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韓国のキリスト教①

🔷聖書の知識40ー韓国のキリスト教(1)

一粒の麦が地に落ちて死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 (ヨハネ12・24)

前回まで、東北アジアにおけるキリスト教の枠組みの中で、日本のキリスト教、及び日本の代表的クリスチャンとして内村鑑三を論評して参りました。今回は、韓国(以下、李氏朝鮮を含む)におけるキリスト教の歴史と特徴を見ていきたいと思います。原理創始者の誕生の地だけに、その関係性など興味深いテーマです。

韓国へのキリスト教伝来は、李氏朝鮮時代の1784年に、李承薫(イ・スンフン)が初めてクリスチャンになって中国から帰国した時とされています。日本への伝来は1549年のザビエルですから、日本より約230年くらい遅いということになりますね。当時、李王朝では完全な鎖国政策がとられ宣教師は一歩も入れなかったからです。

韓国のキリストは、大きく李氏朝鮮時代、開国と日本統治の時代、第二次世界大戦後から現代までの三期に分けられると思います。

それぞれの時代の特徴をひとことで言い表すならば、李氏朝鮮時代は迫害と殉教の時代、開国と日本統治の時代は信教の自由とその規制が絡み合った時代、戦後の時代は自由と発展の時代と言えるでしょう。

特に戦後、急速にキリスト教が発展し、国民の約33%がキリスト教化しました。「何故韓国がキリスト教国になったのか」という問題は、大変重要で興味があるテーマであり、これを明らかにすることはこのシリーズの最も大きなテーマであります。

以下、それぞれの期間の歴史と特徴について概観したいと思います。

1、李氏朝鮮時代のキリスト教

李氏朝鮮は、1392年から1897年(大韓帝国としては1910年まで存続)にかけて朝鮮半島に存在した国家で王朝名としては李朝と呼ばれています。

歴史上初の朝鮮人キリスト教徒(受洗者)は、小西行長の朝鮮人養女のジュリアおたあと言われることもありますが、正式には北京で洗礼を受け、1784年に帰国した李承薫であると言われ、韓国カソリックはこの年を宣教元年としました。

李承薫が北京から帰国した後、私的に西学(キリスト)を信仰していた人々も改めて洗礼を受け、5年間で4000人位の信者が生まれたと言われています。最初の50年は一人の神父もいませんでしたが、特に儒学者らに広がっていきました。

李王朝は新興のキリスト教を弾圧し、最初の殉教者は金範兎(キム・ボムウ)と言われ、現在彼の家だった上に天主教明洞教会が建っています。

その後、パリ外国宣教会宣教師らが北京を経て朝鮮北部に入り、カトリックの宣教を行いました。朝鮮初の宣教師は、1794年に朝鮮にやって来た中国人宣教師の周文謨であります。又1845年金大建(キム・デゴン)が上海で朝鮮最初の司祭になって帰国し、布教を始めました。

しかし、李王朝は、身分秩序を重んじる徹底した儒教(朱子学)の国で、完全鎖国主義をとっていましたので、キリスト教は激しく弾圧されました。儒教は国教とされ、この世に儒教に優る教えがあるはずはないと思っていたからです。 

伝来以後100年の間に、迫害による殉教者が数万~10万超も出て、これはローマ帝国迫害時代に匹敵するかも知れません。

巡威島において外国人宣教師密航計画を進めていた金大建司祭は1846年に捕縛され、彼と103人の信者は「キリスト教棄教」を拒否して処刑されました。金司祭と103人の信徒は1984年5月6日にローマ教皇によって列聖されています。

大院君政権下の1866年には密入国していたフランス人司祭9名と、カトリック信徒約8,000名が捕縛・処刑される丙寅教獄が起こりました。

以後、19世紀、李王朝の凄まじい大迫害が70年間続きました。

第一回迫害1801年周文謨など殉教者300人

第二回迫害1846年金司祭と殉教者103人

第三回迫害1866年、大院君の迫害、殉教者8000人、寒さと飢で数万人死亡

第四回迫害1871年、殉教者不明

しかし、殉教者の血は誇り(李光洙)と言われ、殉教は返って信者の増加をもたらしました。当に死の恐怖に打ち勝つ信仰、「聖霊の賜物である信仰」(1コリント12・9)であります。

