🔷聖書の知識172ー使徒信条を読み解く⑰ー罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の生命
罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の生命(使徒信条)
今回は使徒信条の最後のフレーズ「罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の生命」の解説になります。いわば救いの一丁目一番地、信仰の目的とも言うべきこの重要な言葉の意味を考えたいと思います。
【悔い改めと罪の赦し】
2020年12月6日に行われた超教派のWCWAが主宰する「世界聖職者指導者協議会(WCLC)一周年記念大会」で、トランプ大統領のメンター(霊的助言顧問)であるポーラ・ホワイト牧師は、次の聖句を引用して悔い改めと許しの賜物を語られました。つまり、罪の赦しの恵みと、その前提条件としての「悔い改め」について言及されました。
「もしへりくだり、祈って、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす」(2歴代史7.14)
<ダビデの悔い改めと罪の許し>
ダビデの歌として知られる詩篇32篇と詩篇51篇は、ダビデの深い悔い改めを歌った詩篇として有名です。
第二サムエル記11章~12章には、ダビデがウリヤの妻バテシバと不倫し、ウリヤを激戦地に追いやって戦死させ、姦淫と殺人の罪を犯した有名な物語が記されています。ダビデは1年間、その罪を隠しましたが、その間、自責の念にさいなまされ心身共に疲弊しました。そして預言者ナタンに指摘され、遂に悔い改め、罪を告白して神に許されました。
ダビデ王の悔い改め(作者不詳)
ダビデは、詩篇51篇で、神に罪の許しを乞いました。この篇は、修道院では皆暗証されています。
「神よ、あなたのいつくしみによってわたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。ヒソプをもって、わたしを清め洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(51.1~17)
そして詩篇32篇では、罪を許された感謝の祈りを捧げました。
「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた」(詩篇32.1~5)
このように、ダビデは詩篇32篇で、許された感謝の歌を捧げていますが、罪を告白しなかった間は「ひねもす苦しみうめいた」(32.3)と語り、罪を告白して「罪を許された」(32.5)と喜びを歌っています。
<救いとリバイバルは悔い改めから>
キリスト教の伝統の一つに、周期的に繰り返される「リバイバル」(霊的覚醒)があります。特にアメリカでは、教会や信仰が形骸化して沈滞した時、必ずリバイバルが起こって信仰の回復がなされました。
そしてそのリバイバルは、例外なく「悔い改め」から始まっています。即ち、リバイバルは草の根的な無名の牧師やクリスチャンの「悔い改めの回心」から生まれました。そう言えば、洗礼ヨハネもイエス・キリストもベテロも、宣教の第一声は「悔い改めよ」でした(マルコ1.4、マタイ4.17、使徒2.38)。
「この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、『悔い改めよ、天国は近づいた』」(マタイ4.17)
<救いとは>
救いとは何でしょうか。救いとは「悔い改め贖われて赦されること」、筆者流に言えば「罪と自分自身から解放されること」です。心からの「認罪と悔い改め」のあるところには「贖いと赦し」があり、「救い」があります。悔い改めは罪の許しの前提条件であり、救いの一丁目一番地です。赦されるためには悔い改めなければなりません。
内村鑑三は「咲く花は多いが、実となるものは少ない。実となるものは多いが、熟するものは少ない。私たちの伝道もまたこのようである。聞く者は多いが、信じる者は少ない。信じる者は多いが、救われる者は少ない」と語り、救われることの難しさを吐露しました。
