🔷聖書の知識31ー異端を考える②→三位一体論と異端、及び中世の異端問題
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。(ガラテヤ1・7)
前回、「異端とは何か」を明らかにし、「異端・分派をどのように捉えていけばいいか」を述べました。そして、主に古代における異端・分派について概観し、異端との論争の中で三位一体の教義が確立されていく過程を見てきました。今回は、更に三位一体論を深掘りすると共に、特にアウグスチヌスにおける異端との戦い、及び宗教改革までの主な異端論争を概観していきたいと思います。
1、三位一体論の検証
前回、異端を区別する最大の尺度が、三位一体の神観を認めているか否かだと述べました。現代、別の福音(ガラテヤ書1・7)として、キリスト教のいわゆる三大異端と言われている、モルモン教、エホバの証人、家庭連合(UC)は、いずれも三位一体の神観を否定、ないしはこれと違った神観を持っています。
「父・子・聖霊は各々が神であり、しかも同質で一人の神として存在する。父と子と聖霊は、それぞれ独立した神であるが、そこに三人の神がいるのではなく一人の神であり、一人格の神の中に三位格の神が存在する」という三位一体論は、いかにも分かりにくい神学教理です。
トマスアキナスも「三位一体の神秘」と述べ、シーセンも「三位一体の教理は偉大な神秘である」と言ったように、三位一体の教理は著名神学者も明確な説明ができない難解もので、「理解する対象ではなく信じる対象」である、即ちひとつの信仰告白と言われています。
三位一体の教理は、一神教という枠を保持しながらキリストと聖霊の神性を両立しようとする信仰の論理と言えるでしょう。そこには、神がイエス・キリストを通し、聖霊の力によって自分達を救われたという古代教会の「原体験」があり、使徒時代のクリスチャンにとって、イエス・キリストや聖霊との出会いは、確かに神と同視し得るものでした。(小田垣雅也著『キリスト教の歴史』)
エホバの証人は、聖書に三位一体という言葉はなく、三位一体の教理は非聖書的でバビロン的な慣習だとしました。神の唯一性を強調し、位格について一位格であり、本性についても一性であるとしています。そしてキリストは、エホバによって最初に創造された被造物とし、聖霊は非人格的な神の働き、活動力としました。
また、モルモン教は、神は以前骨肉を持つ人間であったとし、肉体を持つ天の父なる神と、その長子イエス・キリストと、霊体でありイエスをキリストと証明する聖霊とを信じ、父なる神とイエス・キリストと聖霊はそれぞれ別個の存在であって、人類の救いという目的のために常に一致して事をなすとされています(三位一体の否定)。即ち、父・子・聖霊が、それぞれ人格神であることは認めていますが、別々の神とし、3つの人格が同質一体であることを否定し多神教に近い神観を持っています。
これら三位一体を巡る論争(三一論争)は、アリウス派とアタナシウス派との論争で頂点に達し、ニケア信条では、「御父より造られずして生まれ、御父と同質なるただひとりの主イエスキリストを信ず」とされ、451年のカルケドン会議では「イエスは真に神であって、真に人である」とイエスの両性説が採用され、その神性と人性は混合することも分れることもなく、一つの位格の中に有するとされました。
次に、聖霊をどう考えるかという新しい間題が加わりました。キリストが地上を去った後、罪や死や律法から人間を救い、信者に信仰と心の平和を与えるのは、聖霊という形で信者の心に宿るキリストであると考えられました。しかし、聖霊に神性を認めれば、論埋的には多神教となってしまうので、会議後もアリウス派との対立が続きました。
ようやくテオドシウス帝によって381年に召集された第一コンスタンティノープル公会議で、「聖霊の神性」は認められ、神は父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)を持つ、すなわち、父なる神と子なるイエスと聖霊とは各々完全に神であるが、三つの神があるのではなく、存在するのは一つの実体(スブスタンティア)、一つの神である、とされました。これが三位一体説であり、現在に至る基本的な正統の教理とされています。
