top of page

​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

創世記 註解① 罪の根源 創世記3章の解釈について

🔷聖書の知識58-創世記註解①-罪の根源―創世記3章の解釈について

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。(創世記3.6)

UC創始者は、み言集によれば8つの分野に精通しているチャンピオンだと言われています。即ち、神、サタン、人間、霊界、イエス、聖書、歴史、真の家庭、についての認識において最高峰に位置するというのです。その中でも、聖書の奥義を解明され、聖書を完全に解釈されたことは最大の業績だと言えるでしょう。そして特に創世記は、人類歴史の雛形が象徴的に記録されてる書であり、聖書の根幹となる奥義が秘められた書であります。


そこで今回から創世記注解として、創世記の奥義を紐解いていきたいと思います。前回まで6回に渡り、神について考察してきましたので、今回は創世記3章1節の蛇に象徴されるサタン(悪魔)、及び罪の根源について、比較宗教の視点を加味して考えたいと思います。        

[仏教の罪の観念]

人間世界の不幸、災難、争いは何故起こるか、人間の罪はどこから来たのか、その原因はなにか、これを探求してきたのが宗教であります。先ず、仏教は罪の問題をどう考えているかを見ていきます。

<煩悩>

仏教には「煩悩」という人間に内在する苦の原因があるという思想があります。

煩悩とは、悟りを妨げ苦をもたらす内在する性質で、「自己中心の思考」から生じる心の動きだとしています。人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、これを克服する解脱・涅槃への道が求められました。

そして煩悩の根本は、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の3毒だといいます。

貪は貪り(むさぼり)とも言われ「欲しいものなどに対して執着する欲望」、瞋は「怒り、憎しみ、妬み」を意味し、痴(痴愚)は「真理を知らず、物事の理非の区別がつかないこと(無明)」を意味します。三毒の中でも特に痴、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明が最も根本的なものであると言われています。ちなみに貪の五欲とは、私たちの根本的な欲求を意味し、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲と言われています。           

一方神道では、人間の罪穢れや不浄は塵や埃のように人間に外から付着するもので、禊(みそぎ)と祓(はらい)によって払い除けるという思想があります。この点仏教やキリスト教では、煩悩や原罪は人間に深く内在し、修行や信仰によって克服していくものとされています。仏教の考え方は、救いの観念こそ違いますが、キリスト教の原罪内在論と軌を一にしていると言えます。                      


<煩悩を解決する方法>


仏教は、一切の存在を「苦」と観じ(一切皆苦)、「無常」と観じ(諸行無常)、「無我」と観じ(諸法無我)、無常なものに執着するところに苦が生じるとしました。いわゆる「空」の思想です。

煩悩から来る苦の原因は「無明」(真理を知らないこと)にあるとし、その克服は、「八正道の実践や座禅・唱題」 によって悟りを開き、解脱してカルマ(業)と輪廻から解放されて涅槃の境涯に達することであるとします。 

八正道とは①正見 ②正思 ③正語 ④正業 ⑤正命(正しい生活)⑥正精進 ⑦正念 ➇正定(禅定)の8つをいいます。仏教には、四諦(したい)の教えがあり、四諦とは、①苦諦(人生を苦と観ず)、②集諦(苦は欲望・我執・渇望から来る)、④滅諦(欲望の消滅、執着を断つ)、④道諦(悟りに導く実践)をいい、この道諦の中身が八正道というわけです。

出家者の修行は「苦行」ですが、在家者の修行方法は、八正道、禅定・念仏・題目などで「易行」となります。また在家者の戒とは三帰依・五戒といわれ、三帰依とは仏・法・僧を大事にすること、五戒とは、殺生戒、偸盗戒、邪淫戒、妄語戒、飲酒戒をいいます。

易行として、道元は只管打坐、親鸞は念仏、日蓮は題目を挙げました。これらは主に大乗仏教が採用しています。

一方苦行ですが、宗教は何故肉体を打つのか、苦行をする理由とは何か、が問題になります。何故苦行が必要なのかと言えば、悪魔は肉体を通して侵入するとの観念があり、肉体を打つことによって精神性を高めるという考え方があるからです。従って仏教では、出家制度があり、妻帯、肉食を禁じ、禁欲的生活を奨励してきました。小乗仏教が、この行き方を取っています。

