時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 12:2わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。12:3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12.1~3)
いよいよ創世記12章からイスラエルの歴史が始まります。つまりイスラエルの父祖となったアブラハムの召命です。創世記1章から12章までは人類全体を対象とした救済摂理でしたが、12章からは一人の個人、一つの民族を選民として立て、神の救済摂理の中心を担わされました。いわば新しい神の救済方法の始まりであります。
アブラハムはヘブライ語で「多くの父」という意味であり、創世記17章8節にある通り、名をアブラムからアブラハムへと改名されました。アブラムは「高められた父」を意味し、アブラハムは「多くのものの高められた父」を意味します。(以下「アブラハム」と呼ぶ)
確かにアブラハムはユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信仰する「啓典の民」の始祖であり、ノアの洪水後、神による人類救済の出発点として選ばれ祝福された最初の預言者で「信仰の父」とも呼ばれています。アブラハムはメソポタミア地方カルデアのウルにおいて偶像商を営むテラの子であり、神はこのアブラハムを、当時、月神礼拝(偶像礼拝)の中心地だったウルから呼び出されました。
つまり失われた摂理的中心人物を、もと返して償うという「蕩減復帰の原則」により、サタンが一番愛する立場にいる偶像商から奪って来るという摂理でした。UC創始者は、「アブラハムを立てるために、多くの涙を流されたあと、神が始めて着地された」と語られました。
テラは、その息子アブラハムと、孫でアブラハムの甥に当たるロト、およびアブラハムの妻でアブラハムの異母妹に当たるサライ(創世記17.15以降サライから多くの人の王妃を意味する「サラ」に改名)と共にカナンの地(ヨルダン川西岸、現在のパレスティナ)に移り住むことを目指し、ウルから出発しました。しかし、途中のハランにテラ一行は住み着くことになります。
[アブラハムの召命とカナン到着]
そしてアブラハムは父テラの死後啓示を受け、それに従って、妻サライ、甥ロト、およびハランで加えた人々とともに約束の地カナン(パレスチナ)へ旅立ちました。アブラハム75歳の時のことでした。(創世記12.7~3)
アブラハムは一族郎党を引き連れて、ひたすら示された地へ向かいましたが、しかし、ただ「私が示す地」との神の約束があるのみで、行く先知らずの旅でした。「行く先も知らずに出発をしたのです」(ヘブライ11.8)とある通りです。
アブラハム一行がカナンの地に入ると、シケム(エルサレムの北方約50km)で神がアブラムの前に現れ、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」(創世記12.7)と啓示されました。そして最初の祭壇(創世記12.8)をシケムに築いています。
<神の顕現>
アブラハム物語には、上記創世記12章7節の他に、神が直接顕現された箇所が5箇所あります。
「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。17:2わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう」(創世記17.1)
「主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていた」(創世記18.1)
アブラハムと三人の天使 (レンブラント・ファン・レイン画)
「その時、主は彼(イサク)に現れて言われた、エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに示す地にとどまりなさい」(創世記26.2)
「その夜、主は彼(イサク)に現れて言われた、わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」(創世記26.24)
「さてヤコブがパダンアラムから帰ってきた時、神は再び彼に現れて彼を祝福された。 神は彼に言われた、『あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい』」(創世記35.9~10)
<祭壇の伝統>
そして神の救いの摂理において、人間が祈りを捧げ、神の前に出ていくための祭壇は重要な意味を持ちました。アベルの祭壇(創世記4.3)、ノアの祭壇(創世記8.20)、そしてアブラハムの祭壇です。
祭壇は、モーセ以後は幕屋になり、ソロモンから神殿になりました。これは、神道において、古代は木や岩などを依り代として祭壇にしていましたが、仏教の伽藍に刺激され恒常的な祭壇である神社が造られていった歴史と似ています。
そしてアブラハム物語には、上記アブラハムによるシケムでの最初の祭壇(創世記12.8)の他に、5箇所祭壇を築いた記録があります。
「アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた」(創世記13.18)
「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた」(創世記22.9)
「それで彼(イサク)はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った」(創世記26.25)
「(ヤコブは)そこに祭壇を建てて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた」(創世記33.20)
「彼(ヤコブ)はそこに祭壇を築き、その所をエル・ベテルと名づけた」(創世記35.7)
[エジプトへの旅]
その後、ネゲブ地方(カナン南部の高原性乾燥地帯)が飢饉に襲われたため、アブラハム一行は揃ってエジプトへ避難することになりました。(創世記12.10~20)
見目麗しい妻サライが原因で自分に危害が及ぶのを回避するため、妻サライを自分の妹と偽ることになります。(実際、サライは、アブラムの異母妹であった)
そのサライがエジプト王の宮廷に側妻として召し抱えられたため、アブラハムはパロから花嫁料として家畜や男女の奴隷など多くの財産を貰い受けました。(後のエジプト女ハガルはこの時に貰い受けたのではないかと言われています)
しかし神は介入され、アブラハムの妻サライがエジプト王の妻とされたことでエジプト王および王家を災害で痛めつけられました。エジプト王は、サライがアブラハムの妻であることを知り、神を恐れサライを返しアブラム一行を所有物と共にカナンの地へ送り出しました。