また、この二回の公会議で確定した教義なので、「ニケーア=コンスタンティノポリス信条」といわれています。この三位一体の教理は、4つの世界公同信条(使徒信条、ニカイア信条、アナタシウス信条、カルケドン信条)によって告白されています。
なお、このニケーア=コンスタンティノポリス会議で「フィリオクエ」(聖霊は子からも発する意味)という句が書き加えられ、以後論争をおこしました。フィリオクェ問題とは、正教会では「聖神は父より発する」とされますが、カトリック教会では「聖霊は父と子より発する」とされる点の相違であります。キリスト教の神学上最大の論争のひとつで、カトリック教会と正教会の分離、いわゆる1054年の大シスマ(東西分裂)の主因となりました。
2、三位一体論への疑問と実像
しかし、神と人という相反する概念の合体は可能なのか、その関係はどうなのか、3つの神の概念は多神教に陥るのではないか、聖書に根拠があるのか、といった三位一体論に対する疑問への説明は曖昧です。結局、三位一体論の問題点は、神・イエス・聖霊の関係を、本来三者の関係性と見るべきところ、実体と見たところにあると言えるでしょう。三者を実体的な関係とし、イエスと聖霊を神と同一視したことで、アリウス派やユダヤ教、イスラム教などからも多神教ではないかとの批判を浴びました。
その論争は400年に渡り、養子論、化現説、アリウス主義、ネストリウス主義、単性論など多くの説が生まれましたが、結局、前記カルケドン信条「イエスは神であり、人である」で決着し、イエス・キリストは神格化されていきました。
初代教会の信徒は、神がイエスを通し、聖霊の働きの中で救いに導かれたという確固たる信仰体験があったのです。トマスは「私の主、私の神」(ヨハネ20・28)といい、パウロは「キリストは永遠に褒めたたえられる神」(ロマ書9・5)と言ったように、初代教会信徒にとってイエス・キリストは、すべからく神と同一視される存在であったのです。
そのような中で三位一体説はローマ教会・ギリシア正教のいずれにおいても根本の教義として維持されました。中世末期にローマ教会の体制が動揺し、16世紀に宗教改革が始まっても三位一体説の立場に立つことではカトリックもプロテスタントも同じであります。
現在のキリスト教の三大教団とされる、カトリック、ギリシア正教、プロテスタントはいずれも三位一体説を基本としており、それに反対しているのは広い意味で東方教会とされる単性論系のコプト教会、アルメニア教会などと、わずかながら残っているネストリウス系のシリアの教会だけであり、これらは非カルケドン派と総称されることもあります。
3、アウグスチヌスにおける三位一体論
ローマ帝国末期のアウグスティヌスが400年ごろ完成させた「告白」の第13巻は、キリスト教の原理としての三位一体説を次のようなたとえで説明し、三位一体教説を擁護しました。
「私は、人々がこの三つのもの(父と子と聖霊)を、自分自身のうちに考察してみたらどうかと思います。ところで私のいう三つのものとは、存在する、知る、意志する、これです。すなわち、私は存在し、知り、意志します。私は、知りかつ意志する者として存在することを知ります。
それゆえこの三つにおいて、生はいかに不可分離で一なる生、一なる精神、一なる存在であるか、要するに、それがいかに分かたれ得ぬ区別でありながら、しかもやはり区別であるかを、見ることのできる者は見るがよいでしょう。<『告白』中公文庫 p.198>
しかしこの説明は、神が三位一体であることを論証しようとしたものではありません。むしろ、神が三位一体であるという信仰が先に在り、その信仰にもとづいて、神の三位一体との類比によって、精神の三一的構造を探求したものです。それがアウグスティヌスの三位一体論でありました。(山田晶『アウグスティヌス講和』新地書館P198)
以上のように、知性と神学への熱情に燃えたアウグスチヌスにおいても、結局三位一体論は、真理の対象と言うより、信仰の対象であったと言うのです。トマスアキナスも「三位一体の神秘」(神学大全)と言っている通りです。
宗教改革の時代、カトリック復興の先兵となったイエズス会を組織し、対抗宗教改革を進めたイグナティウス・ロヨラは、三位一体を次のように鍵盤楽器の和音に喩えています。