「殉教の血は種子である」との教父テリトリアヌスの言葉の通り、これら李王朝時代の殉教が、戦後のキリスト教徒激増の内的要因に繋がったと言われています。まさに「一粒の麦、死して実る」(ヨハネ12・24)であります。

2、開国及び日本の統治時代

明治維新を達成した日本は、李王朝に強く開国を迫り、1876年に日朝修好条規が締結され、ついに開国することとなりました。又1882年にはアメリカと修交通商条約を締結しました。

この朝鮮の開国を皮切りに欧米諸国との外交関係が樹立されると、プロテスタント諸派が朝鮮に宣教師を派遣しました。特に1897年李氏朝鮮が事実上崩壊すると(以後、大韓帝国)、信教の自由が条件付きながら認められるようになり、主にアメリカからブロテスタント宣教師が入ってきました。

韓国プロテスタント初の殉教者は、ロバート・トーマスで1866年26才で処刑されました。1907年のピョンヤンリバイバルの起源がこの殉教にあると見られています。

1884年医師のホリス・アレンがプロテスタントはじめての宣教師で、1885年長老教会の牧師ホリス・アンダーウッド、メソジストの牧師ヘンリー・アッペンゼラーなどの宣教師がやってきました。彼らはピューリタン的な純粋な信仰を持っていました。

初期の宣教は「医療」と「教育」が活動の中心となり、ハングル聖書の刊行がなされて印刷物を介した布教が行われました。長老派は1885年に少年向けの培材学堂、メソジスト派は1886年に少女向けの梨花学堂(梨花女子大学)を創設して教育や医療に力を注ぎました。  

1890年には、いわゆる教会の在り方や伝道の在り方でネビィアス方式が取り入れられました。ネビィアス方式とは中国のアメリカ人宣教師ジョン・ネビィアスが韓国に来て教育した内容で、自立的教会活動、聖書中心の教会、宣教師の海外派遣、諸教派の協力、庶民伝道が特徴です。(鈴木崇巨著「韓国は何故キリスト教国になったか」)

1895年の日清戦争、1905年の日露戦争は信者が激増する契機になりました。又、1907年には韓国人牧師も生まれ、長老派の平城神学校から有力な牧師が排出されました。

1903年、北部東海岸の元山で癒しや異言などの聖霊体験が始まり、1907年にはピョンヤンでも大リバイバルが起こり、東洋のエルサレムと呼ばれるようになりました。神が介入されたのです。

当時ピョンヤンには再臨待望論があり、ピョンヤン人口5万人の内、1万4千人が礼拝に参加し、また平安北道の定州では2万人人口のほとんどが信者だったと言われています。

こうして1890年には169名しかいなかったプロテスタントは、1910年ころには16万人にも拡大しました。(カソリックは約4万人)プロテスタントの宣教から20年余で大きく躍進したことになります。ちなみに1909年に伊藤博文を暗殺した安重根(洗礼名トマス)は17歳のときにカトリック系の洗礼を受けています。

3、日韓併合と3・1独立運動

1910年、大韓帝国は日本に併合され、李氏朝鮮は名実共に519年の幕を閉じました。当時、李王朝は完全に統治能力を失い、自力で改革するのは難しかったとは言え、儀礼の国、小中華の儒教の国が「何故日本の支配を受けなければならないのか」との思いはあったことでしょう。

そして李王朝の伝統主義、保守的主義から脱すること、即ち西洋的近代化とは、キリスト教への転向を意味しました。事実、抗日運動の中心を担った独立協会の指導者はキリスト教への改宗者でした。

1919年3月1日、独立宣言を起草宣言し、パゴダ公園で集会して「朝鮮独立万歳」を叫びました。キリスト教徒16名、天道教徒15名、仏教徒2名の計33名が独立宣言に署名しています。

3ヶ月間全国でデモ行進が行われ、死者がかなり出ましたが、多数がキリスト教徒でした。なお、天道教とは、19世紀に崔済愚(チェ・ジュウ)が創始した宗教で、儒教、仏教、道教、土俗信仰を融合した独自のものです。

