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初祈り・初礼拝顛末記 鎌倉鶴岡八幡宮、大和カルバリチャペル、藤沢家庭教会

◯徒然日誌(令和7年1月8日)  初祈り・初礼拝顛末記-鎌倉鶴岡八幡宮、大和カルバリチャペル、藤沢家庭教会 


 主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる(詩篇6.9)

 

令和7年の冒頭、筆者は自らの正月行事として3つの宗教施設を訪問した。まず4日、数年ぶりに鎌倉の鶴岡八幡宮と鎌倉幕府を開いた源頼朝の墓を訪問し、しばし日本の歴史に想いを馳せた。明くる日5日、超教派の福音的なキリスト教会である大和ガルバリチャペルの日曜礼拝に参加し、大いに刺激を受けた。その後、締めくくりに、藤沢家庭教会の礼拝に参加し、大きな恵みを受けた。藤沢教会では、計らずも気になっていた旧知の信徒に再会し、確かな神の導きを実感したのである。 

 

【超教派・超宗派理想への祈り】 

 

つまり、神社→キリスト教会→UCと渡り歩き、それぞれの礼拝堂で祈りを捧げた。まさに、超教派・超宗派の理想、即ち、宗教一致への祈りの旅である。宗教一致のためには、自己の宗教を絶対視する宗教排他主義を棚上げして、宗教多元主義的な視点、つまり、唯一の神(イザヤ45.6)のまわりをキリスト教を含めた諸宗教が集まる「神中心主義」の発想が不可欠である。全ての宗教は存在の究極的本体である神において一致できるはずである。 

 

そこで今回、超教派・超宗派の理想を意識しつつ、この正月冒頭の祈りの旅の顛末について書き記すことにする。 

 

<鎌倉八幡宮・源頼朝の墓>

 

筆者は古都の鎌倉はお気に入りの町であり、自宅の横浜から約1時間の近隣にあることもあり、かれこれ20回以上訪問している。 

 

言うまでもなく、鎌倉は源氏の棟梁で徳川家康が師と仰いで尊敬した源頼朝(1147~1199)が、初めて武家政権による幕府を開いた地であり、落ち着いた赴きの中にも、武士の質実剛健の気風が感じられる町である。鎌倉には武士が好んだ禅宗(臨済宗)の鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)があり、また、日蓮が立正安国論を書いて、辻説法を始めた所でもある。1253年に鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に小さな草庵を建て(後の妙法寺・安国論寺・長勝寺の源流)、この草庵から小町大路で辻説法を行って法華経の教えを説いた。 

 

さて、鶴岡八幡宮は11世紀後半に源氏の守り神として創建され、以後、鎌倉武士の守護神となった神社で、まさに鎌倉の象徴である。全国の八幡宮の中でも、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝ゆかりの神社として知名度が高い。鶴岡八幡宮では、15代天皇の「応神天皇」、母の「神功皇后」、妻の「比売神」(ひめがみ)の三柱の神様を祭神として祀り、ご神体は鏡だと言われている。 

 

そして筆者は、八幡宮から徒歩で15分くらいの場所にある源頼朝の墓所を訪れて、しばし祈りの一時を過ごし、当時の世界を偲んだ。頼朝は平治の乱(1160年)で平家に破れた源義朝の三男で、後に源氏の棟梁となり平家を滅ぼして鎌倉幕府を創建し、征夷大将軍(1192年)になった。頼朝は、平清盛の継母池禅尼の嘆願で、死罪を免れ伊豆に流刑されたが、当然処刑される筈の頼朝が一命をとりとめた。この頼朝の運命に、心なしか不可思議な天の経綸を感じるものである。なお、頼朝は法華経の写経や暗誦を行い「法華八幡の侍者」と称され、墓所は頼朝を祀る白旗神社の一角(法華堂跡)にある。 

 

また頼朝の子供たちは、暗殺されるか(二代将軍頼家、三代将軍実朝)、若くして病死(長女大姫、次女三幡)し、政権は北条氏に移って行った。平家物語の冒頭に、「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」との有名な一節があるが、まさに諸行無常である。 