「ロヨラは、至聖なる三位一体に対して深い信心を持っていた。ある日修道院の階段で聖母の聖務日祷を唱えていたとき、知性が高められ始め、あたかも楽器の三つの鍵盤の形で至聖なる三位一体を観たのである。それを観ている間、抑えることのできないほど、涙と嗚咽が溢れ出てきた。かれは至聖なる三位一体に祈るとき、その時体験した深い信心の印象がその後一生涯にわたって残った」(ロヨラ自伝『ある巡礼者の物語』岩波文P68)
やはり、ロヨラにおいても、三位一体の教理は、信仰体験、信仰告白でありました。彼らにとって、三位一体教説は、信仰的事実であり、初代教会の使徒、パウロ、信徒らが聞き見て体験した事実であったのです。
キリストの本質を「神性」とするか、「人性」とするか、言いかえれば「神であるのか、人であるのか」という論争に決着をつけて正統とされた三位一体説は、「父と子と聖霊」は一体であると規定しましたが、結局あいまいに「キリストは神でもあり人でもある」とされ、神性と人性の関係は「混ざらず、変わらず、分かれず、離れず」(カルケドン公会議の決定)ということにされました。そのようなことが起こることこそが奇蹟なのだ、というのであります。
4、原理観から見た三位一体論
原理は、神は自体の中に性相と形状(又は陽性と陰性)の二性を有し、その二性の中和主体として神が存在するとしました。この統合的主体として定義される神の構造は、性相、形状、統合的主体という三位一体の構造になっているので、その意味ではまさに三位一体の神ともいえるでしょう。しかし、これは神自体の構造を示したものであり、この神の三位構造は、神が「父母である」という神観によって止揚され、多神性は退けられて神の唯一性は維持でききるというのです。神は唯一の神であり「天の父母」であるということであります。
そして「真の家庭」とは、神の愛と真理を中心として、夫、妻、子の4つの格位を持って一体となった被造物としての四位基台として表されます。その場合の神とは神の愛と真理を中心とした内性(神霊)という意味であります。同様に、神、イエス、聖霊、信徒の関係は、目に見えない神を中心として、イエスと聖霊と信徒が被造物として一体となった四位基台を意味しています。その意味で、目的性を中心に、神・イエス・聖霊はまさに三位一体であります。
このように原理は、イエスは神のような神性を有しますが神自体ではなく、あくまで被造物であり、イエス・キリストがもう一人の神であるというキリスト教神学の三位一体論とは異なります。イエス様は無原罪のキリストとして降誕されましたが、神自体ではなく創造目的を完成された人間(第二アダム)であるとします。キリスト教が科学と矛盾しないというのであれば、現代人の合理性に耐える三位一体論、キリスト論の説明が必要であると思われます。
5、アウグスチヌスの異端論争 ードナトゥス派、ベラギウス派への反駁
次にアウグスチヌスにおける異端闘争について見ていきたいと思います。ご存知の通りアウグスチヌスは古代最大の、いやキリスト教歴史最大の神学者と言っても過言ではありません。そして彼もまた、異端と戦い、その中で自らの神学を確立していきました。今回はごく骨子だけを記すこととし、後日より詳細に述べることと致します。
先ず、ドナトゥス派との論争です。ドナトゥス派は、4世紀から5世紀にかけて北アフリカでかなりの勢力を得たキリスト教の分派で、アリウス派やネストリウス派と異なり、教義上では主流派(アタナシウス派)と対立していませんが、一度棄教した者のサクラメント(秘蹟)が有効か否かを巡る問題を提起しました。
ドナトゥス派は、聖徒の教会は常に聖でなければならないと主張し、一度棄教・背教した者の行うサクラメント(秘蹟・礼典)は無効であり、ドナトゥス派に改宗する者は洗礼を再び受けなければならないとしました。
311年、カルダゴの司教を叙任した聖職者が、ディオクレティアヌス帝の弾圧時に聖書・聖物を官憲に渡し棄教した者であったため、ドナトゥス派はこの任職を承認せず、別に司教を叙任しました。
411年行われたカルタゴ会議では、アウグスティヌスがドナトゥス派への反駁の先頭に立ちました。ドナトゥス派との論争を通じてアウグスティヌスの教会論(客観的恩寵論)が確立されたと言われています。
アウグスチヌスは、罪の無い人間はいないことを根拠として、神の恩寵は人の道徳面の是非からは影響を受けないこと、サクラメントは一度棄教した者によるものであっても有効であると主張しました。聖職者と言えども罪が無い訳では無いこと、そしてそうした罪が悔い改めによって赦されることの重要性が強調されました。これが、事効論(客観的秘蹟論)です。対してドナトゥス派は人効論(主観的秘蹟論)と言われています。
