○つれづれ日誌(令和2年9月2日)ー知られざるナイチンゲールー神に召された人
神のために、ただ神のためだけに、善をなす意志があるか(3回目の啓示、29才)
去る5月12日は「看護の日」でした。看護の日とは、フローレンス・ナイチンゲール(1820年5月12日 ~1910年8月13日)の誕生日に由来し、「ナイチンゲールの日」とも呼ばれています。そして本年、2020年5月12日はナイチンゲール生誕200年の記念すべき日でありました。そこでこの機会にナイチンゲールが一体どういう女性だったのか、そして何をしたのか、その知られざるナイチンゲールを見ていきたいと思います。ちなみに2020年はUC創始者生誕100年であります。
看護婦は、学校を卒業して戴帽式に臨み、ナイチンゲール誓詞を読んで誓います。筆者は一昨年、心臓のパイパス手術で2週間入院し、何人かの看護婦さんのお世話になりました。その際、ナイチンゲールについて聞くのですが、意外にも、クリミヤの戦場で傷病兵を看護した女性ということくらいで、ほとんど知りませんでした。「クリミヤの天使」などと言った、ともすれば美化されたナイチンゲール像が先行されがちですが、しかし、実は彼女には知られざる驚くべき一面があったのです。
1、「啓示の人」ナイチンゲール
何と言ってもナイチンゲールは、「啓示の人」であり、「召された人」でありました。彼女は、人生の節目に生涯4回、神から啓示(霊感)を受け神の声を聞いたと告白し、神秘体験をしています。17才、24才、29才、34才の4回です。
1回目は1837年2月7日、17才の時です。寝室で、茨の冠をかぶったイエス・キリストが光輝く姿で現れ、「我に仕えよ!(To My Service)」という明確な啓示を受けました。全ては、この神の召しから始まりました。一体、この「仕えよ」という啓示の意味が何であるのか、神は自分に何を願っておられるのか、これこそ若きナイチンゲールが背負った人生最大の課題に他なりません。
イギリスの裕福なジェントリ(地主貴族層)の家庭に生まれた彼女は、外国語、哲学、数学、歴史、美術、音楽、絵画、心理学、詩などの豊かな教育を受けた教養人であり才女でした。それに加えて、女性としての気品と美貌を兼ね備えた、いわゆる才色兼備だったのです。
一家は代々ユニテリアンの家系で、毎週、イーストウエロウの聖マーガレット教会の礼拝に通っており、ナイチンゲールは小さい時から聖書の世界に慣れ親しんでいました。ユニテリアンはプロテスタントの一派ですが、神は唯一絶対的な存在であるからイエス・キリストは神ではなく最もすぐれた「人間」であるとし、三位一体説を否定しています。しかしナイチンゲール自身は三位一体説を支持しており、後日カトリックに改宗しようとまでしたといいますが、彼女の社会活動の背景には、祈りよりも実践を重視し、社会活動を積極的に行うユニテリアンの影響があったことは確かです。
ナイチンゲールは、表向きイングランド国教会に籍を置きましたが、特定の教派に属せず、むしろ「神との神秘的合一」を説くキリスト教神秘主義に惹かれ、スウェーデンボルグ(1688 〜1772)の神秘思想にも共感しました。これは前記した「我に仕えよ!(To My Service)」という神の啓示を受け、その後3度に渡って神の声を聴いたとされる彼女の原体験の故かも知れません。そして彼女にとって神とは、祈りの対象というより、貧しい人々を救済する信仰に基づく「奉仕行為の内に存在する神」でした。
そして2回目は24歳の時です。「神の命じる仕事とは病院で看護することである」との神の声(インスピレーション)を聞くことになります。この「仕えよ」を病人に奉仕すること、つまり看護婦になることと解したというのです。
実は彼女は、看護の道に進むことを、家族とりわけ母親から猛反対を受けていたのです。
当時、看護婦という職業は極めて社会的評価が低く、まともな正業に就けない女、アルコール中毒の淫売婦上がりの女が就くような忌み嫌われた職業であり、良家の娘がするような仕事ではなかったのです。ましてや当時の男尊女卑のイギリス社会は、女性が職業とキャリアを持って活躍することを許す環境にはまだありませんでした。
一家は、当時の富裕層の常として慈善訪問をして持たざる人々に施していましたが、その際、貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにし、ナイチンゲールは貧しい人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになっていきます。社交界でちやほやされ、自分だけがこのように恵まれていいのだろうかと自己嫌悪に陥りました。そうして当時不衛生の極みにあった病院の看護の道に捧げることを固めていきました。日記に次のように記しています。(小玉香津子著『ナイチンゲール』清水書院P38)
