🔷聖書の知識77-出エジプト記注解⑧ー幕屋の建設とその意味
また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない(出エジプト25.8~9)
今回は律法の内、幕屋建設に関する神の指示について考察致します。出エジプト記25章~30章で具体的な指示があり、更にレビ記では幕屋で捧げる犠牲の供え物や儀式について詳細に言及されています。
【幕屋建設の指示】
幕屋とは荒野で移動する際の「折り畳み式の神殿」であり、会見の天幕とも呼ばれています。幕屋は、神の指示によりモーセを通して作られ、幕屋に関連して聖書は次のとおり記しています。
即ち、契約の箱、机、燭台について(25章)、幕屋を覆う幕、幕屋の壁板と横木、至聖所の垂幕について(26章)、祭壇、中庭、常夜灯について(27章)、祭服、エフォド、胸当て、上着、額当て、アロンの子らの衣服について(28章)、祭司聖別の儀式について(29章)、香をたく祭壇、聖別の油、香料(30章)、なとが細かく規定されています。
幕屋は神が臨在される場、神が住まわれる所であり、移動の際にはアロンの家系の祭司たちが解体し、レビ族が運搬の任に当たったと伝えられ(民数記4章)、ソロモン王が神殿を建設するまでの間、神殿の役割を果たしました。「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」(出25.8)とある通りです。
モーセは、シナイ山で40日の断食する間に、神から契約の箱と幕屋についての指示を受けました(出25.31)。そして40日間の断食が終わったとき、モーセは十戒を記録した二つの石板を神から受けたのであります(出31.18)。しかし最初はイスラエルの偶像礼拝(金の子牛礼拝)により失敗しましたが、神は再度石板を付与され、初めてイスラエルはモーセに従い、契約の箱をつくり、幕屋を建設したのであります(出39.42)。
そして、幕屋では毎朝毎夕、牛や羊などの全焼のいけにえが、イスラエルの罪を贖う供え物として捧げられました。
【幕屋の贖罪思想、構造、祭儀】
上記に見てきましたように、神はイスラエルに、不変の信仰の対象として、また神の前に出ていく儀礼の場として、そして何よりもイスラエルの罪を贖う贖罪所として、幕屋の建設を命じられ、モーセを中心にこれを作りました。
<贖罪思想>
聖書には、全体を貫く一貫した思想性があり、特に、唯一神思想、メシア思想、贖罪思想は3大思想と考えられ、特に幕屋には贖罪日の規定(レビ16章)があるなど贖罪思想が色濃く表れています。そして幕屋・神殿の祭儀法の中心は贖罪思想、祭物思想であります。
イスラエルの罪を贖う贖罪のいけにえとして、動物(牛、羊、鳩)の供え物が、幕屋において毎日朝夕捧げられていました。聖書には、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物の5種のいけにえが規定されています(レビ記1~5章)。
しかし、新約では動物のいけには廃止されています。へブル書9章12節には「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所に入られ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」とある通り、イエスの十字架によって贖いは完結し、以後いけにえは不要であるとされています。即ち、イエス・キリストの十字架の贖罪によって、それを仰ぎ見て信じるクリスチャンは救いを得るという教理であります。
この旧約聖書、新約聖書を貫く贖罪思想は、聖書の根幹をなす思想であり、神道など他宗教には明確には見られないユダヤ・キリスト教の特徴となっています。
<幕屋と神社>
下記に見るように、幕屋と神社はよく似た構造になっていますが、ユダヤの価値観、罪観と神道の価値観、罪観には大きな違いがあります。ユダヤ思想には、善悪の価値観があり、これを分別する(選り分ける)という観念がありますが、神道には浄不浄(きれいか汚いか)という価値観を持ち、不浄なものを祓い清めるという考え方があります。
またユダヤの罪観は、罪は原罪に起因する内在的なものとされ、これは贖罪(身代わり)によって取り除かれるとしますが、神道の罪観は、不浄なものは埃のように人間に外から取り付くものであり、これは「禊と祓い」によって取り払うとします。即ち、幕屋には焼き尽くすいけにえの祭壇がありますが、神社にはそういった祭壇はありません。
【幕屋とその構造、及び祭儀】
神は、幕屋の作り方について、細かい指示を命じられました(出25.9~27.20)。
<幕屋の構造>
幕屋は、門、大庭、祭壇、洗盤、聖所(パンの机、燭台、香壇)、至聖所(契約の箱ー石板・マナの壷・アロンの杖)、贖いのふた、金のケルビム、などからなっています。
この構造は、鳥居、参道、手水、拝殿、本殿からなる神社の構造と瓜二つです。神社は古代イスラエルから影響を与えられたとする説を唱えている識者がいて、久保有政牧師はその一人です。ちなみに、宮(拝殿・本殿)は子宮、鳥居は子宮の入口、参道は産道、鈴は男性器、賽銭箱は子宮、賽銭は精子、玉垣は聖域を指すといった考え方もあります。