では救われるための悔い改めは如何にもたらされるのでしょうか。
真の悔い改めに導かれるためには、聖霊の導きが必要です。聖霊の賜物なくして真の悔い改めは出来ません。何故なら人間はすべからく傲慢であるからです。パウロは「私は肉体に一つの棘(とげ)を与えられました。それは私が傲慢にならないためです」(2コリント12・7)と告白しています。
そして私達は神の愛を受けなければなりません。愛されることによって始めて人間は真に悔い改めることができます。「聖霊の導きと神の愛」、この2つによって人は真の悔い改めに導かれるというのです。
即ち、救いとは、神の霊・聖霊に導かれて、神とキリストの前に罪を悔い改め、告白し、そして許されることであります。言い換えれば、「罪と自分(自我)から解放」されることです。
かって敬虔なクリスチャンであり、台湾総統だった李登輝は、長い間、「自我」に苦しみましたが、ある時、「自分でない自分」を発見して自我から解放されて救われたことを告白しています。回心聖句は次の一句です。
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2.20)
<悔い改めるべき罪とは>
では悔い改めるべき罪、許されるべき罪とは何でしょうか。
神道では罪(穢れ)は、外部から人間の体に埃(ほこり)のように付着するもので、この「不浄な穢れ」を禊(みそぎ)と祓い(はらい)で浄め祓い落とすとされています。一方仏教には「煩悩」という概念があり、人間に内在して苦をもたらす煩悩を、苦業・八正道、瞑想・唱題などの修行によって克服し解脱(悟り)を得るとしています。但し仏教は、煩悩の原因までは説明していません。
そしてキリスト教には「原罪」という根本罪の観念があり、これが人間に内在する罪の根源とされています。
さて創世記は「聖書の中の聖書」と位置づけることができる重要な章句であり、創世記には神・罪・救いが暗示され、いわば人類歴史の雛形が示されています。1章と2章で神の天地創造の物語が展開され、3章で失楽園の物語、即ち、人間の堕落、罪(原罪)の起源が書かれています。そして4章以下、黙示録までが神の救済歴史であります。仮に3章の堕落がなかったとするなら、聖書は創世記1章と2章で完結していたことになるでしょう。
キリスト教では、この失楽園が記されている創世記3章の解釈、即ち堕落の原因、原罪の起源について様々な解釈があり議論されてきました。堕落傲慢説(イザヤ14.13~14)、嫉妬説、自己中心説などがそれであります。
原理では、原罪の原因は人類始祖アダム・エバの不倫の愛(姦淫)による堕落を起因とし、原罪が遺伝的に受け継がれてきたとしています。本来神は、人間を神の形に、善なる存在として創造されましたが(創世記1.27)、アダム・エバの堕落によって(創世記3.6)、罪が入ってきたと言うのです。
即ち、蛇に象徴されている天使長ルーシェルのアダム(人間)に対する愛の減少感(愛の比較)からアダムに嫉妬し、それが動機となってエバ(女性)を誘惑して姦淫し、エバもまたアダムと時ならぬ時に関係したというのです。聖書にルーシェルの堕落について、「天から堕ちた」(イザヤ14.12)、「罪犯したみ使い」(2ペテロ2.4)、 「おるべきところを捨て去ったみ使い」(ユダ1.6)、「年を経た蛇」(黙示録12.9)とある通りです。
つまり禁断の善悪の木の実とは「エバの貞操」を意味し、これを取って食べたとは、淫行を犯したことであり、これが原罪の起源になって血統的に遺伝されてきました(創世記3.7~8)。以上が原理観です。
そしてすべての高等宗教は、姦淫を最大の罪と考え、仏教、ユダヤ・キリスト教、イスラム教、ヒンズーなど高等宗教は、姦淫、不倫、同性愛に厳しい刑罰を要求しています。モーセの十戒にも「姦淫するな」とあり、キリスト教は情欲を戒め、純潔(貞節)を最大の徳としました。そしてアウグスチヌスを終生苦しめたこの情欲の問題は、人間に最後までつきまとう、いかんともし難い最大の難問であります。
