🔷聖書の知識158ー使徒信条を原理観で読み解く③ー父なる神について(神論2) 神を如何に知るか
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか(1コリント3.16)
先ず最初に、前回の神の有り様や性質に関して、統一思想の立場から付け加えておきたいと思います。
【統一思想の原相論】
統一思想の原相論、即ち神に関する捉え方には、構造の面を扱う「神相」と、性質の面を扱う「神性」の両面があります。
神の構造、即ち神相について、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体とされ、またその属性として 本陽性(男性性相) と本陰性(女性性相)の中和体であると定義されています。従って、この人格的な神は父であり、また母である、即ち「父母」であるとも表現できます。
一方、神の性質、即ち「神性」については、主として心情、ロゴス、創造性の3つを挙げています。心情とは、「愛を通して喜びを得んとする情的な衝動」乃至は「愛そうとする情的な衝動」であり、愛よりもより内的な愛の源になっている概念で、神の人格の中心になっています。心情は対象たる天地の創造がなされる前の神の内的性相でもあります。
即ち、先ず神の心情とその果実としての愛
があり、それがより具体的なロゴス(構想・理法)となり、その構想に従って世界が創造されるというプロセスになります。
【神を如何に知るか】
さて今回の本題に入りますが、前回に引き続いて神について論考します。前回は神とは如何なる存在で、どういう性質があるか、即ち神自体について考えましたが、今回はその神を「如何に知ることができるか」、そして信仰者の「神体験」について述べることにいたします。
以下、a.神の存在証明 、b.神の自己啓示としての一般啓示と特別啓示、c.神体験、d.新しい神の概念、という順で話を進めていきたいと思います。
【神の存在証明】
前回述べましたように、聖書は神の存在を証明などしようとしません。神の存在は大前提にある所与のものであり、これこそがヘブライズムの根本であります。イスラエル人にとって、神の存在など自明の理であり、そもそもその存在を証明する対象ではありませんでした。しかし敢えてこれを試みた人々がいます。
その人々は、神の存在を、ぎりぎりまで証明しようとしました。カントはその一人です。カントは理論理性では神の存在証明はできないとしましたが、以下の4つに分類して説明しています。
a. 目的論的証明
これは、自然神学的証明ともいい、極大から極小まで、世界が秩序整然としと規則的であり、かつ精巧なのは、目的を持って世界を創造した、人知を超越した存在である「神」がいるからだと主張します。
例えば前回述べた分子生物学の権威である村上和雄氏は、人間の持つ60兆個の細胞の核の中の一つ一つに30億の遺伝子情報があり、しかも調和的にしなやかに機能しているというのです。「一体誰がこの染色体に遺伝子を書き込んだのか、単なる偶然とは思えない」、村上氏はこれを「サムシンググレート」(神)と呼びました。
b. 宇宙論的証明
物事を因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行けば、その根因があるはずで、この根因、即ち第一原因こそが神だとしました。
c.存在論的証明
これは、本体論的証明ともいい、可能な存在者の中で最大の存在者とは神であるとし、「存在する」という属性を最大限に持ったものが神だと主張しました。
d.道徳論的証明
この考え方は、理性の必然的な対象である最高善の実現のためには、ぜひとも神の実在が「要請」されねばならないとするものです。
このように、人間はぎりぎりまで神の存在を理由付けようとしました。では私達は、その神を如何にして知ることができるのでしょうか。それは以下に記す一般啓示と特別啓示、及び個々人の神体験であり、神は自らを色々な方法論で既に啓示されているというのです。
【一般啓示】
一般啓示とは、クリスチャンでなくても、神は全ての人に普遍的に自らを顕されるということです。即ち、神は、自然の中に、良心の中に、そして歴史の中に啓示されます。
<神は自然の中に自らを啓示される>
聖書の中に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1.27)とあり、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ書1.20)とある通り、神は自然の中に自らを啓示されといるというのです。
神の実体対象として、神が自らに似せて創造された自然万物の中に神の真善美が顕れていることは明らかです。従って私達は自然を観察することによって神を知ることができるというのです。人間が自然に憧れ、山河を歩くのは、そこに人間の心を打つ神々しさ、即ち神の真善美を感じるからに他なりません。
