◯つれづれ日誌(令和5年1月26日)-出版記念会の総括 神に還れ、神の言葉に還れ!
神を知ることは知識の始め(箴言1.7)
この1月21日、アルカディア市ヶ谷において、拙著『異邦人の体験的神学思想』の出版記念会を持つことができました。コロナ禍の中にあって、多くの有志が参加して頂き、神霊に満ちた集会になりました。この集いし70人余の人達は、正に「イスラエルの残れる者」(レムナント)と言うに相応しい信徒であり、一人一人がリバイバルの源にならんとする宝石のような人々でした。
ちなみに、イスラエルの残れる者とは、イスラエル民族の過酷な試練の中にあっても、大能の神に帰り、真の信仰を貫いた少数の人たちのことです。不信に流れる民の中にあっても、民族の霊的な核として、新しい神の民を形成する者となる「残りの者」がいたというのです。「真のイスラエル」、「霊的イスラエル」とも呼ばれ、このフレーズは、エレミヤ書、イザヤ書など旧約聖書では60回以上出てきます。
「その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者にたよらず、真心をもってイスラエルの聖者、主にたより、 残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る」(イザヤ10・20~21)
【著書『異邦人の体験的神学思想』のコメント】
記念会は、UPFの顧問をされている司会の稲森一郎さんの開会の言葉のあと、元アイドルで君が代奉唱歌手の宇野美香子さんが、美しく君が代を独唱して下さいました。司会者曰く、「こんな心洗われるような君が代をはじめて聞いた」と。
かって内村鑑三と新渡戸稲造は、洗礼を受けたあと、二つのJに身を捧げることを誓いました。二つのJとは、「Jesus」すなわちイエス・キリストと、「Japan」すなわち日本の二つのことを指します。祖国を愛することとキリストを愛することは決して矛盾することではなく、筆者が記念会の冒頭で君が代を奉唱したのは、このような意味があってのことであります。しかし、キリスト教関係の集会で君が代を唱うことなど滅多にないことと思われます。
そして何人かの方に祝辞を述べて頂きましたが、ここでは著書『異邦人の体験的神学思想』のコメントに絞って述べたいと思います。
最初にユニバーサル福音教会代表三國進一牧師から次のような祝辞がありました。
「よくぞこれだけの神学思想をまとめ上げたと感心しております。体験的神学思想を、持ち前の文書力と天からの聖霊の働きも加わり、キリスト教の本質と課題を掘り下げ、統一原理との繋がりや一貫性を見いだされた本書には大変多くのことを学ばして頂きました」
次に筆者と50年ぶりにあった旧知の国立大学の教授は、「まさか、あの50年前に知った吉田さんが、聖書と神学の本、しかもかくも大書を書くとは驚きです」と述べられ、自らも原点に立ち返って、この本を読ませて頂くと告白されました。
また、筆者のホームページを作成・管理して頂いている松浦輝幸さんは、「本書を始め、ホームページ掲載の記事は30年後、50年後も読まれることを確信しています。そしてこの本の素晴らしさは、思想だけではなく、実践が伴っていることです」と率直な感想を述べられました。
こうして、何人かの方から過分な激励の言葉を頂き大変恐縮したわけであります。
ところで、本著の出版元のグッドタイム出版と提携して、今回校正をやって下さった坂口さんは文藝春秋で長年勤められた本のベテランなのですが、「昨年何百冊かの本を読んだ中で、この本はベストテンに入る」との評を頂き、いわば本のプロからの評価だけに、多いに励まされた次第です。また宗教新聞の編集をされている多田さんからは、「一気に読ませる筆力に感服します。一気に一晩で読みました」とのコメントを頂き、また大脇さんからは、「この本を牧会者の必読本として推挙したい」と言って頂きました。
【神を知ることは知識の始め】(箴言1.7)
ところで、今回の集会のテーマは「神に還れ、神の言葉に還れ!」であります。筆者は本の揮毫を求められた時、箴言1章7節の「神を知る(畏れる)ことは知識の始め」を記すことにしていますが、この短い一節ほど事の本質を言い表した言葉はありません。
1コリント13章2節に「たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」とありますが、これを言い替れば、「たとえ私に山なすほどの知識があったとしても、神を知る知識がなければ無に等しい」ということになります。
世界には、科学の知識、思想・文学の知識、政治・経済の知識など、無限の知識が溢れていますが、その山なす知識の中にあって、もし神についての知識がなければ、全ては意味をなさないほど重要で根源的なものだというのです。口語訳聖書では神を「畏れる」と翻訳されていますが、神を「畏れる」と神を「知る」とは同義であり、即ち、神を敬う、尊ぶ、愛するという意味であります。これは次の申命記の「シェマイスラエル!」(イスラエルよ聞け)の言葉に象徴されています。
