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出エジプト記注解⑥ 十戒の第3戒、4戒の解説

🔷聖書の知識75-出エジプト記注解(6)ー十戒の第3戒、4戒の解説


安息日を覚えて、これを聖とせよ(出エジプト20.8)


前回まで、モーセの十戒の全体構造及び1戒と2戒までの解説をしてきました。それを踏まえ今回は3回と4戒について考察していきたいと思います。


【宗教指導者の召命】


<久保木会長に見るモーセの痕跡>

最近、ある知人から久保木修己元会長(1931年2月3日~1998年12月13日、以下、「会長」と呼ぶ)の講演「人類の終末と宗教の使命」と題する動画が送られて来て、是非見て欲しいということでした。その好意に答える意味でも、また懐かしくもあって、ゆっくり視聴いたしました。筆者も会長とは大変相性が合い、多くの恵みを受け、救われた一人です。


その動画の中で、1962年2月(31才)、はじめての40日原理修練会の後、断食して厚木の大山に登り決死の覚悟で談判祈祷したあげく、断食5日目に「神と出会った神秘体験」のくだりがありました。これを聴いた瞬間、「これは、かのモーセがシナイ山に登って、二枚の石板をもらったあの時の光景と瓜二つではないか」と思ったものでした。


シナイ山でモーセはイスラエルの解放者として、神から律法を授与されましたが、会長は渦巻いた紅蓮(ぐれん)の雲のようなもの(霊のかたまり)を口から吹き込まれ、神から覚悟のほどを詰問されたというのです。「汝、この信仰を全うし、立って山を下り福音を宣べ伝えよ」との神の大きな気高い声です。躊躇する久保木会長に「私が共にある」と釘を刺されました。会長はその場で暫く意識を失い、その後宙を舞うような足取りで「別人となって」山を降りたと証言されました。奇しくも2月3日、会長の誕生日のことでした。


会長にとって、この山での劇的な啓示体験こそ、神への帰依と、その後の宗教活動の原点となるものでした。あのシナイ山での神との出会い無くして、その後のモーセが無かったように、おそらく、この霊的体験無くして、その後の久保木修己は無かったし、その後のUCはもっと苦難の行軍を強いられたことでしょう。会長とUCにとって、それほど大きな意味を持つ回心体験であり召命でありました。


キリスト教に大きな影響を与えたパウロもダマスコへの途上で衝撃的なイエスとの出会いをなし(使徒9.3~7)、ユダヤ教からキリスト教への劇的な回心と回宗を遂げ、その後のキリスト教の礎を築きました。また原理創始者は15才の復活祭の週、やはり猫頭山でイエス様から鮮明に使命を託され(自叙伝『平和を愛する世界人として』P62)、メシアとしての苦難の道を出発されました。こうして偉大な宗教指導者は劇的な神体験と明確な召命を経ているというのです。


「私より、むしろ君の方が宗教的資質があるよ」と立正佼成会庭野日敬会長をして言わしめたように、確かに会長は、豊かな宗教的天稟の持ち主でした。


<私はあなたと共にある>

神はモーセを召され、「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト3.12)と言われました。またモーセの後継者ヨシュアに対しても、「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨ることもしない」(ヨシュア記1.5)と明言されました。


マタイ1.23に「その名はインマヌエル、『神われらと共にいます』という意味である」とある通り、「神が共におられる」ということこそ、聖書全体を貫く中心的なメッセージだと言われており、聖書は様々な場面で「神様は私達と共におられる」ことを語っています。


特に兄エソウの怒りを避けてハランの地に向かうヤコブが、途上石を枕に仮寝した時見た「ベテルの夢」(神の家)は有名です。


わたしはあなたと共にいて、あなたを守り、わたしは決してあなたを捨てない」(創世記28.15)


真っ暗な夜、凍える野原にただ一人、不安と後悔の中で身を丸めるヤコブにとって、神が傍に立って、「見よ、私はあなたと共にいる」と告げられる神様の声はどんなにか励みになり救いになったでしょうか。この夢は、後世「ヤコブのはしご」として知られています。


そして上述の会長も、「案ずるな、私が共にある」との神からのメッセージで、最後の決断を促されたというのです。懇意にしていた一人の「哲学青年」に導かれ、原理の扉を叩かれた久保木会長は、こうして神の道への第一歩を印されました。


久保木修己著『愛天愛国愛人』(世界日報)には、「山を下りたその日は、奇しくも私の誕生日でした。私はその日を私自身が神の懐で生まれた日としして、決して忘れまいぞと決意しました」(P85)と記されています。