<煩悩の原因とは何か>

しかし、煩悩が何故生じるかという煩悩の原因については、仏教は明らかにしていません。本来、清浄な人間の心に「偶発的に付着した」と説明しますが曖昧です。つまり、罪はあるがその原因が不明だということです。

日蓮も「一切衆生はかの魔王の眷属(子孫)なり」と言いましたが、魔王(悪魔)とは何かについては説いていません。悪魔は、天上界(霊界)の霊的存在か、内在する悪的要素か、悪魔とは何かについて仏教は説明していないのです。また釈尊の教えは、解脱の道を説いていますが、神の存在、霊界の存在、煩悩の原因、この3つについては曖昧になっています。 

しかしヒントはあります。釈迦は35歳で菩提樹で禅譲し悟りに達する直前、マーラ(悪魔)から3つの試練を受けたと言われていますが、その最初の試練が美しい女人の誘惑だったと言われています。これは失楽園の蛇の誘惑を連想させ、煩悩の真相を暗示しているかのようです。

マーラとは、釈迦が悟りを開く禅定に入った時に、瞑想を妨げるために現れたとされる悪魔、魔神で、煩悩の化身であります。マーラにとって、釈迦が悟りを開く事は自身の破滅につながるので3つの試練を与えました。即ち、a.女性の官能的試練(愛欲)、b.栄耀栄華の試練、c.大軍による死の試練であり、釈迦はこれらを退けました。これはイエスの3大試練(マタイ4章)に類似し、イエスは、申命記6章13節、6章16節、8章3節の3つの聖句でサタンを退けたと記されています。

日本においては、マーラが釈迦の修行の邪魔をした故事から、修行僧達が煩悩の象徴として男根を「魔羅」(マラ)と呼ぶようになったといい、現在では一般社会でも同様に隠語として使用されています。


またギリシャにバンドラの箱という神話があります。パンドラの箱とはゼウスが地上に送った最初の人間で、この美女パンドラという女性が災いの元になったという神話です。

ゼウスは、パンドラを地上に送る際に、あらゆる災厄が入った箱を持たせ、決してこの箱を開けてはならないと命じました。しかし、パンドラは好奇心で禁じられていた箱を開けてしまって、途端に中から「病気、盗み、ねたみ、憎しみ、悪だくみなどのあらゆる悪が、人間の世界に飛び散る」ことになったという神話であります。但し、箱には希望だけが残ったと言われています。そしてゼウスから開けることを禁じられていた禁断の箱とは、女性の愛の器官、即ち性的な「貞操」だったといわれています。

[神道の罪の観念]


次に神道の罪の概念について考えます。

<ほこりのようにとり憑く穢れ>

神道は清浄を重んじ、穢れや不浄を忌み嫌い、前述のように、罪は外からやってきて体に塵や埃のようにとり憑くとの思想があります。これを禊(みそぎ)、祓(はらい)によって取り払うという伝統があります。

しかし次のような古事記の神話には、罪の根源が何であるかが暗示されています。

先ず聖なる結婚において、イザナギとイザナミの最初の交わりの失敗です。イザナミが先に「まあ、素敵な男だね」と発言し、「女が男より先に誘ったのは良くない」となり、その失敗の子が障害児の水蛭子でありました。そういえば、ダビデとバテシバの不倫の第一子も病弱で死んでいます(2サムエル12.18)。また古事記には、イザナミが火の神を産み、それによってい「陰部(ほと)が焼けて死んだ」という記述があり、これらの記述は罪の原因が男女問題に関係していることを暗示しています。