この独立宣言には、ロシア革命が勃発したこと、大戦によってドイツ帝国、ハプスブルク帝国などがたおれたこと、ウィルソンの民族自決主義をうたった十四か条の平和原則(1918年)など民族自決の気運が高まってきたという背景がありました。 

又3・1宣言に先立って、1919年2月8日、日本の朝鮮YMCA会館に集まった約600人の学生(早稲田、慶応、青山学院、東京高師などの朝鮮人留学生)は朝鮮青年独立団の名のもとに独立宣言書を採択しています。

3・1独立運動の犠牲者については、朝鮮側では、死傷者が7509名、負傷者が15961名としています。しかし、日本警察の集計では、死者357名、負傷者802名となっています。それぞれ見解は異なるも、かなりの犠牲者が双方に出たことは間違いありません。中でも16才で獄中死を遂げたクリスチャンの柳寛順(ユ・グァンスン)は有名です。

又、1919年4月15日、水原市の近く堤岩里(ゼアムリ)のメソジスト教会では、ちょっとした発端から23名が放火虐殺される水原郡堤岩里事件が起りました。

さて、ここでその当時の朝鮮半島の霊的状況、3・1運動の内的意味を考えておかなければなりません。上記しましたように元山(1903年)とピョンヤン(1907年)では聖霊体験が起こり、当時のピョンヤンは東洋のエルサレムと呼ばれていました。

こうした背景の中で1919年3月1日、キリスト教徒を中心に独立運動が勃発しました。この独立運動は、規模こそそれほど大きくはありませんでしたが、その霊的意味には深いものがありました。

即ち、かってイエス誕生の時と同じように、半島は外国の支配下にありました。その外国支配の中にあって、メシア誕生に際して、神の主権を主張できる霊的条件が必要だったと言われ、それが独立運動の本質的意味だったというのです。形だけとは言え1919年、李承晩・呂運亨・金九らによって樹立された上海臨時政府はその象徴でした。

1919年3月ころ来るべきメシアは母親の胎中に身籠り、1920年1月に誕生されました。奇しくも半島のメシア誕生と軌を一にして、日本では内村鑑三を中心とした再臨運動が勃発しています。

4、神霊神秘主義集団の発祥

3・1運動が終息したあと、神霊的神秘主義運動が韓国キリスト教の特徴になっていきました。

李龍道はメソジスト牧師で、著名な復興師(リバイバリスト)でしたが、異端視される傾向にあり、李浩彬(ホホビン)の紹介で、1927年ころからイエスが「親臨」したとする神学生の柳明花との出会いがありました。この柳明花の親臨・入神・再臨の神託を、多くの反対にも関わらず、李龍道は受け入れていきます。

そしてこの出会いで得た霊的体験や柳明花の託宣を基に1933年6月、祈祷や聖霊体験を重視するやや民族主義的傾向の「新イエス会」を設立しました。三位一体の教理や聖書の絶対性を否定するなど独自の教理を有しています。李龍道、白南柱らが設立者で、李龍道の死後(33才で病死)、李浩彬が後継者になっています。

そして新イエス教会は、柳明花を信じた白南柱派や再臨思想・堕落淫乱説を唱える金聖道派などが集まってできた教団でした。しかし、1933年9月、李龍道、白南柱、李浩彬は長老派から異端とされています。 

半島の西側ではやはり神霊的宗教である金聖道の聖主教、許浩彬(ホホビン)の腹中教が生まれています。そして聖主教の金聖道と神霊集団の白南柱・李龍道らの接触が始まり、新イエス教団を形成しました。

本来、白南柱・李龍道らの東側集団「新イエス教会」と金聖道の西側集団「聖主教」が一つとなることが神の摂理だったと言われています。結局果たされず、この霊的運動は金百文氏に移っていったということです。即ち、李龍道⇒李浩彬⇒金百文という流れで神霊運動が相続されていったというわけです。