それにしても、モーセと会長は時代や次元の違いはあるにせよ、あまりにも似た道を歩まれています。モーセがパロ宮中で帝王学を学んだように、会長は庭野日敬会長の元で、あらゆる指導者としての訓練を受けました。モーセがシナイ山で神から律法を受けてイスラエルを導いたように、会長は山頂にて神の言葉を聞いてUCを導かれました。そして、モーセがカナンを目前に倒れたように、会長も道半ばで病魔に倒れました。


会長は、60才そこそこで腎臓疾患を煩い、後半、公私に渡り様々な課題も抱えられましたが、試練多きUCの基礎を築き、歴代総理大臣に原理創始者のメッセージを伝達し、多くの国会議員の信頼と支持を得られたことなど、余人をもって代えがたい業績を残されました。文字通り「UCのモーセ」、「み旨を託す器」として神に召され、その召しに応えた人生でした。


こうして「神共にあり」とのこれら聖書を貫くテーマは、私たちの信仰の旅路において、固く心に留めておきたい言葉であります。


さて、筆者はこの動画に触発され、会長の回顧録とも言うべき『愛天愛国愛人』を再読しています。神学的視点からも色々再発見することも多く、知人からも「貴方は、内村鑑三や渋沢栄一の論評をしながら、何故肝心の久保木会長について書かないのか」という声を頂いており、近々「久保木修己、その信仰と思想」と題して論評しなければならないとのインスピレーションを受けています。


ちなみに私事ですが、動画の中に出てくる、久保木会長をUCに導いた、あの「哲学青年」が気になります。なにしろ、筆者にとって「真理を探求するとはどういうことなのか」を身をもって教えられた恩師ですから....。


【第3戒の解説】


さて、本題である第3戒の「主の名をみだりに唱えるな」について考えたいと思います。


<神の神聖さを引き下げてはならない>

第3戒の「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」(20.7)という聖句ですが、この聖句は「神の神聖さを示す」.もので、神の尊厳や性質を引き下げてはいけないということを教えていると言われています。


ヘブル的には、名は実態を表し、「みだりに唱える」とは、神を価値のない存在のように粗末に扱うことであります。ユダヤ人たちは、偶然に神の御名をみだりに唱えることさえ恐れ、発音しなくなったと言われています。


例えば、いい加減な気持ちで「神に誓って」と、軽々しく神の名によって誓うのは、聖なるものを引き下げることになり、この罪に当たるでしょう。


<占いの霊>

また、「みだりに唱えるな」には、魔術、呪文、まじないなどに神の名を用いることも含まれています。申命記18.10には「息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない」とあります。


上記聖句にあるような、いわゆる占いや呪文に類する行為が神の名によってなされるなら、みだりに神の名を唱えることになるでしょう。あるいは、これらの占い行為が神のように崇められるなら、偶像崇拝になります。いずれにせよ、神に聞くことをしないで、他の霊的存在などに聞くことが問題になるというのです。


使徒行伝16.16~18に次のようなくだりがあります。


「ある時、わたしたちが、祈り場に行く途中、占いの霊につかれた女奴隷に出会った。彼女は占いをして、その主人たちに多くの利益を得させていた者である。そして、パウロは困りはてて、その霊にむかい『イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け』と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った」


この女奴隷も巫女が行う口寄せのような託宣を語っていたのではないかと想像されます。つまりこの聖句は、神または「神の霊」ではない別の「占いの霊」(悪霊?)の存在を示唆しています。この時代にも、生きていくことに不安や迷いがあり、お金を出してでも占い師の鑑定を受ける人々がかなりいたというわけです。


聖書ではこうした行為は厳しく禁じられています。人々は真の神に対する信仰がおかしくなると、占いに頼りたくなるからであります。あくまで私たちは、唯一の神を信頼し、神の言葉のみを頼りに、困難を乗り切るのでなければならないというのです。


UC内でも、結構こう言った「占い事」を散見しますが、神の絶対的主管の下で分別し、節度をわきまえることが肝要です。神の名をみだりに唱えることになっては、本末転倒になりかねません。


ただ、久保木会長の本によると、立正佼成会では姓名判断をよくやっていたといいますし、かの哲学青年も四柱推命の大家でした。これらを分別して伝道のツールと考えるなら、それはそれで使い道があるのかも知れません。


【第4戒の解説】


次に第4戒安息日の解説です。神は「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(20.8)と言われました。


<安息日を守るとは>

安息日はシナイ契約の「しるし」であり、聖書は神の創造を7日目に休まれたとあり、これに因むと共に、イスラエルが奴隷から解放され休みを得たこと、即ち奴隷から自由の民となったことのしるしという意味もあります。