伝統的キリスト教において、最も一般的な理解では、原罪は「アダムとエバから遺伝的に受け継がれた罪」のことであります。 そしてアウグスティヌスは、受け継がれるものとしての原罪について、両親の「性交を遺伝の機会」と解釈しました。そしてアダムとエバが恥ずかしく思って陰部を隠したのは(創世記3.7)、「性行為」を行ったからであると解釈し、それを原罪としました。カトリック教会(西方教会)は、529年の「オランジュ公会議」で、このアウグスティヌスの教えを承認しています。
但し、堕落の原因について、カトリックでは上記のように堕落姦淫説を暗に認めながらも、淫行説を採用せず、高慢説、ないしは自己中心説を採っています。何故なら、解決策なき淫行説は、かのキェルケケゴールと同様、「結婚できない説」になりかねず、信徒の結婚を守るためにも採用できませんでした。従ってカトリックでは、神父、修道士、修道女のみが独身制を守っています。
<悔悛の秘蹟と罪の清算について>
悔悛とは認罪し悔い改めることであり、悔悛の儀式とは、罪の悔い改めと赦しの秘跡であります。ルターは、この「罪の赦し」を「義(正しい)と認められる」とも表現しました。
マタイ1章9節には、「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」とある通りです。
そして次に見ますように、制度的には洗礼と悔悛の秘蹟があり、これはUCでは聖酒式と祝福式に該当すると言えるでしょう。
洗礼は聖書的根拠に基づいて行われる儀式で(マタイ28.19、ヨハネ1.5)、プロテスタント、カトリック共に秘蹟として位置づけ、教会の重要な儀式となっており、クリスチャンになる正式な入信の儀式(キリストへの帰依)であると共に、原罪と過去犯した罪が許される儀式であるとされています。
勿論、その前提には罪の悔い改めの内的プロセスが重要であり、いわゆる幼児洗礼には、自覚に基づいたキりストへの帰依や悔い改めがないので、これを認めないプロテスタントン系教派(バプティスト派など)もあります。また、クエーカー派、救世軍、無教会など洗礼自体を行わない教派もあります。
そしてカトリックには「告解」(悔悛の秘蹟)というサクラメントがあります。洗礼によって洗礼前の罪は許されることになっていますが、洗礼後犯した罪はこの儀式の中で清算していくというのです。先ず自らの罪を悔い改める「悔悛」、次に罪を公に言い表す「告解」(告白)、そして罪を償う「賠償」の3段階からなっています。
カトリック教会が伝統的に認めてきた七つの秘蹟は「洗礼・堅信・聖体・告解・塗油・叙階・結婚」で、基本的に聖職者(司教・司祭)によって執り行われ、目にみえる儀式に目に見えない恵みが伴うものと考えられています。アウグスチヌスはこれを「客観的恩寵論」として確立しました。
この七つの秘蹟は、キリスト教入信の秘蹟(洗礼・堅信・聖体)、いやしの秘蹟(ゆるし・病者の塗油)、交わりと使命を育てる秘蹟(叙階・結婚)に分類されます。信者は洗礼の秘蹟によって新たに生まれ(義とされ)、堅信の秘蹟によって強められ、聖体の秘蹟によって養われるとされています。いわゆる義とされる「義認」、残存する罪の傾向性からの「聖化」、救いの完成としての「栄化」という救いのプロセスです。但し、プロテスタントでは、聖書に根拠がある洗礼と聖餐のみを秘蹟の儀式としています。
カトリックの許しの秘蹟は罪をゆるす恵みの手段として、「イエス・キリストが定めた方法で、使徒とその後継者に罪をゆるす権能を授けられたとき、教会の中にゆるしの秘蹟を制定した」とされています。その本質的要素は、聖霊のはたらきのもとに回心する人間の行為(痛悔・告白・償い)と、キリストの名によって罪のゆるしを与え、償いを定める司祭のゆるしであります。
ゆるしの秘蹟を授けることができるのは、使徒の後継者である司教と、司教の協力者である司祭であり、司教・司祭(聴罪司祭)は告白を聴き、「父と子と聖霊のみ名によって」罪をゆるす権能を行使します。また聴罪司祭には守秘義務があり、告白によって知った罪について完全に秘密を守るように義務づけられていて、これに背けば厳罰を科せられます。