そしてイザナミを慕って黄泉(よみ)に赴いたイザナギが、黄泉から逃げ帰って川で黄泉の穢れを禊いだという神話がありますが、これが禊の儀礼の始まりと言われています。  

<神道の特徴>

さてここで、禊と祓によって罪穢れを取り払うという思想を持つ神道の特徴について、少し述べておきたいと思います。


神道には教祖、教義、戒律の宗教の3要素がなく、「儀式と祭り」が中心になり、自然と祖霊を崇拝し、何よりも共生と和を重んじた自然宗教であります。また本居宣長が述べたように「世の常ならずすぐれたる徳のありて畏き物」を神と仰ぎ、神話や土着の神々、自然や祖霊の神々の霊は木、石、山、鏡、剣などの依り代にして宿るとしてきました。

神道学者の菅田正昭(すがたまさあき)氏は、「神道は日本人の日常生活に深く溶け込んでおり、その存在にさえ気が付いていない目立たない存在である」とし、「神道の信者にとって、崇拝するものさえ重要ではなく、同一神社においても祭神はしばしば入れ替わることがあり、神を祀り祈る人々に定かに知られていないことさえある」と指摘しています。

また宗教学者の逵日出典(つじひでのり)氏は、「庶民にとって神も仏もない。五穀豊穣、疫病徐去、家内安全、商売繁盛といった願い事を聞いてくれるなら神でも仏でもいい」と語りました。これらは日本人の宗教観を象徴しています。

つまり、神道は着替人形のように、そのつど仏教や儒教の衣装をまとって習合してきた融通無碍な宗教であります。しかし、清浄思想など根幹の神道的霊性(一種の日本的霊性)は変わることなく、古代からその霊脈を引き継いでいます。

[キリスト教の罪(原罪)に関する従来の解釈]

さていよいよキリスト教の罪に関する解釈です。ユダヤ・キリスト教には、「アダムの犯した罪が全人類に及ぶ」とするいわゆる「原罪」の概念があります。

創世記3章の失楽園の物語は、人間の堕落を描いた聖書の箇所であり、キリスト教における原罪観念の基礎になっている神話ですが、多くの議論がある厄介な論点であります。創世記3章に出てくる「蛇」とは何か、「善悪の木の実」とは何か、「堕罪の原因」は何か等、堕落の根本が暗示されている失楽園の神話を明らかにすることは死活的に重要です。


楽園のアダムとイブ (ルーベンス&ヤン・ブリューゲル画)


<蛇とは何か>

従来のキリスト教の解釈では、蛇は文字通りの動物ではなく、「堕落した天使」(ルーシェル=サタン)を象徴するとし、アダム・エバが堕落する以前に既に堕落していた霊的存在としています。ただ、文字通り動物の蛇と解釈する説もあります。

キリスト教の伝統によると サタンは、元々「ルシファー」という名の、神に仕える御使いであり、彼は多くの天使を率いる十二枚の翼を持った美しい大天使長であったともいわれています。しかしある時神に敵意を示し、自分に賛同する天使達を集めて、大天使ミカエルの率いる神の軍団との戦いを開始し、最終的に敗北し、ルシファーとそれに従う天使の三分の一は天から投げ落とされてしまったといい(創世記12.4)、この堕落したルシファー(サタン)が蛇として象徴されているとしています。

黙示録12章9節「年を経た蛇(サタン)は天から地に投げ落とされた」、2ペテロ2章4節「罪を犯したみ使い」、ユダ6節~7節「おるべきところを捨てた御使たち」などが聖書の根拠です。

しかし、天使がいつ堕落したかは不明とされ、ヘンリー・シーセンも「聖書はこの点について何も語っていない」とし、また、いつ堕落したかについて、「天使の堕落が人類の堕落以前にあったことは明白であるが、いつの時点かは断言できない」(シーセン組織神学P322)としています。

<天使の堕落の原因とは何か>

天使の堕落の原因とは何かについて、いくつかの見解があります。先ず、天使は自ら神のようになろうとした「傲慢」によるとするものであります(イザヤ14・14)。これは伝統的解釈で、ラインホルド・ニーバーは根源的な悪(原罪)を自己中心性を持つ傲慢に見ました。シーセンも神のようになろうとした傲慢と自己中心に見ています(組織神学P323)。

