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異端を考える① 異端は神学の母

🔷聖書の知識30-異端を考える①→異端は神学の母

実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。(2コリント11・4)

前回、キリスト教の歴史は殉教の歴史だと述べましたが、キリスト教の歴史はまた、異端との戦いの歴史でもあります。「殉教」と「異端」は、キリスト教の二大テーマと言っても過言ではありません。この異端・分派問題は、決して対岸の火事ではなく、我々が実際直面する深刻な問題でもあり、「異端を考える」というテーマの中で、異端・分派をどのように捉え、どのように解決していけばいいかのヒントになれば幸いであります。

聖書では、異端のことを「異なる福音」「異なる霊」(2コリント11・4)、または「違った福音」(ガラテヤ1・6)、「分派」(ガラテヤ5・20)と表現しています。初代教会の「異なる福音」には、ユダヤ主義があり、その後、2世紀にグノーシス主義、マルキオン、モンタニズムなどが出て、4世紀になると三位一体を巡りアリウス主義(250~336年頃)、ネストリオス主義、単性論などが続出し、叙任の有効性を巡りドナトゥス派(4世紀~5世紀)が出ています。これらに対し、護教教父などの弁証家により正統教理が明文化されていくことになります。

これらは、古代キリスト教の正統神学が確立されていく際の重要な問題提起になりました。今回は、初代教会の成立から始まり、三位一体の教義が確立されていくまでの過程、つまりアリウス派を異端としたニカイア公会議(325年)、ネストリウス派を異端としたエフェソス公会議(431年)、単性論を異端としたカルケドン会議(451年)までの初期の異端について見ていきたいと思います。

1、異端を考える理由


では今、何故異端という重々しいテーマを取り上げるというのでしょうか、その意義とは何でしょうか。先ず第一に、異端研究を通じてキリスト教とその教義の論点が明確になり、教義のより深い理解に資するということです。第二に、異端・分派は信仰の妨げになりますので、正統教義を防衛・確立して信徒を守る義務があるからです。第三には、異端・分派は、自己改革、リバイバルの良い機会になり、教会成長の反面教師になるということであります。

一体、「異端」とは何でしょうか。井出定治著「異端とは何か」によれば、異端とは、み言(聖書)を勝手に解釈して「特定の教理や論理を主張するもの」とされています。しかし、異端とは「正統」に対する対概念で、正統がなければ異端はありません。キリスト教の伝統教理を正統として、それと異なる思想を異端としているのです。従って、正統・異端は、主観的、相対的な概念とも言えるものです。

カトリックにおいての最大の異端はプロテスタントであり、プロテスタントの最大の異端はカトリックでありました。仏教はバラモンにとって異端だったのです。このように、正統・異端は、あくまでも正統とする立場から見た分け方と言えるでしょう。

ちなみに現代における伝統的キリスト教から見た三大異端とは、エホバの証人、モルモン教、そして家庭連合(UC)と言われています。この3大異端の他に、ユニテリアン、クリスチャンサイエンス、イエスの御霊教団などがあります。

そこで、ここでは伝統的キリスト教から見た異端という視点から論じることにいたします。なお、異端とは公式にその教理を否定・排除することであり、分派とは正統教義を歪めて利用する非認定の集まりと言えるでしょう。

2、異端の基準


では現在、伝統的キリスト教は何をもって異端とするのでしょうか。異端選別の基準は、多々ありますが、それが聖書的であるか否かということの他に、主に次の3点に集約されると言われています。

1つは、伝統的キリスト教の神観である三位一体の神観、及びそこから導かれるキリスト論について、これを認めているか否かであります。確かに前記3大異端は、いずれもキリスト教の三位一体の神観を否定し、イエスは神自体ではなく(神的な人格を有した)人間だと言っています。

2番目は、聖書を唯一最高の聖典とせず、いずれも聖書と同価値か、または聖書以上に価値視している経典があり、これが異端の根拠だというものです。モルモン教ではモルモン経典、エホバの証人では聖書研究(全7巻)・新世界訳聖書、UCでは原理講論がそれだというのです。

3番目は、イエス・キリストの十字架の贖罪の完全性を認めているか否かです。UCは十字架の救いの「限定性」を主張し、モルモン教やエホバの証人は神の恵みより「行い」に重きをおいているというものです。

こうしてUCは他の二者と並んで、キリスト教の典型的な異端とされて今日に至っています。

3、異端は神学の母


それにしても異端や分派は宗教団体の宿命、お家芸とも言うべき情景であります。筆者は最近、天理教を学ぶ機会がありましたが、あの天理教になんと50以上の分派があるというのです。また、同じ日蓮正宗信徒組織においても、創価学会、顕正会など多くの分派があり、相互に骨肉の争いをしております。異端・分派は何もキリスト教に限ったことではなかったのです。

