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出版の勧め 文書にまとめることの効用について

◯つれづれ日誌(令和5年12月28日)-出版の勧めー文書にまとめることの効用について 

 

すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には信仰、またほかの人にはいやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。(1コリント12.8~10)

 

さて筆者は3年ほど前、知人の勧めと協力があり、ホームページを作成して、時に触れて書いてきた文書を公表することにしました。いつのまにか定例化し、それが毎週日曜日に発信している「聖書の知識」と、毎週水曜日に発信している「つれづれ日誌」であります。 

 

「聖書の知識」の方は、文字通り聖書やキリスト教神学に関する内容で、純粋に聖書、神学、キリスト教教理、歴史などについて、テーマごとにまとめたものですが、これが基礎になって『異邦人の体験的神学思想』という神学書を世に出すことができました。 

 

一方、つれづれ日誌は折々の身近な出来事や内外情勢を聖書的視点から論評したものであり、特にここ2年はウクライナ戦争と安倍元首相暗殺を巡る騒動の記事が多くを占めました。お陰様でつれづれ日誌は、UCとその信徒、特にUCリーダーらが読んで参考にして下さっているということを耳にしており、筆者としては大変ありがたく思っている次第であります。 

 

【ホームページ 400本まで、あと10本】 

 

そしてホームページの記事が、前回の記事で合計390本になり、400本まであと10本というところまできました。というのは、2年ほど前、丁度記事が200本になったころ、神から「400本までやりなさい」ということを命じられていたのです。正直のところ「あと200本もやるのか」と遠くの坂道を一人歩くような気がして、躊躇する思いも胸中をよぎりましたが、知人友人の励ましもあり、何とかあと10本というところまでこぎつけることができました。 

 

記事を受けとる方は、何事もなく自然体で受け取って下さっていると思いますが、実は毎週10ページの2本の記事を、質を落とすことなく書くというのは大変な重労働であるのです。記事に関連する資料の収集、関連する書籍の読み込み、そして神からのインスピレーションを中心に如何にまとめていくかといった作業をこなすことは、そう簡単なことではありません。しかし、及川幸久さんらのユーチューバーは、毎週ではなく毎日発信されており、それを思えば筆者はまだ楽ではないかと言い聞かせてきました。 

 

しかし、書くことに慣れるということは不思議なもので、以前だと一本の記事を書くのに20時間くらいかかっていましたが、今はルーティーンが分かって7時間くらいでこなせるようになり、かなり負担が少なくなりました。そしてテーマは全て神からのインスピレーションによるものであり、正に神と対話です。 ホームページを管理して頂いている松浦輝幸氏には、「このホームページの記事は、本にすれば何冊分にもなる分量で、これから次世代を担う方々のよい教材になる」と言って頂いており、将来、誰かが本にして下さるかも知れませんね。

 

そうして、来年の2月で神と約束した400本が成就するのですが、「何かが起こるかも知れない」という期待感と同時に、その後「どうすればいいか」という課題を抱えています。皆様のよい知恵があればご提案下さい。ある方からは、ユーチューブ(動画)を本格的にやればどうかという提案をして頂いており、これも一案だと前向きに考えています。 

 

現時点で筆者が考えていることは、401本目からのつれづれ日誌の記事について、今までの文書のスタイルが丁寧な「です・ます調」でしたが、今後は「である調」で書いていこうと思っています。今、筆者は世界日報のオピニオン欄「持論創論」に2ヶ月に一本投稿していますが、これは正に「である調」であり、この文書のスタイルは、短くても確信的で説得力がいいと感じており、401本目からの記事は世界日報風に「である調」で、一回の分量も今までの半分を目安として取り組む所存ですので、宜しくお願いいたします。 

 

【出版の勧め】 

 

さて本題の出版、即ち本を出すこと、あるいは小冊子をまとめることの効用について、筆者の感じるところを書き留めることにしたいと思います。 

 