「神のしもべにふさわしい人間になるために、乗り越えなければならない第一の誘惑は、社交界で輝き渡りたいという誘惑である」
そして遂に29歳で3回目の決定的な神の声を聞くことになりました。彼女のメモ書きに次のように記されています。
「3月7日の朝、神は私を呼ばれて、『わが身の名声を顧みず、神のために、ただ神のためだけに善をなす意思があるか』と問われました。家族から猛反対にあい、社会からつまはじきにされていた看護という職業を選択することだけでも重荷であるのに、神は、愛も結婚も捨ててひたすら自分に従うことをお命じになったのです」
実は彼女は、6年前から政治家であり慈善家である富裕のリチャード・モンクトン・ミルンズから熱心なプロポーズを受けていました。良家の娘で教養があり、しかも美貌と三拍子揃っているわけですから、世の男性がほっておくはずがありません。彼女は若きころから、社交界の花形として多くの男性を魅了した聖女のような女性でした。そして、彼女もミルンズを深く愛していました。
しかし、「結婚して夫に忠誠を尽くすことになれば、神の意思をまっとうする機会を奪われてしまう」との思いから、彼女は生涯独身を貫く決心を固めていき、最終的にはミルンズの熱烈な求婚に対し、「ノー」の答えを出すのでした。
この決断の背景には、1847年~48年のローマ旅行で出会った修道院尼院長サンタ・コロンバの言葉「神のみ心には絶対従うべき」との助言や、修道院で働くシスターたちの献身ぶりに大きな感化を受けたこともありました。イエスの言葉「最も小さい者の一人にしたのは、すなわち私にしたのである」(マタイ25.40)を文字通り実践しているシスターらに心動かされ、こうしてナイチンゲールは、あらゆる困難と戦って、神の命じる道、看護の道への献身を固めていったのです。
「私の中の情熱的な性向は彼との生活で満たされるだろう。私の中の知的な性向も彼との生活の中で満たされるだろう。しかし私には満たされずにはいられないもう一つの性向、倫理行動的な性向があり、それは彼との生活においては満たされないだろう。だが、この最後のものが私には一番大切であり、その私がいま結婚するとしたら、それは精神的な自殺だ」(小玉香津子著『ナイチンゲール』清水書院P74)
自伝風の自著「カサンドラ」には、神からの啓示を実行するために結婚を断ったこと、看護の道へ進むことに反対する母との確執から神経衰弱に陥ったこと、そして自殺願望があったことまでがメモに赤裸々に綴られています。
「私は30歳、キリストが責務を果たしはじめた年齢。もう子供っぽいことはたくさん。人を好きになることも、結婚ももう結構。主よ、どうぞ御心のみを、私への御心のみをなして下さい。主よ、御心を、御心を!」(1850年、日記)
こうしてナイチンゲールは、神のために愛と結婚を捧げる人生を選択いたしました。神は、人に何か大いなることをさせようとする時は、先ず、その人を試練の中に追い落とされるといいます。そのごとく彼女の人生は、神の意思(御心)と結合せんがために、内外の負いきれない試練との戦いを余儀なくされた人生でありました。
ナイチンゲールは、苦悩する本心を多くのメモに書き留めました。耐え難い様々な苦しみに遭遇しながらも、全てを振り切って社会的地位が極めて低かった看護の道へと進むことができたのは、その「声」の主である神への信頼と、神からの見えざる導きの賜物でした。
そうして、34歳でクリミアの戦場に行く直前、4回目の神の声を聞くことになりました。「試練を超えて戦場に赴け!」と。
1854年3月 (34歳)、国民と政府の声援を受けてクリミア戦争傷病兵の看護を決意し、イスタンブールのスクタリの野戦病院に 14人の看護婦と24人のシスターの計38人のリーダーとして赴任することになります。しかし、野戦病院の環境は劣悪で、汚物が散乱し不衛生で目を覆うような惨状でした。ちなみにクリミヤ戦争(1853年~1856年)とは、クリミヤ半島を中心としてロシアの南下に伴って行われた戦争で、オスマントルコ帝国・イギリス・フランスの同盟軍とロシアが戦いましたが、明確な勝者なき戦争として終結しました。
ナイチンゲールはクリミヤでの2年弱、内部からの批判など内外のあらゆる困難を克服し、看護婦の職制の確立,医療補給の集中管理、衛生管理、汚物処理などによって医療効率を一新して「光明婦人」( The Lady with the Lamp)と呼ばれるようになりました。
ナイチンゲールの尽力により、病院内を衛生的に保つことが徹底され、42%まで跳ね上がっていた兵舎病院での死亡率は5%以下にまで低下しました。死因のほとんどは、病院内の不衛生による感染症であったのです。こうしてナイチンゲールの働きによって病舎は蘇りました。このクリミヤでの体験は、後に陸軍の衛生改革に生かされましたが、このクリミヤでの成功は長い周到な準備と並々ならない努力の賜物でした。