ゆるしの秘蹟は、洗礼以後に犯した罪をゆるす恵みですから、ゆるしの秘蹟を受けられるのはカトリック教会で洗礼の秘蹟を受けた信者だけであります。また、現代のゆるしの秘蹟の典礼には、個別のゆるしの式と共同回心式があります。共同回心式は、教会共同体が連帯して回心に励むためのもので、ことばの祭儀やミサの中で行われています。しかしこの場合にも、罪の告白は個別的に行われ、このためカトリック教会の聖堂には、小さな告解室(告解部屋)が設けられています。
翻ってUCには、「聖酒式」という罪の赦しの儀式があります。即ち、「聖酒」は特別の意味を有する秘酒とされ、犯した罪を書き記して告白し、神の祭壇に捧げて悔い改め、聖酒を飲んで清算されるという儀式であります。以下は、聖酒式についてUC創始者のみ言です。
「堕落によって生じた原罪を脱ぐ血統転換、すなわち血肉を交換する式が聖酒式です。聖酒式は、堕落によって血統的に汚されたサタンの血を抜いてしまうものです。言い換えれば、原罪を抜いてしまう式だというのです」
「聖酒式は何をするものでしょうか。新しい愛を中心として神様の体を自分の体の中に投入させる式です。イエス様が『パンは私の体を象徴するものであり、ぶどう酒は私の血を象徴するものなので、あなた方はそれをもらって食べ飲まなければならない』と語ったのと同じように、新しい血統を受け継いで原罪を洗い清めることができる式です」(「祝福家庭」P74)
更にキリスト教の聖餐式とUCの聖酒式との関連およびその意義について、次のように説明しておられます。
「聖酒式は、イエス様を中心として見ると聖餐式と同じです。聖餐式では、肉と血の代わりにパンを食べ、ぶどう酒を飲みます。これは、私たち人間が堕落したため、イエス様の体を受けることによって、新しい肉体を受肉しなければならないということを意味します。」(「祝福家庭と理想天国」(Ⅰ)、912頁)
この項のおしまいにUCの最も重要な儀式である祝福式について論じておきたいと思います。創始者は祝福運動について、次のように語っておられます。
「私が主導してきた祝福運動は、単なる結婚式ではなく、原罪を清算し、本然の真の血統によって天に接ぎ木する神聖な行事なのです」(「平和神経」P351)
このように祝福結婚儀式は、単なる結婚式でもUCに入籍する式でもありません。共同体への信仰を示す儀式という一面はありますが、本質は、野生のオリーブの木から真のオリーブの木に接ぎ木して原罪を清算する「血統転換」の儀式だというのです。
これに対して、祝福儀式は神の所有権を決定する象徴的儀式とする次のような見解もあります。
「クリスチャンが入信の儀式として洗礼を受けてキリスト教選民圏に入籍したように、祝福を受けて第3イスラエル選民圏に入籍するという象徴的儀式、即ち神の所有権を決定するのがUCの祝福儀式ではなかろうか」
これは、プロテスタントの信仰義認の教理から導かれる「洗礼や聖餐式そのものは、救いの絶対的要件ではない」とする思想の延長にあるものと考えられ、一つの問題提起ではあります。
しかし創始者はこのような見解に対して、次のように語られました。
「自分が、神様の愛と、神様の生命と、神様の血筋を再び引き継がなければなりません。それで出発するとき血統転換式をします。これをUCの一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式として考えてはいけないのです」(「地上生活と霊界」光言社P42)
UCの祝福結婚の原理的意味は、男女二人の不倫の愛(姦淫)による神が認めない結婚によって原罪を持つようになりましたので、それを清算するためには、神が許諾し祝福した結婚によって、二人で「蕩減復帰」(罪を償ってもと返す)して本来の夫婦、家庭を完成していかなければならないというものです。即ち、堕落が二人で起こったので、復帰も二人で行うというのです。
しかし、祝福によって罪が清算され新生されても(義認)、残存する罪の傾向性(堕落性)を日々の信仰生活の中で浄めて(聖化)、救いを完成して人格完成(栄化)して行かなければなりません。さて読者の見解や如何に!
