◯つれづれ日誌(令和5年11月29日) 佐藤優著『池田大作研究』(朝日新聞出版)を聖書観で読み解く① 池田氏の生い立ちと絶対平和主義の検証
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(2コリント5.17)
先だって筆者は、UC解散請求の要件に「民法の不法行為も入る」という従来の政府解釈を、岸田首相が一夜にして変更したいきさつについてのパンフレットを作成し、広くその理不尽さを啓蒙したいという打診を受けました。即ち、岸田首相に「関係省庁全体で議論して変更したことにすればいい」と嘘の答弁を指南した立憲民主党の小西洋之参議院議員を糾弾するパンフレットを作りたいということでした。勿論、筆者は大賛成です。
筆者は、岸田首相のUC解釈命令請求を受けて、a.解散請求の不当性を訴える啓蒙、b.信教の自由を守る宗教者の連帯、c.拉致監禁・強制改宗の実態啓蒙、の3点が特に重要であることを主張してきましたが、これらの啓蒙集会は富山・福岡・新潟などで行われ、また二世のシンポジウムも開催され、松戸駅・京都駅などでは街頭啓蒙がなされているようです。これらの運動が速やかに全国に広がることを祈念いたします。
【巨星墜つ】
さてこの11月15日、創価学会の池田大作名誉会長が逝去されました(95才)。創価学会では、池田大作氏は、牧口常三郎、戸田城聖と並んで「永遠の師」と位置付けられて神格化され、「池田本仏論」も登場するほど絶大な影響力を死にいたるまで持ち続けました。
そこで、キリスト教徒でありながら、池田大作氏と創価学会をかなり肯定的に捉えている佐藤優氏が、『池田大作研究』(朝日新聞出版)という558頁の本を出版されているので、この本を「聖書観(原理観)で読み解く」という視点で、池田大作及び創価学会について、その生涯、思想と信仰、教義、現代日本での位置付けなどについて考察することにしました。
佐藤優氏は本書のテーマを、「創価学会の内在的論理を明らかにすること」、「日本発の世界宗教への道を追うこと」とし、そのためには、池田大作の人と思想を知ることが必須であるとしました(佐藤優著『池田大作研究』序章。以下、「本書」と表記する)。筆者もまた、日本最大の宗教団体を育てた池田大作氏を正しく知ることは、今後の全宗教の一致という大目的へのヒントになると信じるものです。
実は筆者は、何人かの創価学会信者の親しい友人を持っていますので、池田氏とその教団に対する愛情と共に、聖書的(原理的)観点からその違いを指摘しなければならないという「アンビバレントな感情」を抱いています。今回は池田大作氏の生い立ちから入信、そして戸田城聖との出会いまでの「求道者池田大作」の軌跡を辿ると共に、池田氏の「絶対平和主義」を検証し、併せて日蓮正宗からの破門と御本尊問題を論じることにいたします。
【池田大作と創価学会ーその光と影】
池田大作氏は、1960年に32才の若さで創価学会会長に就任しました。奇しくも久保木修己元UC会長は33才で会長に就任しています。また1964年には宗門から法華講総講頭に任じられています。会長在任中の約20年間(1960年~1979年)に、戸田城聖から引き継いだ75万世帯の創価学会を700万世帯まで飛躍拡大させ、その間、1964年に公明党、1971年に創価大学、1975年にSGI(創価学会インタナショナル)を設立し、前人未到の成果をあげました。一方、強引な勧誘(折伏大行進)、言論出版妨害事件(1964年)、月間ペン事件(1978年)などのスキャンダルや「宗門との確執」もあり、マスコミや世論から激しいバッシングに晒されたこともありました。つまり、戦後の日本で、池田氏ほど称賛された人物はなく、また池田氏ほど叩かれた人間はいないと言っても過言ではありません。
<破門について>
そして池田氏にとっても、創価学会にとっても、最も重大事件として特筆されるのは、無断本尊模刻問題や教義上の問題での日蓮正宗大石寺との確執、僧俗和合の破綻や池田氏の大石寺批判などもあり、1991年11月28日、日蓮正宗が創価学会とSGIの破門に及んだことであります。1992年8月11日には信徒除名処分も受けました。これで、日蓮正宗の信徒団体として出発したはずの創価学会は、名実共に日蓮正宗と決別することになりました。
