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聖イグナチオ教会を訪問してー修道院を考える

○つれづれ日誌(6月27日)-聖イグナチオ教会を訪問してー修道院を考える

筆者は、6月27日午後、JR四ッ谷駅近く、上智大学に隣接するカソリック教会「聖イグナチオ教会」を訪問いたしました。所用で麹町に来ていましたので、その帰りに立ち寄った次第です。

大きな礼拝堂でしたが、カソリックにしてはマリア像も聖画もなく、比較的シンプルなよそおいでした。数人の方々が祈られていましたので、筆者も一時祈りを捧げてきました。

15年前の一時期、知人の薦めもあり、上智大学神学部に入り直して、神学を学びたいとの希望を抱いたことがありましたので、前からこの教会には関心がありました。

上智大学は日本初のカトリック系大学であり、カソリックの修道会である「イエズス会」によって建学されており、又この聖イグナチオ教会は、イエズス会の創始者であるイグナチオ・ロヨラ(1491年 ~ 1556年)からとって命名されたとのことでした。最初の日本宣教師であるフランシスコ・ザビエルは、やはりイエズス会出身ですね。

筆者は、聖イグナチオ教会と上智大学は同じ組織の運営なのかどうかを知るため、シスターに聞いたところ、品のよいそのシスターは、「別々の運営ですよ」と言っておられました。

そこでこの際、そもそも修道会・修道院とは何か、そして上智大学と聖イグナチオ教会の生みの親であるイエズス会とはどういう修道会なのか、おさらいをしておきたいと思います。肩の力を脱いてお読み下さい。

1、修道院とはーその起源と思想

筆者は18年前、オーストリアのドナウ河下流域の「メルク修道院」を妻と共に訪問したことがあります。バロック建築の壮麗な外観と格式ある図書館が印象的でした。

一体、この孤高の修道院は、何のために存在し、何を目指しているのか、その存在意味について考えさせられたことがあり、今回改めてこれらを考えたいと思います。

キリスト教での修道院とは、第一義的には、信仰を広げる場である教会に対して、俗界を離れて禁欲的規律を守り、宗教的共同生活をおくることで信仰を深める場所であります。

すでに4世紀ごろからエジプトやシリアなどの東方のキリスト教徒の中に、現世から離脱して苦行を重ねる修道士が現れました。苦行と禁欲による霊魂の救いを求める修道士の活動は先ず4世紀のエジプトに起こりました。

古代教会の時代、砂漠、洞窟、断崖絶壁の頂、あるいは地面に立てた柱の頂きで1人で修行し、隠者のような生活を送るキリスト教徒も居ました。

修道士( Monk )を意味するラテン語は「ひとり孤独に暮らす」の意味で、イエスの福音の教えに従い、家族と離れ、結婚もせず、すべてを捨て、ひたすら神を捜し求める人であります。

313年にミラノ勅令が出されて迫害が終わり、殉教するものがいなくなると、返って信仰は弛緩し、より徹底したキリスト教徒としての生活を求める人々が生まれてきました。

殉教に代わって苦行する修道士が、我が身を神に捧げた者として崇敬されるようになり、修道士は「血を流さない殉教」と呼ばれたのです。

しかし、孤独な修道士の在り方だけではなく、共同体を作り、生活をともにしながら修行する修道院もまた4世紀のエジプトで始まりました。

やがて、ラテン語による聖書の習得や写本の製作を通じ、学識と芸術の殿堂としての権威を確立し、政治的権力からも自治権を認められる存在となっていきました。

修道院文化は学術に留まらず、自給自足が原則でありましたので、農作物の栽培、家畜の飼育、織機の耕具の製造などの技術にも及び、技術センターの役割も果たしました。

また、修道院が先進技術の発展に貢献した例は多数あり、農業技術の革新や、医療、病院のルーツとなり、修道院長も務めたグレゴール・メンデル (1822~1884) は、遺伝に関する法則(メンデルの法則)を発見した事で有名であります。

2、ヨーロッパ・キリスト教世界での修道院の始まりであるとともに最も重要な修道院となったのは、529年、ベネディクトゥスが中部イタリア山中に建設したモンテ・カシノ修道院であり、そこで始まったベネディクト派の運動が原点であると言われています。

ベネディクトゥスは、清貧・貞潔・服従を誓願し、「祈り、働け」をモットーとして純粋な信仰を深め、毎日4~5時間の祈りと、6~7時間の労働(農耕、建築、書写など)に従事しました。

ローマ教皇グレゴリウス1世はベネディクト派の修道院運動を支持し、同派の修道士をヨーロッパ各地に派遣し、特にアリウス派のゲルマン人への布教を展開し信仰の復興を行いました。これによってローマカトリック教会は西ヨーロッパに広く定着していくことになりますが、その先兵となったのがベネディクト派修道会でありました。

このように、修道院・修道会は、祈りとみ言の修道の場であり、又宣教、教育、福祉活動の奉仕者となり、弛緩した教会の改革や信仰の復興にも重要な働きをしました。そして何よりも、優れた神の兵士を前線に送り込む人材の供給源になったのです。

中世の修道院・修道会を中心とした教会の改革運動である修道院運動の波はその後もいくどかの高揚期を見せ、「クリュニー修道院」を中心に展開された11世紀の修道院運動、次に12~13世紀の「シトー修道会」による大改革時代の展開、さらに13世紀の「托鉢修道会」による修道院運動が起こりました。 

托鉢修道会は、ローマ・カトリック教会における修道会の形態のひとつであり、修道会会則により、私有財産を認めない修道会をいい、特に、「ドミニコ会」、「フランシス会」、「聖アウグスチノ修道会」、「カルメル会」のことを指します。中世中期、荘園領主化した既存の修道会の腐敗に対する反省としてうまれました。ルターは聖アウグスチノ修道院に入っています。 

下記はフランシスコ会当初の会則です。私達も「他山の石」としたいですね!