勿論、異端・分派は、出来ることなら無いのに超したことはありません。教団と信徒がどれほど傷つき消耗するか知れないからです。しかし一方では、プラスに作用することもあるのです。


カトリックにとって最大の異端はプロテスタントだということを述べましたが、カトリックはルターを破門し、サタンの代理人とのレッテルを貼りました。しかし、そのルターやカルビンのお蔭で、カトリックは腐敗した教団の自己改革に成功し、イエズス会などの誕生で世界宣教が活発化し、かえって教勢を拡大したのです。反面教師とは当にこのことであります。

これらは、カトリックの「対抗宗教改革」と呼ばれていますが、その頂点とも言うべきトリエント公会議(1545年~1963年)において、プロテスタントの主張に反論し、カトリック従来の教義を改めて再確認いたしました。この点でカトリック教会はプロテスタントにはっきりと一線を画したのです。

また、後述のように、キリスト教の正統神学は、グノーシス派、アリアス派、ネストリウス派と言った異端との戦いの中から生まれたというのです。アウグスチヌスなどの古代キリスト教の教父は、これら異端への弁証を通じて、伝統的正統神学を確立していきました。皮肉にも異端は、「神学の母」であったのです。当に「禍い転じて福となす」とはこのことであり、次の聖句の通り、パウロも分派は必要悪だと言っています。  

たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。(1コリント11・19 )

しかし、1962年から行われた第2ヴァチカン公会議以降、カトリック教会がプロテスタント教徒を「分かたれた兄弟たち」と呼び始めることにより,関係の回復が模索されてきました。1971年2月4日、ローマ教皇庁は「今後は異端および破門という呼び方、考え方を無くする」と発表し、カトリックにおいて異端と破門の問題は終結しました。

4、弁証家、教父とは何か


ここで、弁証家、特に古代教会時代(1世紀~6世紀)の弁証家について述べておきたいと思います。

キリスト教における弁証家とは、キリスト教に対する批難に対して弁証を行い、異端と戦ってキリスト教の真理性を弁明した教父で、弁証学者、護教家とも呼ばれています。また教父とは、古代から中世初期(2世紀から8世紀ごろ)のキリスト教著述家のうち、とくに正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々をいいます。

最初の教父たちは、イエスの弟子である使徒たちから直接教えを受けた人々であり、彼らを「使徒教父」と呼んでいます。3大使徒教父には、ローマ監督のクレメンス(90年頃)、アンティオキア監督のイグナティオス(110年頃)、スミルナ監督のポリュカルポス(115年頃)がいますが、皆殉教しています。

そして、使徒教父の次の世代で、ギリシア哲学の知識を駆使してキリスト教批判者と論争し、正統信仰の確立に貢献した人々を「護教教父」(弁証家)といい、次のような人々がいます。使徒教父が、教会内部に向かって著作したのに対し、続く護教教父は外部に向かって著作しました。

著名な教父として、2~3世紀にはロゴス・キリスト論を唱えグノーシス主義を批判したユスティノス(150年頃 )の他、アレクサンドリア学派としては、エイレナイオス( 130年 ~202年頃、異端者抗弁)、テルトゥリアヌス(2世紀後半、護教論、異端駁論)、クレメンス(150年~216年頃)、オリゲネス( 182年~251年頃、原理論)などが挙げられます。

4世紀には、アタナシオス(296年 ~ 373年、異教徒駁論、アリウス派を論駁)、グレゴリオス(335年~ 394年頃、アリウス派を論駁)、キュリロス(378年 ~ 444年、ネストリウス派と論争)、アンブロシウス(340年~394年、ミラノ司教、アリアス派と戦う)、ヒエロニムス(347~420年、ウルガタ訳聖書完成)、そして最大の教父アウグスチヌス(354年~430年)などがいます。

なお、4大ラテン教父とは、主にラテン語で著述を行った神学者(教父)のうち、アンブロシウス・ヒエロニムス・アウグスティヌス・グレゴリウス1世(540~604年)を指します。

そして、異端思想の他に、古代ローマ社会におけるキリスト教に対する主な論難として、神像や皇帝を礼拝しない事により無神論的だとされたこと、人肉嗜食(聖体拝領)、近親相姦、人身御供を行う不道徳者であるとの風評 、異教徒と交わらない孤高の徒で人類の敵対者であること、の3点が挙げられます。

