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細川ガラシャとキリスト教信仰①

○つれづれ日誌(11月25日)ー細川ガラシャとキリスト教信仰(1)


散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ(ガラシャ辞世の句)


11月18日のNHK歴史秘話ヒストリアで、「戦国に生きた女性 細川ガラシャ 17通の手紙が伝える素顔」が放映され、筆者も見ることになりました。


実はこの夜10時ころ、知人信徒から「今夜10時30分からNHKで細川ガラシャが放映されるので見て感想が欲しい」という急な電話が入ったという訳です。日頃、テレビなどめったに見ない筆者でしたが、このリクエストに答えることにいたしました。従って、この書面を以て感想文としたいと思います。


さて筆者は以前から、明智光秀の本能寺の変が如何なる背景と動機で起こされたものか、そして父親が起こした事件に巻き込まれて、数奇な運命に翻弄された細川ガラシャは、如何なる経緯と動機でキリシタンになったのか、という2点に大変関心がありました。そこで今回から二回に渡って、この2点について論評したいと思います。 


[はじめに]


先ずはじめに、一つの驚くべき証をしておかなければなりません。元香港、ソウル世界日報特派員だった方から、アメリカのダンベリー刑務所(1984年7月20日~1985年8月20日)で聖書を読まれたUC創始者のレポートが届き、その内容に驚きと刺激を受けています。以下、創始者が金日成に会うため北朝鮮を中国経由で訪問(1992年11月30日~12月7日)された帰途における証言です!↓


「北京の後、私以外の日本人信者は全員帰国したのですが、私は文鮮明先生夫妻とともに中国に残り、広東省恵州の Panda自動車社に移動し、香港に抜けました。途中、恵州で置き忘れられていた文先生のアタッシュケースを、一行とは別に 3 時間遅れで私一人で運ぶことになりました。その先生のアタッシュケースの中には、先生がダンベリー刑務所の中で読まれた韓国語の聖書が入っていました。


その聖書には創世記から黙示録まで全ての行が赤鉛筆で線が引かれていました。裏表紙には韓国語で『開始1984 年 12 月 11 日午前 0 時、読了 1985 年 1 月 13 日 3 時 33分 34 秒』、『読むのに要した期間、33 日 3 時間 33 分 34秒』、さらに『神の御旨をすべて明らかした』と書き込まれていました。先生がこの聖書を読み通された期間は、御一人でダンベリーに残ってい られた期間でした」


筆者はこの衝撃的な証を知って、原理が聖書の奥義を明らかにしたものであり、創始者が如何に聖書を読み込まれ、聖書の奥義の解明に心血を注がれたかを再認識させられたものです。そして「聖書の研究を以て天職となす」という筆者の在り方が間違いではなかったことを再確認することが出来、これ以上の喜びはありません。まずは、これらを皆様とシェアしたいと思います。


[細川ガラシャの人生と信仰]


さて本題の細川ガラシャ(1563年~1600年8月25日)は、越前国で明智光秀と妻・煕子(ひろこ)の間に三女として産まれ本名を明智珠(以下、「ガラシャ」と呼ぶ)といい、細川忠興の正室であります。明治期にキリスト教徒などが彼女の洗礼名をとって「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれる場合が多いという訳です。ガラシャとは「神の恩寵」という意味です。


父・光秀の運命、キリスト教の弾圧、細川家の窮地。ガラシャは、自分の信じる大切なものが失われる中で、彼女の背負っていたものは何であり、そして如何なる決断をしたのでしょうか。

<ガラシャの履歴>


ガラシャは天正6年(1578年)8月、細川藤孝の嫡男・忠興に15才で嫁ぎました。織田信長の命令による婚姻「主命婚」でした。ガラシャは美貌の持ち主で、忠興は勇猛な武士でした。二人は仲睦まじく似合いの夫婦だったと言われています。


勝竜寺城で2年を過ごした後、天正8年8月(1580年)、夫忠興が丹後12万石を与えられたことから、丹後八幡山城、次いで宮津城に移ります。


天正10年(1582年)6月、父の光秀が本能寺の変で織田信長を討ち、その後の山崎の戦い後に没したため、「謀叛人の娘」となりました。


ガラシャは離縁されてもおかしくない状況でしたが、細川忠興は天正12年(1584年)まで彼女を丹後国の三戸野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉しました。この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原イト(公家・清原枝賢の娘、洗礼名マリア)らの侍女達でした。