今日生きて明日は死にいく傷病兵は、「人生の最後に、天使と会えて良かった」と言って死んでいったと言われています。彼女は文字通り「クリミヤの天使」でした。しかしナイチンゲールは、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」と語っています。敬虔なクリスチャンの家庭で育まれ、確かな神秘体験に裏打ちされた深い信仰こそが、彼女を戦場に向かわせ献身的な看護に導いたのでした。
以上見てきましたように、ナイチンゲールの人生は、神の啓示で始まり、神の啓示に生きるという、完全に神とキリストに囚われた人生でした。そういえばUC創始者も啓示の人でした。創始者は16才でイエス様の召命を受け、26才で神の啓示に従って北朝鮮へ行かれ、51才で神の命じるままにアメリカに移住されました。正に創始者の人生は、ナイチンゲールと同様、神の声に従う生涯でした。そしてナイチンゲールには、神の声を素直に聞くというへりくだった耳がありました。まぎれもなく神の明白な召命を受けた女性であり、神は彼女を使って看護改革をなされました。
2、「改革の人」ナイチンゲール
また、ナイチンゲールは改革者でもありました。前述してきましたように、ナイチンゲールは、神の声にひたすら応えんがために苦闘する「啓示の人」でありましたが、一方では、優れた知性を持つ合理主義者であり、実務能力のある仕事師、「改革の人」でもありました。つまり数学や統計を好む彼女は、みかけの女性らしさとは裏腹の、使命に生きる男性的性向をも持っていたと言えなくもありません。
ナイチンゲールは筆まめで、『看護覚え書』『ナイチンゲール誓詞』など、生涯に150もの著作を残しました。1859年の主著『看護覚え書』では、キリスト教信仰に依拠した看護の在り方を示し、看護婦には知識と技術の習得に優るとも劣らず、倫理と人格、そして信仰の修練が必要であるという彼女の信念を述べています。彼女の多くの書簡は、頻繁に聖書から引用され、「看護することはキリスト者として生きることと合致する」との信念に満ちたものでした。統計学者としても名を残す程の知性を備えた「幻聴者」ナイチンゲールでしたが、科学的な合理性だけでは看護としては不十分であり、患者の心に寄り添うことが重要であり、そのためには深い信仰による謙虚さが要請されるというのです。
しかし、マザー・テレサと同様、「奉仕者の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」ということを見抜き、これは「犠牲なき献身こそ真の奉仕」という彼女の有名な言葉にも表れています。「奉仕者の奉仕の精神にも頼るが、経済的基盤なしにはそれも無力である」という現実的な考え方があったからだといわれ、ナイチンゲールの現実的、合理的な一面がみられます。
1851年(31歳)にはドイツのカイゼルスベルトのディアコネス学院で看護婦教育を受け、1853年(33歳)にはロンドンハーレー街の診療所看護婦長になり、卓越した管理手腕を発揮し名声を博しました。ビクトリア女王との幾度かの会見で改革提案を行い、クリミヤ戦場の体験を踏まえ、「陸軍の衛生改革」を実現しました(38才)。1860年(40歳)にはロンドン聖トマス病院に世界初の「ナイチンゲール看護婦養成所」を創設しています。また1907年 女性として初めて「有功勲章」(メリット勲章)を授かりまた。
このように、盟友の国防大臣シドニー・ハーバートなど華麗な人脈を駆使して、ナイチンゲールは看護と病院の在り方を一新し、優れた看護基準を作りました。こうして、看護の社会的地位を高めることに決定的な役割を果たしたのです。クリミア戦争下の野戦病院での献身的な看護活動と革新的な衛生管理、統計を駆使したイギリス陸軍病院の医療衛生改革、 専門的教育を施した看護婦を養成する世界初の看護学校設立 、今も読み継がれる看護教育教本の執筆、の4つはナイチンゲールの主な業績です。また、国際赤十字を創設したアンリ・デュナンにも大きな影響を与えました。 もともと体の弱かった彼女は、1857年37歳で心臓発作を起こし、以後慢性疲労症候群に悩まされ、その後は病床に伏すことになります。しかしなお、執筆、面会、相談、ヨーロッパ各国の看護・衛生行政相談役など多忙に過ごしました。
80才で失明し、1910年8月13日、バーンレーンの自宅で静かに息を引き取りました(享年90)。死去に当たり、国葬を打診されましたが遺言により遺族が辞退しています。ひたすら神とキリストの声を信じ貫いたナイチンゲールを、1910年8月15日のニューヨークタイムズは「これ以上に有益かつ感動的な人生があっただろうか」と讃えました。神がナイチンゲールを用いて、看護と病院の改革をなされたのです。
皆さん、いかがでしたか。少し違ったナイチンゲールの姿が見えたでしょうか?(了)
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