また、神の支配権の正当性への疑問から神と敵対した(イザヤ14.13)、即ち神への「不従順」とする説もあり、また、エバと戯れて幸福に見えるアダムへの「嫉妬心」(聖書外伝)とか言われたりしていますが、結局、天使の堕落の原因は「神学の深い神秘の一つ」とされています(シーセン組織神学P322)。

更にヘンリー・ジェーコブスは、天使の堕落について、先ず天使の頭が堕落しサタンになり、次に彼に同調する天使がそれに従ったとし、天使の堕落が悪の起源と関係していると見られるが、これについては説明できない、としています(キリスト教教義学P100)。

また創世記1章1節と1章2節との間に天使の堕落が起こったとする見解(ギャップセオリー)もあり、シーセンはこの説を採用しています。いずれにせよキリスト教では、創世記3章でエバを誘惑した蛇は、その時既に堕落していた堕天使と見ており、天使の堕落の原因とその時期については、実際のところ分からないとしているのです。

<善悪を知る木の実とは何か>

善悪を知る木の実とは何か、これには多くの解釈があります。りんご(ミルトンの失楽園)、ブドウ(第三バルク書に記載)、イチジク(女性の多産・性的象徴)、などの多くの解釈ありますが、確定したものではありません。

一方、原罪淫行説の系譜があり、淫行説はラビの間では一般的だったと言われており、旧約外典・偽典の「アブラハムの黙示録」では堕落の原因を肉欲と記しています。また「アダム記」「モーセの黙示録」ではサタンがアダムとエバを羨んで誘惑し性的堕落をしたとし、「アダムの生涯」にはサタンの嫉妬を細かく描写し、アウグスチヌスも原罪を性欲の問題と結びつけました。   

<エバの堕落の原因とは何か>

エバの堕落の原因とは何かについても、過分な欲望、利己的愛、道徳的未熟性、自由意思などの諸説があります。シーセンは、神に背いた自由意思の行為によって堕落したのではないかとし、「罪というものは、本質的に非合理なものであるから、理性に基づいて説明することは不可能である」(シーセン組織神学P409)と述べています。

こうして見ると、結局キリスト教では、原罪の本質について明確な答えはなく、漠然としたことしか分からないのが実態であります。

<神が禁断の実を置かれた理由>

次に、神は何故堕落の可能性がある禁断の実を置かれ、何故戒め(ルール)を与えられたのか、その理由とは何かという問題です。

神が何故禁断の実を置かれたのかについては、やはり様々な説がります。自由を与えんがため、守護せんが為、試すため、神の権威を示すため、などであります。理論物理学者で神学者のポーキングホーンは、「神の操り人形の劇場に過ぎない世界を創造することは、その意思に反することである」と述べ、人間の自由意思を尊重したとしました。

<創世記3章の背景>

結局キリスト教は、堕落の原因について明確な回答を保留してきました。そして創世記3章章が書かれた背景には、古代メソポタミアの偶然崇拝や性的乱れへの反発や警告の意味があったと言われています。

即ち、古代メソポタミヤでは多産豊穣の女神アシュラ(すべての母たるエバの象徴)が崇拝されており、神殿娼婦がその代理となって多産豊穣の象徴としての性行為(性的恍惚によって神と人が交わる)が行われていました。創世記3章はBC850年ころに、ヤハウイスト資料(J資料)に基づきまとめられたと言われていますが、古代メソポタミヤの神話モチーフの影響を受けると共に、前記したように、その異教性への反論、警告の意味が込められていると言われています。


[原理による創世記3章の解釈]

最後に創世記3章の失楽園の神話を、原理はどのように解釈しているかを吟味していきたいと思います。

<命の木、善悪を知る木とは何か>

先ずエデンの園の中央に生えていた「命の木、善悪を知る木」とは何でしょうか。

聖書では、木は人の象徴(ヨハネ15・5ぶどうの木、ロマ11・17オリブの木)とされていました。そして命の木に至ることは、古来から人間の願望であり(箴言13・12、黙示22・14)、従って生命の木とは、神の創造理想を完成した男性(アダム)の比喩だというのです。

