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使徒信条を読み解く⑫ 聖霊なる神について(1) 神の霊とは何か

🔷聖書の知識167ー使徒信条を読み解く⑫ー聖霊なる神について(1)-神の霊とは何か


我は聖霊を信ず(使徒信条)


今回は、父なる神、子なる神に引き続き、「聖霊なる神」について論ずることに致します。


聖霊なる神、即ち聖霊論を解説するにあたり、先ずもって聖霊を含む「霊」全般に渡って論及したいと思います。即ち、神の霊、聖霊、悪霊、霊界・死生観と言った霊に関わる総合的な解説です。


もちろん、神論、キリスト論に続く第三テーマである「聖霊論」が中心になることは云うまでもありませんが、先ず「神の霊」についての解説から始めることにいたします。

          

使徒信条に「子なる神」の次に出てくるのが「我は聖霊を信ず」というフレーズですが、さて、聖書に出てくる聖霊を含む「神の霊」の働きを考えるとき、a.旧約時代の神の霊、b.新約時代のイエスの復活までの聖霊、c.復活以後の聖霊、の三期における言葉の区別と性質について考える必要があります。


これらがその本質において、どこが同じでどこが違うのか、その異同について考え、先ず、そもそも「神の霊」とは何かを論じ、そして次に「聖霊」とは何か、について明らかにしたいと思います。

               

【神の霊とは何か】

旧約聖書では「聖霊」という言葉は使われていませんが、「霊」という言葉があり、神から来るものとして使っていました。「神の霊が水のおもてをおおっていた」(創世記1.2)とある通りであります。ちなみに死者の霊魂(霊人体)も霊といいますが、神の霊とは、この死者の霊とは異なる概念です。但し、神の意を受けた天使や善霊を通して働かれることもあると考えられます。


生命を創造する力、命の創造は、「神の霊」もしくは「神の息」(創世記2.7)と言われています。また、あるときは戦いの勇気を鼓舞し(士師14.6)、あるときは預言者のしるしとなり(1サムエル10.6)、あるときは王や預言者に注がれて力を与えられ(1サムエル16.13)、そして終わりの時には全ての人に「わが霊を注ぐ」と言われています(ヨエル書 2.1)。


神の霊は実在する霊の働きであり、現に我々自身がある種の「霊の注ぎ」を感じています。そして神の霊は次のように預言者、義人、王らに注がれました。旧約聖書全編に渡って、「神の霊」が働かれた、あるいは注がれた記録が随所に記されています。


「ヨシュアは知恵の霊に満ちていた」(申命記34.9)


「そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下った」(士師記14.19)


「主の霊があなた(サムエル)の上に激しく下り」(1サムエル10.6)


「神の霊がサウルに激しく降った」(1サムエル11.6)


「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」(1サムエル16.13)


「その上に主の霊がとどまる。主を知る知識と主を恐れる霊である」(イザヤ11.2)


「終わりの時に、全ての人にわが霊を注ぐ」(ヨエル書 2.1)


こうして神の霊とは,基本的に「神の愛の活動する力」と言えるでしょう。またヨハネ4章24節には「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」とあり、神を「霊」であると表現しています。


聖書に出てくる「霊」という語は,ヘブライ語のルーアハ、ギリシャ語のプネウマを翻訳したもので、ほとんどの場合,これらの語は「神の活動する力」を指して用いられています。しかし,聖書中では「息」(ヨブ 34・14)、「風」(創世記 8.1)等とも表現されています。息や風は肉眼では見えませんが,その力が働いている結果を感じることができます。同様に神の霊も,風に似た「目に見えない無形の確かな力」を意味しています。


また,聖書は神の霊のことを神の「手」(申命記2 .15)や「指」(ルカ 11・.20)と記述しています。人間が手と指を使って仕事をするように、神もご自分の霊を用いて色々な業を行なってこられました。


【問題提起ー神の霊と聖霊の区別とは】


伝統的キリスト教では、神の霊と聖霊を区別して考えませんが、果たしてそうでしょうか。


原理講論には、「聖霊とは真の母として来られた方で、霊的イエスの霊的相対(新婦)となる霊であり、霊的真の母としての女性神である。霊的真の父母としてのイエスと聖霊によって、霊的重生されるのがクリスチャンである」(P265~266)との記述があり、聖霊とはイエスが霊的に復活されて以後、霊的相対(妻) として復帰された霊だと読むことが出来ます。