そして、このアウグスチヌスの教会論が、カトリックの客観的恩寵論として結実していきます。客観的恩寵のシステムである教会とその秘蹟は、受領者が信仰において受領する限り、秘蹟執行者の人格とは全く独立に、その効果をあらわすというものです。トレルチが指摘していますように、カトリック教会の本質が、その客観的制度としての性格、摂理に基づく恩寵の施設にあるという訳です。
これに対し、異端(ドナトゥス派)の教会は自覚した信者の自由意思による共同体であり、それは成員を離れて客観的な価値を持たないというのです。従って、異端は自覚なき幼児洗礼を認めていません。
アウグスチヌスは、ドナトゥス派と30年に渡って戦いました。結局、皇帝ホノリウスにより統一令が発布され、ドナトゥス派は単なる分派ではなく異端と宣告され、414年全ての市民権を剥奪されました。しかし、ドナトゥス派の問題提起は、アウグスチヌスの教会論(客観的恩寵論)の確立に一役かったことは間違いありません。
ドナトゥス派を巡る論争は、一度離教した者のサクラメントの有効性についてのものでありますが、ドナトゥス派は、サクラメントの概念自体に疑問符を付けるものではありません。カトリック教会の秘跡の概念そのものに疑問符をつけるプロテスタントの登場は、16世紀の宗教改革以降の事であります。
6、ベラギウス主義との論争
ペラギウス主義とは、5世紀に現われた教説で、ローマの修道士ペラギウス(350-425年頃)が提唱しましたが、正統のキリスト教から異端とされました。
彼の教えは弟子ケレスティウスによって伝えられたものです。それによると、ペラギウスの説とは神は人間を善なるものとして創造したのであり、人間の原罪は神が善のものとして創りたもうた人間の本質を汚すものではないとします。
故に神からの恩寵を必要とはせず、自分の自由意思によって功徳を積むことで救霊に至ることが可能であると考えました。即ち、原罪を否定し、自由意思という人間の能力を強調して、人間各人が己の責任を持って行動を行うという人間の独立性を掲げました。
このように人間の意思は神の救いを必要としないというペラギウス主義は、「人間は選択の自由はあるが究極的には救いは神の栄光から至る」というアウグスティヌスの主張とは対立しました。またアウグスティヌスは人間の選択の自由の中にも実は神意の采配が宿っているとしており、人間単身の選択では救いの道は開けず、神の恩寵と結びついた選択により道が開けるとしました。
この点でアウグスティヌスやヒエロニムスはペラギウス主義を批判し、416年のカルタゴ会議などで異端として排斥され、431年のエフェソス公会議で異端である事が再確認されました。
こうしてアウグスティヌスは、5世紀に「異端論」を書き、88の異端について論じました。この中に異端のほとんどの類型が明らかにされていると言われています。
7、中世の異端ーワルドー派、カタリ派
中世の代表的な異端として、12世紀の南フランス一帯にカタリ派(アルビジョア派)とワルド派(リヨンの貧者たち)が生まれました。彼らは次第に教会の聖職者制度を否定するなど、ローマ教会にとって危険な存在と考えられるようになり、異端として弾圧されるようになりました。
ワルドー派は,リヨンの豪商ピーター・ワルドーが回心して自分の富を貧しい者たちに分け与え、キリストの模範に従って生活し、聖書を説き明かしたことに始まるものです。清貧の強調、信徒による説教、ラテン語聖書からの翻訳、に特徴があり、アッシジのフランチェスコの思想と近いものがあります。当初ワルドー派は教会に認められましたが、信徒の説教が問題となり、禁止され異端とされました。たとえ教理的に誤りがなくても、教会の権威と秩序を乱し聖職者を批判する者は異端とされたのです。
カタリ派はアルビジョア派とも言われ、マニ教に類似した霊肉二元論で聖書を解釈し、キリストの受肉を否定し、厳格な禁欲主義的生活を送り、聖書的信仰から逸脱しました。カタリ派思想の根本は、神により創造された精神が、悪により創造された肉体・物質に囚われているという思想であり、この思考法はグノーシス主義などに類似するもので、歴史の中で繰り返しあらわれています。
8、聖像論争について