「われらの主イエス・キリストの福音を守り、服従のうちに生き自分の物な何も持たず、常に貞節のうちにあらんことを。修道士は頭巾付き上着1枚だけ持ち、履物は必要な者だけに許される。衣服は着古したもので、袋地か、ぼろでつぎはぎさるべきこと。高価な衣装を着、美味な飲食物を食べている人を見ても軽蔑したり裁いたりしてはならず、むしろ自分自身を裁き軽蔑せよ。直接にせよ間接にせよ金銭を受け取ってはならず、何物も所有せず、清貧と謙譲のうちに主に仕え、喜捨を請うことを恥じず、清貧を友とせよ」

現在、修道院を有する教派としては、東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会があり、プロテスタントにはほとんどありません。

3、次にイエズス会についての概略です。

1534年8月15日、イグナチオ・ロヨラとパリ大学の学友だったフランシスコ・ザビエルなど6名の同志がパリ郊外のモンマルトルの丘のサン・ドニ大修道院教会堂に集まり、生涯を神にささげる誓いを立てました。

この日がイエズス会修道院の創立日とされています。彼らは清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、又は教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てました。

当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めました。

イエズス会はプロテスタントに対抗する「対抗宗教改革」の一環として創設されたと言われており、ローマ教皇に対する忠誠というイエズス会の精神を死守し、会員たちは活動を通して人カソリック信仰を堅持させることに成功しました。

イエズス会は教皇に直結し、活動分野は主に次の3つです。第一は高等教育であり、イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴でした。第二の活動分野は宣教活動で、第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることでした。

イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツやポーランド、オーストリアなどのプロテスタンタントは衰退し、カトリックが再び復興しました。又、南米やアジアへ宣教師を送りました。

一方、教皇への服従を唱えながらも、カトリック教会の内部に目を向けることろの重要性を認識しており、教会にはびこる汚職、不正、霊的倦怠を激しく批判しました。

イエズス会員たちは個人の回心のための方法としてロヨラの編み出した霊的指導、いわゆる「霊操」を用いました。霊操は、沈黙のうちに行う一ヶ月の黙想のプログラムで、これを授かるものは毎日異なるテーマについて黙想し、司祭による定期的な指導を受けながら、神が自分に望まれていることは何かを考えていきます。

1556年のロヨラの逝去時までに、イエズス会はすでに三つの大陸で74の大学を運営していました。1913年創立の上智大学はその一つです。世界のイエズス会の統一教育指針となった学事規定は信仰教育だけでなくラテン語・ギリシア語および古典文学、詩文、哲学、非ヨーロッパ語、科学、芸術の学習を課しました。

又、イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣しました。日本を宣教したのはイエズス会のフランシスコ・ザビエルであり、南米パラグアイのグアラニー族を改宗したのはやはりイエスズ会でした。なお、現在の教皇フランシスコはイエズス会出身で、フランシスコの名前は、托鉢修道会のアッシジのフランシスコからとっています。

4、レダは成約の修道院

筆者は、平成29年11月4日、南北米福地開発協会が開いたパンタナールセミナーに参加いたしました。

このセミナーの中で、原理創始者が南米で行われた数々の事業の話を聞きながら「この南米への投入は、神が南米を愛された愛の記録であり、レダはその象徴だ」とのインスピレーションが込み上げると共に、レダの生活は正に「成約の修道院ではないか」との印象を抱きました。これは、セミナー感想文として既に発表しています。

南米摂理は、北米のプロテスタントと南米のカソリックの統合の摂理を意味し、「パンタナールは南米大陸の子宮であり、パラグワイ川は新しい生命(文明)を生み出す産道である」との原理観は、原理創始者でしか知り得ない驚くべき卓見であります。

「パンタナール・レダは世界最大の湿地地帯で万物創生の原点、神の保護地、原焦的・根源的・勝利的聖地」との主の言葉をひたすら信じて、今日まで献身的な開発がなされてきました。

現地では、朝3時半には起床し、4時から祈祷と訓読、6時から労働です。清貧、貞潔、労働、この生活を20年間守ってきました。ベネディクトゥス修道院精神そのもので、まさにレダは「成約の修道院」です。

日本でも、比叡山や高野山などの山岳仏教の聖地は一種の修道院です。世俗から一歩抜きん出て孤高の精神性の高みを維持し、無言で精神的価値の尊厳性を訴えているのです。人は、一切の世俗を離れた修道者の生き様に、なにがしかの憧れと尊敬の念を抱きます。

このように、比叡山にしろ、レダにしろ、修道院にしろ、世俗的なものを一切廃して、精神的純粋性を愚直に保つこの群れは、その存在自体に意味があり、ここにこそ修道院の意義があると筆者は感じております。 

ただ、我らの原理創始者は、「現実の実社会の中にあって分別された信仰を保つ生活は、人里離れた所での修道生活に優る」と言われましたね。

そう考えると、我々が立っているこの生活の現場、この場こそ如何なる修道院にも優る修道院であり、我々はその修道士ではあるまいか、或いはそうであるべきではなかろうかと。

以上、たまたま立ち寄った聖イグナチオ教会でしたが、しばしキリスト教の特徴の一つである修道院とは何か、その存在意味とは何か、を考えるよい機会になりました。(了)