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荒野に見出だす神

🔹聖書の知識16ー荒野に見出だす神

イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月目のその日に、シナイの荒野に入った。(出エジプト19・1)

今回のテーマは、荒野の中で生まれた一神教です。私達は、多かれ少なかれ内外の荒野の中に立っています。内的荒野とは、信仰的試練です。そこは、罪との戦い、霊肉の葛藤、迷いや異なる福音(分派)との戦い、家族・友人・同僚など人間関係の悩みなど、人々を霊的に陥れる坩堝です。

そして、外的荒野とは、過酷な岩と砂漠の自然環境、経済的困窮、社会的迫害などです。こうして私達は、常に内外の荒野の中に立っています。

[荒野で生まれた一神教]

一神教は荒野の中で生まれました。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など唯一の神を信じる宗教は、メソポタミア、シナイ半島、パレスチナ、サハラ砂漠の岩と砂の過酷な荒野の中で誕生しました。確かにこれらの地域には、肥沃な三日月地帯やガリラヤ湖周辺の緑もあり、荒野が一神教の要因ではないという説もありますが、大半は荒野の中と言っても過言ではありません。この過酷な自然の中にあっては、ただ依り頼むべきものは、唯一なる神の他にありません。

一方、日本の多神教は、豊かに恵まれた水と緑の自然環境の中で育まれました。自然こそ恩恵をもたらす神であり、神の霊は木や岩や山に宿り、祖霊の中に宿りました。至るところに神々は臨在したのです。人々を励まし慰めるものは、「山のあなたの空遠く」にではなく、ごく身近に存在しました。

このように考えると、一神教は荒々しく男性的であり、多神教は和らかく女性的であるという見方もできます。

[神は愛するものを荒野に追いやられる]

「神はその人に何かをさせる前に、どん底に突き落とされる」というナイチンゲールの言葉は真実です。そして、「神と神の言葉は、どん底の荒野の中でこそ見出だされる」というユダヤ・キリスト教の教訓もまた真実です。何故なら、人間は神と富の両方に仕えることは出来ないからです。ともすれば富は、日々の必要を満たす糧であると同時に、かの多神の神々のように、人間を真の神から遠ざける要因にもなるということです。

マタイ6・24 に「だれも二人の主人に仕えることはできません。あなたがたは神と富とに仕えることはできません」とある通りです。

従って、持たないこと、貧しいことは神を見出だす宝庫です。529年にベネディクトスが創建ベネディウト修道院の戒律は、「清貧、純潔、服従」であり、1206年に生まれ、トマス・アキナスを生み出したドミニコ修道会は托鉢修道会と呼ばれ、特に清貧を重視し、持ち物は1枚の上着の他は何も持たなかったと言われています。

筆者も8年前、金の先物取引の失敗に端を発して経済基盤が崩壊し、一文無しの見事な無産者に転落した経験があります。「坂を転げ落ちるように」とは当にこのことです。そして、このどん底の荒野の中で、神と神の言葉(聖書)に出会うことになり、お陰で十字架と復活の意味を実体験させられることになりました。神とみ言との再会です。今から思えば、神が筆者を荒野に追いやられたのだと思っています。

モーゼに率いられたイスラエル民族が、シナイの荒野で神と出会い、神の言葉を授かったあの光景が、まざまざと甦ります。神がイスラエル民族を荒野に追いやられたのです。そして、現代の世界を席巻している一神教は、この荒野から始まり、今やユダヤ人は荒野から出発して世界の金融を一手に握るまでになりました。(了)






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