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使徒信条を原理観で読み解く② 父なる神について(神論1)



今回から使徒信条の解説は、「父なる神」について、即ち「神論」に入ります。 前回述べましたように、信条とは、キリスト教の教義の要点を、簡潔に述べた声明(定式)のことであります。そして使徒信条は聖書とキリスト教の教えが端的に要約されている一種の信仰告白であり、父なる神(神論)、子なる神(キリスト論)、聖霊なる神(聖霊論)という三位一体構造になっています。


そして使途信条は、先ず、洗礼式の信仰告白として生まれたこと、さらにグノーシス派などの異端と区別するために作られました。


【父なる神ーその考察】


「神を知る(恐れる)ことは知識の始め」(箴言1.7)とある通り、神について知ること、そしてそれを信じることは、正にアルファでありオメガであります。神学者のシーセンも「神学とは神についての学である」と言っている通りです。


さて、聖書は神の性質について、厳格な父性的な義の神と、母性的な慈愛の神の両面持つことが示されていますが、使途信条には先ず「父なる神」が宣言されています。では何故「母なる神」と言わずに父なる神と宣言されているのでしょうか。以下は、筆者の理解です。


先ず、父という言葉には、夫婦、父母、家族全体を代表する意味があり、父は母(妻)も含んだ概念という側面があります。現代の戸籍謄本には筆頭者として、家族を代表して父(夫)の記載があるが如しです。


神を父と呼ぶもう一つの理由は、古代オリエント地方において、父親の役割が神の性質を顕すのに適していたこと、一方、女性神には、多産、豊穣をイメージさせ、多神教の色彩を彷彿させるからであると言われています。


従って、「天のお父様」と祈る言葉には、本来、「天のお母様」の意味も含まれると考えてもいいのではないかということ、即ち「天の父母様」と同義だと考えても見当違いではないと思われます。 原理でも、神は男性性相と女性性相の二性性相の中和的存在であり、被造世界対しては性相的な男性格主体と位置づけている通りです。


さて最近、元韓国UC会長の金栄輝氏が『摂理の真実』という本を出版され、その中の「神様の原理的定義」(P145~P168)の項において、唯一の父なる神様、即ち神は男性格主体の父なる神で、神はお一人であると強調されたあと、次のように明記されました。


「メシアは神様を代身する完成したアダムとして来られ、堕落した女性の中から新婦を選んで、原罪のない女性に復帰し、メシア夫人の立場に立てて、真の分母の位置に立たれるのである」(P153)


この金栄輝氏の議論は、清平神学校教授の金振春氏の独生女論の神学と真っ向から衝突します。即ち、金栄輝氏の著書『摂理の真実』では、独生女、つまり無原罪誕生のひとり娘は「ない」とし、金振春氏の論文や周藤健氏の著書『成約摂理解説』によると独生女は「ある」となっています。確かに文鮮明先生のみ言には両面ありますね。


筆者は、周藤氏の議論を支持していますが、無責任に聞こえるかも知れませんが、主体であるお父様に対する「無原罪誕生のメシア」というメシア観さえしっかりして明確であれば、あとのことはあまり目くじらを立てることもないというのが率直な感想です。


何故なら、主体が立てば自ずと対象は立つのであり、いずれにせよ文鮮明先生、韓鶴子女史は聖婚されて「無原罪の真の父母」として立たれたことは、原理観として分派を含む衆目が一致しているところであり、この「真の父母」を起点にして出発することが賢明であり生産的だと思うからです。 但し、文先生が無原罪で来られた再臨のメシアだという点は、金栄輝氏、周藤健氏、そして筆者の共通した立場で、これだけは譲れません。


【聖書の神】


では聖書(原理)はいかなる神観を持っているのでしょうか。


旧約聖書の神を端的に言えば、アブラハム・イサク・ヤコブの神、即ちイスラエルをエジプトから解放され、約束の地に導かれた神ヤハウェであり、新約聖書の神は、イエス・キリストを死より甦らされた父なる神であります。


そして使徒信条は、創造主なる神、全能なる神を表明し、主イエス・キリストの父としての神(父なる神)、即ち三位一体の神を表明しています。


先ずここでは、新旧約聖書に表明されている普遍的な神の概念について考察したいと思います。


【所与の神、唯一の神、創造の神、全知全能の神、人格の神】


聖書の神は、「所与の神」、「唯一の神」、「創造の神」、「全知全能の神」、「人格の神」であります。


そして「はじめに神は天と死を創造された」(創世記1.1)というこの一節に聖書の神観、世界観が象徴されています。


天体の創造(ミケランジェロ画)