726年、ビザンツ皇帝レオン3世は、聖像禁止令を発しました。ビザンツ帝国が偶像崇拝を禁じるイスラーム教徒に対抗するため、また修道院領を没収するために、聖像崇拝論争に乗じて禁令を出したものです。
しかし、東方教会においては、イコンそのものも、聖像擁護派も完全に無くすことは出来ず、843年には聖像禁止令は廃止され、「イコン」の使用が復活しました。しかし、それは平面像のみと言うもので彫刻や立像は認められませんでした。
これに対して、西方のローマ教皇グレゴリウス2世はゲルマン人の教化の必要性から聖像は不可欠として聖像禁止令に反対し、フランク王国との結合を強化して対抗しました。その結果、1054年東西両教会は相互に破門しあって分離し、ひいては西欧・東欧両世界の分離という事態を招きました。
本来のキリスト教では偶像崇拝は厳しく禁止されていました。しかし、キリスト教が4世紀にローマ帝国に公認され、広く布教されていく中で、伝道の方便として、イエスやマリアの像が使われるようになっていきました。
ところが7世紀にイスラーム教が起こると、イスラーム教では徹底した偶像崇拝の否定が行われ、彼らはキリスト教での偶像崇拝を厳しく批判し始めました。その影響を受けて、ビザンツ帝国領のシリアやエジプトの聖職者の中にも聖像を偶像として、その崇拝を否定する考えが起こり、それを認める聖職者との間に論争となっていきました。
それを裁定したビザンツ皇帝レオン3世は、726年、聖像禁止令を出し、聖像の製造禁止と破壊を命じたものです。これを機にビザンツ帝国各地で聖像破壊運動(イコノクラスム)が広がり、聖像擁護派が弾圧されました。それは、イスラーム側からの批判を封じるとともに、反対する教会・修道院領を没収する狙いもあったとされています。
聖像禁止派は、キリスト像を描くことはその不可分とされている人性のみを分離することになり、三位一体説に反すると主張しました。それに対して崇拝派は、キリストは受肉した、つまり人間の姿をとっているのであり、聖像は許される、ただし聖像そのものは神ではないから、あくまで聖像を通じて神を崇拝するのである、と主張しました。
9、異端審問・宗教裁判
13世紀のインノケンティウス教皇以降は、ローマ教皇公認の修道会が、反教会的な異端の取り締まりの最前線の役割を担うこととなりました。13世紀のドミニコ会などの托鉢修道会は厳しい修養を自らに課すと共に、異端取り締まりの先頭に立ち、異端に対する激しい攻撃を行うようになりました。
異端取り締まりは苛酷となり、村落内の異分子を探し出し異端として弾劾することで秩序を維持する傾向が出てきました。そこで盛んに行われるようになったのが魔女裁判(魔女狩り)です。12世紀に始まり15世紀~18世紀に本格化した魔女狩り(悪魔と契約して特殊な能力を持つとされた魔女)、魔女裁判では、少なくとも5万人以上が処刑されたといわれています。
14世紀ごろになるとアナーニ事件や教会の大分裂によって教皇権が衰退し、教皇や教会を批判する聖職者も現れてきました。このような教会の危機が強まると、反動として異端審問(宗教裁判)はますます強化され、異端弾圧は数も増していきました。1414年のコンスタンツ公会議では聖書中心の信仰を説いたウィクリフとフスを異端として断じて処刑しています。
しかし、17~18世紀にヨーロッパ各国が主権国家としてのあゆみをはじめると共に、国民の統合を図る必要から、政治と宗教の分離と宗教への寛容を建て前とすることが多くなり、それは市民革命でさらに徹底されていきました。
カトリック教会でも長く続けていた異端審問や宗教裁判について、ようやく20世紀に入って第2ヴァチカン公会議においてローマ教皇がその過ちを認めました。1971年2月4日、ローマ教皇庁は「今後は異端および破門という呼び方、考え方を無くする」と発表し、ここにカトリックにおいて異端と破門の問題は終結しました。
以上の通り、古代以降、宗教改革までの異端論争をあらかた見てきましたが、こうし異端との戦いの中で、伝統的なキリスト教神学が形成されてきたのです。次回は、特に宗教改革におけるカトリックとプロテスタントの論争、及び現代の異端問題を扱い、異端問題の締めくくりにしたいと思います。(了)
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