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使徒信条を読み解く⑯ 聖なる公同の教会、聖徒の交わり(教会論)

🔷聖書の知識171ー使徒信条を読み解く⑯ー聖なる公同の教会、聖徒の交わり(教会論)


ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである(マタイ18.20)


前回まで、聖霊論を解説してきましたが、今回は使徒信条の「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」の解説です。いわゆる「教会論」と呼ばれている分野です。


【聖なる公同の教会】


使徒行伝でいう「公同の教会」とは何かということですが、これは神学では教会論に属するテーマです。一般的に教会には、「普遍教会」と「地域教会」と呼ばれているものがあり、先ずこの問題から論じることにいたします。


<普遍教会と地域教会>


いわゆる教会論とは、教会に関する議論であり、もともと「エクレシア」(教会)という言葉には「呼び出されたもの、選り分けられたもの」という意味があります。聖書的には、「キリストは教会のかしら、教会はキリストのからだ」(エペソ1.23)という位置付けにあり、本来教会は建物ではなく神によって呼び出された「信徒の集まり」を意味します。即ち、具体的には,神の民の集まりとしての教会,キリストのからだとしての教会,聖霊の住まい・交わりとしての教会ということになります。


その信徒の集まりたる教会には、各個具体的な地域の信徒の集まりである「地域教会」と、キリストに与る全てのクリスチャンの目に見えない共同体としての「普遍的教会」があり、キリストを受け入れた時点で、私たちは先ず普遍的教会に属することになります。そして、三位一体の教理を宣言した4つの世界公同信条(使徒信条、ニカイア信条、アナタシウス信条、カルケドン信条)を受け入れている教会・信徒の群れはすべからく「公同の教会」といえるというのが伝統的教会の立場であります。


普遍的教会とは「ホーリー・カソリックチャーチ」と呼び、目に見えない教会として、初代のペンテコステ以降、終末までの全ての信者から構成されます。キリストが普遍教会の所有者であり、み名をもって呼び集められた普遍的な信徒の集まりであります。


そして、その見えざる普遍教会が各個別教会として具体的に現れるのが「地域教会」で、見える教会としてそれぞれの地域教会に所属する具体的な信徒の集まりであります。例えば横浜海岸教会、銀座教会、大和カルバリチャペルというように。この地域の各個の教会は、礼拝・教育・儀式の執行、信徒の交わり(互助互恵)、信仰の励ましや迫害に耐える力、利便性、神の国実現に不可欠であるとされています。


<教会とは信徒の集まり>


教会は正に「信徒の集まり」であり、二人三人でもキリストに与るところは、すべからく教会であります。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18.20)とある通りです。 従って内村鑑三の無教会主義においても、即ち「信徒の交わり」を意味し、立派な教会であります。


教会には、カトリック、メシジスト派、バプテスト派といったいわゆる「教派教会」の他に、どの教派にも属さない「単立教会」、或いは「スモールチャーチ」と呼ばれている教会もあります。UCのホームチャーチ(家庭教会)は形の上では無牧の単立教会と言えるでしょう。


また一人教会(ワン・パーソン・チャーチ)も立派な教会であります。祭壇は教会の中にあり、家庭の中にあり、ひとり一人の心の中にもあるというのです。ある牧師は、「教会は各人の心のなかにある。あなたの居るところ、あなたの居る場所が教会です」と語りました。


いわゆるルターの「万人祭司」とは、聖書に従って敬虔な信仰を行う者全員を司祭とするというプロテスタントの考え方で、教皇や聖人を通さずとも、聖書を読み、信仰によって、司祭として直接神の前に出て恵みを受けることが出来、一人一人が単独で神の前に祭司となるという思想で、これこそ「ワン・パーソン・チャーチ」に他なりません。


内村鑑三は、教会のあり方に失望して、或いは捨てられて、無教会主義を唱えましたが、二人、三人の信徒が神の名によって交われば、そこは(無教会の)教会であるというのです。主にあって志を一つにした信徒の交わりは、聖霊が働く場となり信仰を高める場となることでしょう。札幌農学校のクラーク博士は牧師ではありませんでしたが、教え子を自宅に招き、家庭で礼拝しました。この家庭教会から佐藤昌介ら札幌農大一期生や、その後に続く新渡戸稲造、内村鑑三など多くの著名なクリスチャンが出ています。


1コリント3章16節には、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」とあります。 私たちの心は神の神殿(教会)であり、一人ひとりはその内なる神殿、内なる祭壇の祭司であり牧師であるというのです。


【聖徒の交わり】 

「聖徒の交わり」とは、「聖なるものを共有し分かち合うこと」(コミュニオン)を意味し、交わりの根源はキリストであり、神と神の言葉を共有していることであります。即ち、神とみ言とキリストを共有した信徒が、相交わり分かち合うのが聖徒の交わりの本質です。そしてそれは説教の中だけでなく、立ち話や、お茶飲み話のちょっとした会話の中にも信仰のヒントが隠されています。


そして神とみ言とキリストを共有しているという信徒間の絆は、人間と人間の信頼をつなぐ強い力になります。一般的に、他人との信頼関係を築くためには、何年もの時間とエネルギーが必要になりますが、信徒間の信頼関係は一夜にして築けるというのです。この強い絆を最大限活用しているのがユダヤ人だと言われています。世界に散らばるユダヤ人は、同じユダヤ教の信者として、強力な人間関係のネットワークを築き上げ、世界の金融を支配しました。