そして命の木と対で隣に生えていた「善悪を知る木」とは神の創造理想を完成した女性を象徴するのです。創造のペアシステムの原理によって、神は人を男と女に創造されました。

<蛇とは何を象徴するか>

ては、エバを誘惑した蛇とは何でしょうか。これはキリスト教も指摘している通り、堕落した天使の象徴であります。天(霊界)にあり、人間と会話ができ、神のみ旨(意図)を知っている存在は天使しかいません。この天使がエバを誘惑し、この時エバと共に堕落して悪魔(サタン)になったというのです。(黙示12・9年を経た蛇、2ペテロ2・4罪を犯したみ使い、ユダ書おるべきところを捨て去ったみ使い)

しかしこの蛇(悪魔)は宇宙創世以前から神と対立する存存として存在していたのではありません。もしそうであれば善悪二元論(マニ教、グノーシス主義)に陥り、闘争歴史は必然のものとして永遠に続くことになり、一元論は崩壊いたします。

即ち、もともと天使は善なる被造物として人間より先に創造された存在であり、天使の主たる役割は、頌栄、使い、仕える霊でありました。(仏教では天人と呼んでいます)

<天使と人間(エバ)の堕落の動機と原因>

天使の犯罪は淫行であると聖書は語っています(ユダ書6~7み使いの淫行)。ルーシェル(明けの明星、イザヤ14・12)は、もとも天使長の位置にあり、天使世界の愛の基にあって神の創造の業を讚美し協助しました。

しかし天使は、ブドウ園の譬え(マタイ20・1~15)にあるように、人間への愛の減少感(愛を比較した)からアダムに嫉妬してエバを誘惑し二人は関係することになりました。原理では霊的存在である天使との性関係なのでこれを「霊的堕落」と呼んでいます。  

このエバとの不倫の関係によって、この時エバと共に天使は堕落しました。従って、「天使の堕落が人類の堕落以前にあったことは明白である」とするシーセンの説は退けられなければなりません。

霊的堕落したエバは天使長がエバを誘惑したように、今度はアダムを誘惑しました。これが実体の「肉的堕落」です。このようにエバは霊肉二重の堕落をしたことになります。

禁断の善悪の木の実を取って食べたこと、これが人間の淫行だったことを聖書は暗示しています。アダム・エバは裸でいることに気づいて恥ずかしく思い、下部をイチジクの葉で隠した(創世記3.7)と記述し、また時ならぬ時に、時ならぬことを知り、神の顔を避けて隠れた(創世記3.8)とあります。

その実を食べれば死ぬと戒められたにも関わらず、その死を乗り越える行為は、原理・原則よりもっと強い愛の力以外には無いというのです。歴史的に、愛はもともと聖なる尊いものでしたが、転落して卑しいもののように看做されてきました。

かくして天使と人間の間に不倫の愛、淫行が成立しました。(ヨハネ8・44悪魔から出てきた、マタイ3・7マムシの子)

ちなみに人間と霊的存在との間における感性は、実体的な存在の間における感性と少しも変わるところろがないといいます。地上人間が霊人と結婚する例が多々あり、また町の民が天使をみて色情を起こしたとある通りです(創世記19.1~5)。

人間は、母の胎中、地上生活、霊界での永生、という3世界を生きるようになっており、霊界は実在する世界で、人間が安着する最終地です。

そしてすべての高等宗教は、姦淫を最大の罪と考えできました。仏教、ユダヤ・キリスト教、イスラム教、ヒンズーなど高等宗教は、姦淫、不倫、同性愛に厳しい刑罰を要求しています。モーセの十戒にも「姦淫するな」とあり、キリスト教は情欲を戒め純潔を第一に掲げています。この情欲の問題は、人間に最後までつきまとう、いかんともし難い最大の難問であります。

<善悪の実とは何か>

上記から、善悪の実とはエバの愛、エバの貞操を意味し、これをとって食べるとは性的血縁関係が結ばれたことを意味するという結論が導かれます。これが原罪の発生であり代々遺伝的に受け継がれてきました。