学会内では、破門通告の日は「宗門の差別主義、権威主義の鎖を断ち切り、世界宗教への飛躍の開始、『魂の独立記念日』になった」(本書P558)とし、創価学会は宗門のくびきから解放されて正に世界宗教への道を歩み始めたというのです。佐藤氏はこれを、パウロがエルサレム会議(使徒行伝15.6~29)でユダヤ教の枠を超えてキリスト教を世界宗教に脱皮させたことと対比しながら、その意義を強調しました(本書P157~158)。
しかし創価学会は、日蓮大聖人が出世の本懐として1279年(弘安2年)10月12日に顕した「一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)の御本尊」を「本門戒壇の本尊」として信奉してきました。この本尊は、南無妙法蓮華経の文字曼荼羅で、縦約143センチ、横約65センチの楠木製とされる板曼荼羅であり、日蓮正宗ではこの本門戒壇の大御本尊は、日蓮作成の曼荼羅の中でも究境の大曼荼羅と位置づけられ、広宣流布の暁には日本国民一同が信奉すべき本尊と定めています。
創価学会がこの「一閻浮提総与の御本尊」を如何に重要視しているかについて、桐村泰次編『日蓮正宗創価学会の教義』(聖教新聞社P37~38)には次のように明記されています。
「信仰の対象は宗教において最重要の要素です。大聖人の仏法においては、仏法の真髄、宇宙究極の大生命を一幅の御本尊としてあらわされました。それが弘安二年十月十二日にあらわされた一閻浮提総与の大御本尊です。大御本尊は、宇宙根源の法であるとともに大聖人の御生命それ自体ですので、人法一箇の大御本尊ともいいます」
しかしながらこの御本尊は、今や学会と敵対する日蓮正宗富士大石寺が所持し、大石寺奉安堂に安置されているというのです。いわば、学会が生命視する大御本尊が宗門に人質にされて失われているに等しく、これは創価学会の大きなジレンマというしかありません。
創価学会は、日蓮正宗からの破門に伴って宗門より御形木本尊の下付が停止されたため、1993年以降は日蓮正宗第26世法主・日寛が1720年(享保5年)に書写した本尊(淨圓寺蔵)を複写印刷し、「御形木御本尊」として授与しています。そして遂に、2014年の会則改正により、本門戒壇の大御本尊について「弘安2年(1279年)の本門戒壇の大御本尊は受持の対象とはしない」と公式発表され、大きく独自路線に舵を切りました。これは正に今まで信奉してきた大御本尊の否定であり、これでは創価学会の正統性に問題が生じるのではないか、今後何を拠り所としていくのかと、老婆心ながら危惧いたします。一部では、創価学会の教義は改訂され、今後限りなく身延化されるのではないかとささやかれています。
<本尊論争とは>
ちなみに御本尊は、中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」の題目が大書され、南無妙法蓮華経の左右に仏界の釈迦牟尼仏・多宝如来、四隅に四天王、周りに四菩薩・諸天等の神々が書かれています。この本尊の姿は、日蓮の一心に具わるところの「事の一念三千」の全体を文字をもって顕したものとされ、故に日蓮は「日蓮が魂を墨にそめながして書きて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事)と言っている通りです。即ち、この本尊は末法の本仏である「日蓮」の悟りそのものであり、本仏としての日蓮の境界を「人法一箇の大法」として顕わされたものとし、この本尊に朝夕に勤行唱題することによって、「成仏」という永遠に崩れぬ境涯を得ることができるというのです。(Wikipedia)