最近、二人の知人から本が郵送されてきました。一冊は黒瀬博著『新しいキリスト教の展開』(グッドタイム出版)であり、もう一冊は小島徹郎著『大嘗祭改革運動の提言』(グッドタイム出版)であります。 

 

黒瀬牧師は、筆者の出版記念会で祝辞を述べて頂き、また同じグッドタイムからの出版ですので、筆者の本に刺激を受けられたのかも知れません。もちろん黒瀬牧師はキリスト教神学の全体像が分かる神学書をまとめる構想を、前々から温めておられましたので、これがよい機会だと一心発起されてまとめられたと思っています。 

 

その著書『新しいキリスト教の展開』は、大著であり、神論、キリスト論、聖霊論、罪(原罪論)、悔い改めと救い、終末論など、正にキリスト教神学の中心論点がほぼカバーされている本格的なもので、これらを今までの研究や体験を加味し、独自の解釈をされて論評されていました。 

 

とりわけ黒瀬牧師の宗教に対する考え方、特にキリスト教と他宗教との考え方については、ほぼ筆者と同意見であり、大いに共感しました。第1章序には「キリスト教がどのように新しくならなければならないか」を問題提起され、次のように書かれていましたが、正に「我が意を得たり」の感です。 

 

「私の心に響く神の声は『すべての宗教を許容しなさい』と語っています。すべての宗教は神のご計画の中で発生しました。キリスト教はすでにギリシャやゲルマンの宗教を取り入れ、発展してきました。今後も多くの宗教を受け入れ、吸収し、最終的にはそのひとつの宗教の中核となることを目指して発展してゆかなければなりません。現在のキリスト教は、それに向けての一過程ですから、現状に満足してはなりません。他宗教の良いところは吸収して、神のみ旨にかなった方向へと成長発展を遂げなければなりません」(第1章序)

 

実は筆者も、それぞれの宗教は、神の救済摂理のある局面を担って立てられたもので、その地域、その民族、その国家、その時代の中で生まれ、それぞれの立場から人々を一つの神(ないしは真理)に向かわせる神の道具(助け手)であると考えてきました。そういう意味では、それぞれの宗教は全体としての神の摂理を部分的に担うものであります。従って「キリスト教は最終的にひとつの宗教になるようになっているのであり、より完成に向けての一過程である」という黒瀬牧師のキリスト教に対する姿勢は大いに共感するものです。 

 

もう一つの本、小島氏の『大嘗祭改革運動の提言』は、「アメノミナカヌシを日本民族の深層意識の中から蘇生復活させ、国家の中心にお迎えしたい」(P9)という小島氏の熱い思いが込められた小冊子で、これは以前から彼の変わらぬ持論であります。 

 

即ち、日本の目に見えない大問題は、「民族神(国家神)と普遍神の位置が逆になっていることだ」(P22)と指摘し、「たった一人のホントの神様(=アメノミナカヌシ)を、八百万神々集団の中に押し込めてしまう」ことへの懸念を吐露した上、「アメノミナカヌシを天地地祇、八百万神々と同列に処遇している現行大嘗祭の扱いはあまりに醜く、改めるべきだ」(P57)というのが小島氏の主張で、筆者も全く異論はありません。 

 

ところで、上記のこの2つの本に共通するものは、「思いを形にした」ということだと思います。芸術家であれば、自己の内心の構想を彫刻という形にすることであり、音楽家であれば内心の思いを曲にするということであるように、「物書き」は文章(文字)を通して内心の思いや思想を形にするということであります。「初めに言があった。言は神であった。すべてのものは、これによってできた」(ヨハネ1.1~2)とありますように、大袈裟に言えば、言葉を通して第二の自分を創造することに他なりません。平安時代の三筆として有名な空海は、格調高い文章を書くことでも優れており、24才の処女作『三教指帰』序の中で、「文章は、人が心に感動し、その感動を紙に書き記す」と記し、優れた文を読んで病気が治った王の話が証言されています。正に然りです。 

