しようとしたポルトガル人宣教師が発見されたことが発端になったものです。当時、新教系のイギリスやオランダと、旧教(カトリック)のポルトガルやスペインとは、日本を巡って対立していました。
以下、拷問の実例について記しておきます。 (片山弥吉著「日本キリシタン殉教史」)
穴吊り
穴吊りは、この時代最も過酷な拷問と言われました。その内容は、1メートルほどの穴の中に逆さに吊す、というものでしたが、そのやり方は残酷極まりました。
吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がらないようにすると頭に血が集まるので、こめかみに小さな穴を開け血を抜くなど、そう簡単に死なないようにし、さらに穴の中に汚物を入れ、地上で騒音を立て、精神を圧迫したと言われています。遠藤周作著『沈黙』の主人公であるポルトガルの宣教師フェレイラやロドリゴがこの拷問を受けて棄教しました。
火あぶり
火あぶりは、柱にくくりつけ、周囲に薪を置いて火をつける処刑です。信仰を捨てさせるため薪は柱から離してとろ火で焼き、苦しみを長引かせました。背教したければ逃げ出せるよう、縄は弱く縛ってあったといいます。
他にも両手両足を引っ張って、回転させながらあぶることもありました。その際、口から煙が出たといいます。また簑踊りという火刑は、手足を縛り簑を着せ火をつける、と言うものでした。苦しみもだえる様が踊っているように見えることから、この名が付いたのです。
処刑されたキリシタンが殉教者として英雄視されることは、迫害者である権力者にとって不都合だったため、処刑を避けて拷問による棄教へと転換したと言われています。
<島原の乱>
1637年に肥前島原と肥後天草で、農民やキリシタン大名の家臣であった元武士たち3万7000人の蜂起があり、幕府に衝撃を与えました。総大将には17歳のカリスマ的なキリシタン天草四郎時貞が担がれました。蜂起の直接的原因は島原藩と唐津藩の過酷な税金の取り立てにありました。同地にはキリシタン大名であった有馬晴信(肥前)、小西行長(肥後)の統治時代に入信したキリシタンが多く、一揆の盟約結成の求心力としてキリスト教信仰を基盤においた内部統制が行われました。
そのことが一向宗、法華宗などのような求心性の強い宗教勢力による一揆的結合の再来を感じさせたこと、さらには幕藩体制のゆがみが明るみに出ることを幕府が恐れたこと、などから「キリシタンによる反乱」と単純化されて規定され、原城陥落後に1名の内通者を除く参加者全員約3万人が殺害されました。
なお、当時の島原藩主松倉勝家は、農民の生活が成り立たないほどの収奪を行ったかどで斬首され、同様に唐津藩主寺沢堅高は天草の領地を没収されて、その後自害しています。
<潜伏(隠れ)キリシタン>
この長く厳しい禁教の中でも、全国にはいわゆる「潜伏キリシタン」が信仰を守っていました。特に世界遺産登録に決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は有名です。この「潜伏キリシタン」の迫害と殉教、信仰形態については、「つれづれ日誌(令和3年12月1日)-長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地①②③ 」で詳述しています。
彼らの大きな特徴は、日本の仏教などの伝統宗教とキリスト教を共生させながら信仰を維持していたことです。潜伏キリシタンは、表向きは仏教徒として寺に所属し、神社の氏子となっていたり、絵踏を行ってキリシタンではないように振る舞い、寺社の儀式にも自らの信仰をうまく擦り合わせていたと言われています。
仏壇の裏にイエスやマリア像(マリア観音)を隠し、密かに祈っていました。彼らは、水方や帳方といった信徒組織を形成することで、親から子へ、子から孫へと密かに信仰を伝えていったのです。しかし、秘匿された信仰も時には露見し、一つの地域で大勢のキリシタンが一斉に見つかり、信仰共同体が崩壊する、いわゆる「崩れ」がたびたび起こりました。