現存する約130幅の日蓮書写の曼荼羅本尊については、日蓮正宗では本門戒壇の大御本尊を根本として、木の幹が戒壇本尊ならば他は枝葉のようなものであると位置付けられ、日蓮正宗の各寺院、各信徒宅には、時の大石寺法主によって授与された日蓮書写の本尊、もしくは歴代法主による戒壇本尊を書写した本尊(板本尊、紙の本尊)などが安置されています。但し、日蓮宗や法華宗等の寺院は、大石寺の本門戒壇の大本尊は日蓮死後の後世に偽作された偽曼荼羅であると主張し、現在まで論争の火種となっています。
ちなみに筆者の実家の宗旨は身延山久遠寺を本山とする日蓮宗です。日蓮宗では本門の本尊について、永遠の命を持ったお釈迦様という意味の「久遠実成本師釈迦牟尼仏」とし、法華経寿量品に説かれる「釈迦仏」であるとしています。即ち、身延山久遠寺などの「日蓮宗」では、法華経の教主釈尊を本仏とし、日蓮は釈尊から法華経の弘通を委嘱された仏使であると位置付けた上、釈尊と法華経と日蓮聖人とが、日蓮宗宗徒の帰依すべき「仏・法・僧」の三宝としています。これは「神・神の言葉・キリスト」の三つを宝と仰ぐ原理の教えと類似性があります。即ち、仏の第一を釈迦如来とし、法の第一を法華経とし、僧の第一を日蓮とし、三宝の各第一をひとつの本尊にまとめたものが「三宝尊」であると言う解釈ですが、あくまでも本仏は釈迦であり、日蓮は僧第一に過ぎません。
それに対して日蓮正宗など日興門流の多くは、本門の本尊である文字曼荼羅は日蓮と一体不二であり、曼荼羅を法本尊、日蓮を人本尊としています。その背景には、日蓮宗が法華経に説かれた釈迦仏を本仏とする「釈迦本仏論」をとっているのに対し、日蓮正宗は釈迦仏を正法・像法時代の仏ととらえ、日蓮を末法の本仏とする「日蓮本仏論」を主張しており、「本仏観の相違」があるというのです。この点が日蓮宗と日蓮正宗との決定的な違いであります。日蓮正宗では、いわば、釈迦が初臨のイエスだとすれば、日蓮は再臨のキリストということになるのでしょうか。しかし、これでは釈尊を信奉する既成の仏教から拒否されるしかありません。
【池田大作の求道時代ー絶対平和主義の検証】
ここで、池田大作氏の生い立ちから創価学会への入信までを概観し、池田氏が何故戦争をとことん嫌う「絶対平和主義者」になったのかを検証したいと思います。この絶対平和思想こそ、公明党が憲法9条改正に反対し、親中派として自民党の足を引っ張っている要因であるからに他なりません。
創価学会の「精神の正史」と言われる池田大作著『人間革命』1巻冒頭には、「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」と記し、更に『新・人間革命』1巻冒頭には、「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」とあり、これらの言葉に象徴される池田氏の反戦平和思想は、その生い立ちに源泉があると言ってもいいでしょう。
<生い立ちと反戦思想>
池田大作氏は、1928年1月2日、現在の東京都大田区大森北で、海苔製造業を営む父母を持つ8人きょうだいの5男に生まれました。家業は関東大震災で大きな打撃を被った上、池田氏が尋常小学校2年の時、父子之吉がリューマチで病床に伏し、赤貧のどん底に陥りました。長兄の喜一は経済的理由で中学校中退を余儀なくされ、池田氏も中学進学を断念することになります。新聞配達をしながら学校に通い、1940年3月(12才)、尋常小学校卒業の後、すぐに軍需会社である「新潟鉄工所」に就職して働いた苦労人です。その頃、第二次世界大戦が本格化し、兄4人は兵隊に出征し(長兄はビルマで戦死)、一家はますます追い詰められていきました。
加えて池田氏は病弱で結核を患い、1945年8月、結核療養所へ入院するための順番待ちをしていた中で終戦を迎えました。妻の香峯子さんは、「主人は30才まで生きれないと言っていた」と述懐しています。また池田氏は、後に入学することになる東洋商業学校(現、東洋高等学校)も東京富士短期大学も、働きながらの夜間部でした。
「三つ子の魂百まで」といいますが、このような苦労人池田氏の生い立ちが、「民衆と共に」(貧しい人のために)という「福祉の党」公明党のスローガンになり、戦争は絶対反対、平和に徹するという思想の「平和の党」公明党につながっていきました。