当時、離婚となると妻は里方に帰されるのが普通でしたが、離婚しなかったのは、明智家がすぐに滅んだという事情もありますが、幽閉時代に男子二人を含む子を出産し、忠興の妻への愛情があったからではないかと思われます。


天正12年(1584年)3月、羽柴秀吉の執りなしもあって、忠興はガラシャを細川家の大坂屋敷に戻し、監視されました。この年に次男興秋が生まれています。子に、於長(おちょう:前野景定正室)、忠隆、興秋、忠利、多羅(たら:稲葉一通室)がいます。


<キリシタンとなる>


それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を熱心に信仰していたガラシャでしたが、キリシタンの高山右近からキリスト教の話しを聞いたり、夫忠興は、ガラシャに右近から聞いていたカトリックの話をして、その教えに心を魅かれていきました。


天正15年(1587年)2月、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会を訪問します。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、ガラシャは日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をしました。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べています。ガラシャはその場で洗礼を受ける事を望みましたが、この時は洗礼は見合わされました。


監視の中にあって再び外出できる見込みは全くなかったので、ガラシャは洗礼を受けないまま、侍女を通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいました。この期間に清原マリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせています。


しかし1587年7月24日に豊臣秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、ガラシャは宣教師たちが大阪を去る前に、大坂に滞在していたイエズス会士セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、「ガラシャ「(Gratia、恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けました。


バテレン追放令が発布されていたこともあり、九州から帰国した忠興は受洗を怒り棄教させようとしましたが、ガラシャは頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになりました。


忠興は「5人の側室を持つ」と言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになります。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に告白しました。キリスト教(カトリック)では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない。困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得しました。


<壮絶な最期>


慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣します。忠興は屋敷を離れる際「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていたといいます。


この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを拒絶しました。忠興の命もあり、また自分が人質に取られることで石田に敵対している夫忠興が苦境に立ち、夫の戦意が失われることを案じたというのです。


その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませました。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出しました。


その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清に自らの胸を突かせて介錯させ、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃しました。


この時の辞世の句です。


散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ


ガラシャの死の数時間後、神父のオルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬りました。忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャの教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬しました。


この諸大名の妻子を人質に取る作戦は、ガラシャの死の壮絶さに石田方が驚き、以後むやみに拡大することはなかったと言われています。


<逸話>


キリシタンの宣教師が彼女の性格を評したものや『細川記』に採録されている逸話を見ると、気位が高い、激しい性格の持ち主であったと言われています。しかしキリストの教えを知ってからは、謙虚で忍耐強く穏やかになったといいいます。


いったん事がある時は甲冑をつけ馬に乗り敵に向かっても、「私は男にさまで劣るまい」と語ったと言われています。また、ガラシャは美女であったとされ、仲のよい夫婦であり、細川忠興は、明智珠の美しさに見とれた植木職人を手討ちにしたという話もあります。


ガラシャ自筆の手紙は、計17点が確認されています。しかし署名だけはガラシャ自筆で、それ以外は側近が書いた手紙が混ざるとも推測されています。宛先の大半は小侍従で、文面からも彼女らに対するガラシャの深い信頼が伺えます。内容も豊富で、奥向の長として夫・忠興に対する気遣いや、使用人への扱い、上方への贈答や節句の準備の指示などが綴られています。


[信仰への経緯と動機]


以上が細川ガラシャの略歴ですが、さて、ガラシャは何故キリスト教に入信したのでしょうか。筆者は以下の要因を挙げたいと思います。


<キリスト教宣教の背景>


先ず、外的には当時のキリストの躍進という背景が挙げらるでしょう。キリスト教はかなり影響力を持ち、夫忠興の盟友高山右近もキリシタン大名として熱心なクリスチャンでした。


1549年ザビエルら8人一行の初期の宣教は、薩摩の島津貴久、大内義隆らの保護を受け、また府内(大分)では大友宗麟に謁見し、日本でのキリスト教布教の基礎を築きました。大名は、独自に南蛮人との交易の道を模索している真っ最中であり、その南蛮との窓口になりうるザビエルたちは、来日当初、大名たちから基本的に歓迎されたのです。


この過程の中で洗礼を受ける大名も出てきました。彼らはキリシタン大名と呼ばれており、特に有名なものとして大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、結城忠正、高山友照および高山右近親子(高槻城城主)、小西行長、蒲生氏郷などがいます。ザビエル宣教後、70年の間に80人に昇るキリシタン大名が出現したと言われています。(守部喜雅著「宣教史フロイスが記した明智光秀と細川ガラシャ」いのちのことば社P24)