1944年5月4日、我が原理創始者は、李龍道の死後イエス教会を引き継いだ李浩彬牧師の主礼で、崔先吉女史との婚礼を行っています。((平和を愛する世界人として」P92)

韓国・朝鮮の宗教を研究する渕上恭子は、1930年代のキリスト教神秘主義に始まり新イエス教会の系譜に連なる聖主教やUCなどの教団や、黄国柱などの周辺にみられた神秘主義者を「血分け教」(混淫派)と呼び、李龍道を「血分け教の開祖」と位置付けています。

しかし、上記渕上の論にはその中身に関する具体的な考察やエビデンスが全くない粗雑な論理であり、研究者から批判されています。

また、UC教理が新イエス教の李龍道や金百文などから強い影響を受けその系譜にある、ないしはその教義を取り入れているなどとの主張がありますが、この主張は完全な偏見であり間違いであります。

これらの神霊集団との繋がりは一見あるかに見えるものの、UC教理の本質は、神の文師への直接的な啓示が起源であり、ユダヤ・キリスト教のヘブライズムの伝統と聖書的霊性の上に正しく立つ新しいキリスト教の理念であります。

新イエス教の流れを汲む金百文とはソウルで完全に訣別し、文師は1946年に単独で北朝鮮に向かい、ピョンヤンでUCの前身となる新しい啓示に基づく信者の群れを作っています。

5、戦時下のキリスト教

1910年の日韓併合の後、朝鮮総督府は、日本基督教会(長老派)の指導者植村正久に朝鮮宣教を断られたため、日本組合基督教会(会衆派)の指導者海老名弾正に朝鮮宣教を命じました。

日本組合基督教会は、同年10月の第26回定期総会で全会一致をもって「朝鮮人伝道」を決議し、渡瀬常吉を派遣しました。日本組合基督教会は朝鮮総督府より援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げました。 

渡瀬常吉は、「朝鮮併合は、日本が世界の大勢に順応した結果である。東洋の平和を永遠に保証するため、日本帝国存在の必要と同時に、朝鮮1500万民衆の幸福を顧念した結果である」としました。

日韓併合下では、外国との接触を持つキリスト教徒が抗日運動を担うようになり、3・1運動では監理教(メソジスト)に参加者が多かったと言われています。

特に1937年の盧溝橋事件以降「皇国臣民ノ誓詞」が発せられ、総督府は公然とキリスト教会への神社参拝を強要しました。

この同化政策のためにとった参拝強要は、キリスト教にとっては偶像崇拝の強要にあたるとして朝鮮の長老派の一部の篤実な信徒が神社参拝を拒みました。但しカソリック及びメソジストは神社参拝は宗教儀礼ではなく国家儀礼であるとし、妥協して受け入れています。

1938年6月末、日本政府は同じ長老派系統の日本基督教会大会議長富田満を派遣し、朱基徹(チュ・キチョル)牧師ら朝鮮の長老派を説得させました。

「神社参拝は宗教ではない」と主張する富田に対し、朱基徹は「神社参拝は十戒に反する偶像崇拝」だと答えました。その後朱基徹は刑務所に送られそのまま死去したため殉教者として知られています。

朝鮮の教会は、数十名の牧師が投獄、拷問に遭い殉教し、多くの信徒が投獄され、多数の教会が閉鎖されたと言われています。

しかし、日本統治時代は、1937年以降の戦時下で神社参拝や皇居遥拝の強制がありましたが、総じて李王朝時代より格段に信教の自由が保証され、特にプロテスタントは大きく伸び、当時のキリスト教徒は、人口比で2%に及んだと言われています。

ただ、1937年の盧溝橋事変以降日中戦争が始まり、特に1940年以降に顕著になった皇民化政策の影響で、反抗するキリスト教徒への弾圧がかなりあったことは否定できません。

以上のように、韓国のキリスト教は、李王朝の1784年から解放の1945年まで、多かれ少なかれ、試練の中におかれていました。

以上の通り、李氏朝鮮時代と、日本統治時代のキリスト教について見て参りました。次回は、引き続き大戦後(解放後)の急増したキリスト教について、特に「韓国は何故キリスト教国になったか」を考えることにいたします。(了)



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