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使徒信条を読み解く⑩ 子なる神について(7) 天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり

🔷聖書の知識165ー使徒信条を読み解く⑩ー子なる神について(7)-天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり


天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり(使徒信条)


今回は、キリストが死んで3日目に復活され、40日後昇天され神のみ元に還られた使徒信条のフレーズの解説です。


【キリストの昇天】


使徒行伝に「こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった」(使徒行伝1.9、マルコ16.19、ルカ24.51)とあります。


メシアの辱めは、受肉で始まり、埋葬で終わりましたが、メシアの高揚は、埋葬で始まり、復活、昇天へと続きます。


ヨハネ書に「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く」(ヨハネ7.33)とあり、昇天の預言をされています。こうしてキリストが死んで3日目に復活し40日目に天に昇られました。


伝統的キリスト教の解釈では、「復活の体」となったイエス・キリストが、文字通り肉体を持って神によって天に上げられた(昇天)と考えられています。そして「雲に迎えられて」とありますが、これはシャカイナグローリー(神の臨済に伴う栄光)に包まれてということであり、キリストはいつか再び、雲に包まれて再臨されると考えられています。なお、「復活の体」、「雲に包まれて」、については次回の再臨の項で考察します。


オリーブ山の頂上には昇天記念教会がありますが、昇天の場所は、ベタニヤのあたりで、オリーブ山の東側(ベタニヤ側のオリーブ山)と言われています。 ベタニアはエルサレム近郊の地名で、イエスはエルサレムに入る前にベタニアに滞在したとされており、そこでマリア・マルタの兄弟ラザロを生き返らせる話(ヨハネ11.44)や、マリヤがナルドの香油をイエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた話し(ヨハネ12.3)が書かれています。


こうしてキリストの地上生涯が終わり、父なる神のもとに帰還されました。ベツレヘムでの誕生から始まり、昇天でキリストの地上生涯は終わりました。ここでの「天に昇り」の「天」とは、「空」や「物理的空間のどこか」ではなく、「神の住まうところ」という意味です。昇天によって、十字架の苦しみを経て復活されたイエス・キリストが今も生きておられる「生ける主」であられるというのです。カトリック教会では主の昇天の日を祝って祭日とされています。


そして白い衣を着た人がふたり(天使)が「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒1.11)と再臨を予言します。このごとくキリストは、いつか雲に包まれて再臨されると信じています。


なお、約束されたのは、「同じ場所に」ではなく、「同じ有様で」ということで、再臨の場所は、ボツラ(今のペトラ)であるという見解があります(イザヤ63.1)。ペトラは、死海とアカバ湾の間の渓谷にある崖の地で、1985年にユネスコの世界遺産に登録されています。


【神の右に座したまえり】


続いて、信条は「全能の父なる神の右に座したまえり」と告白します。イエス・キリストは、天に昇られ、全能の父なる神の右に着座され、また今着座されておられます。これはイエス・キリストの現在に関する告白です。


「神の右の座」とは、「天」が物理的空間を示さないと同様に、神の右という場所を示すのでなく、イエス・キリストが神の代理人として、支配者の地位に着いておられることを示しています。イエス・キリストは、父なる神から神の権威、主権、力を委ねられ、私たちとこの地を支配しておられるというのです。「座す」とは、支配の持続性、永続性を示しております。


では、その支配者なるイエス・キリストは、救い主なる支配者として、どのような働きを今なしておられるのでしょうか。


第一は、預言者の働きです。イエス・キリストは、聖霊を送られ、み言葉を語られるというのです。 


「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ14.16~17)


第二は、王の働きです。旧約聖書において、王の働きは、自分の民を治め導き、民の敵と闘い、勝利を与えることでした。イエス・キリストは、万物の支配者として、この世界を治め(エペソ21)、また、特に教会との関係において、教会のかしらとして、私たちを治めておられるのです(エペソ1.22)。 


「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ1.20~23)


第三は、祭司の働きです。イエス・キリストは、十字架の死と復活により贖いの御業を成し遂げ、救いの道を開き、そのイエス・キリストが、今も生きて私たちのために、仲介者として執り成しておられるというのです。 


「しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」(ヘブル7.24~25)


このようにキリストは、神の右の権威の座に着座され、新しい働きの領域に入られました。すべての被造物に対して権威を持つ地位に就かれ、そしてイエスが父なる神のもとに帰った後、聖霊(別の助け主)を送られ、聖霊の時代が到来します。復活・昇天・聖霊の降臨は、一連の出来事であり、そして聖霊降臨はペンテコステの日に成就しました(使2.1~4)。


信者は、五旬節の日に聖霊によってバプテスマを受け、教会が誕生し、そしてキリストは教会の頭となられました。それは聖霊の業でありますが、究極的には聖霊を遣わされた神とキリストの業であります。その結果、信者はその死にあずかるバプティスマによってキリストと共に葬られ、キリストのように復活して新しい命に生きるようになったというのです。


「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ロマ6.4)


キリストは大祭司として、信者のために執りなしされるようになりました。「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」(ヘブル7.25)とある通りです。


そして前回、キリストのよみがえり(復活)の項で解説したとおり、これらは全て「霊的イエスによる業」であり、肉体を伴った出来事ではないというのが原理観であります。


以上で、キリストの昇天とその後の働きについて解説しました。次回は使徒信条「かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」、即ち再臨と審判について解説いたします。(了)



上記絵画*聖三位一体(エル・グレコ画)

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