イエスも、 「野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(ルカ12.27)と言って、自然の神秘を表現しました。
<神は良心の中に自らを啓示される>
私達の良心は、誰に教わらずとも、何が善で何が悪かを知っています。善悪を判別する良心の主体が神であるからです。人は悪を行った場合、良心の呵責を感じますが、それは良心の主体たる神との関係で、直感的に感じるものです。
そして、「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3.11)とありますように、人の良心は究極的に、永遠なる神の世界に憧れているというのです。人間の永遠の真理を求めるあくなき欲求は、良心に働く神の力に起因しているからに他なりません。
ローマ教皇のパウロ二世は、「人間の心の奥底には、神を求める郷愁の種がある」と語りました。
また文鮮明先生は、「良心は師に優り、親に優り、神に優る」と言われ、これからの時代は「み言と良心が導く」と語られました。
後述しますが、筆者は20才前半、良心(本心)に内在する神と出会いました。彦根での開拓の最中、神は、人間的な偶像の中でも、山の彼方の空遠くでもなく、「自らの本心(良心)に内在」することを体験しました。本心に内在する神、これが神との最初の出会いでした。
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(1コリント3.16)とある通りです。
<神は歴史の中に自らを啓示される>
また神は、歴史の中に、特にイスラエルの歴史の中に自らを啓示されています。神はイスラエルの神「ヤハウエ」とイスラエルへの「神の働き」の中に、自らを顕されました。
全世界が多神教と汎神論の中に沈んでいた時、アブラハムの子孫たちだけが、神を「唯一にして創造主なる存在、人格的な啓示の神」と認識していたことは注目に値します。アブラハムはノアと並んで一神教を受け入れた人類最初の人物であります。
更には、この神に似せられた高貴な人間が堕落して罪と呪いと死をもたらすに至ったこと、犠牲による贖罪、メシアによる救い、終末における審判とメシア王国、といった神の摂理を理解していたことは実に驚くべきことであります。これらはイスラエルに対する神の啓示による理解以外の何物でもありません。
また、イスラエル民族の多難な歴史とその栄枯盛衰からの復活を見ても、神の働きは明らかです。取るに足りない小国でありながら、全世界が眼を見はるような存在であり、受難の中にあって不死鳥のように蘇り、1948年には遂に建国いたしました。世界人口の0.2%でありながら、ノーベル賞受賞者は20%に昇っています。これら神が導いて来られたイスラエルの歴史を見れば、神の存在を疑う余地は有りません。
筆者はポーランドのアウシュビッツを二度訪問したことがあるのですが、奇跡の民ユダヤ人との強烈な出会いをして、ユダヤ人の背馳せざるを得ませんでした。
【特別啓示】
更に神は、聖書の中に特別に自らを啓示されています。
聖書には神の摂理とその働きが示されています。聖書には、神からの語りかけがあり、神の霊の注ぎがあり、奇跡を通し、預言者を通し、そしてメシアを通して、自らを特別に啓示されました。
聖書は、1600年もの長きに渡って、40人もの著者によって書かれましたが、一貫して貫かれる唯一神思想とメシア思想があり、これは背後に真の著者である思想的核心、即ち神が存在していることを強く暗示しています。
【神は信仰体験の中に自らを啓示される】
そうして神は、各人の信仰体験を通じて自らを啓示されます。信仰生活の中で私たちは、回心体験、即ち神体験をいたします。本心に内在する神、導きの神、恩寵の中で感じる神、試練の中で会う神、そして回心体験によって、私たちは生きた神と出会わなければなりません。神は信仰体験を通じて自らを啓示されるからです。
<李登輝の信仰体験>
2020年7月30日、李登輝元台湾総統が97才で逝去されました。李登輝は学者であり、政治家でありましたが、実は熱心なクリスチャンでありました。政治家李登輝については多く論評されていますが、キリスト者李登輝についてはあまり知られていません。
しかしその李登輝は、1961年38才の時、洗礼を受けて長老派のキリスト教に入信した熱心なクリスチャンであります。そして李登輝は生涯3回の神体験(回心体験)をしています。
第一回目は、入信初期のころ、1961年38才の時、洗礼を受けて長老派のキリスト教に入信した初期のころの信仰体験です。
李登輝はその頃、キリスト教のイエスに関わる2つの教えに懐疑的でした。彼は次のように述懐しています。
「かって私は、キリスト教に回心するにあたって非常に苦しんだことがあります。『何故マリアは処女にしてイエスを産んだか』『何故イエスが磔にされて、そして生き返ったのか』。どう考えても理性では説明がつかない不可能なことです」