尾張国、美濃国の濃尾崩れのように、信者の大量処刑により、キリシタンがほぼ根絶されて幕を閉じた事件もあれば、浦上一番崩れや浦上二番崩れ、天草崩れのように、混乱を恐れ江戸幕府が、信者を赦免した事例もあります。長崎浦上では1790年の一番崩れ、1842年の二番崩れ、1859年の三番崩れ、1867年の四番崩れといわれる4回の検挙が発生しました。
既に幕府が開国してかなり経った1867(慶応3)年の四番崩れでは、茂吉というキリシタンが死んだとき、檀那寺の僧を招かずに自葬したことに端を発し、浦上村の村民が寺請制度を拒否するに至りました。捕らえられた外国人宣教師や信者に激しい拷問が加えられましたが、それに対してフランス、プロイセン、アメリカなど列国の公使や領事が抗議し国際問題となりました。
このように明治新政府も当初キリスト教禁止の幕府政策を継続しました。明治政府は浦上村のキリシタンは全村民流罪という決定を下し(浦上四番崩れ)、3414名が長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され、さらに弾圧は長崎一帯の村々に及びました。浦上キリシタンはこの流罪を「旅」といいましたが、旅先で人間扱いをされない激しい迫害を受け、特に長州藩ではその苦しみに耐えかねて千余名が背教し、562人が亡くなりました。
このキリスト教徒弾圧を決定した政府の中心人物は維新の立役者であった木戸孝允や井上馨でした。明治政府は、ようやく1873(明治6)年に禁教令を廃止し、家康の1612年の天領禁教令から262年ぶりに日本におけるキリスト教信仰の自由が回復いたしました。なお明治期のキリスト教の殉教者には、神社参拝拒否事件の朱基徹牧師、1942年のホーリネス弾圧の中で獄中で命を落とした者に小山宗祐、菅野鋭、斉藤保太郎、辻啓蔵、小出朋治、などがいます。
以上のように、豊臣、徳川の禁教令から1973年に禁教令が解かれるまでの約260年間に、多くの宣教師、信者が殉教の道を歩みました。これらの事実は重く記憶に留め、これからの宣教に生かしていきたいと思います。
【殉教者の勇気と力は何処から来たのか】
前回も考察しましたが、殉教者の拷問や死を乗り越える勇気と力は、一体何処から来たのでしょうか。
第一には聖霊の働きであり、聖霊の賜物であります。殉教者は聖霊を受けることによって霊的に引き上げられ、死を喜びに変えることができました。多くの殉教者が嬉々として死に赴いたと言われています。
第二に、肉体の死の先にある神の国、より優れた永遠の故郷(霊界)への願望と確信、そして伝道への情熱です。織田信長と戦った浄土教の一向一揆の農民たちが、死をもろともせず戦えたのも、「死ねば極楽、逃げれば地獄」という教えを信じたからであります。キリスト教徒は、キリストに殉じることで天国に行けると固く信じていました。そして殉教とは、自分の命と引き換えに、己が信ずる真理の正しさを証明するところにあるというのです。殉教の血は「宣教の種子」と言われているように、いつの時代にも、殉教はかえって信者を増やすことにつながりました。即ち、自らの死をもってキリストを証しする殉教という名の「究極の伝道」であります。
第三には、神が殉教を要求されました。キリスト教の殉教は、神の摂理、償いの歴史、贖いの歴史自体(蕩減復帰歴史)に必然的な起因があるというのです。それは何よりもイエスの十字架が雄弁に物語っています。
お隣の韓国では、今や33%ものキリスト教信者を要するキリスト教国家になりましたが、その激増の最大の要因は、李王朝時代70年間続いたキリスト教への凄まじい大迫害、大殉教が淵源だと言われています(朝鮮半島におけるキリスト教の迫害と殉教については「つれづれ日誌(令和3年12月22日)ー朝鮮半島におけるキリスト教①」で述べている)。同様に、我が日本においても、豊臣・徳川幕府の禁教以来、数多の信徒や宣教師の血が流れました。いまこそ、これらの殉教と受難の歴史を想起し、死をもって一神教の種をまいた伝統をよき種子にして、成約のリバイバルにつなげたいものであります。
以上の通り、今回日本における殉教について見てまいりましたが、キリスト教ほど多くの血を流した宗教はないことを改めて認識させられます。(了) 牧師・宣教師 吉田宏