池田氏は、戦前、伊勢神宮の神札を祭ることを拒否したために、治安維持法違反及び不敬罪の容疑で逮捕拘束され獄中生活を余儀なくされた牧口常三郎や戸田城聖のトラウマや、また4人の兄を戦争に駆り出され、空襲爆撃で全てを失った悲惨さから、先の大戦を日本帝国主義の侵略戦争と位置付け、中国や朝鮮半島で残虐行為を行ったとして断罪しています。
そしてこれらの原体験が、池田氏の反戦平和思想につながり、ひいては憲法改正反対の政策につながることになりました。戦争は須く悪であると断じ、戦争に自衛戦争や分別の戦争があることや、共産主義の脅威とどう向き合っていくかといったことまで考える余裕がなかったのでしょうか。このような伝統的保守思想とは親和性のない池田氏の考え方に対して、評論家の竹田恒泰氏は、池田氏の指導者としての資質と業績を高く評価しながらも、「日本の国防問題で犯した罪は大きい」と断じました。
<読書遍歴>
こうして池田大作氏は多難な生い立ちを経てきましたが、戦後、学ぶこと、即ち本を読むことに意欲を燃やしました。池田大作著『私の履歴書』(聖教文庫)に次のように記しています。
「戦時中の遅れを取り戻すため、むさぼるように本を手にして読んでいた。薄給のなかから蓄えた小遣いを持っては、神田に飛んでいき、望みの本を見つけて喜んだのはこのころである。古典、新刊書など、片っぱしから読んだといってよい。読書は、私の人生にとって最大の趣味の一つである」(P79)
そして池田氏は「雑記帳」に読んだ本の感想を書き記しました。その雑記帳には読んだ本の署名や著書の名が以下の通り記されていました(履歴書P81)。
「シルレル、勝海舟、カーライル『英雄及英雄崇拝』、石川啄木、ダーウィン『種の起源』、長与善郎、『竹沢先生と云う人』、ジャック・ロンドン『奈落の人々』、バクーニン『神と国家』、有島武郎『旅する心』、岡倉覚三『日本の目覚め』、三木清『人生論ノート』、国木田独歩『欺かざるの記』、プラトン『クリトン』『国家』、ヘルデルリーン『ヒュペーリオン』、姉崎正治『復活の曙光』、阿倍次郎『三太郎の日記』、幸田露伴『頼朝』、ルソー『エミール』、孫子、内村鑑三『代表的日本人』、エマーソン論文集、モンテーニュ『随想録』、伊藤千代松、プレハーノフ『我等の対立』、中江兆民、幸徳秋水、佐藤一斉『言志四録』、『平家物語』、武者小路実篤『我が人生観』、呉茂一訳『ギリシャ叙情詩選』、高橋健二訳『ゲーテ詩集』」
また池田氏は、戸田城聖と運命の出会いをする直前、内村鑑三の『代表的日本人』を読んでいたく共感しています。その第5章「日蓮上人」の冒頭に「宗教は人間の最大の関心事であります。死という最重要な問題があります。死の存するところに宗教はなくてはならないものです」(『代表的日本人』岩波文庫P1~2)とありますが、池田氏は『私の履歴書』に次のように記しています。
「森ヶ崎海岸にて、孤独の友と生と死を語った。貧窮の友は、キリスト信者になるという。先日、内村鑑三の『代表的日本人』を読んだが、あの実に重要なる死の問題、死のあるところ、宗教はあらねばならぬとあった。だが私はキリスト教には魅せられない」(P88~89)
内村鑑三は、「日蓮の教えの多くは、今日の批評によく堪えるものではないことを認めます。日蓮の論法は粗雑であり、語調全体も異様です。日蓮はたしかに、一方にのみかたよって突出した、バランスの欠く人物でした」(『代表的日本人』P171)と指摘しつつも、日本人の中で日蓮ほどの独立人を考えることはできないとし、「日蓮こそその創造性と独立心によって、仏教を日本の宗教にした」(同P176)と評価しました。
こうして人生哲学を深めたとは言え、未だ無宗教者の池田氏は、内村鑑三の宗教観に強く触発され、内村の日蓮観に共感したものの、かの友のようにキリスト教に向かわず、日蓮仏法に帰依することになります。
<戸田城聖との出会い>
池田大作氏が内村のキリスト教に憧れつつも、結局日蓮仏法に帰依したのは、何といっても戸田城聖との運命の出会いであります。
