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出エジプト記注解⑦ 十戒の第5戒~第10戒の解説

🔷聖書の知識76-出エジプト記注解(7)ー十戒の第5戒~第10戒の解説


あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである(出エジプト20.12)


今回は、シナイ契約における十戒の第5戒~第10戒の解説 です。前回までの1戒から4戒は、いわゆる信仰箇条であり、専ら神への義務が定められ、神と人間との関係でした。


今回は、倫理箇条であり、人への義務、人と人との関係における規定になります。そして神への義務と人間への義務の二つをつなぐブリッジの役割を果たしているのが、5戒の「汝の父母を敬え」であります。



第5戒「父と母を敬え」とは】


<神と人への義務>

前述の通り、第5戒は、肉の産みの親たる両親への人倫道徳であると共に、「父母なる神」への姿勢を示す規範であると解釈できるでしょう。その意味で、神と人の橋渡しというべき戒律であります。


古今東西、父母を敬い、父母に孝行することは、あらゆる道徳の基本になってきました。父母を敬うことは、先祖を敬うことであり、それは究極の先祖である神を敬うことにつながるというのです。


即ち、父母を敬わずして、神を敬うというのは空言であり、神を敬わずして、真に父母に孝であることは出来ません。


縄文以来の古神道に源を発する日本精神は、孝道をもって人倫道徳の基本としてきました。これは、儒教の五倫の教えとも合致するものです。


かって原理創始者は、「日本の情は忠孝の源」と揮揮毫(きごう)されました。韓鶴子女史も「孝情」という言葉をよく使われています。孝情とは神と父母、先祖への美であり、美的価値であるというのです。


<美的価値としての孝>

久保木修己著『愛天愛国愛人』には、日本は母性的な国であり、この女性国家ともいうべき日本の世界的役割は「美的価値を発揮すること」にあると述べられています。そして美とは、主体の愛に対して応える対象の価値であると指摘されました。


「主君の愛に対して応える臣下の忠が美であり、親の愛に応える子の孝が美であり、夫の愛に応える妻の烈が美です」(同著P225)


つまり、美は忠孝烈という対象価値として表れるというのです。確かに儒教も人として守るべき、人間関係に関して、「五倫」を唱っています。五倫とは、父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信の五つをいいますが、これを対象側から言えば「孝忠烈悌友」ということになります。そしてこれが美的価値であります。


儒教の「忠」に関して、「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」という言葉があります。これは、忠という美の究極的到達点を表しています。無論、このような考え方は、もはや「古い封建時代の陳腐な遺物」に過ぎないと批判されることもありますが、私たちの記憶に長く留めておきたい教えであります。


そしてこれらの美的価値の中心こそ「孝」であり、それは即ち、神と両親という二人の父母に対する美であるというのです。これが、第5戒「父と母を敬え」の意味するところとであります。


【第6戒について】


6戒から10戒までは倫理規範であると共に、第10戒を除いては法律規定でもあります。また、仏教にも五戒という戒律があります。五戒とは在家信者が守るべき基本的な五つの戒であり、不殺生戒(第6戒に対応)、不邪婬戒(第7戒)、不偸盗戒(第8戒)、不妄語戒(第9戒)、不飲酒戒(第10戒)があります。


また、刑法の骨格にもなっており、人類の普遍的な規範というべきものでありましょう。この人類普遍の原理が、3千年以上前に神から直接モーセを通して付与されたことは、実に驚くべき事件といわねばなりません。


第6戒「殺してはならない」とは、命の尊厳を教えたものです。個人的な理由で、故意に殺すことが該当し、自殺もこれに含まれるとされています。


但し、過失で人を殺した場合は、犯人は「逃れの町」に逃げ込むことができるとされています、


逃れの町は、旧約聖書で、過失で殺人を犯してしまった人が復讐から逃れて安全に住むことを保証された町のことです。民数記35.9~15には六つの逃れの町が規定され、申命記19章、ヨシュア記20章にも同様の記述があります。


