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使徒信条を原理観で読み解く⑦ 子なる神について(4) 十字架とその意義

🔷聖書の知識162ー使徒信条を原理観で読み解く⑦ー子なる神について(4)-十字架とその意義



ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ(使徒信条)


今回は、いよいよイエス・キリストの十字架のフレーズです。キリスト教の最も重要なキーワードは、「十字架」と「復活」ですが、本項では「十字架とその意義」について論及いたします。


先ず、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」というフレーズが何故信条の文言として入っているのでしょうか。ローマ帝国のユダヤ総督ポンテオ・ピラト(在任26~36年)は歴史上実在する人物であり、このピラトのもとで十字架に架けられたイエスを強調することで、イエスの実在が歴史的事実であることの確かな証拠となるからであると言われています。


【何故イエスは十字架につけられたか】


では、人々の罪を取り除き、神の国を造るために神からメシアとして遣わされたイエスが、何故十字架につけられて死ななければならなかったのでしょうか。十字架につけられた原因には、a.ユダヤ教との関係、b.ローマ帝国との関係、c.そして家族・親族(氏族)・弟子たちとの関係という3点から考察できると思われます。


先ずユダヤ教との関係では、イエスは律法学者やパリサイ人から、律法の破壊者、敵対者と見られていました。イエスは、安息日に稲穂を摘み(マタイ12.1)、癒しを行いました(9.10)。また罪人や取税人らと飲食をしたことで非難を浴びたり(マタイ9.10)、奇跡や癒しの業を悪霊の頭ベルベゼルによるものとされました(マタイ12.24)。そしてイエス自身が、「偽善な律法学者、パリサイ人よ」(マタイ23章)とユダヤ教のラビに審判の言葉を吐いておられることからも、イエスがユダヤ教から異端視されていたことは明らかです。


また、律法学者やパリサイ人にとって、イエスの集団は自分らの既得権益を奪う厄介な存在として写り、癒しや奇跡を行い、優れた律法解釈をするイエスの宗教的な天稟への嫉妬心もあったと思われます。


一方、ローマ帝国からすれば、治安を乱す異端児として警戒されていました。当時、メシアを名乗る人物は複数存在し、民衆を煽ってローマに敵対し反乱を起こす首謀者になっていたからです。


そして3番目に、家族、親族(氏族)の離反、特に洗礼ヨハネの不信、更に弟子たちの不信仰というように、身内からの離反が指摘されます。


特に洗礼ヨハネの不信については、決定的な意味を持ちました。今までキリスト教では、洗礼ヨハネは優れた預言者、義人として描かれていましたが、聖書をよく読むと、そうではないもう一面のヨハネ象を知ることができます。


即ちイエスは、ヨハネはマラキ書が預言したエリヤであると言われましたが(マタイ11.14、17.13)、ヨハネは、自分はエリヤではないと否定しました(ヨハネ1.21)。ヨハネは一旦はイエスをキリストとして証言しましたが(マタイ3.11)、結局、イエスと別々の道を行くようになり(マタイ12.2~3)、イスラエルの民をイエスにつなぐ証人になることができず、結果的につまづきになったというのです。


そうして遂にイエスは、「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」(マタイ11.11) と、審判の言葉を吐かれたというのです。


また弟子たちの不信について、ユダの裏切り(ヨハネ13.26)、ペテロの否認(マタイ26.75)、イエスを見捨てて去っていったこと(マタイ26.56)、などが聖書に記載されています。更にマリアの失敗については、前項(第二章3(2))で述べたところです。


こうして、イエスはユダヤ教、ローマ帝国、身内から離反されて、十字架の道を余儀なくされました。逆に言えば、上記に見たような離反がなく、イスラエルがイエスをメシアとして受け入れていれば、死ぬことはなかったはずであります。


しかし、伝統的なキリスト教では、イエスは十字架に架かって死ぬために神から遣わされたと解釈し、十字架は必然とされてきました。つまり、人類の罪を身代りに背負って、贖罪の羊として十字架の祭壇に捧げられたというのです。


このように、イエスの十字架が、神の予定として必然的な出来事であったのか、もしくはユダヤ人らの不信仰によるものか、これは重要な問題で、正に聖書の奥義です。


十字架上のイエス・キリスト(ディエゴ・べラスケス画)



【十字架とその意義について】


特に西方キリスト教は「十字架教」とも言われ、人間の救いはイエス・キリストの十字架の死によって成就されたとしています。では、如何に救いが成就したのか、何故十字架が人類の救いになるのか、十字架の救いはそれ自体で完全であり完結したものなのかどうか、こういった根幹的な問題について考えたいと思います。