「5年の間台北のあらゆる教会を回り歩き、これは何なのかと悩み続けました。その結果、これはもう理性的に考える必要はないのだ、と悟ったのです。そうなのだ、イエスは本当に磔にされて生き返ったのだと信じること、それが信仰なのです」(以上、著書「武士道解題」P132)
「イエスの聖霊による身籠り」「イエスの肉体を伴う復活」という、この2点だけは科学者李登輝の理性に照らして理解し難い難問でありました。そうして聖書を読み尽くし、台北中の教会を訪ね歩いた末、遂に「信じることを決断した」というのです。
即ち李登輝は信じることの決断、「信仰告白」によって聖書的真理を認識するに至りました。使徒のトマスに、イエスは「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ20.28~29)と言われましたが、李登輝は「見ないで信じる者になろう」と決断したというのです。
かくして「イエスの聖霊による身籠り」「イエスの肉体を伴う復活」という2つの難問は、李登輝において信仰的事実となりました。
李登輝の2回目の信仰体験は観音山(616m)での神秘体験です。台北郊外の聖なる山、観音山に妻と孫3人で登った時のことでした。峻険な山道を登り頂上の切り立った岩の上に立った時、天啓を受けました。
心と体からなる自分の上に、より高次元の神的存在を体験し、そしてその存在との間にただ一人立つ自分、神と自分だけの神秘体験をしたというのです。李登輝は以後、誤解や非難など一切の横的な人間関係を気にしなくなったと言います。神と自分との縦的な、確かな関係が確立したからです。
第3回目の信仰体験で、李登輝はようやく「自我」から解放されました。李登輝を長く苦しめ、手こずってきた自我からの解放です。李登輝は、自分を拘束しているものが、他ならぬ自分自身であり、その「自分(自我)から解放されることが真の自由」であるという真理を悟りました。
それは「自分でない自分」を見出だすこと、即ち、自我が一度死んで復活した「新しい自分の発見」であります。次の聖句が李登輝の回心聖句になりました。
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2.20)
自由とはなんでしょうか。自由とは自分を拘束しているものからの解放に他なりません。では自分を拘束しているものとは何でしょうか。即ち、それが罪であり自分自身であります。「罪と自分自身(自我)からの解放」、これが自由です。こうして神は各人の信仰体験の中に自らを啓示されるというのです。
<筆者が始めて出会った神>
前述しましたように、筆者が初めて出会った神は、本心に内在する神でした。忘れもしません、22才のある日、筆者は滋賀県彦根に物品販売の開拓に来ていた時のことでした。心身共に限界に来ていた筆者は、とあるカフェで親しくしていたある姉妹に、一通の手紙を書き、その自分が書いた手紙を読み直していました。
その手紙の中に、「これから私は、誰にも依存しないことに決めました。ただ、本心の神のみを信じていきたいと思います」としたためてありました。この自らが書いたフレーズを読んだ瞬間、私の中にありありとした霊的躍動感がこみ上げ、そのまま高い高揚感に襲われました。
つまり、この高揚感こそ、奇しくも自らが書いたフレーズ「本心の神」から来ていたというのであり、この瞬間、本心に臨在する神を確信しました。かくして筆者が初めて出会った神は、本心に内在する神でした。その時、神は天地を創造された超越神であると同時に、人間の本心に臨在する内在神でもあることを理解しました。
実は当時筆者は、京都の教会長をされていた小宮山嘉一というカリスマ食口に師事していたのです。彼は30代の若さで事故死されましたが、久保木会長をUCに導かれ、原理研究会の初代全国会長として一世を風靡された方であります。
筆者は1年間京都で寝食を共にし、完全に心酔し、筆者にとって小宮山氏は全てであり、神でもありました。つまり、神ならぬ一人の人間を偶像崇拝していたというのです。
そしてある日、ある事情から突如として小宮山嘉一という神が京都を去り、筆者のもとからいなくなりました。神を失った筆者は、羅針盤を失った小舟のように、大海の中でさ迷うことになりました。
その彷徨の挙げく、上記した通り、突如として本心の神に出会って回心したというわけです。つまり、筆者の中に、小宮山嘉一という偶像の代わりに、天地を創造された神が取って代わられたというのです。文字通り、偶像崇拝者から一神教信者への転換です。
これがことの顛末ですが、筆者は、1年という短い時間でしたが、小宮山氏から、「真理を探求するということはどういうことなのか」、そして「信仰者の自由」を叩き込まれ、この薫陶は今でも生きています。
【神についての新しい概念】