以上がエジプトへの旅の顛末です。この項についてキリスト教の従来の解釈では、サライを妹と偽ってパロに妻を差し出したことに関して、これをアブラハムの失策、恥ずべき汚点と考えています。あるいは、解釈不能の難解な箇所としてお手上げになっています。
しかしこの難解な聖書の奥義を、原理は以下の通り明快に解きました。
アブラハムは、第一人間始祖であるアダムの立場、第二人間始祖たるノアの立場を復帰しなければならなかったので、(三種の)象徴献祭の中心人物たる立場に立つために、先ずアダムの家庭の立場を復帰する象徴的蕩減条件を、立てなければならなかったというのです。
それが妻サライを一旦パロに奪われた立場から取り戻すという摂理でありました。即ちアダムとエバがまだ兄妹であった時、天使長がエバを奪っていったので、逆に天使長の立場のパロから妻を奪い返すことによりアダム家庭で失われ立場を回復したという訳です。
そして同時に、全人類を象徴するロトと、万物世界を象徴する財物を取り返したのです。(創12.20)
エジプトに下るこのアブラハムの道行きは、霊妙な神の霊感の中で導かれものであり、こうしてアブラハムは、自分でも知らずに、アダムの家庭の立場を蕩減復帰する象徴的な条件を立てることが出来ました。そしてこのような一貫した摂理観をもって解釈した神学は未だかってなく、神の啓示による奇跡的な解明という他ありません。これこそ聖書の奥義の解き明かしであります。
[アブラハム契約について]
カルビンは、アブラハムに始まる契約こそ本来の契約、すなわち、選民としての「召し」に基くものとして把握しており、筆者もその流れを支持いたします。
<土地と子孫と祝福の約束>
創世記のアブラハム物語には、神が無条件に何度となくアブラハムに約束(契約)をされています。即ち、アブラハムをカルデヤのウルから導き出した主が「土地の約束」、「子孫繁栄の約束」、そして「祝福の基」の3つの約束です。以下、聖書に沿って神の契約を見ていきます。
<召命>
「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される』」(創世記12.1~3)
<シケムにて>
「時に主はアブラムに現れて言われた、『わたしはあなたの子孫にこの地を与えます』」(創世記12.7)
<ロトと分離後>
「ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、『目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます』」(創世記13.14~15)
<戦いの後>
「そして主は彼を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』。また彼に言われた、『あなたの子孫はあのようになるでしょう』。 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世記15.5~6)
<血の契約>
「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、『わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで』」(創世記15.18)
<割礼の契約>
「『わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう』。アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、『わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである』」(創世記17.2~5)→イシマエル誕生後の正式な契約で割礼がしるしとなる
<イシマエル誕生後17.6~8>
「わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう。わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう」(創世記17.6~8)
<イサク誕生後>
「主の使は再び天からアブラハムを呼んで、言った、『主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、 わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ちり、 また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」(創世記22.15~18)
<契約の仕方>
さて、イスラエルの契約の仕方には、聖書に主4種類出てきます。即ち、手を交わす契約(エズラ10.10)、靴を交換する契約(ルツ記4.7~12)、塩の契約(レビ記2.13)、そして血の契約(15.10)です。
中でも血の契約は、違反した場合は血、即ち命を以て償わねばならず、最も強い契約であります。アブラハムに動物を二つに裂いて献祭することを命じられた次の聖句の「三種の供え物」はその典型と言えるでしょう。
「主は彼に言われた、『三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい』。 彼はこれらをみな連れてきて、二つに裂き、裂いたものを互に向かい合わせて置いた」(創世記15.9~10)
[アブラハムの義認]
創世記15章6節の「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」という箇所は、信仰生活における教訓としても、アブラハムの義認として有名な場面です。
この経緯について、アブラハムは神と次のように一問一答しました。
「アブラハムは言った。『あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう』」
「主は彼を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう』」
つまり、アブラハム夫婦には子がなく、妻サライは老齢で月のものもありませんでした。このように到底信じることが出来ない状況にあって、アブラハムは信仰によって神の言葉を信じたというのです。こうしてアブラハムは主を信じ、主はこれを彼の義と認められました。そしていよいよ三種の供え物の儀式に望んでいきます。
以上、今回アブラハムの召命からエジプトからの帰還し定着していくまでを見て参りました。神がアブラハムを召命され、幾度も顕現され、幾度も契約され、義とされた経緯を辿ってきました。
次回はアブラハム物語のクライマックスでもあり、最も難解な箇所とも言えるアブラハムの二回の供え物(三種の供え物、イサク献祭)について、キリスト教の解釈、及び原理観を対比しながら摂理的意味を考察していきます。(了)