「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6.4~5)
神はイスラエルに、これらの言葉を心に留め、子らに教え、家の入口の柱に書きしるすよう諭し命じられました。ユダヤ人は世界人口の0.2%しかないにも拘わらず、ノーベル賞授賞者は、なんと20%に登っていますが、この秘訣が小さい時から神を叩き込まれていることにあると言われています。
では、私たちは何故神を知り、何故神に立ち返らなければならないというのでしょうか。何故なら、天地を創造された神は、私たちの生命の根源であり、真理の根源であり、愛の根源であること、即ち私たちの親であるからに他なりません。「宇宙の根本は父子の関係」と創始者の言葉にある通りです。堕落とは、正に父母なる神と断絶し、神から離れて孤児となったということであり、従って救いとは神に立ち返り父子の因縁を回復することに他なりません。
筆者はこの度、本書を書き終えて、つくづく思うことは、一度しかない人生において神を知り、神の言葉と出会えたことの幸いであります。そして筆者に真の神を教えて下さったキリスト(真の父母)への深い感謝です。孔子の言葉に「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」とありますが、神と神の言葉に出会えたこと以上の人生の宝はありません。問題はこの価値をどれほど実感し生かせるかということです。世界宣教師訓練センター所長の奥山実牧師が、「人間は神を礼拝するために生まれてきた。神礼拝は人生の目的である」と言われましたが、正に至言であります。
【バビロン捕囚に学ぶー歴史の二流】
今回筆者は、記念会の講演において、現下のUCに対するマスコミの魔女狩り的なバッシング、いわば未曾有の艱難に際して、イスラエルのバビロン捕囚と対比して論及しました。
前722年北イスラエルがアッシリアによって滅亡し、南ユダは前586年、バビロン捕囚という大艱難に遭遇しました。国は崩壊し、神殿を破壊され、家は焼かれて、国の主だった人々は国王もろともバビロンに連行されました。正に未曾有の大艱難です。このような試練に遭遇した時、民心が2つに別れるのは歴史の示すところであり、UC創始者はこれを「歴史の二流」と呼ばれました。そしてその歴史の二流は創世記4章に起源があると指摘されました。いわゆるカイン・アベル、即ちヘレニズムとヘブライズムの二流であります。
バビロン捕囚に遭遇したイスラエルの民の多くは、ヤハウェの神を戦争に負けて国を救えなかった役立たずの神として見切りをつけ、ヤハウェに引導を渡して捨てたというのです。しかし一方では、イスラエル崩壊の責任はヤハウェの敗北でも無力でもなく、自らの罪科に起因する、即ち民族の不信仰の罪、偶像崇拝の罪、契約違反の罪にあると考え、悔い改めて神に再回帰する人々がいました。いわゆる「イスラエルの残れる者」であります。
こうしてバビロン捕囚の中にあっても、なお信仰を貫いたイスラエルの残れる者たちは、神に立ち返って神と再結合し、神の言葉(律法)を再発見したというのです。即ち、この人たちの手によって、モーセ五書が編纂され、ユダヤ教が確立いたしました。ユダヤ一神教の確立です。宗教史では、捕囚以前を「古代イスラエル宗教」または「ヤハウェ宗教」といい、捕囚以降の律法を中心とした宗教を「ユダヤ教」と言って区別しています。(山我哲雄『聖書時代史 旧約編』)
ちなみにモーセ五書はユダヤ教・キリスト教・イスラム教世界三大一神教の共通経典になっており、いかに重要な書であるかが分かります。特に創世記には聖書の奥義が満載され、いわば人類歴史の雛型があり、創世記を理解すれば聖書の半分を理解したと言っても過言ではありません。
そして現下の魔女狩り的なUC叩きは、正に「令和のバビロン捕囚」であります。私たちは、この大艱難に際して、イスラエルのバビロン捕囚から貴重な教訓を得ることができるでしょう。即ち、この大艱難を乗り越える道はただ一つ、かのバビロンのイスラエルの残れる者と同様、悔い改めて「神と神の言葉に立ち返る」しかありません。正にこの艱難こそ、私たちが生まれ変わって、神の言葉にしっかり依拠した福音的な教会に大変身するチャンス、即ちリバイバル(霊的甦り)の合図であるというのです。
【幕末維新に学ぶー背後に見る神のご計画】
次に筆者は、当該講演の中で、バビロン捕囚に継いで、もう一つ示唆された重要な論点について語りました。 即ち、幕末維新の真相です。
実は筆者は、今年の元旦、世田谷にある吉田松陰神社に参詣いたしました。故安倍晋三元総理が、地元長州の高杉晋作と並んで吉田松陰を尊敬されていたからです。 そして最近筆者は、この二人を軸に、もう一度幕末維新の歴史を学び直しましたが、その中で、今までにない神霊的な多くのインスピレーションを受けることになりました。