しかしイエスの復活以前にも聖霊という言葉があり(マタイ1.18、ルカ1.35、ルカ3.22)、ここで使われている聖霊という言葉は、上記イエスの復活により復帰されたイエスの霊的相対者としての聖霊とは違った霊ではないかということになります。この霊は、「聖霊」という言葉を使っていますが、実際は「聖なる霊」、即ち神の霊を意味する言葉であると言えるでしょう。


また前述したように、旧約聖書には聖霊と言う表現はなく、「神の霊」「主の霊」という言葉で各所に出てきます(創世記1.2、1サムエル10.6、1サムエル16.13など)。つまり、聖書に出てくる霊には、a.旧約聖書の神の霊、ないしはイエスの復活以前の新約聖書に出てくる聖霊、b.イエス復活以後の聖霊、の2つがあるということになります。


神の霊はイエスが誕生する前から存在しているので、イエスの相対者という限定された存在ではありません。また、それは被造物に働きかけてそれを形成し生命を与える力でもありますので(創2.7、詩104.29~30)、原理講論に記述されている全ての力の根本にある力としての「万有原力」と言ってもいいかもしれません。


原理講論50ページに、「神はあらゆる存在の創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶対者である。したがって、神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶対的なものであり、同時にこれはまた、被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力の根本でもある。このようなすべての力の根本にある力を、我々は万有原力と呼ぶ」とある通りです。


救世主メシアもこの神の霊の賜物を豊かに受けた者であり(イザヤ11.2)、また終末においては、特定の個人だけではなく神の民全体に神の霊が下り、その実現によって新しい時代が来ると信じられました(ヨエル2.28)。


「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る」(ヨエル2.28)


以上を要約すると、旧約における神の霊は 世界と人間に創造的、生命付与的に働きかける「神の力」を意味し、人間(預言者ら)を人格的に鼓舞し目覚めさせて、歴史形成に資することを目的とする「神の働き」を意味しています。即ち、神の霊とは「神の愛の力であり、働き」であります。


一方、新約では、聖霊(聖なる霊)によって処女マリアがイエスを身ごもり(マタイ1.18)、イエスが洗礼を受けた時には聖霊がイエスの上に下り(マタイ3.16、ルカ3.22)、荒野でサタンの試練を受けた時には彼を導かれ(マタイ4.1)、また悪鬼を追い出し神癒として病人を癒し彼に奇跡を可能にするなど、生涯を通じて彼を支えています。この場合の聖霊はやはり神の霊としての「神の愛の力の働き」であり、この場合「聖なる神の霊」と呼んだ方が正解でしょう。


また、イエスの復活以後においては、聖霊は「別の助け主」と呼ばれ(ヨハネ14.16)、使徒たちが、頻繁に聖霊の賜物を受けるのはイエスの復活の後であります。そしてこの聖霊こそ、原理で言う「イエスの霊的相対の立場に立つ母なる霊」であります。


以上から、旧約の神の霊及びイエスの復活以前の新約記載の聖霊は、イエスが復活昇天する前から存在しているので、イエスの相対者という意味での聖霊ではなく、「神の人格的、非人格的な全ての根本にある神の力の作用」あるいは「神の意を受けた天使や善霊を通しての働き」、つまり「聖なる神の霊」であるということになります。


一方、イエスの復活、昇天以後の新約における聖霊は、イエスの相対としての霊的母としての霊と考えられるでしょう。そうして、神の霊は、大きくは聖霊を包括した概念として、聖霊を含む「神の愛の力の働き」と言えるでしょう。


以上、神の霊について考察しました。筆者は、神の言葉の特徴について、「聖書には霊が宿り、原理講論には真理が宿り、天一国経典(天聖教・父母経・平和経)には愛が宿る」と表現しましたが、正に聖書には神の霊が働かれた歴史が各所に刻まれています。


次回は「聖霊なる神」の項目の本題である「聖霊」について解説いたします。(了)






上記画像*天地創造 光あれ(ギュスターヴ・ドレ画)初版


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