即ち池田氏は、1947年(19才)、東洋商業学校を卒業後、同年8月14日 小学校時代の同級生の女性から「仏教や哲学のいい話がある」と誘われ座談会に出席し、戸田城聖の説法を聞くことになりました。池田氏は戸田の自由闊達で活力に満ちユーモアに富んだ話を聞いていたくスパークし、信仰の道を決意することになります。同年8月24日、創価学会に入信手続きを行いました。『私の履歴書』は次のように言っています。
「深い思いにふけり、自己の心の山々の峰をいかに越えようか、と考えながらも結論が得られずに悩んでいた私にとって、戸田先生との邂逅は決定的な瞬間となってしまった。正直いって、その時の私自身、宗教、仏教のことが理解できて、納得したのではなかった。戸田先生の話を聞き、姿を見て、この人ならと信仰の道を歩む決意をしたのである」(P94~96)
こうして池田氏は、以後1958年4月2日、戸田が死去(58歳)するまで約10年間、文字通り「異体同心」、「師弟不二」の関係で戸田と運命を共にしました。佐藤優氏は、戸田と池田氏には類い稀な通俗化の能力、即ち「難解な事柄について、本質を曲げることなく、民衆に分かりやすく言語化できる能力を持つ」と述べています(本書P121)。筆者は、戸田の話には、率直さ、大胆さ、ユーモアがあり、池田氏には「人たらし」の異名のごとく、人なつこさ、対話精神、迫力があると見受けました。
【信仰の原点】
では創価学会が「永遠の師」とする牧口常三郎、戸田城聖、池田大作の三代会長は如何なる信仰的確信に基づいて指揮を取り、自らは如何なる信仰体験を持っているのでしょうか。なかんずく今回の主役たる池田大作氏の信仰的原点を探ってみたいと思います。
<戸田城聖>
それには先ず、池田氏に決定的な影響を与えた戸田城聖について語らなければなりません。戸田は小学校教員時代に校長だった牧口常三郎から折伏を受けて日蓮正宗の信者になりましたが、戸田は「生命論」を提唱しました。「生命論」は戸田が獄中で得た悟りをもとに月刊誌『大白蓮華』に発表したもので、創価学会が現代に即した法華経を展開するための核心的な理論となりました。
ちなみに戸田は酒好きで、しばしば酒を飲んで酔っぱらいながら説法をしていたと言われています。酒が苦手な池田氏とは大違いです。池田氏も「戸田先生の愛人の世話をした」と漏らしていますように、戸田は酒、タバコ、女の三拍子が揃う豪放で憎めない人物でした。
さて戸田は、神社の礼拝を拒否し、1943年(43才)の夏弾圧されて、牧口と共に、以来2年の拘置所生活を余儀なくされました。戸田はこの冷たい拘置所にて、人生の根本問題である「生命の本質」に突き当たったのでした。「生命とは何か」「この世だけの存在であるのか」「それとも永久につづくのか」....。
その昔、生まれてまもない娘が死に、妻にも死に別れ、また自らも結核を患い、それ以来、キリスト教や阿弥陀経によったりして、たえず道を求めてきた戸田でしたが、どうしても生命の問題に関して、心の底から納得するものはなにひとつ得られなかったというのです。その悩みを、独房の中で繰り返しました。
そこで戸田は、ひたすらに、法華経と日蓮大聖人の御書を拝読し、これを身をもって読みきりたいと念願して、南無妙法蓮華経のお題目を唱え抜きました。唱題の数が二百万遍になんなんとするときに、いまだかつて測り知りえなかった不可思議な境地が眼前に展開したというのです。喜びに打ち震えつつ、ひとり独房の中に立って、戸田はかく叫びました。「(孔子に)遅ること五年にして惑わず、さきだつこと五年にして天命を知りたり」と。戸田が生命の本質について開眼した瞬間であり、正に信仰的神秘体験であります。この「獄中悟達」は、かって空海が室戸洞窟で「虚空蔵求聞持法」の真言を百万回唱えて遭遇した神秘的信仰体験と瓜二つです。この戸田の獄中悟達は、1951年2月、新宿から新大久保へ向かう途中で霊的体験に遭遇した「路上悟達」と並んで、創価学会の確信と言われています。