<祭儀、祭物、祭>
幕屋の祭儀には、祭司制度(出エジプト27~28章)があり、大祭司はアロンの家系であり、大祭司の衣装(長服・青服・エポデ・胸当て・帯・かぶり物・記章)、祭司の聖別(いけにえとして雄牛・雄羊・種入れぬパン)などが細かく規定されています。
祭物には、焼き尽くす献げ物(燔祭→牛・羊・鳩)、穀物の献げ物(素祭→小麦粉)、和解の献げ物(酬恩祭→牛・羊・山羊)、贖罪の献げ物(罪祭→牛・山羊)、賠償の献げ物(ケン祭)の規定があり(レビ1~7)、犠牲の家畜を焼き尽くすことで立ち上がる煙が、神と民とのつながりを保証するとされました。「あなたが祭壇の上にささぐべき物は次のとおりである。すなわち当歳の小羊二頭を毎日絶やすことなくささげなければならない」(29.38)とある通りです。
またイスラエルの祭りは、安息日、過越しの祭、初穂の祭り、七週の祭り、ラッパの祭り、贖罪日、仮庵祭が定められ(レビ23章)、3大祭りとして、過越しの祭(春分の日の後の最初の満月の日)、七週の祭り(初穂の祭りから50日目)、仮庵祭(10月に7日間。荒野の想起する)があります。キリスト教では、イースター、ペンテコステ、クリスマスが3大祭りになっています
【幕屋の原理的意味について】
原理講論のP371~P376には、幕屋の原理的意味について詳細に解説されています。以下、これに添って述べることにいたします。
<石板の意義>
モーセが神から付与された石板は、今まで「供え物」を通してのみ神と対応できた時代圏(復帰基台摂理時代)が終わり、神の「み言」を通して神と対応することができる時代圏(復帰摂理時代)に入ったことを意味するというのです。
み言によって創造されたアダムとエバは、完成したならば、み言の「完成実体」となるはずでありました。しかし、堕落することによってみ言を失った存在となってしまったので、再度み言を復帰することが必要になったという訳です。
そしてみ言を記録した二つの石板こそ、失ったアダムとエバとを、象徴的なみ言の実体として復帰したということを意味するのであり、従って、み言を記録した二つの石板は復帰したアダムとエバの象徴体であって、将来、み言の実体として来られる「イエスと聖霊」とを象徴するものであります。
聖書にイエスを白い石で象徴し(黙2.17)、また、岩はすなわちキリストである(1コリント10.4)とある通りです。
<幕屋の意義>
イエスはエルサレムの神殿を自分の体に例えられ(ヨハネ2.21)、そして、イエスを信じる信徒たを、神の宮であると言われました(コリント3.16)。 本来、神殿を建設すべきところ、イスラエルの流浪により、神殿の代わりに、幕屋を建てたのであります。それゆえ、幕屋は「イエスの象徴的な表示体」であり、神殿はイエスの形象的な表示体であるというのです。
幕屋は至聖所と聖所との二つの部分からなっています。至聖所は、大祭司だけが年に一度入って献祭をする所であり、至聖所には契約の箱が安置されています。至聖所は「イエスの霊人体、ないしは無形実体世界」を象徴したものであり、また聖所は普通の献祭のときに入る所であって、これは「イエスの肉身、ないしは有形実体世界」を象徴したものであります。
イエスが十字架につけられたとき、聖所と至聖所との間に掛けられていた幕が、上から下まで真っ二つに裂かれたということは(マタイ27.51)、イエスの十字架による霊的救いの摂理の完成によって、霊人体と肉身とが、そして、天と地とが、互いに交通し得る道が開かれたということを意味するのです。
<契約の箱の意義>
契約の箱とは、至聖所に安置する律法の櫃であって、その中にはイエスと聖霊、すなわち天と地とを象徴する二つの石板、及びイエスの体を象徴するマナ、及び神の権能を象徴する芽を出したアロンの杖が入っていました(ヘブル9.4)。
即ち、契約の箱は、「大きくは天宙の、そして、小さくは幕屋の縮小体」であると見なすことができるというのです。
以上から、石板は契約の箱の縮小体であり、契約の箱は幕屋の縮小体であるので、結局、石板は幕屋の縮小体ともなるのであります。
そして、契約の箱の上には「贖罪所」がつくられていました。金をもって二つのケルビムをつくり、贖罪所の左右に向かいあわせに置けば、二つのケルビムの間から主なる「神が親しく現れ」て、イスラエルの人々に、命じようとするもろもろの「み言を語る」であろうと言われたのであります(出25.16~22)。
これは将来、二つの石板に表示されているイエスと聖霊とが来られて摂理されることにより、「贖罪が成立」すれば、その贖罪所に神が現れると同時に、生命の木の前に出ていく道をふさいでいたケルビム(創3.24)が左右に分かれて、だれでも生命の木であられるイエスの前に行って、神のみ言を受けることができるようになるということを表示してくださったのであったというのです。
<石板、幕屋、契約の箱が付与された目的>