ここには先ず、神が「所与の存在」としていまし給い、その神が天地万物の「創造主」であること、即ち宇宙の第一原因であることが宣言され、そしてその神は「唯一の神」であることが暗示されています。


聖書は、神の存在は当然に存在する所与のものとして大前提となっており、敢えて神の存在を証明しようとはしません。 ジェイコブズが著書『キリスト教教義学』の中で「天文学は星の存在を証明しようと企てない、論理学は思想の存在を証明しようと企てない、教義学(神学)は神の存在を証明しようとはしない」(P4)と言っている通りです。


そして古代諸国のほとんどが多神教の中に沈んでいる時、一人イスラエルだけが、神が「唯一の神」であることを唱えました。


そして唯一の神であると共に、聖書の神は天地を創造された「創造主」であります。ちなみに日本神道の神には創造という観念はありません。


古事記に最初に出てくるアメノミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビの造化三神は、「高天原に成りませぬ」と古事記冒頭に表現されており、この三神が現れる前に既に「高天原」が存在したのであり、その高天原に三神が生じたと解釈できます。従って文字通り解釈する限り、この造化三神に創造主という観念はありません。また、釈迦の原始仏教には、そもそも神という概念自体がありませんでした。


更に聖書の神は、唯一創造の神であると共に、全知全能の神、祝福される神、即ち「人格神」でもあるというのです。


神は自らが造った世界を見て「それは、はなはだ良かった」(創世記1.31)と喜ばれたとされていますが、これは神が喜怒哀楽を持つ人格神であることを顕しています。従って、キリスト教では神を「天の父」「愛なる神」と言っています。  


即ち、聖書の神は、永遠(イザヤ40.28)、普遍(使徒17.28)、唯一(申命記6.4)、全知(へブル4.13)、全能(ヨブ42.2)の神であると共に、知・情・意、そして愛(ヨハネ3.16)を有する人格神でもあります。


UCの統一思想では、神の人格的属性(神性)として、「心情・ロゴス・創造性」の三つを挙げ、人格神を認めると共に、その神の人格の中心を愛の更に根源にある「心情」としました。ちなみに心情とは「愛を通して喜ぼうとする情的な衝動」としています(『統一思想要綱』光言社P52)。


そしてこの神の名は、「ありてあるもの」(創世記3.14)、「ヤハウエ」(ユダヤ教)、「主」(創世記2.4)、「天の父」(マタイ5.48)、などと呼ばれてきました。イスラム教では「アッラー」と呼んでいますが、これらは皆同じ創造の神であります。


さて旧約聖書には、神の呼び名として、ヘブル語で「エロヒム」という言葉と「ヤハウエ」という言葉が出てきます。エロヒムは創世記1章の天地創造の神の名であり、超越神です。伝道の書に40回以上出てくる神の呼び名はすべてエロヒムで、この神の概念はキリスト教だけでなく多くの宗教が認識している神でもあります。


一方、創世記2章から出てくる「主なる神」は、「ヤハウエ」であり、この神はイスラエルの契約の神であり、エロヒムの救済者としての姿であり、聖書だけが有する神の概念であります。


前述したように、イスラエルの神とは、アブラハム・イサク・ヤコブにご自身を現した神であり、「イスラエルの民をエジプトから導き出した神」、「約束の地を与えられる神」であります。そしてキリスト者にとっての神とは、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせた父なる神」(ガラテヤ1.1)であります。


このイスラエルをエジプトから導き出した神と、キリストを死人の中から蘇らせた神とは、別々の神ではなく、同じ神であるというのが聖書が理解する神であります。即ち、創世記1章から黙示録に至るまで、同じ一人の神が存在し、導かれているということであります。


【一神教・拝一神教・単一神教・多神教】


以上を踏まえ、以下に神の類型について論考しておきたいとおもいます。


神の数に着目した4つの類型として、「一神教」、「拝一神教」、「単一神教」、「多神教」という概念があります。


後述するように、「一神教」とはアブラハムに端を発し、モーセで理念的に成立し、バビロン捕囚前後に確立されたといわれる「唯一神教」であります。モーセの十戒の一戒「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト20.3)がこれを象徴しています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神観はこの上に立っています。


「拝一神教」とは、唯一神教が他の神々の存在を認めないのに対して、他の神々の存在を前提とし、その民族内では一柱を神として崇拝する神観念であり、アブラハムからバビロン捕囚時代までの古代イスラエルの神観や浄土宗の神観がこれに該当いたします。


古代イスラエルでは、その民族内においては、ヤハウエのみが神であり、他の神を認めませんが、他のオリエント諸国の神々までは否定しませんでした。また、浄土宗は釈迦如来、大日如来ら他の如来を否定しませんが、自らの信仰共同体内では「阿弥陀如来」のみを崇拝するというわけです。


