🔷聖書の知識49-論点(6)神義論-天使の堕落
[神義論とは]
キリスト教において「神義論」という重要な論点があります。神義論とは、「神が全能であり善であるのなら,その神が造った世界に何故悪や不幸が存在するのか」、「善人が苦しみに逢い、悪人が栄えるのは何故か」(ヨブ記)といった問いを発し、これら悪の存在が神の責任ではないということを弁証(弁護)しようとする議論をいい、キリスト教神学の奥義とも言われており、ドイツのライプニッツが名付け親であります。
これは、古代イスラエルにおいて、選ばれし民であるイスラエルが滅亡して捕囚の民となった時に発せられた問いでもあります。イスラエルの預言者は、歴史を支配されるヤハウェが異邦人の神を用いてイスラエルに試練を与え、いつかまた捕囚から解放されると考えました。M.ウェーバーは『古代ユダヤ教』の中で,創世記3章の堕罪物語に人類最初の倫理的神義論がみられると指摘しました。つまり神義論とは、即ち「悪の起源」の問題であるというのです。
[アウグスティヌスの神義論]
この点、アウグスティヌスは神義論を最初に提唱した神学者で、神は完全に善であり、悪は人間の原罪に起因するものであることを主張しました。悪のこの世への侵入は原罪および人間の自由意思の乱用によるもので、この罪に対する罰として説明され、神に責任はないとしました。
即ち、悪は、アダムとエバが神に従わず、エデンの園から追放されたときに、堕落した人間に対する罰であるとし、神は無から世界を創造したが悪を創造しておらず、悪の発生に対する責任を持たないことを主張しました。即ち、神の善なる創造物の堕落であります。
トマス・アクィナスは、アウグスチヌスの影響のもとに、悪の存在を人間の罪によるものとし、ジャン・カルヴァンも、悪は自由意思の結果であるというアウグスティヌスの考えを支持しました。
しかし上記の見解に異を唱える見解があります。
ジョン.ヒックは、悪は完成の途上にある人間の成長のために必要であり正当化されうるとする神義論を提唱しました。ジョン.ヒックは、「困難と誘惑を努力で克服して積み上げて形成された徳は、当人が創造されたときから備えられ自分で苦労せずに得られた出来合いの徳よりも価値がある」と言います。
そしてゾロアスター教やマニ教のように,善と悪をそれぞれ独立した原理とみなす二元論的世界観もあります。また、ギリシアやインドの多神教においては,神は善悪両義的な存在であり、いずれにおいても,世界に悪が存在すること自体は自明のこととみなされています。
[悪の起源としての天使論]
上記のように、アウグスチヌスは、悪は人間の原罪によるもので、神に責任はなく、神の全能性、完全性は担保されるとしました。筆者はこれを支持いたします。
結局この議論は、悪の原因となる原罪をもたらした堕落が何であったか、そして堕落の起源となった天使について考察しなければなりません。何故なら後述するように、聖書は天使を悪の起源と見ているからです。
天使(angel)は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典や伝承に登場する「神の使い」であり、原理によると、天使は神の被造物で万物に先駆けて造られた霊的存在であります。天使は、神の使いであり、人間に神の言葉を伝達しました。(創世記18.10 、マタイ1.20)
また、人間の僕、仕える霊(ヘブル1.14、黙示録22.9)であり、神を賛美、頌栄(詩篇148.2、黙示録5.11)する存在であります。
キリスト教においても、上記天使に関する考え方をほぼ認めています。天使は肉体を持たない実在する霊的 (spiritual) 存在であり、人格的で性別はなく、翼はないと考えられています。また、天使には階級があり、大天使にミカエル、ガブリエル、ルーシェルがいるとしました。
[天使の堕落とその起源]
もともと天使は善の目的をもって神によって造られた被造物であったのですが、その天使が堕落してサタンになったと言われています。(講論P99)
キリスト教における学説では、天使の一部は神に反逆し堕天使となり、その長は天使長暁の天使ルシファーで、神との争いに敗れて地獄の長となったとされています。「年を経た蛇(サタン)は天から地に投げ落とされた」(黙示録12.9)、2ペテロ2.4「罪を犯したみ使い」(2ペテロ2.4)、「おるべきところを捨てて淫行にふけり不自然な肉欲に走った」(ユダ6節~7節)などが聖書の根拠です。
ジェーコブズは、「天使の堕落について、先ず天使の頭が堕落しサタンになり、次に彼に同調する天使がそれに従ったとし、天使の堕落が悪の起源と関係していると見られるが、これについては説明できない」としています(『キリスト教教義学』P100)。