「歴史の枢軸時代」とは、ドイツの哲学者であるカール・ヤスパース(1883年–1969年)が唱えた言葉で、紀元前500年頃におこった世界史的、文明史的な一大エポックのことで、世界的に偉大な宗教や思想が集中的に勃興しました。中国では孔子や諸子百家、インドでは釈尊の仏教やウパニシャッド哲学、イランではゾロアスター教、パレスティナではイザヤ、エレミヤ、エズラなどの預言者、そしてギリシャではソクラテス・プラトン・アリストテレスらが輩出され、後世の諸哲学、諸宗教の源流となりました。
そして幕末維新の時代は、短期間の間に、奇跡的にきら星の如くの人材が排出されましたが、これは正に「日本における枢軸時代」であるというのです。つまり、再臨摂理を見据えて、神が日本を用いんがために、アジアで唯一近代化に導かれたという実感です。幕末維新の背後に、神の「霊妙なるご計画」を感じて、日本に対する神の愛情に感謝いたしました。これこそ、神中心史観であります。
そして神が幕末維新を導かれたように、今回のUCの大艱難は、「神の霊妙なご計画」、即ち神の深い計らいのもとにあると固く信ずるものです。何故なら、安倍さんは自らの死がUCを葬ることになることを決して良しとされてはいない、岸信介・安倍晋太郎・安倍晋三の岸家三代の霊はUCを守護する立場に立って下さるはずだという筆者の思いがあるからに他なりません。この思いは、昨年7月8日以来、揺るぎない確信として心霊深く刻まれています。
全能にして愛なる神よ、願わくばこの清らかにして健気なる統一の群れを守り導き給わんことを!
【おしまいに】
さて出版記念会が無事終わり、一段落いたしました。ここで、「何故、『異邦人の体験的神学思想』を書くようになったのか」、その理由を3点挙げておきたいと思います。
筆者はかって「原理講論は聖書の新しい解釈論である」という強いインスピレーションを受けていました。そうだとすれば、原理の前提となっている聖書・キリスト教に精通しなければ、原理の深い意味は分からないことになります。筆者は自分を含め、全信徒のために、聖書とキリスト教の入門書を原理との対比の中で書かなければならないと思った次第です。
次に、旧約時代、新約時代を導いたのが旧約聖書と新約聖書だとすれば、原理講論はさしずめ成約時代を導く宗教真理であります。そしてこの3つの神の言葉は一つのものであって断絶しているものではありません。従って本書は、聖書と原理の橋渡し、キリスト教とUCの橋渡しを目指した本と位置付けたのです。
本書を書いた三番目の理由は、「神に還れ、神の言葉に還れ」をスローガンに、福音伝道のリバイバルに一石を投じるためであります。そして、福音的な救済観に根差した真の教会改革に一石を投じるためであります。
当該本書については、それぞれの専門家から一定の評価を頂き、筆者としては心強く安堵した次第です。そこで一つの区切りとして、以下、総括を述べて締めくくりにしたいと思います。
第一には、一信仰者として、人生のよい総括ができたということであります。筆者は本書「死生観雑感」(P221~222)において、死に際して、自らの人生に納得感があるかどうが、即ち「悔い無し」と言えるがどうかが問題だと述べています。天国に行けるか、はたまた地獄に落ちるかは、まさに神のみぞ知るところであり、筆者の預かり知らぬところであります。しかし個人的には少なくとも「人生悔い無し」の一言だけは残したいと常々思ってきました。幸い、本書を書き終わった時、自らの信仰人生についてある種の「納得感」を感じ、いまだ多くの課題があるものの、人生の最後に「悔いなし」との一言だけは残せることになり、その意味で今回の著作は筆者のよい総括になりました。
第二に、本書が、小山田秀生先生をはじめ、信徒有識者から、牧会者・信徒の教材として推薦して頂いているように、牧会者・信徒のよい「教材」となり、UCの未来を背負う世代のために、ある種の道しるべになれば幸いであります。本書は「聖書・原理講論の手引き書」としての性格もあり、原理のより深い理解に役立つのではないかと考えています。
第三は、前述したように、聖書と原理の橋渡し(キリスト教とUCの橋渡し)として、教派・宗派の一致に一役買うことができれば幸いであり、更に福音の「リバイバルの」につながれば感謝であります。本書が「神に還れ、神の言葉に還れ!」の標語を裏付ける資料として活用されんことを祈念いたします。
以上、ご報告方々、出版記念会の顛末について述べて参りました。筆者はこの1月23日、都立多磨霊園に眠る内村鑑三と新渡戸稲造の墓に詣で、本書発刊のご報告をいたしました。とりわけ内村先生の著書からかなり引用しており、大変参考にさせて頂き感謝しております。そして皆様のよきご理解と篤いご支援を頂き、この場を借りて御礼申し上げます。(了)
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