ナザレの青年イエスが捕縛され無残な死を遂げた時、弟子たちは皆去っていきました(マタイ26.56)。イスラエルを解放する英雄としての期待は裏切られ、今後残された弟子たちにとって、このイエスの十字架の死をどう解釈し、どう意義付けるかが最大の問題になったというのです。


その弟子たちにおいて、十字架に続くイエスの復活、そして聖霊降臨(ペンテコステ)などによって、無残な死を遂げたイエスが、当にキリストであったことへの確信が体験として蘇ってきました。ではそのキリストが何故罪人として非業の死を遂げなければならなかったのか、その死の意味を説明しなければなりません。


そしてこの十字架の神学的意味を最初に理論づけたのがパウロです。パウロはイエスの十字架を人類の罪への贖い(贖罪)として捉えました。次の聖句が端的に示しています。


「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた」(ロマ書3.25)


また、へブル人への手紙9章は贖罪の本質を端的に描いています。


「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(へブル9.11~12)


アウグスチヌスは、「イエス自身が犠牲となることを決意され、彼自身、捧げる祭司であると共に、捧げられる供え物の両方であった」と語りました。人類の罪の贖罪の供え物、これがイエス・キリストの十字架の意味であるというのです。


【十字架の贖罪による救いの考察】


ここで、イエスの十字架の死は、神の予定として必然であり、人間に完全な救いをもたらしたかどうかが問題になります。この点パウロは次の聖句の通り、イエスを信じた後も霊と肉、即ち神の律法と罪の律法の葛藤で苦しみました。


「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ7.22~24)。


また1ペテロ3章18節には、「肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである」とあります。


これらの聖句は、人間は霊と肉の葛藤から解放されていないこと、霊においては救われているが肉においては未だ罪の中にあることを示しています。


今までキリスト教は、イエスの十字架は予定されていた神の摂理であること、即ちイエスは十字架にかかるために来られたとし、それはイエスが人類の罪を贖うための「贖罪の羊」となるためであったというのです。そして十字架の贖罪で完全な救いが完結したとの見解を取ってきました。


しかし、イエスの十字架以後、2000年過ぎても、未だ人類は神の国を見ず、人間は依然として罪の中に苦しんでいる現実が示すように、「十字架に架かることはあくまでも『摂理の変更』としての二次的摂理であって、イエス様は本来、十字架で死ぬのではなく、生きて十全な贖罪(償い)の道を歩み、人類に完全な霊肉の救いをもたらし、生きて神の国を造ることが使命だった」という別の観点からの見方にも耳を傾けることが肝要です。


つまり、霊においてはサタンを退けて勝利されましたが、肉においてはサタンの侵入(十字架の死)を受け、なお原罪は残ることになったという見解です。内村鑑三も「人の救いは、霊だけではなく、霊と肉とによる救いでなければならず、霊の救済は十字架により成就しましたが、身体の救済は再臨によって成ります」と語っています。


しかし第二次摂理の道と救いと言えども、無条件でなされるものではなく、キリストの絶対的な信仰、従順、愛の自己犠牲の代価の末に勝ち取られたものであり、イエスの十字架の贖罪がクリスチャンに大きな「霊的救い」の恩寵を与えたことに異論はありません。


UC創始者は十字架について、次のように語られていますが、大いに傾聴に値する言葉です。(光言社「イエス様の生涯と愛」より)


「神は、霊と肉を中心に地上天国と天上天国を完成しようとするみ旨を捨てて、肉的世界は切っても霊的救いの世界だけでも立てようと十字架の道を与えたのです。もし彼が十字架で亡くならなければ、(霊肉)両面共に失ってしまうのです。やむを得ず一つの分野でも残すために、イエス様を十字架に渡さざるを得なかったということを皆さんは知らなければなりません」


「それゆえイエス様が十字架で亡くなったその立場は、神様とイエス様がすべてを失った立場、即ち十字架は神様の勝利ではなくサタンの勝利なのであり、そこにはキリスト教はありません。キリスト教の出発は十字架ではなく、復活にあるとういうのです。十字架上で亡くなりながら、『すべてが終わった』(ヨハネ19.30)と言ったのは、霊的救いの摂理の出発の基盤を築くために、自分のすべてを捧げたので、その基盤の上に、霊的救いを『すべて成し遂げた』と言われたというのです」


以上、イエスの十字架とその意味について考察しました。この十字架をどう捉えるか、即ち十字架は必然だったのか否か、そして十字架の贖罪の救いは完全だったのか否かという問題は、色々と議論があるところで、キリスト教の本質を考える上で大変重要であり、正に聖書の奥義です。(了)