これらの非難に対して、弁証家達は、中傷・誹謗への論駁や悪法の改正要求を行い、キリスト教が真理であることの立証をいたしました。

5、古代キリスト教の異端


さて、ここから古代キリスト教における典型的な異端について述べておきたいと思います。キリスト教は当初から異端問題を抱えていたのです。

<ユダヤ主義>


先ず、最初に直面したのは、ユダヤ主義との戦いでした。キリストの弟子たちは、ユダヤ人から「ナザレ人らの異端」(使徒行伝24・5)と呼ばれ、ユダヤ人の慣習や割礼を守るように迫りました。特に割礼を巡る問題は大きく、ユダヤ人キリスト教徒とギリシャ人キリスト教徒の間での葛藤が深刻でした。

ガラテヤ書によると、ガラテヤの信徒たちはかつて異教徒であったものがほとんどであり、パウロが離れた後で、「違った福音」(1・6)を伝えるものたち(教師)が現れ、信徒を惑わしていた(3・1)ことがうかがえます。

書簡にあらわれる「反対者たち」とよばれる教師たちが「ユダヤ教から改宗したキリスト教徒」であり、彼らは異教徒から改宗したキリスト教徒に対し、割礼、安息日、モーセの律法の遵守などユダヤ教の律法を完全に守るよう要求していたようです。

この割礼を巡る律法主義とキリスト教の問題は、エルサレム使徒会議(使徒行伝15章)で決着を見ることになります。結果、律法を守ること(割礼)から異邦人を解放して、行いではなく信仰によって救われる(2・16)ことが確認され、偶像に供えた物、血と絞め殺した物、不品行だけは避けるようにという申し合わせ事項を異邦人に書き送りました。 

<マルキオン>


次に2世紀に出たマルキオンは、キリスト教のユダヤ教化、律法主義化に対抗して、旧約の裁きの神と新約の愛の神を分け(二元論)、旧約を否定し、正典としてルカの福音書とパウロ書簡(牧会書簡を除く)を編纂しましたが、結局追放されました。しかしこれにより教会の正典の範囲が問われることとなり,教会は旧約聖書を正典とし、更に現在の新約聖書27巻を正典として結集するに至りました。

<モンタノス>


同じ2世紀の後半,小アジヤのモンタノスは,「聖霊の働き」を強調し「再臨」と「終末」が近いことを熱烈に説きました。この運動はアフリカにまで広がり、厳しい禁欲主義になっていきます。

マルキオン主義はパウロの教えを極端に解釈し、モンタノス主義は聖霊の働きを強調し過ぎることによって異端に陥りました。弁証家のテルトゥリアヌスも後半モンタノス主義に陥ったと言われています。

<グノーシス主義>


更に、古代の最大の異端として猛威を振るったグノーシス主義は有名です。グノーシス主義は1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った宗教思想で、キリスト教の異端というより異教と位置付けられる思想です。壮大な神話を持ち、霊で造られた真の世界と物質で造られた悪の宇宙という、霊と物質の二元論に特徴があります。中でもバレンティノス派は2世紀後半かなり広まり、神と悪魔、聖と俗、霊と肉と言った善悪二元論を主張し、3世紀のマニ教につながりました。

物質からなる肉体を悪とする結果、一方では禁欲主義となって顕われ、他方では、放縦となって現れるという2つの対極的な立場が現れました。前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を取り、後者は、霊は肉体とは別存在であるので、肉体において犯した罪悪の影響を受けないという論理の下に、不道徳をほしいままにするタイプであります。アウグスティヌスがキリストに回心する前に惹かれたのは、前者の禁欲的なタイプであったと言われています。

護教家のエイレナイオス、テルトゥリアヌスらがグノーシス主義に対し反論し正統信仰擁護の著作(異端論駁)を著しました。これらグノーシス主義的異端思想に対する護教家の反駁を通して、初期の聖書解釈やキリスト教神学が確立していきました。

このグノーシス主義は、善なる神が創造した世界に、何故悪が存在するのかという疑問(神義論)を善悪二元論で説明したという側面があります。しかし悪の存在が所与のものとされ、完全な善悪二元論になり、神のみ創造主という聖書的世界観と相反することになります。

6、三位一体教義を巡る異端論争


次に古代最大の論争として、三位一体論について論考致します。


<三位一体論>


4世紀になると,キリストの神性と三位一体の教理を巡って、アリウス主義、ネストリウス主義、単性論などの異端が続出し、これらに対しニカイア信条を中心とする正統教理が明文化されていきました。