【からだのよみがえりー復活】
キリストの復活について、本項では「復活の体」という意味を中心に考えたいと思います。
「からだの蘇り」、即ち復活は最も重要なキリスト教の概念です。キリスト教はイエス・キリストの復活から始まりました。堕落人間の最大の希望は復活にあります。そして「十字架につけられ、そして三日目によみがえる」(ルカ24.7)とある通り、復活とは死が前提となった言葉です。アブラハムとイサクもモリヤの祭壇で一度死に、そして復活しました。一度死んだ立場から、再び生を得て蘇ったというのです。
ではイエスの復活における「復活の体」(栄光の体)とは何でしょうか。肉体の復活か、霊の復活か、霊肉共の復活か、という重要な問題があります。伝統的キリスト教では、イエス・キリストは肉体を持って復活したと解釈していますが、此の点については神学者の間でも異論があるところです。
原理観ではイエスの復活は最上位の霊人体への復活であると解釈していますが、復活したイエスを目撃した弟子たちにとっては、キリストの初穂としての復活は、肉体を伴った復活の体として認識され、信じられない信仰の飛躍をもたらしました。
即ち、伝統的キリスト教では、復活の体とは「天上に生きるのに適した体」(栄化された体)であるとし、「朽ちる体が朽ちない体に変化した」と言い表しています。
では、「一瞬に変えられる、死人は朽ちない者に変えられる」(1コリント5.51~52)とありますように、天上に生きるに適した体、朽ちない体とは一体どういう体なのでしょうか。この概念は曖昧で明確ではなく、議論のあるところであります。
マタイ27章52節の「墓から死体がよみがえった」とは、いったい何を意味するのでしょうか。それはあたかもモーセとエリヤの霊人体が、変貌山上においてイエスの前に現れたように(マタイ17.3)、旧約時代の霊人たちが、再臨復活のために地上に再臨したのを霊的に見て記録した言葉だったというのです。
原理講論には「では墓は何を意味するのであろうか。イエスによって開かれた楽園から見れば、旧約時代の聖徒たちがとどまっていた霊形体級の霊人の世界は、より暗い世界であるために、そこを称して墓と言ったのである。旧約時代の霊人たちは、すべてこの霊界にいたのであるが、そのとき再臨復活して、(イエスの恩恵で生命体級の霊人体として)地上信徒たちの前に現れたのであった」(講論P154)とある通りです。そして再臨のみ言によって、更に天国に住む「生霊体級の霊人体」として復活していくというのです。
従ってイエスの復活の体とは、肉体を伴わない勝利された輝く霊人体の体としての復活であるというのです。そして、地上における信仰生活においては、復活とは「死から命へ、サタンの主管圏に落ちた立場から、神の主管圏に復帰されていく、その過程的な現象を意味する」(講論P213)というのです。
【とこしえの生命】
ロマ書6章23節には、「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」とありますが、正に信仰と救いの究極目的は「とこしえの命」(永遠の命)に至ることであります。創世記2章9節で出発した「命の木」は、黙示録22章2節の「命の木」に至って聖書は完結します。
永遠の命とはメシアによって新生され、サタンとの関係を断ち切って、完全な霊肉の復活の体を得た人間が持つ生命です。それは新生し神との関係を回復し質的な変化を遂げたものの持つ生命であり、また霊界での時空を超えた永生の命を得た生命でもあります。私たちの信仰の目的こそ、この「とこしえの命」であるというのです。
以上のとおり、使徒信条を解説してきました。今まで述べてきましたように、使徒信条はキリスト教教義の簡潔な表現であり、ここに重要なキリスト教神学の全てが含まれていると言っても過言ではありません。そしてまた信仰の告白でもありますので、使徒信条を深く理解することによって信仰を高めることが可能になります。(了)
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