そしてクリスチャン、UCの人間関係はユダヤ人のそれに見劣ることはありません。とりわけUCの信徒の交わりほど、濃厚で有益な人間関係はありません。食口の人間関係ほど強固で素晴らしいものはなく、正に人生の宝です。現下のUCバッシングの試練の中で、共通の受難を共有したものとして、ますますその絆は強くなり、その真価が発揮されることでしょう。


【礼拝と福音伝道の意義について】


次に、教会での礼拝の意味、及び福音伝道の意義について、論考いたします。


<礼拝の3つの意義>


礼拝とは何でしょうか。我々は何故、何のために教会に礼拝に行くのでしょうか。キリスト教では礼拝には3つの要素があると言われています。


礼拝の第一の目的は、正に神(キリスト)を礼拝することです。そして神の恵みに浴することです。即ち私たちは、神を礼拝し、賛美し、神と交わるために教会に行くのです。宣教師訓練センター所長の奥山実牧師は、「人間は神を礼拝するために生まれてきた。神礼拝は人生の目的である」と明言されました。


礼拝の第二の目的は、み言の学びです。それは、聖書の拝読を通じ、説教の拝聴を通じ、聖歌を歌うことを通じて、み言を学び霊の賜物を受け取ります。


三番目が「信徒の交わり」です。同じ神とキリストを共有する者の交わりから、多くの発展的なものが生れて来ます。


ただ、同じ教会の礼拝でも、カソリックの礼拝は「ミサ」と呼ばる聖餐式がメインです。ミサとは主の晩餐(最後の晩餐)に由来する聖体の秘蹟が行われる典礼を指す名称で、キリストの血と肉を受けてキリストと一体となる儀式です。大まかに言えば、プロテスタントは説教に、カソリックは典礼に比重が置かれています。しかし、共に神を礼拝することにおいて変わりはありません。


<福音伝道への熱情(アフェクション)>


次に神礼拝に次いで重要な福音伝道について考えておきましょう。


伝道とは「救われた喜びを他に分かち合うこと」に他なりません。内村鑑三は「伝道は自分の心に体験した神の救いを世に発表することである。(『感想十年』より)と述べています。


従って伝道するためには、先ず私自身が救われていなければなりません。即ち、私たちの伝道意欲のバロメーターは、如何に自分が救われているかにあると言っても過言ではありません。救いがあれば、この喜ばしい福音を他人にも伝えたいという気持ちが自然と沸き起こって来るというのです。


では一体「救いとは何か」が問題になります。先般ある聖書セミナーで「皆さん方の中で、救われていると思う方は手を挙げて下さい」と聞きたところ、誰もすぐには手を挙げませんでした。このように、得てして救いは曖昧になっています。メソジスト派の創始者ジョン・ウエスレーは「救いの確証」を教理の中心に据えましたが、文字通り私たちには救いの確証が必要です。


筆者は「救いとは解放である」と理解しています。

では何からの解放かと言えば、私を束縛しているものからの解放であり、それは、罪であり自分(自我)であるというのです。即ち、罪と自分自身から解放されて自由になること、筆者にとってこれが救いに他なりません。


そして、罪は赦されることによって、自我は全否定されることによって解放されるというのです。そして赦されるためには「悔い改め」(回心)が絶対条件になります。即ち、信仰による悔い改め(回心)、赦し、そして解放(新生)です。UCの場合は、さらに祝福儀式による血統転換のプロセスを経ることになります。


かって敬虔なクリスチャンであり、台湾総統だった李登輝は、長い間、「自我」に苦しみましたが、ある時、自分でない自分を発見して自我から解放されて救われたことを告白しました。回心聖句は次の一句です。


「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2.20)


次に伝道方法ですが、なんと言ってもUCを含むキリスト教の伝統は「路傍伝道」です。今、千葉のある教会では、4年ほど前からシニアの音頭で路傍伝道が始まり、今では恒例行事として定着し、素晴らしい神との出会いが証言されています。またある教会では、ホーリネス教団の路傍伝道で導かれたという証がありました。このように、路傍伝道はキリスト教の伝統であります。


次が「訪問伝道」です。これは今やエホバの証人の専売特許になりました。彼らは、玄関で断れ、冷たくあしらわれることが恵みだと教えられています。しかし、その歩みがあって、日本で多くの信者(20万人)を得ることが出来ました。


今一つが「渉外伝道」です。文書伝道、テレビ伝道もこの中に入るでしょう。つまり、我々が接触する人々、親族、友人、仕事仲間、およそ全ての関係者は皆伝道対象者といってもいいかもしれません。


こうして、路傍伝道、訪問伝道、渉外伝道は伝道の三種の神器と言えるでしょう。そして何よりも、福音宣教はイエス・キリストの命令であります。次の聖句がいわゆる大宣教命令といわれ、宣教師はこの聖句を握って地の果てまで出かけていきました。


「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての作られた者に、福音を宣べ伝えなさい』」(マルコ16.15)


以上、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」について解説いたしました。次回は、使徒信条最後の救いの一丁目一番地とも言うべき「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信ず」について論考いたします。(了)



上記絵画*五旬節(ペンテコステ)小磯良平画

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