この事実は、罪は血統的因縁(原罪)を持って遺伝的に代々受け継がれてきたこと、全ての高等宗教は姦淫を最大の罪とし禁欲生活を強調したこと、個人的にも社会的にも淫乱は解決出来ない最後の犯罪(悪習)となっていること、国家滅亡の原因に女性がいたこと、ユダヤに悪の血を抜く割礼という風習があること、そして上述した淫行を暗示する聖句の根拠があること、などが証左であり、明らかであります。

以上が原理観から見た堕落の解明です。ヘンリー・シーセンが、天使の堕落の原因は「神学の深い神秘の一つ」と告白したように、数多の著名な神学者と言えども原罪の解明をなし得なかった事実を考えた時、この新しい福音の奇跡に驚くしかありません。

<神は何故禁断の木の実を置かれ、何故戒め(ルール)を置かれたか>

では神は何故人間に戒めを与えられ、自らこれを守って創造目的を完成させるようにさせられたのでしょうか。それは、人間自らが神の創造に加担することにより、創造性を付与し、そして万物の統治者(主管者)の資格を付与して、完全な神の恵みの相続者にするためであったと原理は言っています。

これこそ責任分担論の思想です。この戒め(責任分担)は、成長期間を過ぎて完成するまでの時限律法であったといわれています。人間には「成長期間」(神の間接主管圏)があり、戒めを守るという「責任分担が」あったというのです。

この責任分担論は、神義論に終止符を打つ教理であり、UC創始者は次のように語られました。

「人間の責任分担というこの明確な思想的根拠によって、蕩減復帰という最も嫌な怨恨の述語がでてきました。有史以来、責任分担を完成した人はいない、そもそも責任分担自体を知らなかった」

<自由と堕落の関係>

また、人間は自由によって堕落したという自由意思論があります。しかし、人間は自由によって堕落したのではなく、むしろ本心の自由が間違った愛によって拘束されたことによるというのが原理観です。

自由には責務が伴い、むしろ本心の自由は神の戒めを守ることを欲したのです。この自由に関する原理観は、上記責任分担論と並んで、従来の自由意思論を克服する偉大な思想であります。

<堕落の結果、人間はどうなったか>

堕落の結果、サタンが支配する人間と世界になったというのです(ヨハネ8・44マムシの子)。

そして人間は堕落的性向を持つようになり、原罪(罪の根)を始め、遺伝罪(罪の幹、先祖の罪)、連帯罪(罪の枝)、自犯罪(罪の葉)という4つの罪を持つようになりました。

[カトリックが原罪淫行説を否定した理由]

さて、カトリックは「淫行堕罪説」を内心認めながらも、敢えて淫行堕罪説を否定しました。何故なら、解決策なき淫行堕罪説は、即ちキェルケゴールのように「結婚出来ない説」になるからです。解決策なき原罪淫行論は、かえって人間を不幸にするという現実がありました。結局その論理的帰結として、結婚を否定せざるを得なくなるからです。

またキリスト教のマリアの処女懐胎説と同様の脈絡で、キリスト教の防衛、信徒の守護という側面があり、またグノーシス主義、マニ教など極端な禁欲主義への反論という側面もあったと言われています。

こうしてカソリックは、信徒の結婚を守るために、淫行堕罪説を否定し、聖職者、修道者、修道女のみ独身制を死守しました。その意味でも、神の仲介と祝福による解決の道が待たれるところです。

以上、今回は罪の根源、堕落の原因について、各宗教との対比を加味し、創世記3章を読み解いてきました。この上記堕落と罪の解明は、キリスト教、仏教を始め如何なる宗教も明らかに出来なかった最大の奥義であると言えるでしょう。たまたま道端を通りがかった私たちが、この人類史の最終章に遭遇し、かってだれも知り得なかった聖書の奥義に出会えたことは奇跡中の奇跡というほかありません。

さて神学は結局、神、罪、救いの3点に集約されると言われますが、次回はいよいよ「救いの摂理」について、創世記に沿って見ていいきたいと思います。(了)

bottom of page