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聖都教会を訪問して 礼拝とは何かを考える

○つれづれ日誌(7月19日)-聖都教会を訪問してー礼拝とは何かを考える


7月19日、西荻窪にある聖都教会90周年の記念礼拝に招待されて参加してきました。

聖都教会は、青梅街道沿いにあり、礼拝堂がマンションを改造して作られていますが、中はキリスト教会らしさが醸し出されていました。

日本福音教団に所属しているホーリネス系の教会で、創立者の亡き星野栄一牧師を引き継いだ清水自朗牧師が運営されています。

昨年のクリスマス礼拝にも誘われて参加しました。その時は10名位でしたが、今回は90周年記念礼拝ということで多くの方が集っていました。

かってのホーリネス教会は聖霊の役事もあり、一時期は多くの礼拝参加者がありましたが、今はどの教会も減っているようです。

礼拝後、すぐ帰途につきましたが、途中で道に迷ってしまい、とある通りを歩いていた時でした。ふと見上げると、なんと「宗教法人世界平和統一家庭連合荻窪家庭教会」とあるではありませんか。 

早速導かれるように中に入って、礼拝堂と祈祷室で祈りの一時を持つことになりました。

これは、新約から成約への流れではないか、やはり神は、新約を相続した立場を踏まえて成約へと導かれているのだ、新約と成約の橋渡しを神は願っておられる、との思いが込み上げてきました。

そして、それぞれの良さはありますが、両教会を比べて見ると、やはり成約の教会には勢いがある、福音伝道への勢いです。これは、新約の霊と成約の霊の勢いの違いなのでしょうか。勿論、教会によりまちまちでしょうが・・・。

そこで以下、今回の2つの教会訪問で感じたこと、特に「礼拝」と「福音伝道」の意義について考えて見たいと思います。

1、礼拝の3つの意義

礼拝とは何でしょうか。我々は何故、何のために礼拝に行くのでしょうか。キリスト教では礼拝には3つの要素があると言われています。

礼拝の第一の目的は神(キリスト)を礼拝することです。神への祈りです。我々は、神を礼拝し、神に祈りを捧げ、神を賛美し、神と交わるために教会に行くのです。

宣教師訓練センター(MTC)所長の奥山実牧師は、「人間は神を礼拝し讚美するために生まれてきた。神礼拝は人生の目的である」と断言されています。

礼拝の第二の目的は、み言の学びです。それは、聖書の拝読を通じ、説教の拝聴を通じ、聖歌を歌うことを通じて、み言を学び霊の賜物を受け取るのです。

三番目が信徒の交わりです。教会とはそもそも「信徒の集まり」をいい、いわゆる建物のことではありません。イエス様も、キリストの中にあって二人、三人が集まるところ、ここが教会である(マタイ18・20)、と言われました。

信仰共同体です。そして、神とみ言を共有した信徒が相交わるのです。説教の中だけでなく、お茶飲み話のちょっとした会話の中にも信仰のヒントが隠されています。

ただ、カソリックのミサはキリストの血と肉を受けてキリストと一体となる聖餐式がメインです。大まかに言えば、プロテスタントは説教に、カソリックは儀式に比重が置かれています。しかし、共に神を礼拝することにおいて変わりはありません。

筆者も今日、2つの教会で、天地を造りたまいし唯一の神(天の父母)を礼拝し讚美し交わる機会を享受させて頂きました。

2、福音伝道への熱情(アフェクション)

次に神礼拝に次いで重要な福音伝道について考えていきましょう。

伝道するためには、先ず我々が救われていなければなりません。これが前提です。救いのあるところに伝道があります。逆に伝道によって救われるとも言えるでしょう。

即ち、私たちの伝道意欲のバロメーターは、如何に自分が救われているかにあると言ってもいいでしょう。救いがあれば、この喜ばしい福音を他人にも伝えたいという気持ちが自然と沸き起こって来るというのです。

では一体「救いとは何か」です。先般ある聖書セミナーで「皆さん方の中で、救われていると思う方は手を挙げて下さい」と聞きましたが、誰もすぐには手を挙げませんでした。

このように、えてして救いは曖昧になっています。メソジスト派の創始者ウエスレーは「救いの確証」を教理の中心に据えましたが、我々には救いの確証が必要です。

この「救いとは何か、救われているとはどういうことか、救いの確証は如何にして得られるか」という深刻なテーマは、後日詳しく述べることにしたいと思いますが、梅本憲二著「やさしいキリスト教神学」(光言社)の第五章救済論(P110~112)、及び証し(P207~209)に簡潔に言及されています。

次に伝道方法です。

なんと言ってもUCの伝統は路傍伝道です。今、千葉のある教会では、何十名もの食口が路傍伝道をやっているそうです。2年ほど前からシニアの音頭で路傍伝道が始まり、今では恒例行事として定着し、素晴らしい神との出会いが証言されています。

今日礼拝に参加した聖都教会でも、ホーリネス教団の路傍伝道で導かれたという証がありました。このように、路傍伝道は我々の伝統であります。

次が訪問伝道です。これは今やエホバの証人の専売特許になりました。彼らは、玄関で断れ、冷たくあしらわれることが恵みだと教えられています。しかし、その歩みがあって、多くの信者(20万人)を得ることが出来ました。

一昔前は、我々も人参や印鑑販売に一軒一軒訪ねていきましたね。実はそこから繋がってUCに導かれた人が意外に多いのです。筆者の相対者もこの人参・印鑑訪問で二人の献身者を導いています。 

今一つが渉外伝道(因縁伝道)です。文書伝道、テレビ伝道もこの中に入るでしょう。つまり、我々が接触する人々、親族、友人、仕事仲間、およそ全ての関係者は伝道対象者といってもいいかもしれません。

その中でも牧師伝道は頂点に立ちます。もろに牧師伝道などと言えば誤解を受けますが、成約摂理のために神が用意した整えられた民、キリスト者への多面的なアプローチです。

こうして、路傍伝道、訪問伝道、渉外伝道は伝道の三種の神器と言えるでしょう。そして何よりも、福音宣教はイエス・キリストの命令であります。以下の聖句がいわゆる大宣教命令といわれ、宣教師はこの聖句を握って地の果てまで出かけていきました。

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての作られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)

一体、神はどこにおられるのでしょうか。いと高き天にいましたまい、心の中にいましたまい、そして、どこよりも宣教の前線にいましたまうというのです。

3、聖書的伝統を相続することは、成約聖徒の生命線だと言えるでしょう。我々は、旧約、新約という聖書的霊性を正しく相続しなければなりません。

原理講論を読めば明らかなように、この書は「聖書を新しく再解釈した書」であります。或いは、「聖書の奥義を明らかにしたもの」であります。こうして原理講論が聖書の新しい解釈論である以上、聖書に通じること無しに原理を深く理解することなど出来ないという結論になります。

やや大げさですが、筆者がこの事実を知らなかった半世紀を「失われた50年」と呼んでいます。聖和までには完全に回復しなければなりません。

旧約にはむき出しの神の声があり、新約には聖霊の賜物があり、そして、成約には福音の力、新約にはない霊的な勢いがあるというのです。

以上が、今日図らずも2つの教会を訪問して感じたことでした。(了)