ユダヤでは、金曜日の日没から土曜日の日没までの間を安息日として一切の労働を止め、神のみに捧げる時間としています。つまり安息日において大切なのは、「日常生活から離れ、本質的なこと(神)を深く考えること」なのです。ユダヤ人が科学、金融、学術など多方面で世界的な影響を与えている要因が、実は安息日の存在にあるとも言われています。


そして「労働をしてはならない」の範囲は教派によりかなり差異がありますが、ユダヤ教では基本的に厳格であります。家事を含め日中は一切の労働を行わないし、極端な場合は、人命の救助など緊急の場合にも、タルムードに厳格な人々からは非難され救急車に投石されることもあると言われています。また、スポーツ界では、国際大会に出場予定だった選手が、競技の日程が安息日と重なったとして欠場したケースもあります。


筆者もエルサレムを訪問した時、安息日にはホテルのエレベーターのボタンを押すことも禁じられており、当惑した記憶があります。


出エジプト記31.12~17にも、安息日を守るように厳しく命じられており、破るものには「必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれる」(31.14)とまで明記されています。またレビ記、申命記にも安息日の記事が書かれています。


しかしキリスト教では、安息日を厳密に求められることはありませんし、イエスの復活の日である日曜日に主日として礼拝を行うことが多いですが、特別礼拝の曜日が決まっているわけではありません。


イエスは、弟子たちが安息日に麦の穂を摘んでいるのを非難した律法学者らに向かって、「安息日は人のために設けられたのであり、人が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2.27)と反論されています。


また、「安息日に(人を)癒やすのは律法にかなっていますか」との質問に、「安息日に良いことをするのは律法にかなっています」(マタイ12.11~12)と語られました。


一方、主日=安息日と考え、日曜日ではなく土曜(安息日)礼拝を主張するセブンスデー・アドベンチスト教会、真イエス教会、イエス之御霊教会などのキリスト教系団体も存在します。


なおイスラム教では、ムハンマドがメッカを脱出した金曜日を安息日としています。


<安息日の意義>

モーセ五書には繰り返し安息日の規定が定められています。


上記しましたように、安息日において大切なのは、その日を神のみに捧げる時間として、日常生活から離れ、本質的なこと(神)を深く考えることなのです。安息日の存在は、ユダヤ人の霊的感性を養い、多方面で世界的に優れた業績をあげている要因になっていると言われています。


また安息日は、割礼と並んでユダヤ人のアイデンティティーとなり、結束の象徴となっています。

「安息日がイスラエルを守った」と言われ、安息日かなければユダヤ教も存続せず、ユダヤ人の歴史は消滅していたかも知れないとも言われています。


現在も宗教的でない家庭でも、この日には家族で共に集い、共に食事をし、共に語らい、時には歌ったりして絆を深めています。


そして3世紀頃から、安息日を花嫁と呼ぶ習慣が生まれ、金曜日の夕方、日が落ちる頃、律法学者たちは安息日の正装をして戸外に出て「花嫁よ、来たれ」と言ったそうです。それほど安息日を大切に守ったということです。


国を失ったユダヤ民族に、安息日を伴侶とするという思想が生まれたのです。安息日は流浪の時代、ユダヤ民族の統一と存続の力となっていったことが察せられます。


安息日にシナゴーグでは、まず詩編6つ(詩編95~99と29)が朗唱され、つづいてレハー・ドディーという有名な詩が美しいメロディーにのせて歌われます。そして詩92編と93編が朗唱され、その後、夕べの礼拝が続いて行なわれているとされています。


しかし、新約時代には、既に終わった戒律として、安息日は適応されません。上記したように、イエスは安息日に病人を癒されました。またコロサイ2.16~17に「だから、あなたがたは、祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある」とあると通りです。


かってUCには、安息日どころか、「月月火水木金金」という考え方がありました。月月火水木金金とは、土日返上で働くという意味を表す慣用表現であります。


つまり、祈る時間、礼拝の時間、日曜日さえ惜しんで、前線の実践活動に勤しむという思想です。「実践こそ最大の祈りである」と....。そして筆者もその思想の信奉者でした。


もちろんこの考え方は間違いではありませんが、週に一度くらいは休みをとって鋭気を養った方が、返って仕事がはかどることがあるというのです。


以上、モーセと久保木会長の召命、及び十戒の第3戒、第4戒について論じてきました。次回は第5戒~第10戒を考察していきたいと思います。(了)

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