日本人を「もっとも優秀で理性的な国民」であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼しました。それに応えて優秀な人材が積極的に日本に送られ、ルイス・フロイス(織田信長や豊臣秀吉と会見し、『日本史』を記す)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノなどのイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたりました。


日本における宣教方針は、指導者トップからの「上からの伝道」と、日本の伝統文化と生活様式を尊重する「適応主義」の二つで、日本人司祭や司教を養成して日本の教会を司牧させることを重視しました。この指針によって日本での宣教は順調に進み、ヴァリニャーノは日本人司祭の養成を急務とし、安土城下セミナリオ(初等神学校)をはじめ、各地にセミナリオ、ノビシャド(修練院)、コレジオ(大神学校)を設置しました。


特に織田信長が1568年に京都に入ると事情は一変し、信長はルイス・フロイスらに京都での布教を認め、教会が教会学校(セミナリオ)を作られるようになりました。信長はフロイスに17回も会って話を交わし、自らも教えを聞いたと言われています。


これらキリシタン大名の影響もあり、キリシタンの数は1600年ごろには50万人にも達し「キリシタンの世紀」と伝えられています。当時の日本の人口は1500万人~2000万人くらいだったので、キリスト者の割合はかなり高かったと言えるでしょう。


キリシタン大名の中には鉄砲や貿易による利益への関心からキリシタンになった者もいましたが、高山右近のようにこの世での不利益を受けながら信仰を貫いた大名もいました。また代表的なキリシタン大名である大村純忠・有馬春信・大友宗麟の三大名は、巡察使ヴァリニャーノの勧めにより、1582年に天正少年使節をローマ教皇の元に派遣し、1585年にローマ教皇グレゴリウス13世に謁見しました。


以上のように、ガラシャの入信の背景として、当時の武士階級には、かなりキリスト教を受け入れる土壌があり、これを無視することはできません。身近にキリスト教の教えに接する機会があり、そういった中でガラシャもキリスト教に触れたと思われます。戦国という弱肉強食の、殺伐とした信じるものなき無常の時代に、多くの人々は信ずべき真実をバテレン(宣教師)らの説く変わらざる神に見いだしたのでありましょう。


<父の謀反と人生の無常ー入信の内的動機>


次にガラシャが入信した内的動機ですが、これについて考えていきたいと思います。


なんと言っても父明智光秀の本能寺の謀反は19才のガラシャに深い衝撃を与えました。謀叛人の娘というレッテルは、特に戦国の世にあっては決定的です。


明智光秀は、当然、親戚である細川藤孝と細川忠興に、味方するよう書状を送りましたが、細川藤孝はこれを拒否し、藤孝は剃髪して幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と号して田辺城に隠居し、忠興に家督を譲っています。ガラシャの立場は困難を極めました。


ガラシャは、この父の謀反に遭遇し、人生の無常や運命の非情を深く考えたと思われます。「人生とは何か、人間とは何か」といった人間の本質に思いを馳せ、無常なる世に不変なるものを探したに違いありません。そしてこれらは、キリスト教への大きな内的動機になったことでしょう。また、1586年、細川忠利(幼名・光千代)が生まれましたが、生まれつき病弱で、ガラシャは日頃から心配していたと言われています。


そして大きな影響を受けたのは夫から紹介された高山右近との出会いです。幽閉前、ガラシャは右近からキリスト教の教えの手ほどきを受けています。またキリシタンの侍女清原イト(洗礼名マリア)の話しや、右近と無二の親友である夫からも、右近の話しについて聞き、大いに惹かれるものがありました。


一方、夫は珠の丹後幽閉の期間に大阪屋敷には5人の側室を住まわせ、側室に子を産ませていました。また、ガラシャの帰還後はガラシャへの執着から半ば大阪屋敷に幽閉されるという窮屈な中にあって、天性の宗教心の持ち主であるガラシャが、魂の救いや不変の神を求めるようになるのは時間の問題でした。


遂にガラシャは、1587年2月11日、細川忠興が豊臣秀吉の九州征伐で出陣すると、彼岸の時期である事を利用し、侍女数人と供に身分を隠して教会を訪問しキリスト教の門を叩くことになりました。


以上、今回は細川ガラシャの人生路程の概略、そしてキリスト教に入信するまでの経緯とその背景について見てきました。次回は、ガラシャの洗礼と信仰、信長のキリスト教保護と秀吉によるキリシタン追放、そしてガラシャの自刃、更に父光秀の謀反の真相について考察していきます。(了)








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