使徒信条「父なる神」の締めくくりに、従来の神観にはなかった創始者による新しい神概念を紹介したいと思います。神は唯一にして創造主たる人格神でありますが、更に踏み込んで、神の天地創造の動機と目的、神の存在についての画期的な認識、堕落以後の神の内情について述べたいと思います。
<神の宇宙創造の動機と目的は何か>
神は宇宙の創造主でありますが、では神は何のため宇宙を創造されたのか、その宇宙創造の動機と目的は何でしょうか。
宇宙創造は愛だと創始者は語られました。宇宙創造は原因なき原因の愛から始まり 宇宙は無限なる愛そのものから誕生しているというのです。
しかし、愛は神一人では存在できません。何故なら愛は必然的にその対象を求めるからです。つまり、愛は対象との関係で成り立つ概念であり、愛が愛で在るためには、愛の対象を要するというのです。
従って愛は必然的に愛の対象、喜びの対象を必要とし、従って「愛こそ宙創造の動機であり目的」であります。宇宙が全てペアシステムになっている理由がここにあります。
<夜の神様、昼の神様>
創始者は晩年期に、夜の神様、昼の神様という概念を語られました。夜の神様、昼の神様とは、即ち、天地創造以前の神と以後の神の概念です。
超越的な神様として全ての万物を創造なさる前、時間と空間が始まる前の状態、その見えない神様が「夜の神様」であり、そして有の状態、歴史が始まって、時間と空間を創造した後の動きの神様、摂理の神様と呼ぶことの出来るその存在が「昼の神様」であるというのです。
「私は夜の神様の管理を受け、あなたたちは昼の神様の管理を受ける。私は夜の神様から、君たちは昼の神様から出てきた。神様の種、即ち神の精子から出てきた」(2012年1月8日、根本原理)と創始者は言われました。
神は宇宙生成以前からおられる唯一、永遠、不変的な存在であります。先ず、愛の種があり、愛の細胞が生じました。神様も一点の精子の種、単細胞のようなところから成長し、動けば動くほど大きくなるという真の愛の論理の故に、腹中時代、幼児時代、ティーンエイジャー時代、結婚時代、父母時代、祖父母時代、王・王女時代を通られるというのです。これは 驚くべき見解であり、まさに奥義であります。
そして人間の創造とは、その神様御自身が成長してきた過程を実体として展開させてきたものであり、アダムとエバの創造は、神様が真の愛を中心として成長してきた御自身の歴史を、実体で見るのと同じであると言われました。
これらは統一思想的に言えば、神様の内的四位基台が夜の神様であり、外的四位基台が昼の神様ということになるのでしょうか。
<神こそ解放されなければならない>
創始者の神概念には、「先ず解放されなければならないのは、他ならぬ神自身である」という神に対する画期的な考え方がありあります。そして「神が歴史上背負ってきた痛みや悲しこそ第一に解放されなければならないものである」という観念は創始者が初めて明らかにされました。
何故なら、キリスト教の神は、愛の神、全知全能の神、栄光の神であり、イスラム教の神は、万能の偉大な絶対者であり、ユダヤ教の神は、祝福と裁きの義なる神であるからであります。いずれも神は崇められるべき絶対者なのです。
「神様の悲しみを脱ぐって差し上げよう」ということは、今まで何度も聞かされていたことでありますが、しかし、他のどの宗教にも、こうした「神自体を解放する」といった神概念がないことを発見して、改めてこの神概念の深さを認識させられます。
神は、全知全能の栄光の神である前に悲惨で絶望的な方であり、「神こそ救われなければならない存在」だという認識は、今まで如何なる宗教教祖、いかなる神学者といえども示さなかった神の姿です。
以上の通り、使徒信条冒頭のフレーズ、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」、即ち「父なる神」について論じてきました。神の名は、ヤハウエ、アラー、天の父、天の父母、アメノミナカヌシ、天帝、ハナニム,真人、如来、天理王命、エル・カンターレ、グレートスピリット、サムシンググレートなど、宗教によって様々でありますが、これらは皆、同じ宇宙を司る究極的本体であります。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は皆同じ神を礼拝していますし、出口王仁三郎は万教同根を、谷口雅春は万教帰一を主張しました。
そしてこのような認識を共有すれば、宗教間の対話、神観の一致を目指すことは可能であると信じます。筆者はこの項の最後に、こういった趣旨に基づいて、広く神について論議する「神様懇談会」(神様会議)を設立することを提唱したいと思います。
以上、聖書の知識158ー使徒信条の父なる神について(神論2) 、「神を如何に知るか」について論及しました。次回から、子なる神、即ちキリスト論を解説いたします。(了)
上記絵画:山上の垂訓(カール・ブロッホ画 部分)