また「単一神教」とは宗教学者のミュラーが提唱した観念で、複数の神々を前提としますが、その中の一柱を主神として崇拝するものです。対象領域の中に他の神々を認めながらも、その対象領域の神々を根拠づけている主たる神の存在を中心として、他の神々をその中に体系化する、というものです。


古事記の天照大神を中心とする神体系がそれであり、八百万の神々を認めながらも、その体系内ではアマテラスを頂点に位置付けるというものです。神道では古来から祭神論争があり、多神教的な性格を持つアマテラス派と、一神教的な性格を持つアメノミナカヌシ派で主祭神を巡って議論がなされてきました。ギリシャのパンテオンの神々やインド古代ヴェーダの宗教も単一神教に類型化されるでしょう。


最後に「多神教」です。これは文字通り複数の神々を認める神観念です。日本神道、大乗仏教、ヒンズー教、古代メソポタミヤ・エジプト・ギリシャなど古代国家の99%が多神教世界だったと言われています。旧約聖書の預言者たちは、専らこの異教徒の神々との戦いがメインテーマでした。


【一神教の起源と成立】


次に、聖書を貫く神観である「唯一神の思想」、即ち、一神教について考察いたします。


前記しましたように、聖書の神の顕著な特質は「唯一神」、つまり神様はお一人であるという思想(一神教)であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教であります。聖書を貫くこの唯一神の神観は、如何に始まり、どのように確立し、どのように広がってきたのでしょうか。


<イスラエル一神教と古代オリエントの多神教>


一神教はイスラエルにその起源を有します。その具体的な始まりはアブラハムの召命(創世記12.1)からと言っていいでしょう。イスラエル族長時代の「アブラハム、イサク、ヤコブの神」(出エジプト3.6)であります。イスラエルは、創造主としての神をエロヒム(神)と呼び、契約の神(救済神)としてはヤハウェ(主)と呼びました。


創始者は「アブラハムを立てるために、多くの涙を流されたあと、神は初めて着地された」と言われました。 


しかしながら、当時のイスラエルを囲む古代メソポタミヤは多神教の世界であり、古代世界は99%が多神教の世界だったと言われています。その多神教の世界の中にあって、唯一、イスラエルだけが唯一の神を主張いたしました。


<族長時代の一神教>


イスラエルの一神教は、アブラハムに端を発し、モーセで成立し、バビロン捕囚前後に確立(体系化)されたと言えるでしょう。族長時代のアブラハム・イサク・ヤコブの神は、厳密な意味での排他性を持つ一神教ではなく、前記した「拝一神教」だったと言われています。


古代イスラエルにおける「拝一神教」の成立から「唯一神教」の確立へという経過は、その歴史を通じて一連の信仰上、思想上の様々な変革が繰り返され、積み重なる形で実現したというのです。


前述しましたように、はじめにアブラハムの召命があり、これがイスラエル一神教の始まりです。このヤハウエと呼ばれるブラハム・イサク・ヤコブの神は、民族内における唯一の神(族長の神)でありますが、他国の神々まで否定するものではなく、その意味で古代イスラエルは拝一神教的神観であったと言われています。


次にモーセによって一神教は理念的に成立しました。出エジプト記20章3節「私の他に何ものをも神としてはならない」はその原点であります。しかし、モーセの十戒から申命記改革までは理念的な唯一神教であり、なお拝一神教的神観といえるでしょう。  


即ち、「妬む神」(出エジプト20.5)という表現は他の神の存在を前提とした概念であり、民族内においては神は唯一であるが、他民族の神の存在を前提としたものだと考えてもいいでしょう。


<バビロン捕囚と一神教の起源>


イスラエルの南ユダは新バビロニアによって攻撃され、前586年に神殿が破壊され、ユダ王国は滅亡しし、主だった指導者はバビロンに連行されました。


この未曾有の患難であるバビロン捕囚前後、エレミヤ、エゼキエル、イザヤらは、民に悔い改めを迫ると共に、「普遍性のある超越神」を求め、その中から民族を越えた神観が形成されていき、バビロン捕囚という民族の危機に遭遇して明確になっていきました。即ちバビロン捕囚という患難の中で、神との再結合、神の再理解により一神教が確立されたというのです。


その当時までのイスラエルの神は、いわゆる「拝一神教」と言われる民族の神でしたが、ここに一民族を越えた「普遍的な唯一神の神観」の確立が始まりました。即ち、唯一にして世界を創造された神は、アッシリアを使って北イスラエルを滅ぼし、バビロンを用いてユダヤを分別され、ベルシャを立ててユダヤを解放されたというのです。