但し戸田は、「三世の生命を説くからといって、霊魂の存在を説いているのではない。人間は肉体と精神のほかに、霊とか魂とかいうものがあって現世を支配し、さらに不滅につづくということを、承認しているのではない」と明言しています。つまり、仏法ないしは戸田には、聖書や原理が示す明確な霊界観がなく、従ってはっきりした死生観を持ち得ないというのです。霊友会の信者であり、『法華経を生きる』(幻冬舎文庫)という本を書いた故石原慎太郎も、死に至るまで「死とは何か」の回答を得ることなく、迷いの中で旅立ちました。それは、生死の問題を問い続けた池田大作氏とて同じことであるはずです。
<池田大作>
では池田大作氏には如何なる信仰体験があるのでしょうか。空海やパウロ、そして戸田城聖や我が久保木会長が遭遇したような劇的な神秘的信仰体験があるのでしょうか。答えはノーであります。では池田氏は如何なる信仰信念に基づいて日蓮正宗の信仰を全うし、巨大な創価学会を率いてきたというのでしょうか。
池田氏が日蓮正宗の教えに会う前、敗戦によってそれまで大日本帝国を支えていた価値観が崩壊するなか、それに代わる新たな価値観を模索する17才の若き池田氏の姿がありました。読書遍歴を重ね、人生の根本問題について思索し、なかんずく生死の問題は深刻でした。それは戦争の惨禍、敬愛していた兄の戦死、自らの病弱な体(結核)などが相俟って生死という根本問題を考えざるを得ず、これらは池田氏が仏法に巡り合うことの布石でした。
そして内村鑑三の『代表的日本人』を読んで宗教への探求を深化させていきました。内村はそのなかで日蓮の名を挙げ、幾多の迫害の中でも独立精神を忘れず、自らの信仰的確信を貫いた日蓮の姿に、キリスト教におけるマルティン・ルターにも比肩する宗教改革者の生き方を見ました。この内村の日蓮観に池田氏はいたく共感したというのです。
しかし池田氏に信仰者の道を歩む決断をさせたのはあくまでも戸田城聖という人物との出会いでした。前述したように、小学時代の友人に「生命哲学」の勉強会があると誘われて参加した座談会で、池田氏は戸田城聖との運命の出会いを果たしました。人生には様々な苦悩があるが、根本的な悩みは生死の問題であるとし、その根本の難問を日蓮大聖人は解決されていると力強く語る戸田の話に魅せられていきます。また貧・病・争の解決を説く戸田の確信にもいたく共感しました。池田氏は『私の履歴書』の中で、28才上の戸田との最初の出会いを次のようにしたためています。
「ややしゃがれた声で、屈託ない声でしゃべっている40代の人の顔が目に入った。広い額は秀でており、度の強い眼鏡の奥が光る。その座は不思議な活気が燃えていた。自由闊達な話を聞いていると、いかなる灰色の脳細胞でも燦然と輝き出すような力があった」(P91~92)
この人と同じ信仰に入ろうと決意した池田氏は、その10日後の1947年8月24日、創価学会に入信しました。「全てが納得できたわけではなかった。しかし私の脳裏に魅力あふれる恩師の姿がいつもあった。入信後も幾度かお会いし、私はますますその強い信念に打たれていたのである」(『私の履歴書』P100)と書き記しています。正に「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント5.17)とある通り、こうして池田氏は変えられ、ルビコン川は渡られたというのです。
もちろん池田氏は『法華経の智慧』をはじめとする仏法哲学の解説書も出版しており、また1962年から5年間、学生たちに日蓮の「御義口伝講義」をおこなうなど、日蓮仏法の教学を研鑽し、その理解と確信を深めたことはいうまでもありません。しかし、戸田との出会いは池田氏にとって、かの聖者たちの信仰体験に匹敵する「信仰的神秘体験」でした。
以上、池田大作氏の生い立ちから求道時代を経て、戸田城聖に出会うまでの遍歴を概観しました。また絶対的平和主義や日蓮正宗との訣別に伴う御本尊の問題にも言及しました。次回は創価学会会長(名誉会長)としての歩みに焦点をあてた「宗教家池田大作」について、そして日蓮の仏法について考察いたします。(了)