 

<大和カルバリチャペル> 

 

明くる日筆者は、長年大川従道牧師が主任牧師を務めている大和カルバリチャペルの第2日曜礼拝に参加した。大和カルバリチャペルは、神奈川県大和市にある超教派的なプロテスタント教会で、もともとホーリネス系だったが、今は単立教会となっている。日曜礼拝は何回かに分けてやっており、500名以上が入る礼拝堂を擁して、日本の教会としては最大級の信徒を抱え(2500人)、「明るく、元気で、のびのびと」をモットーに掲げている。 

 

主任牧師を務める大川牧師は、戦前弾圧され解散に追い込まれたホーリネス教会の牧師だった両親を持ち、父大川博道牧師は熱心な再臨思想を持っており、この両親から色濃い影響を受けて育った。まさに生粋のクリスチャンホームで生まれ育ったのである。 

 

大川牧師の愛用聖句は、ローマ書8章28節「神は神を愛するもののために、 すべて、万事を益にして下さる」であり、「人生における全てのマイナスは、必ずプラスになる」を信条としている。大川牧師は「セカンドチャンス論」肯定派として知られ(参照→つれづれ日誌-令和3年1月20日  死者の霊人の救い)、キリスト教で異端視されているセブンスデー・アドベンチスト教会も、キリスト教に含める態度を繰り返し表明している。 

 

大川牧師の祈りの冒頭は「優しい天のお父様」との呼び掛けで始まるが、これは大川牧師の母性的な性格の現れだと見た。筆者であれば、「天地を創造された全能の神よ」とか、「愛にして義なる神よ」というところである。 そして本年度の聖句をマタイ福音書28章20節と定めた。


「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28.20)


 当日、カルバリチャペルの礼拝に参加して、筆者は大変な刺激と励ましを受けた。説教内容に感銘したのではなく、説教した牧師に感銘したのである。即ち、説教者の JTJ宣教神学校前学長の岸義紘(きしよしひろ)牧師は84才(1941年8月生)だが、毅然として若々しく、霊に燃え青年のようであった。また、礼拝全体を主管された大川従道牧師は83才(1942年1月生)だが、語る言葉も明瞭で、矍鑠(かくしゃく)として、全てに行き届いていた。筆者は昨年9月に78才になったが、この二人の牧師に負けてはおれないと心底感じたのである。こうして筆者は年頭に大いなる励ましを神から与えられた。 

 

<藤沢家庭教会> 

 

締めくくりに、カルバリチャペルと同じ横須賀沿線にある藤沢家庭教会の礼拝に参加した。この教会はかって法律問題で度々訪問した縁のある懐かしい教会であり、また筆者が世話をしている老婦人が所属している教会でもある。礼拝の最後に、「価値」についての所感を書く時間が設けられ、自己実現について、家族・職業・健康について、そして幸福について、それぞれの項目で重要だと思う価値について考える時間が持たれた。礼拝後、教会長や婦人部長とも立ち話で言葉を交わしたが、二人とも賢く、心暖まるものがあった。 

 

そして筆者は、ここでも特別な出会いをすることになった。かって筆者が顧問をして、長く気になっていた会社経営者と計らずも再会できたのである。まさに奇遇であり、こうして神は筆者を導いて下さり、祈りに答えて下さった。筆者はこの礼拝堂にて、年頭の最後の祈りを深く捧げたのである。 

 

こうして年頭に、神社、キリスト教会、家庭教会の三宗教施設で祈りを捧げ、宗教の一致を切に祈ったた。以上が「初祈り・初礼拝」の顛末である。 

 

【祈りの深化と一点突破】 

 

最後に「祈り」について、筆者の所感と抱負を述べておきたい。筆者は死と再生の象徴である巳年(蛇)にあやかって、本年を「復活と再生の年」と位置付けたが、そのためには「祈りの深化」が必須であることを痛感している。従って本年は祈りの深化、「祈りの一点突破」を課題に掲げることにした。 