天使の堕落の動機は、自分も神のようになろうとした高慢である(イザヤ14.12~15、エゼキエル28.15~17)とか、エバと戯れて幸福に見えるアダムへの嫉妬(聖書外伝)とか、神への不従順(アウグスチヌス)だとか言われたりしていますが、結局、天使の堕落の原因は「神学の深い神秘の一つ」(シーセン『組織神学』P322)とされています。
また、いつ堕落したかについて、「天使の堕落が人類の堕落以前にあったことは明白であるが、いつの時点かは断言できない」(シーセン『組織神学』P322)としています。
創世記1章1節~2節の間に天使の堕落が起こったとする見解(ギャップセオリー)もあり、シーセンはこの説を採用しています。いずれにせよキリスト教では、創世記3章でエバを誘惑した蛇は、その時既に堕落していた堕天使と見ており、天使の堕落の原因とその時期については、実際のところ分からないとしているのです。
この点原理は、天使の堕落の原因を姦淫と見、天使がエバを誘惑してエバと姦通し、その時エバと同時に堕落したと見ていますので、蛇としてエバに話しかけた時点では、天使(蛇)は未だ堕落前だったということになります。従ってエバを誘惑した蛇とは、あくまで結果的に堕落することになる天使を象徴して蛇と呼んだというのです。
ここにも聖書の文字の解釈がいかに難しく混乱をもたらしているかが分かるというものです。
[ヨブ記のテーマは神義論]
神義論の典型的な例は旧約聖書の「ヨブ記」にみられます。「善人の自分が何故苦難を受けなければならないのか」と。
ヨブは全き正しく、神を恐れる義人でしたが、サタンから讒訴されることになります。「ヨブが義人なのは、神がヨブを祝福しておられるからで、もし撃たれれば神を呪うでしょう」とサタンは神に訴えます。
神はヨブの全財産、子供10人、僕らを撃たれ、遂には腫物をもって肉体まで撃たれました。だがヨブはなお神を讃え罪を犯しませんでした
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1.21)
しかし友人3人の訪問を受けた後、遂にヨブは自らの運命を呪う言葉を発することになります。(ヨブ記3章)
友人は、ヨブの災難は罪の裁き、因果応報であると諭します。また、罪を犯していない義人であっても、自分の義を神は省みて下さるはずだという意識は、思い上がりで偽善だと友人は指摘します。しかしヨブは反論いたします。自分は潔白だと。
最後に若いエリフが出てきて、苦難の問題について新しい光を与えます。今まで、ヨブも三人の友も、因果応報の思想に基づいて、神の裁きを議論をしてきました。しかし、エリフは、苦難は神の罰とは限らない。神の警告、神の教育的な配慮として、試練として苦難が与えられることがあるのだともっともらしいことを述べる訳です。
そして遂に神が臨まれ、人間の思惑を越えた超越した立場からヨブへの質問が発っせられます。神はヨブの疑問「 何故義人が苦難を受けるのか」 に直接答えようとなさらず、「神は如何なる場合でも絶対的な主権者であり、説明する必要も義務もない」との姿勢に立ち、むしろヨブの高慢を問題にされます。
結局ヨブは、神の計り知れない主権に身を委ねるという境地に至り、より深い霊的真理を与えんがための神の試練であることを悟ることになります。かくして悔い改めたヨブは、どん底の中で神を再発見することになりました。
こうして、苦難を試練として受け入れ、神の主権に従ったヨブを神は祝福され、ヨブは前よりも豊かな生活を全うすることになりました。
[結論]
かくして「何故神が造った世界に悪が存在するのか」という問題は、専ら天使に端を発する天使と人間の堕落に原因があり、神に責任はなく、神の全知全能性は守られるという結論になりました。
しかも「取って食べてはならない」(創世記2.17)という神の戒めを守ることは、あくまで人間側の責任分担(自由意思)であるとするなら、なおさら神に責任はないことになります。
同様に、「何故善人が苦難を受け、悪人が栄えるのか」の問題については、ヨブ記にみる通り、あくまでもより深く神と再結合するための克服すべき「神の試練」ということになります。
以上の通り、神義論は結局人間の堕落の問題であり、悪の起源となった天使の問題に帰結することになりました。
私たち原理を知っているものからすれば、上記神義論の論議は「当たり前のことで何故こんなことで大騒ぎするのか」とも思われます。しかし、著名な神学者であるシーセンやジェーコブズでさえ、天使の堕落の原因やその時期などの重要論点が「神学上の神秘」としてお手上げというのが現実です。
結局、堕落論が明確に解明されていないことが、神義論を難解にしている理由であると言えるでしょう。原理では、そもそも神義論などといった論議の余地すらないということになります。
次回は、「何故イエスキリストは神になったか」を考えることにいたします。(了)
*上記絵画:反逆天使の堕落(シャルル・ルブラン画)