その最も典型的な唯一神教的神観が、イザヤ書43章~46章であります。 イザヤ書40章~55章を書いたと言われる預言者「第二イザヤ」の言葉は、バビロン捕囚が前提となっており、ここに主権、国土、国民、神殿を奪われた喪失感と、この民族的受難をどう考えるかという思索の中で、唯一神をあがめる神観が、次のイザヤ書聖句の通り明確に姿を表しました。


「わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。ただわたしのみ主である」(43.10~11)


「わたしが主、私をおいて神はない。光を造り闇を創造し、平和をもたらし災いを創造する者」(イザヤ45.5)


受難の原因を自分たちの背信にあるとし、この受難を不信仰に対する罰と捉えて(苦難の神義論)、戦争に負けた神ヤハウエを弁護し(弁神論)、この確信に基づいて律法に従う信仰の共同体が生まれました。そして、受難の民族を救う「普遍的、排他的な唯一の神の観念」が生まれてきたというのです。


即ち、「ヤハウェのみが唯一の神で他に神はいない」との観念です。捕囚はイスラエルの罪の結果(イザヤ40.2)であり、ペルシャのキュロス王によるバビロンからの解放は「第二の出エジプト」とも譬えられ、キョロスがモーセの役割を担ったと考えました。


こうして神ヤハウェの「再理解」が行われ、神ヤハウェはユダヤ民族の神であるだけでなく、「世界を創造した唯一神であり、救済神である」と理解されるようになり、このような神との再結合に希望を託しました。


即ち、どの神がより卓越しているかということが問題なのではなく、そもそもヤハウェ以外に神は存在しないというのです。ここに神観の革命的な一点突破の飛躍とも言える「排他的唯一神教」の神観が確立したというのです。(山我哲雄著『一神教の起源』筑摩書房P354)


世界が多神教に溺れている時、一人イスラエルだけは、神が唯一であることを主張し、これを世界に広めました。今や、世界の60%が一神教を受け入れており、人類に唯一神の思想を送り出した功績は、イエス・キリストを生み出したことと並んで、ユダヤ人の最大の世界貢献であると言えるでしょう。


【神認識についての先端科学者の視点―村上和雄の世界】


おしまいに、先端科学者の神認識について、参考に述べておきます。


筑波大学名誉教授で分子生物学(DNA研究)の権威である村上和雄氏

(1936~2021)は、感性・直観・霊感による「ナイト・サイエンス」と理性・論理性・客観性を重視する「デイ・サイエンス」という分け方をし、大きな発見はナイトサイエンスから生まれるとしました。


稲(米)のDNA(遺伝子)情報16000個の解読にアメリカを抑えて成功しましたが、その時、自分たちは既に書き込まれた遺伝子情報を解読しているだけなのだが、「一体誰がこの染色体に遺伝子を書き込んだのか」という疑問に遭遇したといいます。


人間の持つ60兆個の細胞の核の中の一つ一つに30億の遺伝子情報があり、しかも調和的にダイナミックにしなやかに機能しているというのです。そして2000憶分の1gの極小の中に百科事典3200冊分の情報が書き込まれ、細胞は常に予定通り死滅し、予定通り生まれ、死と生がペアになっている(代謝)、一体この遺伝子情報を誰が書き込んだのか、村上氏はこれを「サムシンググレート」と呼びました。


宇宙の膨大さの中にも目に見えない自然の偉大さを発見すると言います。太陽系の半径は光速4時間、銀河系10万光年、銀河団100万光年、大規模構造1億光年で、宇宙は膨張しており、しかも一点のビッグバンで始まったと言われています。


「極大から極小まで、世界が驚くべき精巧さと美しさを持ち、且つ生体の動きが柔軟なのは、背後にそれらの設計者が存在するに違いない。即ち聖なる偉大な存在が目的を持って世界を作ったからであり、単なる偶然とは思えない」と村上氏はいいます。


更に、宇宙は生まれて138億年、地球は48億年、生命は38億年、人類は20万年、しかし、科学はいまだに、一個の細胞、一個の原始生命すら生み出し得ていない、科学は生命については何も分かっていない、と語りました。東北大震災に遭遇して、日本地震学会会長は茫然自失し、元東大総長有馬朗人は、これを一生の不覚と自戒したそうです。


村上氏は天理教の篤実な信者で、サムシンググレートとは親神様(天地王命)だといい、「天理教の親神様の素晴らしさを科学の言葉で語りたい、サムシンググレートのメッセンンジャーとなりたい」と語りました。2021年4月13日、85才で逝去されましたが、ご冥福を心からお祈り申し上げます


以上で、使途信条の「父なる神①」の解説を終ります。次回は、では、この神を如何にして知ることができるか、について論考いたします。(了)