その中でも「三位一体論」、及びイエス・キリストとは誰か、についての「キリスト論」を巡る異端論争は大きな位置を占めました。正統派のアナタシウス派(ニカイア派)はニカイア会議(325年)でアリウス派を、エフェソス公会議(431年)でネストリウス派を、カルケドン会議(451年)で単性派を異端として排除しています。

「神は唯一の実体であり、父、子、聖霊という3つの位格(人格)を有す」「父・子・聖霊は各々が神であり、しかも同質で一人の神として存在する」という三位一体の教義は聖書の啓示であり奥義であるとされています。

「父と子と聖霊は、それぞれ独立した神であるが、そこに三人の神がいるのではなく一人の神であり、一人格の神の中に三位格の神が存在する」という三位一体論から導かれるキリスト論において問題となるのは、単純化して言えば、イエスは神であるか、人であるか、あるいはその両方であるのか、という問題に帰着します。

しかし、これら三つが一つであり、一つが三つであると言う概念、イエスが神と同質の神であるという概念は人間の理性を超えているところがあり、「理解する対象ではなく信じる対象としての神秘」であると言われています。トマスアキナスも「三位一体の神秘」(神学大全)と述べ、シーセンも「三位一体の教理は偉大な神秘である」(組織神学P224)と言ったように、三位一体の教理には神学者も明確な説明ができない難解さがあります。

しかし結局、アタナシウス派の三位一体説が正統教義として確立して、「イエスは神と同質で混合も分離もせず、神性と人性の両面を一つの位格の中にもつ」とされ、「イエス・キリストは、100%神であり、100%人間である」とされました。

また、テオドシウス帝によって381年に召集された第一コンスタンティノープル公会議で、聖霊の神性も認められ、「神は父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)を持つ、すなわち、父なる神と子なるイエスと聖霊とは各々完全に神であるが、三つの神があるのではなく、存在するのは一つの実体、一つの神である」とされました。これが三位一体説であり、現在に至る基本的な正統の教理とされています。また、この二回の公会議で確定した教義なので、「ニケーア・コンスタンティノポリス信条」とい言われています。

<アリウス派>


それに対しアリウス派(アレクサンドリアの司教)は、キリストは神性的存在であるが神と同一ではなく「被造物」としました。父なる神と子なる神であるキリストは同本質だとし、イエス・キリストは「まことの神にしてまことの人である」として、イエスの神性と人性の両性が不可分に繋がっているとしたアタナシウス派に対し、アリウス派はイエスの神的資質を評価したものの、被造物たる人であるとしたのです。

つまり「キリストは、神ではなく被造物たる人間であり、神よりも劣る」という教理です。これは、ユダヤ教、イスラム教、エホバの証人などと共通する考え方であり、UCもこのキリスト観の系譜にあると言えるでしょう。しかし、この考え方は三位一体論の否定に繋がり、325年のニカイア公会議で異端とされたのです。

またアリウス派は、キリスト神性の養子説を取り、イエスにおいて受肉したロゴスは被造物であり、キリストの先在説を否定し「キリストが存在しない時があった」としました。アリウス派はニカイア公会議で異端とされたあと、ゴート族、ゲルマン系民族に広まり、フランク王国に統合されるまで200年間にわたって存続しました。

<ネストリウス派>


一方、ネストリウス派はイエスの両性を認めますが、「位格は神格と人格の二つの位格に分離される」とし、「イエスの神性は受肉によって人性に統合された」と考えます。そのため、人性においてイエスを生んだ母マリアは単に人間の子を生んだだけなので、「神の母」と呼ぶことを否定し「キリストの母」と呼びました。このネストリウス派もエフェソス公会議(431年)で異端とされ、以後、ペルシャ帝国、中央アジア、モンゴル、中国に伝わりました。中国では景教と呼ばれ、最澄や空海にも影響を与えたと言われています。

<単性論>


更に、単性論は「キリストの人性は二つの性からなるが、受肉による合一以後、人性は神性に融合し摂取され単一の神性人になった」とするもので、カルケドン公会議で異端とされました。この単性派は非カルケドン派と呼ばれ、シリア正教会、アルメニア教会、コプト正教会、エチオピア正教会などが属しています。

以上が、三位一体論を巡る議論であります。得てして、宗教教祖の多くは神格化され、遂には神になりました。釈尊は久遠仏として神格化され、天理教の教祖中山みきも神(親神様)になりました。ナザレの大工ヨセフの子イエスも神になったというのです。

次回は、上記の三位一体論の当否を更に詳しく分析したいと思います。また、アウグスチヌスにおける異端論争、及び中世から近世にいたる異端論争について考えていきたいと思います。(了)



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