では、神が石板と幕屋と契約の箱と付与された目的は何でしょうか。
神は三大奇跡と十災禍や数多くの奇跡をもって、イスラエルをシナイまで導かれ、再びエジプトに戻ることができないような環境へとイスラエルを追いやられました。しかし、イスラエル民族は不信に流れ、モーセまでも不信の行動をとるかもしれないという状況に陥っていきました。
ここにおいて神は、たとえ人間は変わっても「変わることのないある信仰の対象」を立てなければならなかったのです。即ち、いかなるときにおいても、たった一人でもこれを絶対に信奉する人がいるならば、そのような人たちによって、その信仰の対象を、あたかもバトンのように継承しながら、摂理の目的を成就していこうとされたのであるというのです。
それが石板と契約の箱が安置されている「メシヤを象徴した幕屋」でありました。それゆえに、イスラエル民族が幕屋をつくったということは、既にメシヤが象徴的に降臨されたということを意味するというのです。
従って、イスラエル民族が、この幕屋をメシヤのように対して忠誠をもって信奉し、カナンの福地に復帰するならば、「民族的な実体基台」は、そのときに立てられるのです。そして、もしイスラエルがみな不信に陥るとしても、モーセ一人だけでも残ってその幕屋を守るならば、その民族は再び蕩減条件を立てて、幕屋を信奉するモーセを中心として、その基台の上に復帰することができるのであります。
その上、もし更にモーセまでが不信に陥ったとしても、その民族の中のある一人がモーセを代理して最後まで幕屋を守るならば、また、彼を中心として、不信に陥った残りの全民族を復帰する摂理を再びなさることができたのであります。
ゆえに、石板と幕屋と契約の箱は、イスラエル民族が不信に陥ったので、彼らを救うための一つの方便として下さったものでもありました。幕屋はイエスと聖霊の象徴的な表示体ですから、神殿を建てるときまで必要だったのであり、神殿はイエスと聖霊の形象的な表示体ですから、実体の神殿であられるメシヤが降臨されるときまで必要だったのであります。
以上が幕屋を立てられた目的であります。
<幕屋摂理の失敗と延長>
第一次幕屋のための信仰基台は、モーセの40日断食で立てられましたが、金の子牛事件で失敗し、また第二次幕屋のための信仰基台も、再度のモーセの40日断食をもって立てられましたが、イスラエルは「マナのほかには、きゅうりもすいかもない」なとと不平に陥り(民数11.4~6)、失敗しました。
更に、第三次幕屋のための信仰基台の条件は四十日の偵察期間でありましたが、ヨシュアとカレブとを除いては全部が不信仰な報告をし、やはり失敗することになりました。
このように、イスラエル民族の不信により、「幕屋のための基台」が、三次にわたってサタンの侵入を受けるようになったので、第二次民族的カナン復帰路程における「堕落性を脱ぐための民族的な蕩減条件」は、立てることができなくなってしましました。こうして第二次民族的カナン復帰路程は失敗に終わってしまい、第三次民族的カナン復帰路程に延長されることになりました。
<第三次民族的カナン復帰路程>
イスラエル民族が偵察四十日期間を、信仰と従順をもって立てることができなかったので、日を年に換算して、荒野を経てカデシバルネアに戻るまでの40年期間は、第三次路程の「信仰基台」を蕩減復帰するための期間となりました。
また、幕屋を忠誠をもって信奉した、モーセの幕屋のための「信仰基台」は、そのまま残っていたので、変わらぬ信仰をもって幕屋を信奉しているモーセに、従順に屈伏することにより、偵察40日に侵入したサタンを分立する基台を立てるならば、そのときに、幕屋のための「実体基台」が造成されると同時に、「幕屋のための基台」もつくられるようになるのであります。
そしてこの基台の上にイスラエル民族が、信仰と従順とをもって、幕屋を中心としてモーセに仕え、カナンに入るならば、その時にに、第三次民族的カナン復帰の実体基台が立てられることなるというのです。ただ、モーセはメリバの盤石の2度打ちの躓きで、摂理はモーセからヨシュアに引き継がれることになります。
【幕屋の完成】
神は、十戒と細かい律法を与えられたあと、幕屋建設の詳細な指示をされました。そしてその指示通り幕屋を完成させたのです。出エジプト記40章の最後は次のような言葉で締め括られています。
「このようにしてモーセはその工事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった」(40.34~38)
以上、幕屋建設の指示、幕屋の構造と意義目的、幕屋の摂理について考察いたしました。幕屋は、イスラエルが不変の信仰対象を持つことにより、アイデンティティーの核となりました。また、神と会見する場となり、特に罪を贖う贖罪所となり、イスラエルの精神的、信仰的中心として、重要な役割を果たしました。
次回は、「レビ記」の概観について見ていきたいと思います。(了)
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