当時のオリエントでは、ハンムラビ法典の影響で「目には目を、歯には歯を」の同等の刑罰を科すのが一般的でしたが、旧約聖書では例外が認めてられました。


次に、堕胎の問題ですが、カソリックや福音派キリスト教では禁止されていますが、堕胎を認める宗派もあり、議論になっています。この問題は特にアメリカで政治問題になっています。この問題は、どの時点で人間が、肉と共に霊を備えた人格的存在となるかが焦点になると言えるでしょう。


また、第6戒を基に死刑廃止論を展開するのは的外れであると言えるでしょう。


【第7戒について】


第7戒の「姦淫してはならない」とは、結婚関係の尊厳を教えたもので、不倫は配偶者に対する裏切りとなるというのです。。


仏教にも不邪婬戒という戒律かあり、イスラム教にも不倫は極刑をもって罰せられています。いずれの宗教にも、姦淫は大きな罪として戒められており、他の罪は根絶できても、この問題だけは最後まで残る深刻な社会問題となっております。原理は姦淫を罪の根源と解き、原理創始者は、姦淫と傲慢を人間の最大の罪と指摘されています。


ただ、儒教はこのことには直接触れていません。渋沢栄一の妻の兼子は、渋沢の多くの女性関係を皮肉って「父さまは、儒教といううまいものをお選びだよ。ヤソ(キリスト教)なら大変だよ」と語ったといいます。


イエスキリストは、更に人間の内心に踏み込んで、次のように言われました。


「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。(マタイ5.27~28)


ここに、キリスト教世界における一夫一婦制が確立され、人類道徳の基礎となりました。


【第8戒について】


「盗んではならない」とは私有財産の尊厳を教えたものです。「盗んではならない」という戒めが、具体的に裁判所が罰する窃盗とか略奪を禁じていることはいうまでもありません。


しかし、心の中まで知り尽くしておられる神のまえではそれだけではすみません。特に新約においては、人間の内心まで問題にし、隣人の財産を自分のものにしようと企んだならば、まだ盗む前であっても、神の前ではすでに盗みを働いたものというわけであります。


【第9戒について】


第9戒の「隣人に関して偽証してはならない」は、

真実の大切さを教えたもので、嘘をつくかどうかは、個人に属する問題であり、法廷での偽証から、偽りの噂話まで含むと言われています。仏教にも

不妄語戒として5戒の一つとなっています。


【第10戒について】


「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」(20.17)


この条項は、心の在り方を扱い、専ら心意の罪に関するものと言われています。従って、前4戒が法律であるのに対して、第10戒は道徳律と言えるでしょう。


「むさぼる」とは他人のものを欲しがることであり、過分な欲望、即ち貪欲という罪であります。この戒めを守ることができるなら、他の十戒すべてを守ることができることに通じると言われています。

【新しいぶどう酒は新しい革袋に】


マタイ9.17に、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」とありますが、これは律法と福音との関係を比喩しています。確かに十戒はモーセ律法の精神の要約であり、キリスト教は十戒の上に立っていると言えるでしょう。(藤林益三著『聖書と契約』P138)


しかし、律法は影であり、キリストが本体であると言われ、「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」(ロマ10.4)とあるように、律法はキリストによって成就し、その使命を終えました。


そして、「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである」(ヨハネ1.17) ともあります。


即ち「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5.17~18) とある通り、キリストがモーセの律法の完成者として位置付けられ、そしてキリスト教が律法の精神を土台としていることは明らかです。


この律法と福音の関係に関して次のパウロの言葉は、端的に言い表しています。


「このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである」(ガラテヤ3.24)



以上、本項において、モーセ十戒の第5戒から第10戒までを概観しました。次回は幕屋の建設とその意義について見ていきたいと思います。(了)





*上記絵画:石板を壊すモーゼ(レンブラント・ファン・レイン画)

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