 

そして文章にする最大の効用は、自己の思いや知識を文字化することにより、何よりも「自己自身が整理される」ということであり、「自己理解が格段に進む」ということです。即ち人間の思いや思想は抽象的で、ともすれば漠然としたところがありますが、これを文字化することにより、自分が何者であるのか、何が言いたいのか、どういう知識や思想を持っているのか、何が足りないのか、がはっきりするということです。つまり自分自身が整理され、自己のアイデンティティーが明確になるということであり、従って「自分とは何か」を知るためにこそ、内心の思いを文章にすることをお勧めしたいと思います。 

 

そしてその文章の形は、大著であり、小冊子であり、論文であり、日記やエッセイや詩であり、決して形にとらわれるものではありません。要は自らの思いや知識や思想を文字化して形にすることであり、文を書くことに慣れない方も、先ず一歩を踏み出すことが肝要です。 

 

【神の賜物について】 

 

さてパウロは、「ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には信仰、またほかの人にはいやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている」(1コリント12.8~10)と語りました。即ち人間は皆、神から、それぞれ賜物をいただいている(1ペテロ4.10)というのであります。ある者は説教や牧会の賜物、ある者は伝道の賜物、ある者は経済の賜物、ある者は物を書く賜物、ある者は奉仕の賜物が与えられているというのであり、その賜物に貴賤上下はありません。


聖パウロ (レンブラント・ファン・レイン画)


その段から言えば、筆者は、その他のことはともかく、さしづめ「物を書く賜物」が与えられているように思われ、ホームページ400本後も、「物を書くことを通して神のみ旨に同参するしかないかな」と気持ちを新たにしているところです。

 

この前、グッドタイム出版の武津氏から、「最近、自分史(自叙伝)を書きたいという相談をよく受けるんですよね」ということだったので、それなら「成功物語30%、失敗物語70%くらいが丁度いい」と助言した上、「つまり人間は、他人の成功や幸福より、失敗や不幸の方が励みになりますから」と付け加えておきました。 

 

よく自己アピールばかりが目立つ自叙伝を見受けることがありますが、うんざりすることがあります。聖書に「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(1ペテロ5.5)とありますが、この言葉はアウグスチヌスの著書『告白』の冒頭に出てくる聖句です。自らの罪深さや弱さを謙虚にさらけ出すことで、逆に読む人に力を与えるというのです。 

 

アウグスチヌスの自叙伝『告白』の凄いところは、自らの罪の深さ、とりわけ情欲にまみれた自分を赤裸々にさらけ出しているところです。「恋する者のからだをも享楽しえた時、一層甘美でした。それゆえに私は友情の泉を汚れた肉欲で汚し、その輝きを情欲の地獄の闇で曇らせてしまいました」(『告白』中央文庫P100)と記し、また「私はあなたの教会の壁の中で、荘厳な儀式の行われている最中でさえも、欲情をおこし、死の実をもうける業をあえてしたのです」(同P106)と告白しました。そして、このような惨めな自分をも、引き上げて下さる神の恩寵を大胆に讃えています。 

 

そしてこのアグスチヌスの考え方は内村鑑三の自叙伝『余は如何にして基督教徒となりし乎』にも色濃く顕れています。内村は、「伝道とは自分に罪があることを世に表白し、自分が受けた恩恵(めぐみ)を人に示し、自分の救い主を世に紹介すること、即ち伝道は自分の心に実験した神の救いを世に発表することである。この実験があれば誰でも有力な伝道師であることができる」と語っていますが、正に目から鱗です。 

 

さて皆さんには、どのような賜物が与えられており、何を持ってみ旨に同参し寄与したいと考えられるでしょうか。そこで今日、一つ提案したいと思います。「私がこれから残したいもの」というテーマで一筆書くという提案です。是非ふるって投稿下さい。必ずコメントいたします。 

 

新年に向けて一句   初春や思い新たに計を練り 

 

では、よいお歳を! (了)

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