 

人間の内的・霊的問題を解決する決め手は「祈り」が最良の道であり、「悔い改めと祈り」は信仰の一丁目一番地である。得てして理性や思考は、所詮自我の範囲にあり、その認識には限界がある。理性を越えた「超自我」の世界において、即ち、神との直接的な一問一答の中でしか真の認識、真の解決はない。 

 

<聖者の祈り> 

 

偉大な宗教家は、皆、祈りの人だった。宗教改革を行ったマルティン・ルターは1日3時間かけて、両手を組み合わせ、開かれた窓に向かって祈るのが好きだったと言われている。 

 

イエス・キリストは祈りの人であった。文鮮明先生は、み言集『イエス様の生涯と愛』(光言社)の中で次のように語られた。 


「イエス様は、荒野で、ゲッセマネの山頂で、十字架上で、実に切実な涙に満ちた祈りを捧げられました。眠るときも、万民の罪が贖罪されることを願う心情をもって独り祈り、人類の祭物としての隠れた祈祷の生活をされたというのです」 

 

この言葉の通り、聖書はイエスの祈りについて、多くの箇所で証言している。 

 

「このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた」(ルカ6.12)

 

「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22.44)

 

そして、下記は有名な「主の祈り」であり、カトリック、プロテスタントを問わず礼拝で唱えられている。 

 

「天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」( マタイ6.9~13) 

 

そして文先生こそまさに祈りの人である。天聖経第二篇第三章で次のように語られている。 

 

「祈るときには背が曲がり膝にたこが出来るほど祈らなければなりません。私が最も祈った時は、身を伏せて17時間、18時間、普通でも10時間祈りました。そして痛哭するのです」 

 

更に、「この原理を探し出すために、どれほど満身創痍になったか知れず、一日に14時間祈祷することが何年も続きました」(『天総官文興進様』光言社P31)と述懐された。文先生は、「祈りは神との対話、自然な霊的な呼吸である」と言われ、祈りを通しての神と結ぶ「心情の絆」を強調され、次のように言われた。 

 

「今まで、福を下さる神様、慰労して下さる神様、試練から救って下さる神様と思ってきましたが、可哀想な神様を慰労して差し上げ、救ってさしあげ、世に神様を証して差し上げる祈りこそ真の祈りです」(天聖経P1523)

 

<聖書に見る祈りの力> 

 

聖書には「祈りは聞かれる」という聖句が随所に出てくる。詩篇6篇9節に「主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる」とある通りである。 

 

また、「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11.24)とあり、「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14.14)とある。そしてヤコブ書5章15節には「信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる」とある。 


旧約聖書に有名な「ハンナの祈り」がある。サムエルの母ハンナの切実で真摯な祈りは遂に聞かれたのである。 

 

「ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた。 そして誓いを立てて言った。万軍の主よ、まことに、はしための悩みを顧み、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」(1サムエル1.10~11) 

 

このように、聖書には祈りの力が各所で証言されている。 

 

<祈りへの挑戦>

 

古今東西、宗教の本質は祈りであり、神道でも仏教でもキリスト教でも、祈りは最も重要な信仰の要素である。特にギリシャ正教では、聖歌は心からの祈りであり、聖書は経典であると同時に「聖歌の書」であるとされている。 

 

祈りはある意味で、言語を介せず神と直接対話する道である。「復活と再生の年」の巳年に際し、祈りを深化させ、自我と理性の壁を破り、一点突破して「突き抜ける祈り」に挑戦したい。そして目に見えないが、確かにいましたまう父母なる神と、祈りを通じて深い絆を結びたいと心底思う。 

 

以上、年頭に当たり、「初祈り」、「初礼拝」の顛末を記した。即ち、鎌倉鶴岡八幡宮、大和ガルバリチャペル、藤沢家庭教会の三宗教施設への参拝記である。そして、巳年に際し「復活と再生の年」実現のために、一点突破の祈りを課題とした。(了)                                      牧師・宣教師   吉田宏

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